情念の白い墓標(1)仮名の悲劇|入江哲朗

シェア
初出:2012年2月20日刊行『ゲンロンエトセトラ #1』

0.


 1976年の冬、田宮二郎は、当時松竹テレビ部のプロデューサーであった升本喜年ますもときねんに次のような言葉を残したという。TBSで放送中の主演ドラマ『白い秘密』の撮影のため、北海道の大和ルスツスキー場へ向かう道すがらであった。田宮が散弾銃によって自らの胸を撃ち抜く2年前の出来事である。


 突然、田宮がつぶやくように言った。
「骨相学って知ってますか」
 不意を突かれ、私はとっさに答えた。
「顔の形で占う人相見のことですか」
「僕は占ってもらったことがあるんですよ……」
 顔をこっちに向け、初めて私の顔をまともに見て、にっこりとした。
「そしたら、君は将来、名門大学の教授か、偉大な医師になると言われたんです」
 彼の眉間にある二本の縦皺のうちの右の一本を思案紋といい、鼻にかけて深く刻まれている左の特に目立つ縦皺は、懸針紋といって、知的な偉人の相だという。
「偉大な俳優になるって言ったでしょう」
 私がふざけて言ったとたん、彼はくすんと笑った。
「言いませんでしたねえ、残念ながら」
「道を間違えましたね」
「そうですよ。間違えましたよ」
 けらけら笑った。

『田宮二郎、壮絶!』




 道を間違えたという意識はしかしながら、「けらけら笑っ」ては済まされなくなるほど強く固く、その後の田宮を束縛してゆくことになる。そして道のりの最果てにおいて、「偉大な医師になる」という骨相学者の予言は奇妙なかたちで成就された。それは悲劇であった。

「マクベスを倒す者はいないのだ、女の生み落した者のなかには」(『マクベス』第4幕第1場)。魔女たちのもたらすこれらの戯言めいた予言に、マクベスもまた拘泥し翻弄され、結局「月たらずで、母の胎内からひきずりだされた男」のマクダフの剣に倒れる末路を辿った。運命に踊らされている己れの姿に気づいたとき、マクベスは自分を「あわれな役者」と思うに至る(第5幕第5場)。しかし そのうんざりするような認識こそが、実はマクベスをして最後に「悲劇」というわな」を抜け出さしめたのだと柄谷行人は論じている。「ハムレットやオセローにとって、死は最後の自己劇化であり、最後の意味回復である。マクベスに馬鹿げてみえたのは、自分をどんなかたちであれ運命的存在たらしめようとする欲求そのものである」(「マクベス論」)。

 田宮は自死の直前、周囲の者に「僕は、虚業の俳優で生きていくしかないんだね」と漏らしていたという。「あわれな役者」としての自己認識から「一切の「意味」を拒絶した男」(柄谷)へと飛躍するマクベスのふてぶてしさを、田宮は持ちあわせていなかった。しかし彼の悲劇的な死は、カール・シュミットが「ハムレット」に見出したものと同じ通路を経由して『白い巨塔』を、田宮二郎ではなく財前五郎を劇化することになる。それは田宮二郎にとっての悲劇でもあった。シュミットは『ハムレット』を分析して次のように言う。


 この劇作品には、劇以外の構成要素が含まれていて、その意味でこれは完壁な劇ではない。この劇作品の時間と場所と筋の統一性は閉じられておらず、純粋に内閉した過程を生じさせていない。そこには二つの大きな開口部があり、そこを通って歴史的な時間が劇時間の中へ侵入してくる。[中略]所与の事態がこうして入り込むことで、意図をもたない純粋な関の性質は乱される。そのかぎりでこれは、劇の側から見るならば欠点である。だがその結果として、ハムレットという舞台の人物は真の神話となることができた。そのかぎりでこれは利点である。なぜならそれによって悲哀劇[Traverspiel]は悲劇[Tragödie]へと高められたのだから。

『ハムレットもしくはヘカベ』初見基訳、強調は原著者、[ ]内は引用者による


「そこを通って歴史的な時間が劇時間の中へ侵入してくる」ような「開口部」としてシュミットが『ハムレット』に発見したのは、劇中のガートルードを透けて実在のメアリ・ステュアートが、ハムレットを透けてジェイムズ1世が見えてくるような同時代史とのふたつの重ね合わせであった。『ハムレット』の書かれた1600年頃のロンドンでは、劇作家と観客が形成する「公共の場」にこのふたつの見立ては共有されていた、そうシュミットは断言する。のみならず彼にとって、『ハムレット』の「悲劇性の源泉」はこの「歴史的アクチュアリティ」以外に求められるべきものではなかった。「悲劇性が成立するのは、詩人、語り手、観衆という関与者のすべてにとって出来事が現実として覆しがたくそこにある、そのようなときにはじめてなのだ。創作された運命は運命などではない」。

 シュミットの主張が『ハムレット』論としてどこまで妥当かについては、議論のあるところである。しかし彼が『ハムレット』に求めた悲劇性は、まさしく田宮の遺作となったフジテレビのドラマ『白い巨塔』において成立してしまっていた。1978年12月28日の田宮の死によって──シュミットの言葉を借りれば──財前五郎というキャラクターの物語は悲劇へと高められた。11月15日に撮影を終えていた『白い巨塔』の最終回は、翌年1月6日に放送された。癌に冒された主人公の財前が、国立大学の医学部教授でありながら医師としての道を踏み外していた自分の人生を恥じて涙を流し、鬼神のごとき姿となって死を迎えるそのラストを目にした視聴者には、主演である田宮の自殺という出来事が「現実として覆しがたくそこにある」ものとして意識されただろう。それまで低迷気味だった視聴率は一気に跳ね上がり、最終回で31.4%を記録した。『白い巨塔』は伝説のドラマとなった。

 なぜこのようなことが起こったのか。おそらく、山崎豊子の『白い巨塔』という原作そのものに、シュミットの言う意味での欠点があったためであろう。「劇というものは、いわば、自然に向って鏡をかかげ、善は善なるままに、悪は悪なるままに、その真の姿を抉りだし、時代の様相を浮びあがらせる」とハムレットは言う(『ハムレット』第3幕第2場)。じじつ、『白い巨塔』は現在までに何度も映像化されている。歴史への開口部の存在がそれを可能にするのだとすれば、そこから白い巨塔のなかへと入り込んでいった「時代の様相」とはいかなるものであったか。白い巨塔が鏡として映す善と悪の「真の姿」とは何であったか。そのような問いが、この連載をとおして探究されることになる。

 しかしそのためにも、まずは田宮の歩んだ道のりを辿りなおすことから始めなければならない。それはきわめてドラマティックな生涯であった。そのなかで田宮はなぜ、どのようにして白い巨塔のとば口へといざなわれていったのだろうか。

1.


 田宮二郎の本名は柴田吾郎という。

 吾郎は1935年に大阪で生まれた。生後4日目に事故で父を亡くし、以後は京都にある祖父・柴田永三郎の自邸に一家で移り住んだ。永三郎は「住友財閥の大番頭」とも呼ばれた関西財界の実力者であった。その祖父も1944年に他界し、翌年母の美代が急死した。敗戦直後の苦しい生活のなかで、永三郎の豪邸の一部は進駐軍の家族に貸し出された。祖母や親戚に育てられながら、吾郎は1955年に学習院大学政経学部に合格する。英語が堪能であった彼は、外交官になるという夢を抱きながら上京した。

 彼が俳優としての道を歩みはじめたのは、在学中の1956年にスポーツニッポン新聞社主催の「ミスター・ニッポン」コンテストに優勝してからである。大映の専属俳優となった吾郎はやがて永田雅一社長の覚えを得て、1959年に芸名を決められる。永田がオーナーを務めていた球団「大毎オリオンズ」が前年獲得した強打者・田宮謙次郎選手にあやかり、「田宮二郎」と名づけられた。

 1961年6月公開の『女の勲章』(山崎豊子原作)で田官は美貌と知略を備えた冷血漢・八代銀四郎を演じ、テンポの早い大阪弁で京マチ子や若尾文子ら4人のスター女優と堂々渡りあったことが淀川長治らに賞賛された。そして同年9月の「悪名」では勝新太郎とコンビを組み、軽妙洒脱な田宮の役どころが評判を呼んで、以後14本にわたって続編が製作されることになった。ダーティーな企業スパイを演じた『黒の試走車テストカー』(1962年)も、一匹者の現代ヤクザに扮した『宿無し犬』(1964年)もともにシリーズ化され、田宮は誰もが認める大映の看板役者となる。「クールガイ」の呼び名をほしいままにし、のちに「世の中のカッコよさを独り占めする男」とまで言われた。

 転調は1968年に訪れる。今井正監督の『不信のとき』の製作中、ポスター原案を目にした田宮は、キャストの名前の配列に不満を申し立てた。出番の多さから考えて実質的に主役であることを主張する田宮と、女性映画として若尾文子ら女優陣をアピールしたい大映上層部との争いは、永田社長をも巻き込んで取り返しのつかない感情的対立へ発展してゆく。帰結は、田宮の大映追放であった。自社専属でない俳優の無断起用を禁ずる五社協定が存在した当時、それはそのまま映画界追放を意味した。
 記者の質問に答えて永田は啖呵を切っている。「十年かかってようやく一人前のスターらしく育てて来た田宮だが、もうダメだと思った。自己過信もはな はだしい。[中略]いまはみんながなんとかして、いかに危機の映画界を守るかが第一の問題で、そのためには映画への愛情を中心にして手をにぎりあうこと、これのみだよ」(読売新聞1968年6月11日夕刊)。危機の映画界を立て直すべく握られた手の輪から、田宮は締め出されてしまった。この言葉の3年後、大映は経営不振によって破産する。俳優・田宮二郎の苦難と転機は、日本映画の盛衰と奇しくも軌を一にしていた。大澤真幸による戦後史の区分に重ねれば、それは「理想の時代」から「虚構の時代」へのターニングポイントでもあった。

 当時の田宮がマネージャーの直原隆司に宛てた手紙が、評伝『田宮二郎、壮絶!』のなかで紹介されている。


 いまは堪える時だと自分に云い聞かせています。映画人口が史上最低だと新聞で見ましたが、もっともっと悪くなると思います。だけど、その時こそ、僕らの本ものの仕事が出来る時だと思います。


 直原は、大映追放後に田宮が発足させたプロダクション T(のちの田宮企画)の、ただ一人の社員でもあった。社長は、かつて大映のスター女優・藤由紀子として活躍し、1965年に田宮と結婚して芸能界を引退した柴田幸子が務めた。ささやかな再出発であった。独立後にようやく得た最初の仕事は、高松市内のキャバレー「レインボー」で開催された「田宮二郎歌謡ショー」だったという。

「この男、きょうまで歩き慣れた古い道を、やがて慣れぬ他国に切開いて行くほかはありますまい」(『リア王』第1幕第1場)。新しい道は、カラー放送がいよいよ本格化しはじめたテレビに用意された。1969年1月、NETテレビ(現テレビ朝日)で始まった新番組『クイズタイムショック』において、田宮は初代の司会を務めることになる。田宮がお茶の間の人気に支えられて復活を果たし、そして悲劇的な死を遂げる第2幕の幕開けである。彼の言葉どおり、それは「本ものの仕事」へと至る短くも険しい道のりとなった。

2.


 冒頭に引いた田宮と升本の会話がなされたころ、テレビにおける田宮の人気にはすでに翳りが見えはじめていた。田宮にとって初の連続テレビドラマ主演作『知らない同志』(1972年)が成功を収めて以降、彼は専属契約を結んだTBSのドラマに立てつづけに出演する。1973年の『白い影』が平均21.7%、翌年の『白い滑走路』が平均21.9%と高視聴率を記録したが、それがTBSにおける田宮のピークでもあった。升本と製作していた『白い秘密』は「白シリーズ」の4作目にあたる。第1話の視聴率は14.1%であった。

 道を間違えたという、田宮の心に取り憑きはじめた意識は、積年の夢と絡まりながら彼のなかにある野心を形成してゆく。さきの会話に続けて、田宮は升本にこう述べていた。


 車はまた走り出した。
 彼が急に言った。
「財前五郎って知ってますよね」
 何を言うのかと思った。『白い巨塔』の主人公に決まっている。
「僕の本名は、柴田吾郎っていうんですよ」
 それも、とっくに知っている。
「五郎と吾郎、山崎先生には失礼だけど、どこかで僕のことをお聞きになっていて、おつけになったって勝手に思ったりするんですよ」

『田宮二郎、壮絶!』




 田宮はここで名前にこだわりを見せはじめる。財前五郎に対し、田宮は田宮二郎という名前を超えた思い入れを抱くようになっていた。

 田宮には、1966年に大映で公開された映画『白い巨塔』(山本薩夫監督)で財前五郎を演じた経験があった。「俳優という長距離レースで、ぼく自身、一度は登りつめなきゃならない心臓破りの丘、それがこの作品、この財前五郎という役だ」。公開前に語られた彼の意気込みに偽りなく、周囲から「若すぎる」と言われていた当時31歳の田宮が財前五郎に込めた迫力には、並々ならぬものがあった。映画『白い巨塔』は空前の大ヒットとなった。

 原作は1963年9月から1965年6月まで『サンデー毎日』で連載され、同年7月に単行本化されている。映画版はそれに基づいているが、この作品にはさらなる続編が存在した。それは当初の作者の構想にはなかったものであり、1967年7月からふたたび連載された『続白い巨塔』は結果として山崎豊子がはじめて社会に書かされた作品となった。そのことの意味はのちに検討されよう。いずれにせよ、『続白い巨塔』が単行本化された1969年11月には、田宮はすでに大映を追放されていた。続編もあわせた完全な映像化は、1976年の当時まだなされていなかった。

 視聴率がかつてほど振るわなくなってきたことに焦りを感じていた田宮は、この時期から苛立ちや気落ちを周囲に見せるようになったという。1972年に田宮企画が満を持して製作した日英合作映画『イエロー・ドッグ』に、日本での配給先がいまだ見つからず大赤字を抱えていたことも悩みの種であった。1977年9月放映開始の主演ドラマ『白い荒野』を最後に、田宮のTBSとの契約は更新されないことが決まった。道を間違えたという意識が彼の心のなかに広がってゆけばゆくほど、財前五郎という異なる運命との接続はますます強く夢見られるようになった。
 田宮の宿願の受け皿となったのは、TBSとの契約切れを察知したフジテレビである。編成企画部長の石川博康が主演ドラマを打診し、田宮企画が『白い巨塔』を提案するかたちで、1977年夏から企画は動き出した。田宮はこのとき42歳、原作冒頭における財前五郎の年齢は43歳であった。

 そして、「名門大学の教授か、偉大な医師になる」という骨相学者の言葉がいよいよ手触りを持ちはじめたこの年の冬、田宮は竹ノ下秋道という謎めいた人物と出会うことになる。

 きっかけは、田宮にとって学生時代からの知り合いである女優・浦里はる美からの紹介であった。50歳前後の紳士然として恰幅のいい竹ノ下は、「関東畜産協同組合理事長」と記された名刺を田宮に手渡した。曰く、自分は5年ほど前から学術資料の整理・統合を目的に「近代日本総合研究所」の創設を計画し、佐藤栄作元首相にも相談しながら昨年無事設立に至ったが、その過程で知り合ったとある大物から20億円の余剰資金の有効な活用法について相談を受けているとのことである。興味を惹かれた田宮が何度か会合を重ねると、その資金の源は戦後にGHQがアメリカ映画配給のために設立した「モーションピクチャー・エクスチェンジ・アソシエーション」なる組織のプールしていた2000億円にあるのだと、話はますます膨らんでゆく。実はそれは、当時の新聞や週刊誌を賑わしていた「M資金」詐欺グループが、常套手段として用いる口上のひとつであった。

「M資金」とは、GHQ経済科学局(ESS)が日本軍から押収した莫大な物資を指し、ESS局長のW.F.マッカート少将の頭文字をとってその名がつけられたとも言われるが、真偽のほどは定かでない。全日空の大庭哲夫元社長も1969年に3000億円の「M資金」融資の話に独断で応じたために退陣へ追い込まれたとされており、1976年のロッキード事件にともなう衆議院予算委員会での大庭の証人喚問によって、この問題に世間の注目が集まった。以後も「M資金」のエピソードはさまざまな変奏を生みながら詐欺に繰り返し利用される。ちなみに竹ノ下は、のちに同様の手口でアイドルグループ「フィンガー5」の元メンバーにも融資を持ちかけ、印紙代と称し400万円を騙し取ったなどの詐欺容疑で1999年に逮捕された(読売新聞1999年6月3日)。

 田宮が当時「M資金」詐欺のニュースをまったく知らなかったとは考えにくい。しかし彼は、竹ノ下と出会ったときの印象を、祖父の思い出も交えながら週刊誌に次のように語っている。


 その祖父が、戦争の終りころ金や銀の供出をするとき、幼いぼくにこういったんです。「これはいずれ日本復興のために役立とう。そのとき、おまえはいつか、これに行き会うときが来るだろう」とね。竹ノ下の話を聞いているうちに、これだナ、とピーンときた。運命というか、ミラクル(奇跡)を感じましたね。

『週刊文春』1978年6月1日号




「おまえはいつか、これに行き会うときが来るだろう」。竹ノ下から融資を持ちかけられたときの田宮には、さまざまな運命の糸がいま自分のもとに集まりつつあるように感じられたにちがいない。そこから自死に至るまでの約1年間で、田宮の人生は急激に劇化の密度を高めてゆくことになる。

 田宮は竹ノ下に会って以来、「僕は実業家になりたい。俳優なんて、しょせんは虚業じゃないか。僕は住友の大黒柱だった祖父を超えてみせるよ」と田宮企画のスタッフに気炎をあげていたという。そして実際に、さまざまな事業に次から次へと手を伸ばしていった。元大映東京撮影所の敷地買収、南麻布の高級マンションの購入、1977年10月に倒産した東洋無線の再建計画、セメントの輸出……。そのうちのいくつかは、竹ノ下が唆したものだった。
 また田宮は、(おそらく竹ノ下の紹介で)1978年3月にチャーリー小野寺なる人物と会っている。彼はトンガ王国の特別顧問を自称していた。国王から絶大な信頼を寄せられていることを強調したうえで、チャーリーは田宮にトンガの石油採掘利権の話を持ちかける。当時のトンガが石油ブームに沸いており、親日家の国王ツポウ4世が日本に開発への参加を呼びかけていたことは事実だった(朝日新聞1978年2月25日夕刊)。チャーリーは外国に利権を奪われないようなるべく早くトンガへ来てほしいと田宮を急かし、来れば国王は必ず国賓としてあなたを遇するはずだと甘言を弄した。田宮はトンガ行きを決意した。

 すでに『白い巨塔』の撮影は始まっており、フジテレビ側や妻の幸子は当然強く反対したものの、田宮は1週間の休みをとって4月18日の夜にトンガへ発ってしまう。この時期には、田宮の精神が正常でないことは身近な者たちの目に明らかだった。幸子は田宮自身にも知らせず、ひそかに精神科医の斎藤茂太のもとへ相談に訪れる。幸子から本人の様子を聞いた斎藤医師は、田宮には躁鬱病の疑いがあるとの診断を下した。

 田宮はたしかに1週間でトンガから帰ってきた。だが、無謀な事業欲にはますます拍車がかかり、手形や印鑑証明書が乱発されるようになったという。そのときの幸子の悲痛な思いを知る田宮の友人の言葉が、週刊誌のなかで引かれている。


 事業家・柴田吾郎について、由紀子[幸子]夫人はいつもハラハラしているんですよ。「あなた、俳優・田宮二郎だけでいいじゃないの。柴田吾郎はヤメておいて」というんだが、田宮は「男の仕事に口出しするな!」と怒るんだそうですよ。

『週刊文春』1978年6月1日号




 幸子に危機と感じられたのは、田宮二郎にとどまらず柴田吾郎までもが劇化されようとしていることであった。彼のなかでますます存在を強めていたふたつの予言(「名門大学の教授か、偉大な医師になる」「おまえはいつか、これに行き会うときが来るだろう」)が、田宮二郎という俳優の道に財前五郎と柴田吾郎という2本の運命を重ね合わせようとしている。しかし、財前五郎と柴田吾郎が完全に一致してしまうその瞬間に待ち受けているものとは、田宮二郎の死にほかならない。

 家族のため財産保全の必要に迫られた幸子は、弁護士との相談の結果、田宮と擬装離婚をしその慰謝料の名目で不動産を押さえるという苦渋の決断を下す。躁状態にあった田宮は、離婚も物件譲渡もすべて言われるがままに許したという。

 竹ノ下秋道もチャーリー小野寺も、いつのまにか連絡がとれなくなっていた。彼らは──マクベスにとっての魔女がそうであったように──予言めいた戯言によって田宮を惑わしながら、舞台を横切り「大地の泡」のように消えてしまったのだ。そうして1978年6月3日、いよいよ『白い巨塔』の放映が開始される。

(つづく)

 

参考文献
梅原猛『写楽 仮名の悲劇』、新潮社、1987年。
大澤真幸『増補 虚構の時代の果て』、ちくま学芸文庫、2009年。
柄谷行人『意味という病』、講談社文芸文庫、1989年。
カール・シュミット『ハムレットもしくはヘカベ』初見基訳、みすずライブラリー、1998年。
土岐浩之「『白い巨塔』撮影ルポ」、『シナリオ』1966年11月号。
増田晶文「没後30年「田宮二郎」はなぜ猟銃自殺したか」、『週刊新潮』2009年1月1-8日号。
升本喜年『田宮二郎、壮絶!―いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』、清流出版、2007年。
『フジテレビジョン開局50年史』、フジ・メディア・ホールディングスおよびフジテレビジョン、2009年。
*なお、シェイクスピア作品からの引用はすべて福田恆存氏の翻訳に拠りました。
 

入江哲朗

1988年生まれ。東京外国語大学世界言語社会教育センター講師。専門はアメリカ思想史および表象文化論。映画批評もしばしば執筆。著書に『火星の旅人──パーシヴァル・ローエルと世紀転換期アメリカ思想史』(青土社、2020年、表象文化論学会賞奨励賞受賞)、『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(共著、石岡良治+三浦哲哉編、フィルムアート社、2018年)など、訳書にジェニファー・ラトナー゠ローゼンハーゲン『アメリカを作った思想──五〇〇年の歴史』(ちくま学芸文庫、2021年)など。
    コメントを残すにはログインしてください。