ウクライナ・ハルキウ渡航記──失われつつある書物と現れつつある言語(前篇)|石橋直樹

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webゲンロン 2025年2月19日配信
前篇

 

 かれらの大地、溶けることのないかのように思える残雪に麦芽を抱える大地の上、ポーランドのプシェミシル駅を出発した特急は、わたしを乗せて東部都市へ走っていた。大地はすでに冷気がすっかり色を変えた葉木たちによって覆われていたが、軌条は整然と途切れることなく林を引き裂き、わたしたちを、ひねもす、夜のはやくやってくる東へと運んだ。

 電車は進み続ける、眠れる人々を揺らしながら。消されずに置いておかれた古い小さな蝋燭が出すような匂いが、列車を走らせる煙とともに充満している。小麦畑を、針葉樹林を、赤い屋根の家が立ち並ぶ村を、教会を、そして墓を横目に、その大地の上を列車は滑り続ける。戦時下にもかかわらず一分も遅延なく進むことができているのは、物資輸送という兵站上の理由で、軍が第一に線路の安全を確保しているからであった。大地を覆っていたはずの鉄道網が攻撃によって寸断されてしまったならば、住民たちは避難することもままならず、車は渋滞によって道を閉鎖し、どのようにしても、人々は氷点下の大地の上を徒歩で歩き続けなければならなくなっただろう。しかし、必ず東部都市まで列車を通さねばならぬという軍の力強い宣言のもと死守された線路は、依然軍需品、政府要人、そして多くの避難民を西から東へ、東から西へと運び続けている。ひとときも休まず列車は揺れる。その音が止むことはない。

 わたしはウクライナの東部都市・ハルキウへと向かっていたのである。

【写真1】ポーランド・プシェミシル駅にて、乗車時の風景。乗客は、国外への避難からの一時帰国をする女性がほとんどである。撮影=筆者

失われつつある書物を求めて

 今なお戦争の只中にあるハルキウへと向かった理由、それは一人の言語学者の著作と出会うためであった。オレクサンドル・ポテブニャ(Олександр Потебня,1835-1891)。それがわたしの追い求めた人物の名である。

 ポテブニャは言語と思考、そして現実世界がどのような関係を取り持つのかということに、音声学と民俗学の知見から迫ったハルキウ言語学派に属していた学者であった。アンドレイ・ベールイ(Андрей Белый,1880-1934)やヴャチェスラフ・イヴァーノフ(Вячеслав Иванов,1866-1949)ら、有名なロシア象徴主義詩人に顕著な影響を与えた理論家であったが、ソヴィエト連邦時代の荒波のなかで長らく「忘れられた」言語学者となった。

【写真2】ポテブニャの肖像。ウクライナの切手にもなっている。URL= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alexander_Potebnja_1892.jpg Public Domain

 ポテブニャ理論において最も興味深いものは、「内的形式」という考え方である。まず彼は、言語活動を単に意味伝達としてではなく、個人と国家、民族の歴史が不可避に蓄積する思考そのものの発展としてみている。すなわち、人間の意識と外界との関係性自体を構築するものとして言語を捉え、民俗学、神話などの伝承研究に言語と思考との関係性を見出すのである。これは所謂フンボルト主義の系譜にある考え方であるが、しかし心理的機能としての音声という問題を組み込むことで、言語と民族の問題を、より物神的に止揚していくといえるだろう。

ポテブニャによれば、言葉は、外的形式(分節された音)、内的形式、内容(意味)という三項からなっている。ただし、「内的形式」の定義はかならずしも明快ではない。ときには、「イメージ・形象」、「シンボル」、「言葉の内的意味」、「記号」などと同義となっている。〔……〕内的形式は「イメージの中心であり、残りのすべての特徴を支配する、その諸特徴のひとつである」と述べている。たとえば「黄金」という言葉を聞くと、まず浮かぶのはその色であって、他の特徴(重さや音)ではない、といったようなケースが念頭におかれている。…ポテブニャによれば、言語学が内的形式を忘却していくことは、「詩的なるもの」を失い、「散文的なるものに」転じることである。★1

 「内的形式」とは単語内にあるそのイメージの中心であり、それによって単語の意味を成立させる音素である。「黄金」という言葉がわたしたちにイメージさせるのは、その重さや音ではなく、色のイメージである。それがポテブニャの考える内的形式として語の中に挿入されているものといえよう。言語が内的形式を忘却していくと、ポエジーを失い散文に堕していくとポテブニャは考えた。

 わたしがこの言語学者に強く惹かれるようになったのは、日本の民俗学者・折口信夫(1887-1953)の卒業論文「言語情調論」を読んでいたときであった★2。極めて難解にも思われる折口のこの著作が、あるところでポテブニャの「内的形式」という考え方と著しく近似するような瞬間をみたのである。「言語情調論」における議論を参照しよう。

言語がその根本においても道筋においても、常に纒綿せられて居る間接性を如何にして取り去つて直接性を帯びしめることが出来るか、またさういふ努力が言語のうへに行はれた痕が見えるかどうか、言語情調論はまづ直観的言語の可能性ならびに存在の有無よりはじめなければならぬ。★3

 言語の間接性を脱して直接性をいかにして回復するか、折口の「言語情調論」はその問いに賭けられていたものといわなければならない。当然、それは言文一致運動と国民主義ナショナリズムが結びついた〈俗語革命ヴァナキュラリズム★4というような新しい散文の時代に対する反動でもあっただろうが、言語の物質性のなかに直接性、あるいは超越性を発見する思想は運動として極めて強い力を有した。それは後段で説明する通り、古典的な詩が引き受けていた超越的な神学や運命の力を、世俗的な時間意識へと平板化する新しい共同体への異議申し立て、もしくは基礎付けとしてありえたのである。

 おそらく折口はポテブニャを読んでいないし、ポテブニャの議論はそもそも当時の日本へは全く輸入などされていなかっただろう。しかし、十九世紀末の言語における直接性の復権のパラダイム、その最後のピースがポテブニャの思想であったという確信がわたしを突き動かした。同じ民俗学フォークロアという立脚点をとりながら言語の問題を取り扱うこと、「言語情調論」において折口が目指したものはなんだったのか、わたしにとってその答えは今やポテブニャにかかっていたのである。

 

 わたしがポーランドから特急列車に乗り込んだのは、戦争によってまさに失われつつあるハルキウ言語学派、そしてポテブニャの思想を、未来永劫の喪失から留めるためであった。帝政期からソ連時代を経て、ウクライナ国家の成立後もロシア語話者がほとんど占めていたハルキウという土地において、戦争を契機としてロシア語廃絶という動きは一層苛烈なものとして進展していた。ロシア語書籍が焚書されている状況にあることを憂慮していた。ロシア語で書かれたポテブニャの思想も、その対象から漏れることがなかったのである。

 わたしがウクライナ国境を越えた2024年1月29日、日々苛烈化する空襲と、ロシア語書籍の廃棄という一刻を争う状況のなか、その思想を生み出したところのハルキウという土地に降り立つことが急かされていた。

【写真3】ハルキウ駅到着当時の様子。撮影=筆者

ハルキウでの出会い

 なにものも、その土地に行かなければ見えるものはないということは、民俗学という領域から発したわたしの思想遍歴において、強固な信念としてあった。その土地で生きる人々の息遣いを、文字で得られる情報を超えて感じられなければ、読んだものははらはらと身からこぼれ落ちていってしまう。ウクライナで、現地の人々と同じ空気を吸い、同じ音を聞き、同じ寒さに震え、手を動かすということで、はじめてその土地について「知る」ということにもなろう。

 

 それは、たとえばポテブニャという人物の思想を読むことについても全く同様だろうと思っている。その思想を実らせた土地の空気、かれらがなにを食べ、なにを話し、なにを見て、どういう現実にあるのかを知らなければ思想そのものに立ち入ることは難しいはずだ。ポテブニャの書籍を探すということは、単に物質としての本を探しているという意味ではないのである。

 民俗学の先生方から学んだ様々な作法、調査に行った際にはどのように話を尋ねるべきか、現地ではどういう服装をするべきか、どういうふうに話すべきかというようなことは、誰も知り合いのいないハルキウという土地で大変役に立った。ハルキウ大学周辺を現地では当たり、空襲警報が鳴り響くなかで街頭にたむろするウクライナ人の若者たちと仲良くなり、街の歴史や戦争の被害などについて聞くことができた。ハルキウに滞在した一ヶ月弱ほどの間で、ボランティアの方や警察官、軍人、民間警備隊、書店員、大学生、高校生など、20人ほどと親しい人間関係を築くことができたと思う。結局は、日本で初めての人と話しかけるのと同じように、表情と身振り手振りからはじめて意思疎通を図ることが多かった。

【写真4】ハルキウの憲法広場駅(Майдан Конституції)にあるニコルスキー・モール前にたむろする若者たち。 空襲警報があると従業員保護のためモールが閉店してしまうため、開店を店の外で待っている。撮影=筆者

 街頭で現地の人々に話しかけて話を聞いていたのだが、なかでもユーリイという学生は記憶に深く残っている。ほとんど同年代、おそらく2000年前後生まれの精力的な青年だ。彼は英語をかなり流暢に話すことができたので、かろうじて空いている古書店に当たって求めている本を探してもらうなど、ハルキウの街を案内してくれた。ハルキウの若者が今なにを考えているか、ウクライナ文学がどういう形で読まれているかなどを懇切丁寧に説明してくれて、他の学生仲間にも紹介してくれた。

 ウクライナの象徴主義を考える上で重要な文献学者イズマイル・スレズネフスキー(Ізмаїл Срезневський,1812-1880)の詩意を得たり、ウクライナの国民意識成立に重要な役割を果たしたミコラ・コストマーロフ(Микола Костомаров,1817-1885)の著作を方々尋ねることができたのも彼のおかげである。けれども、ハルキウの古本屋ではすでにウクライナ語への転換を旗幟鮮明としロシア語書籍を廃棄しているところが多く、その上多くの古本屋がミサイルの被害に遭って撤退してしまっていた。結局ポテブニャの資料は探しても見つけられずに、何冊か新刊のウクライナ文学の書籍をかろうじて現地で購入したキャリーケースに詰め込んで持ち帰ることができただけだった。

 

【写真5・6】ハルキウの書店にある日本文学の新刊書籍。太宰治『人間失格』(上)、田山花袋『布団』(下)。 ユーリイ曰く、日本文学はかなり人気があるという。撮影=筆者

 ユーリイが不意に言ったこんなことを、今でも覚えている。

 「僕たちの世代は、独立のファーストジェネレーションだ。オレンジ革命★5やマイダン革命★6とともに育ってきた。君も知っているだろう。そして、僕たちが国を担うとなったときにコロナと戦争がともにやってきたんだ。僕たちに考える時間など与えられていなかったが、だからこそ、こんなふうに残された時間をあれこれ模索することに費やした。そして、それは第一に僕たちの言語の問題として現れた。独立のファーストジェネレーションは、母語のファーストジェネレーションでもある。僕たちの言語が度重なる弾圧にさらされてきたことは知っているね? 君は異邦人で、きっと僕たちと全然違う人生を歩んできたのだろうと思うけれども、君はここ、ハルキウまでやって来た。そして君は僕の話を聞くことができ、今の状況を目撃している。この国を出ることができない僕に代わって、できることをしてほしい」。

 ユーリイとは、ウクライナにおけるLINEのようなSNSサービスTelegramで連絡先を交換したのだが、ウクライナから離れるタイミングでログインができなくなってしまい、その後連絡が取れていない。彼の無事を祈っている。そしてわたしは、わたしに託されたことをしなければならない。

ウクライナ言語学とウクライナ語

 かつてドストエフスキーが一人の登場人物に語らせた《神》に関する言葉を《言語》に読み替えてみるとどうか。「一国民の全運動の目的は、いかなる国民においても、またその国民のいかなる時期においても、ただ一つの《言語》の探求、自身の《言語》、ぜひともおのれ自身の《言語》の探究でしかありえないし、またその《言語》を唯一真実のものとして信仰することでしかありえない。《言語》こそが、一国民の起源から終末にいたるまでの全体を代表する総合的人格であった」(『悪霊』でのシャートフの発言から)、と。

 ウクライナの言語学に触れていると、そのように読み替えてみたい誘惑にかられる。すなわち、汎スラヴ主義の旗印としての《神》から、民族主義の掲げる《言語》への読み替えである。ポテブニャが民族と結びつけていく《言語》への問い、言語そして民族の「内的形式」を希求する言語学は、民族の存立そのものに関わるウクライナ語発見の歴史から発展してきたものである。

 

 歴史的にロシアやポーランド、オーストリアに分割されてきたウクライナという国土は、ボフダン・フメリニツキー(Богдан Хмельницький,1595-1657)やイヴァン・マゼッパ(Іван Мазепа,1639-1709)らによる度重なる独立戦争によって異様な様相を呈しているといってよい。すなわち、独立をかけた血みどろの闘争だけが独立の旗印となったような歴史を有しているのだ。とりわけ一九一九年、第一次世界大戦とロシア革命の時期に高揚した独立運動では、キーウのウクライナ人民共和国ディレクトリア政府、リヴィウの西ウクライナ人民共和国など、複数の自治政府を生み出したが、北東からはボリシェヴィキ、西からはヘトマン政府を擁立するドイツ軍、南東ドン川方面からは反革命の白軍、そしてポーランド軍、ルーマニア軍、フランス軍などが進駐し、各国の思惑が入り乱れる無秩序な内戦状態が進行した。小説家ミハイル・ブルガーコフの長編小説『白衛軍』はこの革命期を描いたものである。内戦はボリシェヴィキの勝利に終わり、ウクライナはソヴィエト連邦に吸収され、その後100万人を越す餓死者を出す大飢饉がこのヨーロッパの穀倉を襲うことになる。血みどろの歴史のなかで、その独立は独立が叫ばれることによって成立しながら、その度ごとに妨げられてきたのである。

 しかし国土というものを絶対的尺度とすることができない独立の困難を受けて、その国民主義はなにをもって紐帯の旗印としたのか。それはまさに《言語》、すなわちウクライナ語の存在であった。すなわち、国民語として「発見」されたウクライナ語を「独立」の旗印とする、国民主義の前衛党がこのウクライナであったということができるだろうか。そのはじまりは、1848年〈諸国民の春〉が吹き荒れる西ヨーロッパに比べて、後進的であった分過激化した知的サークルに見出される。

【写真7】キーウにある国立タラス・シェフチェンコ博物館のシェフチェンコ像。撮影=筆者

 国民詩人タラス・シェフチェンコ(Тарас Шевченко,1814-1861)がウクライナ語を「発見」するまでには、ロマン主義運動と民俗学研究が創発的に結びついたサークル文化の興隆を下地として、とりわけ重要な役割を果たしたのが17世紀に誕生したばかりの新興都市ハルキウの存在である。1802年、ハルキウ大学にその名前を冠するヴァシル・カラジン(Василь Каразін,1773-1842)が当時のロシア皇帝アレクサンドル一世にアテネ式のサロンを作るという提案をしたことをきっかけとして、バロック文学の中心地だったキーウのモヒラ・アカデミーの衰退とともに、学閥のしがらみのないこのハルキウに知的中心が丸々移ったためである。ハルキウでは、のちに民俗誌『古代ザポリージャ』を上梓することとなる、前述のイズマイル・スレズネフスキーが中心となって文学サークルが形成され、そこには歴史学者ミコラ・コストマロフや詩人アンヴロシー・メトリンスキー(Амвросій Метлинський,1814-1870)などが参加していた。

【写真8】メトリンスキー URL= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:MetlynskyAmvrosii.jpg Public Domain

【写真9】コストマロフ URL= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kostomarov_7.jpg Public Domain

 このコストマロフとメトリンスキーの二つの系譜──前者はキーウへと移り、後者はハルキウに残った──がその後のウクライナ言語学を規定していくことになる。後者のメトリンスキーはハルキウ大学でポテブニャを教え、ハリコフ言語学派の水脈へとつながっていく。まさにハルキウを第一世代として、ウクライナ語が発見されていく。

 前者のコストマロフはシェフチェンコの盟友としてキーウ大学における国民主義を牽引するサークル文化の火付け役となった。 コストマロフが訪問してきたシェフチェンコと意気投合し、ウクライナ独立運動のために結成したキリル=メフォーディ兄弟団に誘ったことはウクライナ創成における最も重要な出来事だろう。コストマロフが歴史学の立場から一団のイデオローグとして『ウクライナ人民の存在の書』という思想書を執筆し、シェフチェンコは「小ロシア語」としてパロディー的にしか用いられることがなかったウクライナ語を〈人間存在の悲運を語る〉詩的言語にまで引き上げた。しかし1847年、キーウ大学の学生の告発によって、キリル=メフォーディ兄弟団は憲兵によって摘発されてしまう。コストマロフは逮捕されてサンクトペテルブルク要塞に送られ、シェフチェンコは関与した決定的な証拠が挙がらなかったが、詩《夢》などがツァーリの妃であるアレクサンドラの容姿を非難したとしてメンバーのなかでもっとも重い刑に処せられることとなる。シェフチェンコはオレンブルク国境警備隊へ流刑され、そこから10年にわたる勾留がはじまったのである。

 このように、ウクライナ民族主義は産声をあげる前に失敗に終わった。ドストエフスキーが逮捕され、投獄されることになるペトラシェフスキーの会合が44年にはじまっていることからわかるように、全ロシア的問題としてこうしたサークルは各地にあったが、ロシアの1848年は1905年を待たなければならない。しかし48年の意義はヨーロッパの挫折を乗り越える形で、ロシア、もしくはウクライナ固有の思想を洗練させていったところにある。

 わたしは折口から遥か遠く、しかし一方で最も近い問題というようなものへと辿り着いた。ポテブニャとシェフチェンコ、そしてハルキウの言語運動へ、それはウクライナ存立の血みどろの民族闘争と切り離すことはできない。言語の直接性、内的形式、言語と民族、国家、そういったものが一つに交わる点にハルキウの言語運動はあるのだ。

 ウクライナ人たちは、国土を確固たるものとできなかったために予祝されるべき〈墳墓モヒラ могила〉を喪失し、内的な形式として言語に民族の核を隠した。シェフチェンコは詩〈暴かれた墳墓〉で次のように詠む。

墳墓は 縦横無尽に
掘り返された。
連中はそこで なにを見つけだそうとしているのだろう。
われわれの先祖の古老たちは
そこになにを隠したのだろう。ああ、もしも、
もしも、そこに隠されているものを見つけだせたら、
子どもたちが泣くこともなく、母がこころを痛めることもなかっただろうに。★7

 1843年、サンクトペテルブルクから初のウクライナ訪問を果たしたシェフチェンコが、ウクライナの考古学委員会に参加して見学した過去の墳墓にインスピレーションを受け、この詩を書いた。このウクライナ訪問でシェフチェンコは、ウクライナ語文学運動の立役者クリシ(Пантелеймон Куліш, 1819-1897)とはじめて会うことになる。旧来のモヒラ・アカデミーからの不連続において新生した若い文学運動は、忘れられた一層古いモヒラを追い求め、そしてその打ち棄てられた最も古い墳墓のなかに、民族の最も新しい言語を〈発見〉したのである。(後篇に続く

 


★1 桑野隆『言語学のアヴァンギャルド』、水声社、2020年、65頁。
★2 折口の「言語情調論」に関する個人的な見解は、拙論「〈残存〉の彼方へ──折口信夫のあたゐずむから」、『三田文學』153号、2023年参照。
★3 折口信夫「言語情調論」『折口信夫全集』中央公論社、29巻、1968年、514頁。
★4 絓秀実『日本近代文学の〈誕生〉』、太田出版、1995年、24-25頁。「旧来の宗教的秩序を意味し、それ自体が古典的な「詩」の温床であったところの、「運命」という時間表象が解体され、世俗的・散文的な「連続」性へと時間概念が転換されること、それは、個々の存在が「偶然」的なものとして表象されることも意味しているが、同時に、その世俗的時間意識のなかに、何らかの超越的かつ詩的な「有意味」な契機が導入されなければならないことも意味している。」
★5 オレンジ革命は、2004年レオニード・クチマ大統領の任期満了に伴う大統領選挙の結果に対して、野党のヴィクトル・ユシチェンコ陣営が不正を行ったとして反発し、それに呼応した抗議運動を総称した政変。
★6 マイダン革命は、2014年に親欧米派のユーロマイダンの抗議運動により親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が失脚した政変。親露派とされていたヤヌコーヴィチ大統領がEUとの協力策を盛り込んだ連合協定の締結を目指したところ、ロシアからの強い圧力を受け、協定の署名を取りやめたことを発端とする。これに反発して反政府集会やデモが起こり、治安部隊の発砲で多数の死者を出す大規模衝突に発展した。
★7 シェフチェンコ『シェフチェンコ詩集』藤井悦子編訳、岩波文庫、2022年、7頁。
 
参考文献
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石橋直樹

民俗学・近世思想史・文学。2001年生、神奈川県出身。論考「ザシキワラシ考」で、2020年度佐々木喜善賞奨励賞を受賞し、民俗学を中心に執筆活動をはじめる(論考はその後『現代思想』「総特集=遠野物語を読む」に掲載)。論考「〈残存〉の彼方へー折口信夫の「あたゐずむ」から」で、第29回三田文學新人賞評論部門を受賞。論考「看取され逃れ去る「神代」」(『現代思想』「総特集=平田篤胤」)の発表以降、平田篤胤を中心とした国学思想・儀礼を専門に研究を進める。編著『批評の歩き方』等々に寄稿。
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