ウクライナ・ハルキウ渡航記──失われつつある書物と現れつつある言語(後篇)|石橋直樹

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webゲンロン 2025年2月21日配信
後篇

言語と民族の解き難い軛

 言語というものに民族の本質をみる考え方は、一つの大きな伝統をなしてきた。ウクライナにおいても19世紀はまさにウクライナ語という言語を旗印として、文化運動が政治闘争へと展開したが、これは言語と民族に密接なつながりをみる考え方抜きにしてはありえない。

 本章では、言語と民族がどのような関係を取り結んできたかという点について概観し、ソヴィエト時代を超えて言語の問題がほとんど無傷のまま残存している点において言語思想をみていきたい。歴史学者の中井和夫はウクライナ語の普及がウクライナ・ナショナリズムの重要な争点として存在しており、ロシア語との関係のなかで度々政治的な駆け引き、もしくは闘争が惹起された経緯を説明している★1。そうした状況のなか、言語と民族における思想的結びつきについて、遡る必要がある。

言語と言語学の政治化としての《諸国民の春》

 言語と民族の関係において、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt, 1767-1835)の言語観の及ぼした影響はまことに大なるものがあって、ウクライナ語創立は言語とそれを話す民族に神秘的なつながりをみる言語学のパラダイムを抜きにしては考えられないだろう。フンボルトにとって言語の決定的な活動は、思考を可能にする点にある。そして、それと同時に必要な思考のために言語は新たに覚醒されなければならないという言語と思考の相互依存性が説かれる。しかし具体的な諸言語(die Sprache)はその帰属する諸民族に規定されるものであり、人間存在はそれぞれの言語=思考固有に把握される世界観(Weltansicht)から脱却することはできない。したがって、言語は必要な思考へと世界観を拡張させるものとしての民族精神(Volksgeist)と結びつくのであり、かかる前提に立って、フンボルト言語学は逆説的に民族の存在定立そのものが言語にあるというパラダイムを導くことになるのである★2

 1848年の《諸国民の春》と呼ばれる一連の革命によって、民族という理念が強力な力を持ちはじめる。そして、この曖昧な理念を定義するために、言語という問題が民族を統合する旗印として持ち出されていくのである。それまでは名状されようがなかった共同体が、固有の母語=俗語を話す言語共同体(Sprachgemeinchaft)として政治的に重要な意義を持ちはじめたのである。

 1848年の衝撃は、フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)の混乱した民族評価に端的に現れているといえよう。オーストリアの首都ウィーンで三月革命が勃発すると、多民族国家オーストリア帝国の支配を受けていた民族が独立を求めて運動を展開する。たとえば3月にはチェコ人がプラハで結集し、市民的自由やチェコ語とドイツ語の平等などを要求するプラハ蜂起が起こり、民族が具体的な政治的観念として重要な意義を持ちはじめた。当初その蜂起を「革命的闘争」と称していたエンゲルスも、進展する民族闘争が反動的性格を有していることをみてとると有名な「歴史なき民族」理論を提唱するようになる。

 エンゲルスはフランスやイギリスのような「すでに国民国家を形成した民族」、イタリアやドイツのような「国民国家を形成し得る民族」、そしてチェコ人やスロヴァキア人などの「国民国家を形成することのできない民族」の三つに分類し、民族自決権を前者二つのみに認めた。「国民国家を形成することのできない民族」はヘーゲル的な史的弁証法を展開することのできない「歴史なき民族」とされ、その民族自決権自体が阻却されてしまうのである。それはエンゲルスが、民族の本質を言語に置くような新しい運動に対して、自らの体系のなかに位置付けを見出すことができなかったことを意味するだろう。

 言語共同体=民族というどのようにしてもそのまま残ってしまう問題は結局、「運命共同体」として本質主義的に民族を捉えるオットー・バウアー(Otto Bauer, 1881-1938)と民族の本質を言語と捉えるカール・カウツキー(Karl Kautsky, 1854-1938)の論争へと雪崩れ込み★3、その後、後述のレーニン主義において「包摂」されることとなる。すなわち、ブルジョア市民革命=民族自立を成立させた後、プロレタリア革命を遂行するとする「二段階革命論」においてである。

 

 そもそも、この言語共同体の成立は、成立そのものから極めて不可能なアボリアを背負っていた。たとえば、ナショナリズムに関するベネディクト・アンダーソンの指摘をみると、単一《言語》という神話こそが民族意識の核になるということに賭けられており、「俗語」が〈偶然の帰結〉★4によって「国語」化したことでアイデンティティの平準化された主体を形成する契機となったことが強調されている★5

 しかし、アンダーソンが〈偶然の帰結〉と呼び、必然的なものとは絶対にしない「俗語」と「国語」との等号は、以後のナショナリストたちへの重大な課題として残った。すなわち、ダンテの「俗語論」(De vulgari eloquentia)などに端を発するラテン語批判としての「俗語」、伝統と超越性から解放するはずの生きた言語=「母語」が、民族という超越理念を担保するものとしての「国民語」へと引き上げられなければならなかったという難問である。象徴主義者やフォルマリストたちの言語学に託した政治的意図は、このアボリアをどう乗り越えるかということに賭けられているということができるだろう。それゆえに、それが内的であれ外的であれ、詩的情緒という問題が言語に内在する超越性として持ち出されていく。

 フンボルトは晩年の著作『カーウィ語研究序説』において、「内的な言語形式」という言葉で言語内部の思考や理念の存在を示唆するが★6、こうした枠組みはポテブニャおよびハルキウ言語学派においては詩的情緒の問題として発露する。先に述べたポテブニャが強調する言語の内的形式とは、現に話されている方言=母語の内になんらかの超越性を発見する試みの一つであったということができるだろう。民族の核としての母語が、国民語へと羽化するというある種の人工性にこそ、このウクライナ語という問題はみられなければならない。

ポテブニャ言語学からロシア・フォルマリズムへ

 ポテブニャ以後の言語学について、重要な論点を様々取り落としながらも仮にスケッチを試みるならば、ロシア・フォルマリズムへと結実する一連の流れが挙げられるだろう。21歳のヴィクトル・シクロフスキイ(Виктор Шкловский, 1893-1984)が『言葉の復活』(1914年)で次のように述べることからはじまるロシア・フォルマリズムは、新しい形式が新しい言語世界=世界そのものを将来するというテーゼであり、詩的言語の惰性態としての日常言語から断絶した新しい言語が創造されることが目指されるものであった。

人類最古の詩的営為は言葉の創造であった。今日、言葉は死に絶え、言語はあたかも墓場と化している。だが、かつて誕生したばかりの言葉は生気に溢れ、イメージに満ちていた。それぞれの言葉が、元来、譬喩トロープなのである。★7

 このシクロフスキイの立場はよく知られるものだが、しかし強調しておかなければならないのは、これがまさに19世紀の母語→国民語のパラダイムからいささかも断絶した問題ではないということである。すなわち、言語の超越性をどこに置くかという難問に対する20世紀的な応答であったといわなければならない。母語がそのまま超越性を有するということに賭けられたイメージ論と、日常言語と詩的言語を区別することで超越性を日常から弾き出すフォルマリズム論の差異は、シクロフスキイが取るポテブニャへの徹底した批判をみればわかるだろう。

ポテブニャの結論は〈詩=イメージ表現〉という具合に定式化できるが、つまり、様々に変わる主語に対する一定不変の述語となりうるとする一大理論を生み落としたのである(彼の結論は、思想的に近い立場にあるがゆえに、アンドレイ・ベールイ、メレジコフスキイおよびその「永遠の伴侶たち」、すなわち象徴派をすっかり魅了し、今や象徴主義の理論的基盤となっている)。こうした結論が導き出された理由のひとつに、ポテブニャが詩の言語と散文の言語を区別しなかったことが挙げられる。このため彼は、イメージには二つの種類があること、つまり、思考のための実用的手段、つまり諸々の対象=事物を結合・分類するための手段としてのイメージと、そして、印象を強めるための手段としての詩的イメージの二種類が存在するということに気がつかなかったのである。★8

 ポテブニャを槍玉に挙げる初期フォルマリストたちは、イメージの強弱を問題とする詩的言語論のせいで、究極的には詩と散文を区別できないこと、すなわち散文として作られた文章が詩となることがあり、その逆もありうるという事態を問題とし、詩的言語を構造的な形式において峻別することを目指した。イメージによる「思考」を考えるポテブニャに対して、シクロフスキイはイメージなき詩が詩でありうる理由を問い、その結果、形式が内容の容器となる詩的言語観から脱却する形で〈異化オストラネーニエ〉を提起することになる★9
 

 フォルマリズム言語学がキュビズム絵画運動などに影響を受けて、外部世界をいかに描くかではなく、いかに構成するかという内的論理を探究した未来主義者たちの実験に呼応するものであったことは夙に指摘されるものである。未来主義者たちの言語的営みは、「ザーウミ」という超意味言語として結実し、ロシア語として類推することが不可能な言葉としての「詩」が発見されていく。記号そのものの物質化ともいうべき新しい言語創造の時代が、社会主義理念と呼応しながらこの時期におとづれているのである。

 

 ここで整理しておきたいのは、ポテブニャもシクロフスキイも母語=日常言語からどのように特権性を獲得するかという問いのもとに言語論を展開した点である。前者はそれを内的形式というイメージの問題に還元し、後者は〈異化〉という言語形式そのものの物質性を問題にした。したがって、言語創造という方向に道筋をつなげていくフォルマリストたちの試みは、ポテブニャと象徴主義から未来主義を経て、詩と散文の間隙を未来=未だ存在していない地点に投げ込むことであったとも言い換えることができる。

 ちなみに、23歳の折口信夫が『言語情調論』を提出したのは、奇しくも、シクロフスキイが『言葉の復活』を発表する4年前、1910年のことである。折口の『言語情調論』が志向したところの詩的言語とは、情調=気分が言語の間接性を貫通するような無意義的言語のことを指している。よりわかりやすく言い換えるならば、シクロフスキイ的な〈異化〉のように意味の断絶した言葉において、むしろ意味が断絶しているからこそポテブニャ的なイメージが聞き手に力強く迫ってくるような言語を考えていた。折口は、外的形式がそのまま内的形式になるような瞬間をみているのである。

 しかし内的形式=外的形式というようなある種神学的な地点へは、ロシアの言語学が進んでいくことはなかった。ロシア革命の時代とともに、マルクス主義との和解を模索する方向へと進んでいく。しかし言語と民族の難問は、再び「革命」における難問としてソヴィエト政権に襲いかかるのである。

ソ連初期の民族政策とスターリン言語学

 1920年代のトロツキーによるフォルマリズム批判が先鞭をつけたあと、1930年になるとスターリンの党内闘争における勝利が決定的となり、芸術が全体主義のもとに再編成されていく過程のなかで、こうした言語芸術運動は厳しく弾圧されていくことになる★10。しかし、1925年の演説「母語による教育」においてスターリンが提示する、「内容においてはプロレタリア的な、形式においては民族的な」というスローガン自体をみるならば、超越性をめぐる言語思想の連続性が示唆されているようにすら思われるのである。

 母語と国民語の矛盾は、そのまま1930年代を席巻することとなるニコライ・マルの言語学とスターリン言語学による批判へと雪崩れ込む。国民主義が創造したところの主体、それは世界革命をも導くはずの革命主体となるべきものだったが、しかしその成立与件としてあった詩的超越性と革命の問題がどのように関係を取り結ぶかという点に争点が持ち込まれたということができるだろうか。スターリン政権下の1930年代ウクライナ民族政策が大量の餓死者を出すものであったことは、そのまま民族と「上からの革命」としての工業化・農業集団化との二つの軸が、極めて過激な政治闘争として顕在化したことが指摘されている★11

 そもそもレーニンは、プロレタリア革命で統合される世界を目標とし、最初の段階では民族という単位が残ることを仕方がないと考え、世界革命へと展開していく過程において民族自決を容認する立場をとっていた。この立場を受けた土着化コレニザーツィアは、1923年にスターリンが旗振り役となって推進され、ソ連中央政府は民族主義に配慮して諸民族の言語・文化を育成する流れを生む。けれども1930年代のスターリンのウクライナ政策を考えるならば、富農と結びついて革命に敵対する旧世代のブルジョワ民族主義を排除し、革命を支持する新世代のプロレタリア知識人を登用することで土着化を加速させるという、二つの軸を無理やり採用するような声明のもとに弾圧政策が進展するのである★12

 

 持ち出された民族と革命という二つの軸に、ソヴィエト言語学はどのように対応したのだろうか。ニコライ・マルの言語学において、言語は上部構造として規定され、下部構造の変化を反映する一種のイデオロギー的構築物であると解釈された。その上で言語の多元的起源をとる印欧語比較言語学を否定して、諸言語の多様さを言語の発展段階と位置付けるマルクス主義的進歩史観を提示した。

 こうしたマルの言語理論に対して、スターリンは1950年の論文「マルクス主義と言語学の諸問題」で失効を宣言する。この論文では、言語の一元性を否定して諸言語の多元性を認め、母語と国民語の間隙を未来へと弾き出すという方策を示すことで、マル言語学への批判がなされている。

ここでわれわれが当面するのは、闘争の結果一方が敗北をこうむり他方が勝ちのこるような二つの言語ではなく、何百という民族語のことであって、それらの民族語のなかから、永続的な諸民族の経済的・政治的・文化的協力の結果として、まずもっとも豊富になった単一の地帯的言語がいくつかできて、つぎにそれらの地帯的言語が一つの国際語へと融合するであろう。★13

 スターリンは、民族と母語という問題を論じる際に、「内容においてはプロレタリア的な、形式においては民族的な」として民族を外的形式、革命を内容に置き換える。しかしそれでも矛盾するような母語が国民語足り得ないという問題、どうしても埋めえぬ民族語と革命語の間隙を、言語創造における未来的な時間軸、すなわち革命の成功した極限的未来に置いた。言語と民族に本質的な繋がりを見出してしまう幽霊のような難問に、スターリンは言語学という枠組みにおいて解法を提示したものであれども、結局のところ言語学によって民族問題を宙吊りにしたにすぎなかったということができる。そしてこのことによって、なおも現行の民族の問題に関してはほとんど手付かずのまま温存されているとさえいえるのである。

 

 わたしの2024年のウクライナ訪問を皮切りに、ここまで駆け足で民族と言語の問題をみてきたが、ソヴィエト政権を通過してなお、民族の核という問題はむしろ一層解き難い軛として残った。重要なことは19世紀的な民族問題はソヴィエト政権を通過して一層複雑な難問として温存され、ソヴィエト崩壊以後その本来の力を現しはじめたことである。解くことができない言語と民族の難問は、19世紀から様相を異なるものとしても依然そのままに残っている。問題はもっぱら言語にあり、それは民族という不可能の問いの発露である。今起こっているのは、まさに言語をめぐる戦争なのだ。

おわりに

 このようなわたしのウクライナに対する認識は、もしかしたらあのウクライナという大地の空気を吸ったことによって、ウクライナの人々の感情や思想から自らも気付かぬほどに強く影響を受けてしまっている可能性は拭いきれない。自らのウクライナに対する認識自体を、問うていくことがこれから必要になるだろう。それほどまでに、ウクライナでの体験はあの印象、あの色を失うことはない。

【写真1】軍事境界線付近にある団地。雪が激しく降り注ぐなか、人の姿はみられない。撮影=筆者

 記憶から消えない情景がある。時刻はすでに15時を回っていたが、昼頃から激しく降り出した雪は太陽を覆いかくし、街並みは白く染まりながらすでに夜のような静けさを宿し出していた。空襲警報が鳴っていたのを覚えている。ひび割れた道路に降り積もりつつある雪の上を、人々がうつむきながらゆっくりと歩き去ってゆくのをみた。ハルキウの街は薄暗かった。

やがて道沿いから人が消え、直線に刻まれた道路の先までが白く覆われながらもぼんやりと見通せるようになった頃、わたしは道路沿いの家々が決定的な瞬間からそのままになっていることを見出した。石造りの塀はところどころ崩れ、斜めに倒れかけた金属製のゲートは落ちてくる雪を受けていた。崩れた無数の煉瓦が道路に倒れ伏し小さな山を作っていたが、雪がその上に降り積もって、それが元々何色であったのか知ることはできなかった。塀には、小さく空いた無数の穴、そこであっただろうかつての瞬間の痕跡が、消されることなく残っていた。塀が囲っていたところの一軒家群は、そのほとんどが屋根を失い、おそらく応急的に覆っていたビニールのシートは爛れて垂れ下がっていた。

その雪の降り積もる景色を、未だに忘れることはない。

【写真2】軍事境界線付近にある塀。銃弾の跡がそのまま残っている。撮影=筆者

【写真3】軍事境界線付近にある建物。倒壊したまま放棄されている。撮影=筆者

 結局のところ、この渡航を経て、わたしはポテブニャの書籍を持ち帰ることはできなかったが、言語の問題に触れて一冊の書物以上の経験を得た。現地の生きた空気を吸い、ウクライナの言語の歴史、ウクライナそのものの存立の歴史が一つにつながっていくものをみた。そして、その19世紀的な思想が強い力を温存しながら、現実の大地に穴をあけるような諸力が発揮されていく姿、言語の戦争をみたのである。言語という問題が導いたウクライナという国家、戦争を契機としたウクライナ語への過激ともいえる移行は、国家の存立を言語に賭けたひとつの究極的国家を次の局面へと移していくことだろう。言語の閾に弾かれながらも、その閾の内から目撃した者として、わたしにはそれを書き記す責があるといわなければならない。

【写真4】軍事境界線付近、住民の避難した区域にたたずむマリア像。人の姿など見えなかったが、生きた花が供えられている。撮影=筆者

 


★1 中井和夫「ウクライナ語をめぐる運動」、『ウクライナ・ナショナリズム』、東京大学出版会、1988年、89-103頁ほか。
★2 梶嘉一郎「ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの言語哲学──言語の起源と本質」、同志社大学外国文学会編『同志社外国文学研究』、1972年、36-61頁。
★3 相田慎一『言語としての民族』、御茶の水書房、2002年。
★4 ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』書籍工房早山、白石隆ほか訳、2007年、81-82頁。「いずれの場合にも、言語の『選択』は、いきあたりばったりとは言わないまでも、ゆっくりとした、無自覚的な、実用を旨とした発展だった」。
★5 牲川波都季「『想像の共同体』試論──ナショナリズムにおける言語の役割に着目して」、『言語文化教育研究』第3巻、2005年、237-249頁。
★6 遠藤龍二「フンボルトの「内的な言語形式」について」『図書館情報メディア研究』第3巻1号、2005年、1-17頁。
★7 シクロフスキイ「言葉の復活」、桑野隆ほか編『ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム』、国書刊行会、1988年、13頁。
★8 シクロフスキイ「手法としての芸術」、同書、22頁。
★9 桑野隆『言語学のアヴァンギャルド』、水声社、2020年、129-130頁。
★10 水野忠夫『ロシア・アヴァンギャルド』ちくま学芸文庫、2023年、302-303頁。
★11 テリー・マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国──ソ連の民族とナショナリズム、1923年〜1939年』半谷史郎監修、明石書店、2011年。
★12 池田嘉郎「ソ連時代のウクライナ」、黛秋津編『講義 ウクライナの歴史』、山川出版社、223-242頁。
★13 スターリン「マルクス主義と言語学の諸問題」、田中克彦『「スターリン言語学」精読』、岩波書店、2000年、243-244頁。
 
参考文献
Ростислав Семків《Пригоди української літератури (від романтизму до постмодернізму)》Темпора,2023.
Микола Зеров《Українське письменство XIX сторіччя》Фоліо,2023.
Микола Зеров《Українське письменство ХХ сторіччя. Від Куліша до Винниченка》Фоліо,2023.
Александр Афанасьевич Потебня〈Мысль и язык〉《Слово и миф》М., Издательство «Правда», 1989.
 
相田慎一『言語としての民族』、御茶の水書房、2002年。
東浩紀『ウクライナと新しい戦時下』、ゲンロン、2024年。
池田嘉郎「ソ連時代のウクライナ」、黛秋津編『講義 ウクライナの歴史』、山川出版社。
遠藤龍二「フンボルトの「内的な言語形式」について」、『図書館情報メディア研究』第3巻1号、2005年。
貝澤哉「詩的言語における身体の問題──ロシア・フォルマリズムの詩学をめぐって」、『スラヴ研究』58号、2011年。
梶嘉一郎「ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの言語哲学──言語の起源と本質」『同志社外国文学研究』同志社大学外国文学会編、1972年。
黒川裕次『物語 ウクライナの歴史』、中公新書、2002年。
桑野隆ほか編『ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム』、国書刊行会、1988年。
桑野隆『20世紀ロシア思想史──宗教・革命・言語』岩波現代全書、2017年。
桑野隆『言語学のアヴァンギャルド』水声社、2020年。
斉藤毅「形象と「異なるもの」──1910-20 年代ロシア詩学史より(ポテブニャー、シクロフスキイ、マンデリシタームその他)」『スラヴ研究』66号、2019年。
シェフチェンコ『シェフチェンコ詩集』藤井悦子編訳、岩波文庫、2022年。
絓秀実『日本近代文学の〈誕生〉』、太田出版、1995年。
田中克彦『「スターリン言語学」精読』、岩波書店、2000年。
田中克彦『言語の思想』、岩波書店、2003年。
テリー・マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国──ソ連の民族とナショナリズム、1923年〜1939年』、明石書店、2011年。
ドストエフスキー『悪霊(上)』江川卓訳、新潮文庫、1971年。
中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム』、東京大学出版会、1988年。
中澤英彦『ニューエクスプレス ウクライナ語』、白水社、2019年。
牲川波都季「『想像の共同体』試論──ナショナリズムにおける言語の役割に着目して」、『言語文化教育研究』第3巻、2005年。
バーリン『ロシア・インテリゲンツィアの誕生 他五篇』桑野隆編、岩波文庫、2022年。
ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』白石隆ほか訳、書籍工房早山、2007年。
ボリス・グロイス『全体芸術様式スターリン』亀山郁夫ほか訳、現代思潮社、2000年。
水野忠夫『ロシア・アヴァンギャルド』ちくま学芸文庫、2023年。
ミルカ・イヴィッチ『言語学の流れ』早田輝洋・井上史雄訳、みすず書房、1974年。
ユルゲン・トラバント『フンボルトの言語思想』村井則夫訳、平凡社、2001年。
芳之内雄二「ウクライナの現代言語状況と言語問題」、『北九州市立大学文学部紀要』74巻、2008年。

石橋直樹

民俗学・近世思想史・文学。2001年生、神奈川県出身。論考「ザシキワラシ考」で、2020年度佐々木喜善賞奨励賞を受賞し、民俗学を中心に執筆活動をはじめる(論考はその後『現代思想』「総特集=遠野物語を読む」に掲載)。論考「〈残存〉の彼方へー折口信夫の「あたゐずむ」から」で、第29回三田文學新人賞評論部門を受賞。論考「看取され逃れ去る「神代」」(『現代思想』「総特集=平田篤胤」)の発表以降、平田篤胤を中心とした国学思想・儀礼を専門に研究を進める。編著『批評の歩き方』等々に寄稿。
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