友の会から(4) 福岡からはアジアが見える──ゼロベース、石橋秀仁さんインタビュー

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webゲンロン 2024年11月1日配信
 ゲンロンの活動は支援組織「ゲンロン友の会」のみなさまによって支えられています。「友の会から」は、会員の方が普段どのような活動やお仕事をされているのかを紹介するインタビュー企画です。
 第4回は、株式会社ゼロベース創業者で情報アーキテクトの石橋秀仁さんにお話を伺いました。2004年に東京でIT系スタートアップ企業ゼロベースを立ち上げた石橋さんですが、2021年に福岡にUターン、翌年ゼロベースのオフィスも移転します。地元へと戻ることを決めた理由、起業家にとっての思想の重要性、そして経営とゲンロン/シラスの関係まで率直にお話いただきました。石橋さんはなんと第1期からの友の会会員。そんな「古参」へのインタビューをお楽しみください。(編集部)

第1期からゲンロンを見て

──いつから友の会の会員なのかお聞かせください。

 

石橋秀仁 聞かれると思って自分の会員証を調べてみました(笑)。第1期の会員証がこれですね[画像]。会員証はコンプリートしているのですが、1期から3期までの会員証は共通で、スタンプ制だったみたいです。2期と3期のスタンプがないので、そこは抜けていたらしい。それ以外はずっと継続しています。カフェのイベントで東さんが出ているのはぜんぶ見ているし、全体でもある時期までは95%くらい見ていました。会員番号は336番です。

──それはすごい!

 

石橋 ちなみにぼくはmixiのIDも2桁でした(笑)。たまたま創業者の笠原健治さんが友人の友人だっただけなのですが、当時は番号だけでなぜか尊敬されました。

 

──ゲンロン(コンテクチュアズ)を知ったきっかけはなんですか。

 

石橋 創業前から東さんの名前は知っていて、そのきっかけは本屋でNHK出版の『思想地図』のアーキテクチャ特集を見つけたことです。

 

──もともと人文書がお好きだったのでしょうか。

 

石橋 いや、ほとんど読んでいませんでした。読みはじめたのは「ゼロベース戦記」的状況のためです。2008年に社員の半分が退職した。いまなら組織に問題があったのだとわかるのですが、当時は相当悩みました。スタートアップでは一般的に「社長のワンマンで売り上げ2億の会社が、壁を越えれば10億の会社になる」と言われる。ふつうならマネジメントをしっかりして立てなおす局面です。けれどいろんなひとに相談した結果、ぼくはべつにふつうの会社をやりたいわけじゃないと思った。それでちがうやり方を考えようとしたのが、人文書を読みはじめたきっかけでした。

 当時は池田信夫さんがブログでブイブイ言わせた時期だったので、彼の『ハイエク』を読んでとても影響を受け、そこから社会学や哲学へと幅を広げていきました。ほとんど本業をストップして、学生みたいに本を読みまくった。しかも金はあるから学生より読める。Amazonで関連書をすべて買う勢いでした。

 

──創業は何年だったのでしょう。

 

石橋 2004年です。ぼく個人が働きはじめたのは2000年で、いわゆる第1次ネットバブルが崩壊し、冬の時代が始まった直後でした。当時はスタートアップ企業にいたので、資金繰りの諸々、リストラ、引っ越し、コストカットなど、ジリ貧な風景を目の当たりにしました。それで2003年に独立し、2004年9月にゼロベースという屋号で法人化しました。

 2004年は堀江貴文さんが頭角を現しだした時期で、ウェブへの期待がふたたび高まっていましたね。2006年に梅田望夫『WEB進化論』がWeb2.0ブームを起こしますが、この言葉ができたのも2004年です。日本だとmixiやGREE、グローバルにはOrkut、Facebookといったインタラクティヴなツールが登場したのもこの年だし、GmailやGoogleマップが出てきたのも同年から2005年にかけてですね。Ajax(エージャックス)という言葉ができた年でもあります。

 とはいえまだふつうの企業がウェブに投資する時代ではなく、ゼロベースの当時のクライアントは多くが大手IT企業でした。ちなみにシラスを作ったグルコースさんとは2005年ぐらいに一緒にお仕事をしたことがあります。

 

──ええ!

 

石橋 当時IT業界はすごくスモールサークルで、アメリカでは「PayPalマフィア」という言葉がありますが、日本でも「ネットエイジマフィア」と呼ばれるコミュニティがありました。西川潔さんという伝説の社長が渋谷に「ビット・バレー」というIT企業のコミュニティをつくり、企業の垣根を越えてみんなで盛り上げていこうという雰囲気があったんです。

 

──ゲンロンには初期からいままで、一貫してIT系の会員が多いです。

 

石橋 ゼロ年代からITを論じていた思想系の論客といえば東さんでした。思想に関心のあるwebの人間は引き寄せられるでしょうね。

 

──ゼロベースさんは『ゲンロン』の広告に「思想を実装する」というモットーを掲げられています。いまのお話と関係するのでしょうか。

 

石橋 その言葉を最初に掲げたのは2014年頃です。当時のIT系起業家へのアンチテーゼですね。彼らは社会のインフラを作る仕事を手がけておきながら「よいシステムとはなにか」をまったく考えていない。ITをライフワークだと思っているひとすらほとんどいません。むしろ「株式会社はビークルだ」という言い方がよくされます。要は上場という「イグジット」にたどり着くための乗り物にすぎない、と。彼らにとって会社はマネーゲームのための器でしかないんです。

 ぼくはこれまでもこれからも、ITをライフワークとしてやっていくつもりです。そういうひとがこの業界には少なすぎる。だからこそ「思想を実装する」をモットーにしたんです。

 

──ゲンロンのまわりは思想のあるIT系の方ばかりなので、意外でした。

 

石橋 それは選択バイアスの極みですよ!(笑)

 

経営は情報アーキテクチャだ

──石橋さんご自身は「情報アーキテクト」という肩書です。これはどのようなお仕事なのでしょう。

 

石橋 簡単に言うと情報デザインに近いものです。建築家がマクロな都市環境を前提に個々の建物を設計するように、情報アーキテクトは情報環境全体からサイトやアプリを考えるわけです。

 最近、松岡正剛さんが亡くなりましたが、彼の盟友のリチャード・ソール・ワーマンが情報アーキテクチャの創始者だと言われています。代表作『それは「情報」ではない』では、職場での指示のようなさまざまなコミュニケーションを例に、どう情報を設計して伝達すれば効率がいいかを発信しています。彼はモダニズムの巨匠ルイス・カーンのもとで建築を学び、「情報の建築家」というテーマをぶち上げました。マクルーハンなどが流行った時代なので、情報環境も都市環境と同じくデザインされなければならない、と。たぶん建築業界にはぜんぜん響かなかったと思います(笑)。

 ちなみにワーマンはTEDを立ち上げたひとでもあります。いまの短いプレゼン形式ではなく、好奇心旺盛なワーマンが長時間ひたすら話を聞く、ゲンロンカフェみたいなことをやっていました。

 ワーマンの登場はインターネット普及以前でしたが、90年代後半にはピーター・モーヴィル、ルイス・ローゼンフェルドの2人組が『Web情報アーキテクチャ』という本を書く。彼ら第2世代のバックグラウンドは図書館情報学でした。さらにスマートフォンの登場によって、ホルヘ・アランゴというひとが『Web情報アーキテクチャ』の3人目の著者として、2016年発行の第4版から携わります。彼も建築畑のひとなので、ある意味では先祖返りをしている。そうやって情報デザインと建築と図書館情報学がいっしょになったのが、情報アーキテクチャと呼ばれる分野です。

 

──ワーマンの本に職場での情報伝達の話があるのは興味深いです。情報アーキテクチャは経営にも関係するのですね。

 

石橋 とはいえワーマンはルイス・カーンに学んでいることもあり、世代的にもモダニストです。上から「人々を導く」感じが強い。ゼロベースは逆に、全員がセルフ・マネジメントで動くようになっています。

 

──社内で仕事を受注・発注するシステムがあるそうですね。

 

石橋 セルフマネジメント・テクノロジー「Za」といいます★1。社員間の仕事の依頼を「取引」と捉えるシステムです。ハイエクの影響で、自律分散的な組織設計をしているわけです。

 

──石橋さんにとって経営は思想と切り離せないんですね。

 

石橋 企業もまたアーキテクチャです。あるルールを決めて資源を投入して、プラットフォーム上のひとたちが資源を活用できるように場づくりをするわけです。だから東さんの「運営の思想」には共感します。『ゲンロン戦記』を読んだときは「スタートアップあるある」が書いてあると思いました(笑)。

 

──石橋さんから見て、企業としてのゲンロンの特徴はどこにあるのでしょう。

 

石橋 やはり2013年からトーク配信をしている先見の明ですね。ぼく自身、雑誌の座談会はあまり読まないけれど、動画だったら見てしまう。しかもそれがちゃんと記憶に残って、なにかのときに役に立つ。これはほかでは替えがききません。

 そういえば、ゲンロンカフェの黎明期にお声掛けいただき、当時の店長Tさんと商談をしたことがあるんですよ。ゲンロンが配信を始めた直後で、ぼくが「動画はこれから絶対に来るから、うちでマーケティングの企画運用をやりますよ!」と提案をしたけど、「そんなわけないだろう」と一蹴された(笑)。

 

──店長、完全に外しているじゃないですか!

 

石橋 「俺が正しかったでしょ」といまでも思ってます(笑)。でも、当時はむしろTさんの見方のほうが主流で、ぼくはたまたま自分がヘビーユーザーだったからいけると思った。シラスができたときも、満を持して出てきたなと感じましたね。それこそゼロベースもチャンネルを持てたらとぼんやり考えています。

 そもそも、人文系出版社が動画配信をやるなんて意味不明じゃないですか(笑)。しかも奇をてらっているわけではなく、経済的合理性があり、かつ人文知を残していくという思想的な必然性がある。ゲンロンの出版とイベントと動画を組み合わせたマネタイズは、ものすごくかっこいいと思います。

 

20周年を機に法人会員に

──ゼロベースさんには最近友の会の法人会員にご加入いただきました。

 

石橋 法人会員への加入はブランディングの一環です。ゼロベースは今年創業20周年で、「第3創業」というべき大きな節目と位置づけています。ゲンロンのサイトやカフェに企業ロゴを掲げることは、ブランドにとって大きな意味がある。これからは個人としてだけでなく、ゼロベースとしてもゲンロンをサポートできたらと思い、社内でもぜひ活用してくれと言っています。

 20周年にあたっては、新しい事業も行おうと思っています。これまでは開発受託がメインでしたが、あらたに自社製品を来年リリースする予定です。その意味では、これまでのプラットフォーム作りにくわえて、リーダーとして新しいチャレンジをしています。

 

──どのような商品かうかがえますか。

 

石橋 「Za」を他社が導入できるようにするものです。ゼロベースのやり方をだれもができるようにする「メタゼロベース」のようなイメージです。ゲンロンが「メタゲンロンカフェ」としてシラスをリリースしたことにも似ています。

 これからのゼロベースのブランドイメージとして、“deal with systems”という言葉を掲げています。社内取引は文字通り deal ですし、ビッグテックや資本主義やグローバリズムのようなシステムと、いかにうまく付き合っていくかという意味も込めています。

 

──“deal with systems” は昨年創刊されたゼロベースの機関誌『ゼロベース』の表紙にもありますね。第0号では「クラフトとシステムの衝突 三百年史」と題してコンピュータの歴史を描かれている。

 

石橋 機関誌創刊も20周年事業です。いまはまだ創刊号ですが、これからいろんなイシューを展開していくつもりです。次号では「働き方」を特集しようとしていて、そのために文化人類学や民俗学の本を読んでいます。

 具体的には、日本なら江戸以前、ヨーロッパならギルドのような働き方を参照項に、近代的な労働を脱構築できないかと考えています。とくに日本はヨーロッパから来た産業革命の波に飲み込まれて、無理やり近代化しましたよね。それでも西洋式の「ジョブ型」雇用になりきったわけではなく、「メンバーシップ型」と言われる独自の雇用形態になりました。そこに日本の古層のようなものが残っていると思います。

 ぼくは「Za」を、契約にもとづくジョブ型雇用をラディカルに実装したものだと思っていました。でもそれはたぶん間違いで、むしろラディカルなメンバーシップ型なのではないかと思い直しています。たとえば「エンジニアとして入社したけどUIデザインの仕事も受注しているうちにデザイナーになる」という事態は、ポストの決まっているジョブ型雇用だと絶対にできない。一方で日本のメンバーシップ型ならそれができるし、「Za」の社内取引だとほんとうに自然にできてしまう。

 働き方は生き方と密接な関係にあります。システムをうまく取り入れつつ、個人の人間性をどう守っていくか。これからのゼロベースはそのようなことを実践していきたい。ゲンロンには今後もいろいろと学ばせていただきながら、組織として支援していきたいと思っています。

 

──ちなみに『ゼロベース』創刊号はゲンロン非公式総会「ぶんまる」で最初に発売されたんですよね。

 

石橋 そうなんです。とりあえずブース出店を申し込んだけど売るものがない、締め切りを逆算したらもう印刷所入稿まで1ヶ月ない! と、ばたばたで企画が生まれました。

 オフィスから歩いて10分の場所がぶんまるの会場で、ほんとうは運営にも参加したかったんですが、時間的にそれは無理でした。当日は、機関誌を作るのに使った資料を200冊ぐらいオフィスに展示し、東さんや上田さんをはじめ、ぶんまるからのお客さんが何人も来てくれました。うれしかったので、いまでも常設展みたいに一部をずっと残してます。

 

福岡とスタートアップ

──オフィスを福岡に移されたのはなぜでしょう。

 

石橋 やはり故郷に恩返しをしたいからですね。父の転勤の関係で生まれは兵庫ですが、10代を福岡で過ごしたし、両親ともに福岡なので地元意識は強いです。

 じつは福岡市は開業率が全国で1位なんです。高島宗一郎という若い市長──2010年の着任時36歳でした──が、2012年に「スタートアップ都市宣言」を出した。もともと「明星和楽」という、トークセッションあり音楽ありライブペインティングあり、みたいなスタートアップ関連イベントが2011年からあるのですが、それを見た市長が「これからはスタートアップの時代だ!」と(笑)。それで、廃校になった小学校を活用した起業支援施設「Fukuoka Growth Next」(FGN)が2017年にできたりします。そういう流れもあったので、地元で若い起業家の育成ができたらいいな、という思いがありました。

 もうひとつの理由はコロナですね。ワクチン接種が始まったときは東京に住んでいたんですが、どれだけ調べても空き状況すらわからない。ところが福岡はスタートアップと組んで、市内のクリニックを横断検索できるシステムを入れていた。ワクチン接種が高齢者から始まったとき、母に代わって予約をしたのですが、その時点ですんなりと取ることができました。福岡市がたんに施設や資金を提供するだけでなく、スタートアップのサービスを早い段階から取り入れていた成果です。素直に心強いと思いました。

 

──宣言だけでなく実装されていたのですね。

 

石橋 もうひとつ象徴的な出来事がありました。コロナ2年目の夏に、FGNで起業家の交流会があったんです。西村康稔経産大臣が銀行を通じて飲食店に圧力をかけるという腹立たしい事態が起き、東京では酒類提供禁止で飲み屋が閉まっていた時期です。けれどなんとFGNでは、ふつうに立食パーティーをしていたんですよ。要は行政の施設で飲み会をやっている。もう「俺はこっちだわ!」と(笑)。それですぐに不動産屋にいきました。

 最初は二拠点生活するつもりだったんですが、ひょんなことから出会いがあって結婚して子どもができ、おもいのほか早く軸足を移すことになりました。コロナ禍以前からフルリモートだったので、オフィスもぼくがいるところにあればいい。それに、選挙で小池百合子知事の対抗候補に1票入れるよりも、法人税を東京都に納めないようにするほうが重い抗議だろうという意図もありました。

 実際に福岡に移住してから、10年以上付き合いのある若い起業家に出資し、いろいろ手伝ったりもしています。それができているのはすごくうれしいですね。

「地域に根ざす」システムへ

──ゲンロン以外に起業家が注目すべき企業はあるでしょうか。

 

石橋 ぼくはかっこいいスタートアップに関心があります。その観点から、もっとコム・デ・ギャルソンのすばらしさが語られるべきですね。

 

──コム・デ・ギャルソンがスタートアップ……?

 

石橋 そうです。川久保玲は年商400億、グローバルに社員が1000人というビジネスを1代で築き上げ、しかもコングロマリットばかりのアパレル業界のなか、独立資本でやりつづけている。もちろん文化的にもレジェンドで、いわゆる「黒の衝撃」がよく語られますが、NYのメトロポリタン美術館で存命中に回顧展が行われた史上ふたりめのデザイナー──ちなみにひとりめはイヴ・サンローラン──でもあります。たんに儲けている奴は山ほどいるし、たんにクリエーションだけが評価されるデザイナーもいるけれど、それを両立して何十年もトップを走りつづけているひとはほかにいない。

 

──なるほど。

 

石橋 それに、服っておもしろいですよ。このAIの時代に、完全自動でできる工場は世界中ほとんどなくて、いまだに手で縫わないといけない。だから21世紀にもなって搾取の問題が解決しないし、逆にブルネロクチネリのような、クラフトマンシップを売りにしたアルティザンブランドがリスペクトされもする。

 歴史的に見れば産業革命は織物産業から来ているし、アダム・スミスが分業の例に出すのも紡績産業のピンです。織機はコンピュータの起源でもあります。ジャカード織機のパンチカードが、そのままコンピュータのデータ入力に使われたわけですから。

 

──まさに「クラフトとシステムの衝突」ですね。

 

石橋 そう、両者は双子で、ほんとうは融合できるはずなんです。けれど一方が立てれば一方が立たず、人類はこの300年試行錯誤を続けているというのがぼくの歴史観です。

 

──その歴史観の、石橋さん個人としてのルーツはどこにあるのでしょう。

 

石橋 ぼくはものづくりが好きだったことと、パソコンに中学生のときから触れていたことが理由で工業高専に入りました。だからぼくのなかで両者はもともと融合しています。就職して東京に出てきてからICCや美術館でアートに触れて、アーキテクチャやデザインに関心を持ちました。無印良品やプラスマイナスゼロの、深沢直人さんのプロダクトが好きでしたね。

 それに高専ではロボット制御(サイバネティクス)を専攻したので、システム的思考も10代でインストールされました。物事は単純な因果関係ではなく、原因が結果になってそれがまたつぎの原因になるループ構造をしている、というような考えです。

 

──ユク・ホイの『再帰性と偶然性』のような話ですね。

 

石橋 そうだ、それで思い出しました。福岡へのUターンには、ユク・ホイの影響もあるんです。「百年の危機」というwebゲンロンで翻訳された文章がありますよね。あれの原文を、それこそギャルソン出身の友人の勧めで読んで、あまりにおもしろかったから自分で抄訳してブログに掲載したくらいです★2。ユク・ホイはそこで、一元的ではない「情報圏」の構築に触れています。メディアを見ると世界中で同じパンデミックが起きているように錯覚するけれど、現実にはローカルな事情はまったくちがう。ぼくが東京と福岡で目の当たりにしたのもまさにそのギャップでした。それで「こいつすげえ!」と思って彼の文章を読みはじめました。

 彼は西洋哲学という巨大なものに、東洋にルーツを持つ哲学者として挑んでいる。ぼくにとってそれは、アメリカのビッグテックと日本の対比でもあるし、東京と福岡の対比でもあります。コロナ禍にユク・ホイの文章をじっくり読んで、「地域に根ざすこと」のほんとうの大切さが、すとんと腑に落ちたんです。同時に、「俺はいま、東京に根ざしていない」と。

 そのときに、やっぱり福岡だなと思ったんです。福岡でGoogleマップを広げると、東京を中心に見るのとぜんぜんちがう。東京よりも韓国のほうが近いし、東京と台湾が等距離ぐらい。要は、アジアに軸足があるんです。福岡アジア美術館もあるし、古代から博多港はアジアに対する玄関口として機能してきた。そこに位置するということは、自分がアジア人だと自覚することです。現にそうやって、アジアを日々感じながら10代を過ごしたのだから、もういちど福岡に根ざして物事を考えよう。そう思いました。

 

──素敵なお話が聞けました。最後に、今後ゲンロンに期待することを聞かせてください。

 

石橋 「ぶんまる」みたいなローカルコミュニティ活動がもっと活発になるといいですね。単純に楽しいし、公共性もあると思います。いま、いわゆるMICE(Meeting, Incentive travel, Convention, Exhibitionの略。企業や政府が手がけるビジネスイベント)が持つ地方への経済効果が注目されています。非公式総会も100人規模のひとが移動するわけですから、交通費、宿泊費、飲食費、観光費……と考えると侮れない。行政や財団が助成金を出してもいいぐらいです。

 ぼくはずっと会員ですが、じつは総会のようなコミュニティに顔を出すのは遅かったんです。たぶん2018年くらいがはじめてじゃないかな。それまでは配信を見るのがほとんどだったし、カフェのアフターも輪に入れずにすっと帰るみたいな感じで……。コミュニティを実感したのは、上級会員になってFacebookのラウンジに参加したり、総会などリアルイベントに足を運ぶようになってからです。そこで「コミュニティ、楽しいな」と気づいた。

 だから東さんが都道府県を巡る企画も楽しみにしています★3。さっそく、福岡に来てくれと申し込みました。ゲンロンカフェに日本地図があって、ひとつずつピンが立っていく。そういう未来が来たら、すごくいいと思いますね。

 

──お話をうかがい、コミュニティづくりの重要さを再確認しました。本日はどうもありがとうございました。

 

2024年10月15日
Google Meetにて収録
構成・注=編集部


★1 詳細は以下のページを参照。URL= https://www.zerobase.jp/za
★2 石橋による抄訳は以下のページで公開されている。URL= https://zerobase.medium.com/%E8%A8%B1%E7%85%9C-%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AE%E7%99%BE%E5%B9%B4-%E6%8A%84%E8%A8%B3-summary-of-one-hundred-years-of-crisis-by-yuk-hui-aa028094d5a6
全訳はユク・ホイ「百年の危機」(伊勢康平訳)、『webゲンロン』、2020年6月13日公開。URL= https://webgenron.com/articles/article20200613_01
★3 詳細は以下のページを参照。URL= https://webgenron.com/articles/news20241016
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