友の会から(3) 古本がつなぐ日常と生き延び──ほん吉、加勢理枝さんインタビュー
第3回は、世田谷区下北沢にある古本屋「ほん吉」の店主・加勢理枝さん。「サブカルの街」の一角で、「ご飯の炊き方から人生の危機まで」をモットーに豊富な品揃えで愛されつづけてきたこのお店。加勢さんのこれまでの歩みや棚作りのイメージから、ゲンロンとの出会いや人文知への思いまで伺いました。なかには古本屋業界の仕組みが垣間見えるトークも。ぜひお楽しみください。(編集部)
学生時代から修行時代まで
──「ほん吉」は、東京・下北沢にある人文書に強い古本屋さんです。『ゲンロン』に毎号広告を出していただいているので、ご存じの方もいるかと思います。お店を始めたのが2008年ということで、昨年2023年に創業15周年を迎えられました。おめでとうございます。
加勢理枝 ありがとうございます。
──加勢さんは『東京古書組合百年史』という本にもインタビューが掲載されていて、そこでお店を始めた経緯などを語られています[★1]。それによれば、ほん吉を始めるまえから古本屋で働かれていたんですよね。
加勢 はい。吉祥寺の「よみた屋」で働いていました。その時期も入れたら、20年近く同じ仕事をやっていることになります。
よみた屋は店舗が広くて本もぎっしり入っている店で、たいへんでしたが修行になりました。古本屋は本を配架することを「本を撒く」と表現するのですが、毎日台車に山盛り2台分ぐらいの本をひたすら撒きつづけていましたね。いろんなジャンルがあったので、本の中身を見て「この本はあそこの棚だな」というかんじで、撒きながら固有名詞を覚えていきました。また、出張買取にもよくついて行き、毎日とにかく仕事量をこなすことで身体で覚えていきました。
──前出の記事では美術畑のご出身だと話されていましたが、それまではどのようなことをされていたんですか。
加勢 美術大学に行っていたのですが、あまりなじめず、ほとんど行かないまま休学や留年を繰り返し、結局除籍になってしまいました。そのまえの中学生や高校生のときは、ずっと本を読み絵を描いている生徒でした。気が合う友達も少なくて、美大に行けば同じような仲間がいるかなと思ったのですが、そうはいかず……。
──中高時代はどういう本がお好きだったんですか?
加勢 いろいろ読んでいました。いまぱっと浮かんだのは『赤毛のアン』や村上春樹ですね。『赤毛のアン』はじつはかなり長くて、ガチなビルドゥングスロマンなのでおすすめです。あとは新潮文庫で読めるフロイトの『精神分析入門』をわけのわからないまま読んだりもしていました。
──早くからフロイトを読まれていたんですね。
加勢 とにかく悩み多き少女だったので、「なにかヒントになることが書いてないかな」というかんじで(笑)。学校の帰りに本屋さんに寄ることが多くて、本棚の端から端までぜんぶ見ていました。近所にあった書店の文庫棚で、入っている本の表紙や裏表紙の概要やあとがきを見ては返し、一冊を選ぶ。それをほぼ毎日やっていたから、文学史はいつのまにかだいたい頭に入っていました。
──そのころからすでに本屋さんの本との向き合い方というかんじがします。
加勢 そうですかね。そうこうしているうちにだんだん文庫で読むものがなくなってきたので、かつて渋谷にあった大型書店の「大盛堂書店本店」に行って、放送大学のテキストを一生懸命読んだりもしていました。種類がいっぱいあって、どれもしっかりした先生がコンパクトにまとめているので質がいいんですよね。そこで紹介されているものから「じゃあ次はこれを読もう」といろいろたどって読みました。
18歳になってアルバイトをしはじめてからは、「本については現金が許す限り欲望を抑えなくていい」という決まりをつくりました。ほかにはあまり買い物もしないしお金もいらないから、欲しい本はとりあえず買っておこうと。そうすると、古本屋は安いし新刊書店にはあまりない本もあるので、よく通うようになりました。
──放送大学のテキストでとくに興味を持った分野はありましたか?
加勢 やはり悩み多き少女だったので(笑)、心理学や哲学や社会学ですね。「善とはいったいなんなのか」みたいなことを真剣に考えるようなもの。
──それこそほん吉が強い分野ですよね。現在まで一直線につながっている。
加勢 ほんとうにそのとおりで、古本屋に勤めだしたら、それまで勝手にやっていたことがぜんぶ役に立ったんですよ。いろんな書店にお客さんとして通っていたので、本の並べ方や情報の掬い方があるていど自然に入っていました。逆に言えば、古本屋になっていなかったらどうなっていたのだろうと思います。
チェルノブイリツアーと経営者の孤独
──ゲンロンにはどのようなきっかけで興味を持たれたのでしょうか。
加勢 もちろん東浩紀さんの名前は知っていたのですが、あまり多くは読んでいませんでした。それが、2016年の春あたりにネットでチェルノブイリツアーの広告を見て、「これは行かなきゃ!」と急に思ったんです。でも、もちろん金額も安くないし、ほん吉の経営もようやくすこし落ち着きだしたくらいの時期で、店を1週間以上空けることもなかなか考えられませんでした。「どうしたものか」と何ヶ月も悩んでいたのですが、「申込定員まであと1人!」みたいなギリギリのタイミングでパっと申し込んだと記憶しています(笑)。そのときに友の会にも入りました。それと、悩みながらいろいろ見ているあいだに「『ゲンロン』に広告を出してみようかな」と思い、そちらのほうが締切が早かったのでツアー参加を決めるまえに申し込みました。
──いまでも続けていただいている広告は、ほん吉さんがゲンロンに関わる最初の最初だったんですね。チェルノブイリツアーにはなぜ行かなければと思われたのでしょうか。
加勢 ちょうど、メルトダウンした原子炉を覆うためのドーム(新石棺)を作っているところで、それまでの姿が見られる最後のチャンスというのが大きかったです。
──それまでも原発に対して問題意識があったのでしょうか。
加勢 いろいろな社会問題に関心はありますが、とくに原発に強い関心を持っていたわけではありません。チェルノブイリについても教科書に書いてあることくらいしか知りませんでした。それよりはとにかくぜんぜん知らないところに行って、びっくりしたかった。
──ツアーで印象に残っているエピソードはありますか?
加勢 原発の建屋の中を見るというツアーの一大イベントのときに起こった事件が印象深いです。ホテルからバスで2時間くらいかけて行ったのですが、いざ着いてみたら「今日は入れない」と言われたんです。「いったいどういうことなんだ」となり、上田さんが現地の方と必死に交渉してくださっているあいだ、東さんがバスのなかで「じつはいまこういう事態で……」と言いながらいろいろ勉強になるお話をして場をつないでくれました。結局、「明日なら入れてもよい」ということになり、その日はいったん帰ったのですが、そのときのおふたりの「この場をどうにかしなければ」という姿を見て、このひとたちは信用できると思いました。
──その姿のどういうところが信用できると思われたのでしょうか。
加勢 言ってしまえば、「中小企業の親父」感ですね。「どうにかして目のまえのお客さんを満足させて場を回し、商売を成立させなきゃいけない」という感覚が伝わってきました。わたしは幼いころからそういうひとに囲まれながら育ちましたし、自分自身も古本屋として店を経営する「中小企業のおばちゃん」です。ほん吉を始めてから5年ぐらいはとにかくたいへんなことばかりで、毎日泣きながら夜中遅くまで仕事をしていました。経営者ってほんとうに孤独で、この店について自分以上に真剣に考えている人間はほかにいないんだと思うと、絶望的な気持ちになってしまうものです。その経験があったので、思想がどうこうよりもさきに、東さんや上田さんの奮闘する姿を見て「彼らも同じように戦っている」と力づけられたのが大きかった。
──孤独に戦っているというところで連帯できたと。その後、チェルノブイリツアーでいっしょだったひとたちとの交流はありましたか?
加勢 ツアー後に参加者有志で作ったZINEに文章を書いたりしました。それと、帰国して半月後くらいにゲンロンカフェでやった事後ワークショップのことも覚えています。1人1枚づつ写真を出し「これが印象的だったね」とスライドを見せながら振り返る回だったのですが、ゲストで来ていた写真家の新津保建秀さんがわたしの写真を「新津保賞」に選んでくれたんです。
すこし時間が飛ぶのですが、コロナ禍で「お店のホームページを作らなきゃ」となったときに、デザイナーさんが新津保さんと知り合いだったので、ダメ元で撮影を依頼したらOKをくれました。そこで新津保さんに撮影していただいた店の写真をいまもホームページで使っています。じつは、『ゲンロン13』に載った創業15周年広告の写真も、そのとき「せっかくだから加勢さんの写真も撮ろうよ」ということで撮っていただいたものです。
──そうだったんですね! とても素敵な写真ですよね。
加勢 ありがとうございます。わたしは写真を撮られるのが苦手でいつも硬い顔になってしまうので、ああいう自然な笑顔を撮れるのはすごいなあと思います。
偶然と雑多さのなかにあるもの
──お店のある下北沢という立地はどのように選ばれたのでしょうか。
加勢 東京中の物件を探したなかでちょうどいいところを見つけたので、たまたまと言えばたまたまです。それらしい理由をいくつか挙げると、まず、いっしょに暮らしたこともあった祖父の家が駒場東大前にあり、生活圏として下北沢にはなじみがありました。そのうえで、師匠の店がある吉祥寺からあるていど離れていて、かつ本の買取のために必要な近隣住人の数も多くて、小田急線と井の頭線がクロスする駅でいろいろなひとが来る、といった要素の重なりですね。
──経営や品揃えについて意識されていることはありますか。
加勢 わたし、お客さんがすごく好きなんですよ。ふだんとくにお客さんと話したりはしませんが、店に来てくれるひとはみんなわたしの仲間だと思っています。お客さんが「あそこに行けばなにかあるかも……」というかんじで店に来て本を買ってくれたら、「ね、欲しいものあったでしょ」と満足した気持ちになる。逆に言うと、あるとき本を買ってくれて、それ以降店によく来てくれているひとを手ぶらで帰らせるのが悔しい。そういうひとたちに対して「これでどうだ、これでどうだ」という気持ちで棚をつくっています。
ただ、それは具体的なだれそれさんというよりは、いろいろなお客さんを何人か複合してイメージした架空の人物に近いです。そういう想像上の人物がそのときどきで複数人いて、そのひとたちに向かっていろんな球を投げる感覚ですね。
──なるほど。ほん吉さんはいま何人くらいの従業員の方で回しているのでしょうか。
加勢 わたしと、店員さんはそのときにもよりますがだいたい2、3人ですね。店員さんはそれぞれの事情もあるからフルタイムというわけにもいかず、わたしが間を埋めつつやっているので、とても忙しいです。今期はそれに加えて古書組合の市場の運営仕事もたくさん入れてしまっているので、まあたいへんです。
──古書組合の市場というのは、古本屋どうしで本のやり取りをするものですか?
加勢 そうです。たとえば、お客さんから買い取った本のなかでダブりが出たものを売ったり、「この本は客層的に自分の店には置けないけど、お金になることはわかっている」というものを市場に出して換金したりします。その担保によって、お客さんに損をさせずに、分野をまたいだ一軒分の本をまとめて引き受けられる。あるいは「こういう本が欲しい」と狙っている分野があってそれが出ていれば、入札制で一番高い金額を書ければ買うことができる。1冊単位でやり取りされる本はそんなになくて、100冊とかで縛っている山でやり取りをすることが多いです。そこに出入りするなかで、「この本はギリギリこの値段で買えなかった」とか「今回はあの本がラッキーな値段で買えた」と自分以外のプロの評価を知る経験が積み重なって相場観ができていきます。
──ゲンロンのある五反田にも定期的に仕事でいらっしゃると事前にうかがったのですが、それも古書市場の関係ですか。
加勢 そうです。神田と五反田のふたつの市会で運営に回っています。
──それぞれの市会によって特徴はありますか。
加勢 神田は東京古書組合の本部で、毎日市場をやっていますし、なんでも扱う会もあれば、資料系に強い会や古典籍だけの会など専門に特化した会もあります。そのような同人的な市会では、自然と気が合うひとたちどうしでチームを組んで仕事をすることになります。
それに対して、五反田は地元の会です。東京の城南地域にある古本屋からなる東京古書組合南部支部の会館が五反田にある。支部は純粋に地域で区切られていて、下北沢がある世田谷区は南部支部に入るのですが、たとえば隣の杉並区にある高円寺でお店をやっていたらギリギリ別の支部になります。専門分野で区切ったものではないので、いろいろな属性や知識を持ったひとがいて、みんなで力を寄せ集めてなんとかします。数多ある全集ものについてどのシリーズが全何巻かぜんぶぱっと出てくるようなひともいれば、幕末の一次資料に詳しいひともいて、「この本ってどうなの」と相談したらだいたいだれかわかるひとがいる。
──すごい世界ですね。五反田の会ではこういう本が出やすいという特徴はありますか。
加勢 地元の会なので商売のスタイルやジャンルにかかわらず、初荷(うぶに)が出やすい。初荷というのは、買い取られたばかりの現地直送の本の山のことです。古本屋が自分の売りたいものをとったあとの残りではなくて、漁で言えばでかい網でザーッと引き揚げていろんな魚やタコがいっしょに獲れたものみたいなイメージ。だからひょんなものが入っていることもあれば、全体で見て「こんなに筋のいいラインナップはどこから来たんだろう」ということもあったりする。
それと、仕分けにこだわらず本を雑に縛ったふっくらした山が出やすかったりもします。古本屋は得意分野だと「これとこれでいくら、そこにこれを足していくら、この本はここには入れなくていい」と切り分けてしまいがちですが、いろんなものが雑多に混ざった山にはそこにはない色気がある。なので、自分が山をつくるときもあえていろいろ混ぜて入れて「美味しそうでしょ」という雰囲気を出すとか、そういう技術もあります。
──あえて雑多さを残した山をつくる場合もあるということですね。おもしろい……!
加勢 わたしは五反田の市会という場がとても好きなのですが、それも運営自体が雑多であるという点で通じているのかもしれません。地域という単純なルールで集まったひとたちでどうにかやる。「あいつちょっとめんどくさいけど、あれができるしいいやつだからからまあいっか」みたいなところもお互いにあります(笑)。家族や親戚に近い感覚があって、それがおもしろいですね。
──偶然の区切りで加勢さんがよく五反田で仕事をされているのは、われわれとしてもご縁を感じざるを得ないです(笑)。
「いつもなにかをやっている」こと
──ゲンロンの取り組みやコンテンツについてご感想はありますか?
加勢 サービスの全貌を把握できないくらいに過剰な情報量をガーッと与えてくれるところが好きです(笑)。わたしが本屋のなかでもとくに好きだったのは改装前の紀伊國屋新宿本店や三省堂書店神保町本店で、その特徴はすべてを見切れないことです。物量が多くて、なかにはよくわからないものも入っていて、自分で選ぶことができる。逆にきっちり店内が編集された本屋は、狙いが見えすぎて息苦しい。ゲンロンには、わたしが好きな大型書店や古本の山のような雰囲気があると思っています。
──ほん吉さんの本がびっしりと詰まった店構えにも、それに通じるものがありそうです。
加勢 古本屋が決められるのはなにを売らないかぐらいで、なにが入ってくるかは決めることができません。つまり、そもそも不能な存在だというのがおもしろい。売りたい本が入ってくるとは限らないし、ある本が一冊売れても「これはよく売れるから」と再入荷することもできない。
その意味で、ゲンロンカフェで先日やっていた大阪万博シンポジウムは中身自体もとても良かったのですが、それとは別に「こういうことだよな」と思いました。というのは、古本の市場も毎回すごい本が出てくるわけではなくて、日常として定期的に市会をやっていることでときおりそういうものが来るんです。出張買取も同じですね。ゲンロンも、ふだんからずっと動いているからこそ、なかば意図しないかたちで大きな仕事がきたときにもきっちり対応できるんだろうなと思いました。
──毎回が神イベントとは限らないが、その積み重ねが大事ということですね。
加勢 もちろん東さんや上田さんのすさまじい努力があってのことと思いますが、イベントにしても記事にしても、なにがおもしろくなるかはやってみないとわからないのだろうと思います。狙っている場合もそうでない場合もあると思うけど、「いつもなにかをやっている」という状態がないと起こらないことがあるのではないかと。
じつはわたしは雑誌が苦手でマンガも単行本で読むのですが、『ゲンロン』はずっと読んでいます。『ゲンロン』でよく扱われている慰霊や歴史の語り直しの問題に関心があるというのもありますし、なにかの積み重ねという意味でも楽しんでいます。たとえば、最新号の『ゲンロン16』でも、ウクライナ特集のなかにユダヤ系ロシア人という背景を抱えつつウクライナでも仕事をしているイリヤ・フルジャノフスキーさんが戦争について語るインタビューがあり、それとは別に連載の最新回としてイスラエルと戦争の問題を扱った山森みかさんの原稿がある。以前から投げてあった連載というボールが、特集や情勢と重なって複雑な層をなしているのが素晴らしかったです。
──ありがとうございます。加勢さんがチェルノブイリツアーから友の会に入られたというところともまっすぐにつながったご感想でした。最後に、今後のゲンロンへの要望はありますか?
加勢 とにかくのびのびと朗らかに健やかであってほしいです。東さんや上田さんやスタッフのみなさんが自由に動いてつねになにかをやっている環境の継続によって多くのおもしろいものができていると思うので、これからもそれを続けていってほしい。
さきほど言った慰霊や歴史の語りというテーマに引きつけて言うと、世界のなかで個人ができることもそれくらいしかないのかなという気がします。チェルノブイリでも戦争でも個人的な事件でも、なにかが起きてしまうのは個々人にはどうしようもできないことで、そこでストーリーが終わってしまえばそれでいいかもしれませんが、現実はどんどん続いていく。残されたひとたちが続きを生きるには実際に起こったことを納得するためのなにかの物語や理屈に落とし込むことが必要になる。それが別のひとに聞かれたり聞かれなかったり、忘れられたり思い出されたりすることで続きがつくられていく。わたしが古本屋を経営するなかでやっているのも、たいへんな世界で生き延びるための日常をなんとかつくることなんだと思います。
──ゲンロンのスタッフとしても背筋が伸びるお言葉です。本日は長時間お付き合いくださりありがとうございました。
2024年5月9日
東京、下北沢
構成・注・撮影=編集部(別途記載除く)
★1 『東京古書組合百年史』、東京都古書籍商業協同組合、2021年、234-237頁。