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    彫刻は「台座」が本体? 公共彫刻があぶりだす諸問題──小田原のどか×大山顕「思想としての彫刻」イベントレポート

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    webゲンロン 2022年12月20日配信
    近代を彫刻/超克する』(講談社、2021年)を出版した彫刻家の小田原のどかと、土木・建築写真家の大山顕による刊行記念イベントがゲンロンカフェにて開催された。 
     本書で「思想としての彫刻」を論じるにいたった小田原は、これまで彫刻家として・書き手としていかなる関心のもとに活動を展開してきたのか。 
     イベント内容は多岐に渡ったが、本レポートでは、書籍では語られていない小田原の(意外な!)作品制作の変遷にも触れながら、彫刻と日本近代をめぐる小田原の問題意識について紹介したい。

    原風景:定禅寺通り


     青々としたけやき並木のあちこちに野外彫刻の居並ぶ仙台市・定禅寺通り。それが小田原にとって彫刻的なものの原風景なのだという。定禅寺通りの彫刻はただそこにあるばかりで、多くのひとは作品のことを気に留めない。人や風景はうつろってゆくのに、彫刻だけが動かずそこで静止している。 

     この街並みを作り出したのは、「彫刻のあるまちづくり」と呼ばれる仙台市の都市事業である。この事業では一般的なプロセスと異なり、オーダーメイドで彫刻が発注されるため、作家は環境に合わせた作品を制作することができる。そのような制度のもと形成された街並みのなかで、彫刻は市民の暮らしと共存していた。 

     この調和的な光景はもちろん肯定されるべきものだが、彫刻が抱えるさまざまな問題をいまになって鑑みれば、故郷の光景は「謎の多い」環境であったと小田原は冗談めかしつつ振り返る。 

     仙台市に育った小田原は、16歳から彫刻の制作をはじめた。いまでこそ評論の書き手としても知られているが、じつは20代前半まではもっぱら非言語的な方法で彫刻制作に取り組んでいたのだという。 

     数年前から小田原のことを見知っており、小田原の活動を通じてはじめて彫刻(あるいは彫刻の「わからなさ」やそれが抱える問題)に興味を持ったという大山も、この事実については意外そうな反応を見せた。 

     

    公共彫刻をめぐる対立


     野外彫刻は公共空間の目印であり、一定の合意形成がないと設置することができない。だれでも無料で目にすることができる一方、修繕の必要性は将来的なコストとなる。こういった側面は、じつは公共建築の持つ性質と似通っているのではないかと大山は指摘する。 

     しかしというべきか、小田原いわく、彫刻は建築よりも「炎上」しやすい側面があり、公共彫刻はしばしば市民から攻撃される。たとえば2020年には、メデューサをかたどった裸体彫像、ルチアーノ・ガルバーティの《Medusa With The Head of Perseus(ペルセウスの首を持つメデューサ)》が主にSNS上で批判の的になった。これは2013年から起きたアメリカのMeToo運動を後押しするものとして、ニューヨーク郡裁判所前に設置された彫像である。女性の裸体像をつくったのが男性彫刻家であり、そこに男女間の搾取的構造が温存されているといった点が(ある意味では短絡的に)非難された。 

     一方で美術史的な文脈を汲めば、この彫像において試みられていた批判性が明らかになる。作家自身も明らかにしているように、この作品はベンヴェヌート・チェッリーニによる裸体彫刻《Perseo con la testa di Medusa(メデューサの首を持つペルセウス)》(1545-1554)を参照している。参照元の彫像では、ペルセウスがメデューサの首を高い台座の上から勝ち誇るように掲げて見せている。これに対してガルバーティの彫像では、逆に怒れるメデューサがペルセウスの首を持ち、そのペルセウスの顔立ちは作家ガルバーティの自刻像となっている。すなわち男性である作家自身の首が、怒れるメデューサの手によって握りしめられているのだった。 

     ガルバーティの彫刻はこのようにして作品としてクリティカルな試みがなされているのであり、彫刻が議論を喚起することを前向きに受けとめつつも、「男性がつくった女性裸体像」であるというだけで一方的に非難されるのは勿体ないと小田原は語る。他方、それが多数の市民の目にふれる公共空間に配されることの是非は、もちろん作品のコンセプトとは別に問われなければならない。

    転機:長崎の「矢形標柱」


     小田原の代表的な作品《↓》(2015年)は、長崎の原爆投下地点に戦後2年間(1946-1948)のみ存在していた「矢形標柱」を赤いネオン管によってかたどった彫刻作品である。 

     そこに現存していた期間がきわめて短かったこともあり、「矢形標柱」の設置された経緯は未だ明らかになっていない。いまではその地点に原爆犠牲者を慰霊する「原子爆弾落下中心地碑」が据えられているが、もとの「矢形標柱」は追悼の機能も慰霊の機能も欠いた、文字通りのたんなる「印」でしかなかったのだという。戦後GHQが慰霊を禁じていたことが影響し、その結果として慰霊碑ではないたんなる標柱の設置に至った可能性もあると小田原は推察する。 

     多くのひとの予想に反して、じつは長崎の「矢形標柱」に関心をもつよりも前から、小田原は矢印型の彫刻を制作していた。しかも驚くべきことに、もともと制作していた矢印型の作品は、2015年の《↓》とはほとんど真逆のコンセプトに立脚していだという。 

     矢印の形をしたミニマルな記号としての彫刻は、置かれた土地固有の情報を消失させ、「彫刻とそれを見るひと」という関係以外の文脈を無効にする──初期の矢印型の作品が前提としていたこうしたアイデアは、いまから思えば暴力的であったと小田原は振り返る。 

     しかし、小田原の作品を見た学芸員から長崎の「矢形標柱」について聞いたことをきっかけに、それまで自身が矢印記号を用いて考えていたことは完全に覆されてしまった。 

     こうして、小田原の関心は一転する。2011年から長崎をおとずれて現地の彫刻の調査を開始し、それ以降、公共彫刻の問題に批判的に取り組むようになった。 

     


     


     
     

    「彫刻」の語りづらさ


     継続的にコンセプチュアルな作品を制作する小田原は、大山が指摘するように、「彫刻家」よりも「現代アーティスト」と名乗るほうがわかりよいようにも思われる。それでも意図的に彫刻家と名乗る背景には、「彫刻」という日本語に負わされたさまざまな歴史的文脈が関係している。 

    「彫刻」という日本語は、もとよりその語義に矛盾をはらんでいる。この語は明治期に「sculpture」の語にあてるために作られた訳語であり、字義としては文字通り「彫り刻まれているもの」を意味する。しかし、彫刻の制作手法はかならずしも「彫る・刻む(carving)」だけでなく、「塑造(modeling)」によるものも多い。であれば「彫塑」のほうが訳語としてふさわしいのではないかという議論は当時なされたものの、結果的には「彫刻」の語が定着してしまった。 

    「彫り刻むこと」という直接的な語義は「彫刻」の拠り所にはなりえない。さらに日本には従来より仏教彫刻の伝統があり、そこに西洋由来の美術教育が導入されたのち、反動で国粋的な組織改編が行われるなど「彫刻」の語の黎明期には制度的な混乱も見られた。こうして彫刻とはなにであるかを明言することができないまま、彫刻と呼ばれるものが近代の日本において制作されていくことになる。 

     公共彫刻はその後さまざまな問題を抱えていくことになるが、そのひとつには端的にフィジカルな保存修繕の問題も含まれる。たとえば70年代の設置事業にて制作された彫刻は、近年では老朽化のため事故寸前の状態となっており、一時期はこうした状況を指して「彫刻公害」という言葉すら用いられていた。 

     本イベントでの両氏の議論は、彫刻だけでなく、写真など異なる媒体の作品の永続性の話題にもおよんだ。大山によれば、写真は本来的にはうたかたのものと認識されており、70年代には展覧会が終わったらプリントは処分されてしまうほどであった。現在ではオリジナルプリントの概念が発達してはいるもの、それでもなお多くの写真家は根本的には永遠を信じていないだろうと大山は述べる。 

     一方、小田原いわく、彫刻は後の世に残されることを前提に制作されることが多い。そのような彫刻家の欲望は創造力の源泉でもあり、幼稚であると単に断罪すべきであるというわけではないにしても、後の世代にメンテナンスを強要してよいのかという問題について議論の蓄積が欠けていると指摘する。真に永久に存在する作品など決してありえないのに、たとえば長崎の平和祈念像の碑文においても、「恒久」という言葉が「平和」の願いと抱き合わせになって素朴に用いられている。 

     さらに大山は彫刻と建築を類比させながら、設置された彫刻作品の「改築」ないしは形や機能の変化について小田原に問うた。 

     小田原いわく、彫刻は絵画のようにオリジナルを想定しやすいものではなく、そもそも制作の方法が複製芸術的である。ブロンズ像は石膏など別の素材でつくられた原型の複製であり(それは写真のネガとポジの関係と似ている)、元となる石膏にはさほど耐久性がないため、原型からの複製を繰り返すことによりオリジナルにはない甘さが出てきてしまう。日本に存在する死後に鋳造されたロダンの彫刻は原型と比べてかたちが甘くなってきており、すでにオリジナルとかなり異なるという指摘もある。

    彫刻は台座が本体!


     日本では明治期に多くの公共彫刻がつくられたが、大戦中の金属供出によってそれらは姿を消した。当時の新聞からも、「軍神や将軍の尊大な銅像が姿を消して、台座ばかりが廃墟を背景に残照を浴びているのが戦後東京の風景だった」といった記述が確認できる(福沢一郎「群像追放」1950年12月13日付『毎日新聞』夕刊)。 

     そして戦後、軍国主義的な彫像はふさわしくないとして、空になった台座のうえに新しい彫刻が設置されていった。 

     台座のうえの彫刻だけ入れ替わるというのは一見おかしな事態のように思われるが、じつは公共彫刻においては、台座はそのままに彫刻だけが入れ替えられるという事例は決して珍しくない。 

     小田原によれば、台座こそが彫刻の「本体」なのである。 

     皇居濠端の三河田原藩上屋敷跡・三宅坂小公園には、菊池一雄による《平和の群像》(1951)が設置されている。この作品は彫刻に対して明らかに台座が大きすぎるのだが、これは戦後に台座上の作品だけがすげ換えられたことに起因している。 

     この彫刻の台座には、かつて軍閥の威信を顕彰する寺内元帥像(北村西望による作)が据えられていた。 

     戦後、空になったこの台座に新しい裸婦像の設置を推し進めたのは当時の電通社長・吉田秀雄であり、その完成に際しては「軍国日本から文化日本への脱皮を象徴する女神の像」(1950年6月14日付『毎日新聞』)などと報じられた。 

     彫像のすげかえに際して「新しい日本」がさかんに謳われたとはいえ、変わらず体制のメッセージを伝えているという点で銅像の機能に新しさはないと小田原は指摘する。 

     しかもそのために物言わぬ若い女性の裸体が利用されるという点においては、ジェンダーの観点からも、以前にもまして問題含みである。菊池の作品に限って言えば、ギリシャ三美神が参照されるといった経緯があり、固有の精査の結果として裸婦像が選択されたのであったが、この像を皮切りにして、その後日本全国に大量の裸婦像が無反省に設置されていくことになる。 

     いま日本中の街角に女性の裸体彫刻があらわにされているという奇妙な事態の歴史的な背景が、このように台座に着目することで浮き彫りになってゆく。 

     わたしたちが記念碑を見るとき、なにかひとつの事実を記念したものとして理解しようとしてしまうものの、実際には今日に至るまでの幅を持った時間をあぶりだしていることに気づいたと大山はコメントする。それを受けて小田原は、「彫刻は変わらない。彫刻を見る我々が変わる」のだと換言する。 

     


     


     
     

    碑文の書き換わる彫刻?


     およそ5時間におよんだ今回のイベントの後半にて、「ぜひ小田原さんに見てほしい」といって大山がスクリーンに映し出したのは、2016年にチェルノブイリおよびキエフを訪問した際の記録写真だった。世界一深いと言われるアルセナーリナ駅のエスカレーターを上がり、駅前広場に出たところに、巨大な台座のうえに大砲のような形の彫刻の据えられた奇妙な記念碑が建っている。 

     大山がこの記念碑を目にした当時、これはロシア側にとっての英雄を顕彰するものであった。ロシアがウクライナを併合する際にボリシェヴィキが工場労働者を扇動し、反乱を起こした彼らはロシアの体制に英雄と見なされたのだという。つまりウクライナにとっては屈辱的ともいえる記念碑がそれまで駅前に設置されつづけていたことになる。しかし、その後の数年でウクライナではナショナリズムの機運が高まり、いまでは彫刻はそのままに碑文だけが書き換えられ、工場労働者の犠牲を悼む内容になっている。 

     じつはこの記念碑は、これ以前にも似たような変化を経験している。もともとこの記念碑は、1914年、ボルタヴァの戦い200周年を記念して、ヴァシリー・コチュベイと彼の戦友イワン・イスクラの銅像として建てられた。ふたりはウクライナの英雄であるコサックの首領イワン・マゼッパの側近であったが、ロシアに密通しウクライナを裏切ったことで知られており、すなわちこの時点での銅像はロシア側の体制に与するものだった。 

     1914年当時の記念碑では大ぶりの人物彫刻がふたつ台座の上に立っていたのだが、台座そのものはいまと変わらない。現在の記念碑の彫刻と台座の大きさがちぐはぐなのは、このときの台座をいまに至るまで使い回し続けているためである。 

     さらに、4年後の1918年にふたりの像は撤去され、代わりにウクライナの英雄のイワン・マゼッパの像が設置された。その後1923年にこんどはマゼッパの像が撤去され、先にふれた工場労働者を顕彰するモニュメントとなる。さらに2019年には前述のとおり碑文だけが入れ替えられた──このように、同じ台座をめぐって彫像や碑文の反転が目紛しく繰り返されてきた。 

     



     長崎での調査開始時には、のちに評論を著し書籍を刊行することになるとは小田原自身想像だにしなかったという。執筆のみならず、書籍の出版編集や造本も手がける小田原の活動の多様さに大山は驚きつつも称賛するが、小田原いわく、これまで顧みられてこなかった公共彫刻の在り方について必要に迫られながら語るうちに、自然とそうした活動に広がっていったものだという。一方で北海道や青森など、長崎以外の土地の彫刻の調査もおこない、それを元にした作品の制作・展示も精力的に実施している。 

     本稿で紹介した問題は、小田原の著書『近代を彫刻/超克する』で展開されているさまざまな議論の一部にすぎない。ここで紹介しきれなかった各種「問題含みの」彫刻作品、そして「〈思想的課題〉としての彫刻」と日本近現代史については書籍にて詳述されているため、ぜひお手に取ってご確認いただきたい。(河野咲子) 

     


     


     
     

     シラスでは、2023年5月9日までアーカイブ動画を公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。 

     


    小田原のどか×大山顕「思想としての彫刻──『近代を彫刻/超克する』刊行記念」 
    (番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20220323/

    河野咲子

    作家・文筆家。第5回「ゲンロンSF新人賞」受賞。受賞作 「水溶性のダンス」が『ゲンロン13』に掲載。その他、幻想怪奇小説、SF、短歌、テクスト批評、現代美術評などを執筆する。旅の批評誌『LOCUST』編集部員。Spotifyにて第6期「ダールグレンラジオ」配信中。
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