【 #ゲンロン友の声|003 】政治は細やかな運営に宿る
webゲンロン 2020年1月20日配信
大晦日の放送を拝聴しました。大変面白かったです。その中で札幌の「表現の不自由展」について言及なさっていたので、東さんに聞いていただきたいことがあります。 まず大前提としてなぜこのような実情を知っているかと言いますと、(あの一部だけ切り取られネットで出回っている)"河村たかし氏を焼く映像"の本編を、依頼され編集したのは私だからです。(※機械に弱い作者・鈴木翁二さんに指示を聞きながら編集代行したため、作品の意図には関わっていません。) 正確に伝えるには少々長くなってしまいますが、お時間のある際に読んでいただけますと幸いです。<以下略>(北海道・年齢非公開・性別非公開)
友の声に投稿された文章は公開を前提としています。それはたぶんフォームにも書いてあります。とはいえこの内容はいささかセンシティブなので(まさにネットだと一部分が切り取られてすぐに炎上するので)、肝心の部分は「以下略」として隠させてもらいました。年齢と性別も隠しました。もしも全部公開したほうがよいのであれば、質問者の方、編集部宛てにご一報ください。さて、そもそもこれは質問でもないので、ほんとうはぼくが答えるものでもありません。にもかかわらずなぜこの「回答」を書いているかというと、読んでなるほど、自分は事情をよくわかっていなかったと納得したと同時に、それこそがあいトリ以来続く一連の騒動の本質のように思ったからです。質問者の方は札幌の「表現の不自由展」(正確には「表現の自由と不自由展」)を擁護しているわけではありません。「河村たかし氏を焼く映像」の意図を解説しているわけでもない。ただ、制作と展示の過程で起きた具体的なトラブルを淡々と記述し、なぜ結果的に炎上に至るような杜撰さが生じてしまったかを教えてくれている。そしてぼくはまさに、あいトリ以降の騒動に対処するために必要なのは、このような「なにも包み隠さない」具体的なていねいな説明だと思うのです。8月から繰り返しているとおり、ぼくはあいトリ騒動の本質は不用意な運営にあると思います。少なくともぼくがアドバイザーとして知るかぎりはかなり不用意だったし(そしてそれは炎上問題だけではなく、一部アーティストの作品キャプションが展示最終日数日前に届くというドタバタにもはっきり示されていたし)、ぼくはそれを第三者委員会の調査で(自分がアドバイザーとして無力だったという反省とともに)証言もしました。けれどもいまはそのような事情は問われることなく、メディアを含めてみなが「表現の自由vs検閲」「アーティストvs権力」という乱暴な対立に巻き込まれ、それしか語らなくなっている。さらにそれが伝播し、あいトリ以外の芸術祭や映画祭でも同じ問題が「発見」されるようになっている。けれども、ぼくはそのような乱暴で単調な図式こそが──逆説的に響くかもしれませんが──、ほんとうの「政治」を不可能にするもののように思うのです。ひとつ例をあげます。最近文芸誌の『新潮』があいトリ問題の特集を行いました。そこでは、ベネチアビエンナーレやドクメンタのような「海外の国際芸術展」と大地の芸術祭(越後妻有)のような「日本の芸術祭」を対比させ、前者は政治的な問題提起を含むが後者は非政治的な村おこしにすぎず、津田大介芸術監督はそんななかあいトリに前者の論理をもちこんだので炎上したが、それは芸術の政治性の回復という点でよかったのだという議論がいくつかみられました(と書くと椹木野衣論文批判かと思われそうですが、じつはぼくの意図はそこにはありません。たしかに椹木氏の論文はそのようにも読め、そしてツイッターにはその読解を前提にした感想もみられるのですが、ぼく自身が読んだところ氏の立論にはもう少し奥行きと両義性を感じました──とはいえそれについて書くのは回答の趣旨からますますずれるので、またべつの機会にします)。ぼくはそのような理解はまちがっていると思います。少なくともたいへん乱暴な理解です。「日本の芸術祭」のリーダーは、よく知られているとおり北川フラム氏です。彼が「日本の芸術祭」路線に乗り出すきっかけとなったのは、1990年代初頭の「ファーレ立川」プロジェクト、つまり米軍立川飛行場の日本返還に伴う再開発事業です。このプロジェクトも、表面だけみればなるほどアートによるジェントリフィーション(公共空間の清浄化=非政治化)にみえなくもない。けれどもここで考えねばならないのは、氏はかつて運動家で、砂川闘争では逮捕までされており、そのせいでいまもアメリカに入国できないという事実です。そのような彼が、かつて自分が拡張を反対した米軍基地の返還跡地の再開発を任されたときになにを感じたか、それは単にジェントリフィケーションという言葉でくくれるものではないと思います。おそらくはそこにはたいへん複雑な屈託があり、それこそが越後妻有の単純な村おこしを超えたさまざまなプロジェクト(限界集落の問題、災害遺構の問題そのほか)へと引き継がれている。大地の芸術祭の実現にあたって氏は1000以上の住民集会に出席したといわれます。それは政治家の行動にとても似ているし、じっさいに現地で目に見える効果をあげてもいる。経済効果はそのひとつにすぎません。つまり、「日本の芸術祭」の起源には、そもそも政治が──より正確にいえば、ストレートで派手な反体制運動は敗北するだけなので、いっけん非政治的に見えたとしても「ほかの道」を見つけなければならないという屈託が──刻まれているのです。そして屈託は必ず細やかな運営を要求する。ぼくはそのような細やかさこそがほんとうの政治だと思うし、そこに政治を発見できない鈍感なひとは、あえていってしまえば、芸術には関わるべきでないとさえ思います。話が長くなりすぎました。いずれにせよ、ぼくたちはいま、「政治」についておそろしく貧しいイメージしかもてなくなった時代を生きています。政治運動といえば署名や記者会見やデモで、大衆を動員し威勢よくだれかを攻撃するものだという理解が広がった時代に生きています。その乱暴さはじつは国内も国外も変わりません。けれども、それはほんとうは政治ではありません。政治は細やかな運営に宿るものです。質問者の方のメールは、ぼくにあらためてそのことを思い起こさせてくれました。(東浩紀)
東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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