だれひとり忘れない、なにひとつ忘れない
戦時下ロシアの文化と愛国 ロシア語で旅する世界 第15回(最終回)
ことし、久しぶりにロシアに行った。しかも、なんと3回も。2月にサンクトペテルブルク、5月にペテルブルクとモスクワ、6月にペテルブルク。
どのくらい久しぶりかというと、2019年9月以来である。この2月の渡航がじつに6年と5カ月ぶりだ。何度か書いているが、わたしは1994年からコロナ禍前までは毎年欠かさずロシアを訪問していた。定期的に現地に身を置くことがわたしの研究の基本だった。研究者人生ではじめて、生の情報を得られない状態になって、それが6年以上も続いたのだ。それでもなんとか活動を続けてこられたのは、ネットのおかげである。
それに加えて、亡命ロシアの文化人が来日するようになった。ロシアの出版社が、ヨーロッパとの関係が難しくなったこともあり、アジアを向くようになった。日本では、ウクライナだけでなく、ロシアや旧ソ連諸国への関心も高まったのか、翻訳も研究者の本も出版は活発だ。円安の影響もあって、旅行に来るロシア語話者も多い。わたしはロシアには行けなかったが、いままで見えてなかったことに対してさまざまに視野がひらけた時期ともなった。そして、文学者として自分はなにをすべきか、繰り返し考えた。
2022年2月24日以降ずっと、わたしは国の名前で個人を代弁することの持つ暴力性を訴えてきた。ロシアという国がウクライナに侵攻したことは事実である。それによって、この地域では戦争という暴力に歯止めが効かなくなった。しかし、ロシア人だからというだけで加害者だと決めつけることは、結局、ユダヤ人だから悪人だと決めつけていたナチスのナラティヴと同じで、単なる差別だ。そもそも国が戦争をやっているからこそ国民は巻き込まれるわけで、戦争が終わることが、国民が気軽な個人に戻るためのいちばんの早道である。
では、個人が自国の方針を前に無力であるとき、その個人はこの世界で自分の人生を生きる権利を持たないのか。わたしはそうは思わない。そんなことを言ったら、たまたま戦争に遭遇しなかった世代だけが自分の人生を謳歌する権利を持つことになる。日本の場合なら、1945年8月15日より前に生まれたひとはみな悪なのか? むしろ、彼らは自分の経験を軸に、戦争の問題と真摯に向き合って、反戦を訴えてきたのではないか。文学や映画、絵画や演劇の歴史に、それははっきりあらわれている。
戦争はますます長引いて、常態化してきているとも言っていい。もはやじっと待っていても仕方がない。今後、戦争が終わるか一段落つくかしたときのためにも、戦時下の市井のロシアを見ておかなければならないと思った。ネットの情報は多様だが、所詮、画面は二次元にすぎない。その場に行って、三次元の空間に身を晒し、意識せずとも目に入ってくるもの、聞くともなく聞こえる雑踏やカフェの会話に触れなければわからないことがある。コロナ禍前までの街からどう変わったのか、それとも変わっていないのか。
連載最終回は、そんな戦時下のロシアを久しぶりに旅した記録である。
戦時下の日常はあまりにもふつうだった
2月、サンクトペテルブルクのプルコヴォ空港に降り立った。さすがに感慨深かった。わたしにとって、ペテルブルクは特別な街だ。大学3年のはじめてのロシア旅行で、すぐにこの街が大好きになった。翌年の留学先にもここを選んだ。ネフスキー大通りを中心に広がる人工都市。適度な規模感で、道や運河の配置も碁盤の目に近くてわかりやすく、土地の把握がしやすい。冬は寒くて日が短いが、それ以外の季節はいくらでも散歩できる。中心部にも公園や緑が多く、建築物はカラフルで凝っており、さまざまな様式のものが不思議とひとつの「ペテルブルク的」なあるスタイルに収斂している。壮麗な建物も多いが、どこか生活臭がして安心できる。この街と長く付き合っているうちに、地下鉄の装飾の無骨な重厚感も、安普請の店舗の内装も、歴史的建造物のくすみや落書きも、すべてが親しみのあるなつかしいものと感じてしまうのだから、人間の感覚は恐ろしい。
深夜にホテルに到着して、翌日は快晴だった。この冬は寒さが厳しく、マイナス20度。しかし、北の澄んだ青空のもと、雪を纏ってきらめくネフスキー大通りは本当に美しかった[図1]。目抜き通りだけあって、かつてはZARAやマクドナルドをはじめ、欧米系の外資の店が多かったのだが、ウクライナ戦争下の対露制裁によってそれらは消え、お土産とハンドメイドグッズを売る店とチョコレート専門店が目についた。外資系ブランドの広告がないので、広告全体も減って、おとなしくなった。なんだか90年代の留学時代を思い出して懐かしい。当時、ロシア社会はまだソ連を引きずっており、外資系の店はぽつぽつと現れはじめた程度だった。

ただ、あのころは商品自体が少なくて、選択の余地もないほどだったが、いまは豊富な品揃えがある。ネフスキー大通りは相変わらず活気があり、華やかだ。戦時下だろうと、街を行くひとの見え方は以前とさほど変わらない。カフェや飲食店も、なくなったものもあれば新しくできたおしゃれな店もあり、コロナ禍を挟んで6年も来ていなかったのだから、この程度の変化はさもありなんと思われた。鉄道駅周辺を除くと、軍服姿のひとともほとんど遭遇しなかった。志願兵募集のポスターなどは、地下鉄や中心から少し外れた通りでは見かけたが、さほど多くなかった。
戦争が始まって4年が経過したペテルブルクの現実。もちろん観光客のわたしには見えないものだらけだろう。とはいえ、街にあからさまな悲壮感が漂っているわけではないのは、わたしの見間違いではなさそうだ。戦争の加害国であろうと、被害国であろうと、そこに暮らす国民の生活は続く。頭のどこかに戦争のことが念頭にあろうとも、ふつうの生が送られている。
まずは書店に行ってみた。戦時下の言論・思想統制のもとにあっても、書店はむしろ賑わっている。戦争に直面しているからといって、出版物が、明白な反戦と、あからさまな戦争賛美に二分されるわけではない。書店には、無数の歴史的な経験や複雑な感情、さまざまなタイプの人びとの思考が詰まっている。だから、現実から距離を置いて、少し長い視野で、人生や世界を見つめ直す助けになるはずだ。
街を歩き回って本屋をめぐったりしているうちに、あっという間に滞在期間が終わってしまった。ほんとうはこのとき、モスクワにも行って展示や芝居も見て、と、さまざまな計画を立てていたのだが、家族の事情ですぐに帰国を余儀なくされたのだ。5月に再訪したのは、それが理由だった。6月はさらに別件の仕事が入って、また来ることになった。
ところで、渡航前にはいろいろ不安があった。とくに、入国や出国については、日本はいまロシアにとって非友好国なので、日本人は別室に連れて行かれて長時間の検査を受けることがある、スマホやPCを洗いざらいチェックされる、その際スパイアプリを入れられてしまうかもしれないといった情報が流れていた。わたしに限って言えば、3回の渡航で、そうした状況には一度も遭遇しなかった。また、もうひとつの懸念であったインターネットについては、入国後24時間モバイル接続が遮断されるのがめんどうではあったが、それ以外は2月の段階ではロシア対応のeSIMを入れていけばとくに問題はなかった。ドローン攻撃の応酬が激しくなってからの5月と6月は、急に電波が繋がらなくなることがちょくちょくあった。
入出国とネット環境は、外からニュースやSNSを見ている限りでは、じっさいどうなっているのかわからず、かつ、滞在中の生活にもろに影響するためとくに不安だったのだが、大きな問題がなくて安心した。これによって、2回目以降の渡航のハードルが下がった。
そして、なにより、思った。そもそもわたしはこれまでも戦時下のロシアに渡航していたじゃないかと。それどころか、2度の留学はどちらも戦争中だった。第一次チェチェン戦争と、第二次チェチェン戦争。劇場テロ事件の日にもモスクワにいた。シリアでロシア軍が戦っていたときだって、渡航をやめようという考えは浮かばなかった。今回とはなにが違ったのか。
かつてのわたしは、チェチェン戦争についてまったく無知だった。テロでモスクワやペテルブルクの市民生活が脅かされる、程度の認識しかなかった。チェチェンに知り合いがいるわけでもなければ、そこへ行く用事もとくにない。だから、イメージを持てず、戦争はひとごとだった。当時のわたしの視野が狭かったのはもちろんだ。それだけでなく、わたしのなかのチェチェンのイメージは、当時モスクワやペテルブルクで横行していたテロと結びついていた。アレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『チェチェンへ アレクサンドラの旅』(2007年)を見て、少し認識が改まるのだが。ひとりの老婆が従軍中の孫を訪ねてチェチェンのロシア軍駐屯地にやってくる話だ[◆1]。
翻って、多くのひとにとって、世界のなかのロシアは、かつてのわたしにとっての、ロシアのなかのチェチェンのようなイメージなのかもしれない。得体の知れない、暴力的な国。じっさいは得体が知れないのは自分が知らないからで、暴力はこの国の一側面でしかない。ひとは、対象が自分から遠ければ遠いほど、努力せずとも手に入れられるイメージだけで物事を判断する。
それにしてもロシアは日本でイメージが悪い。だいたいわたし自身も、イメージの悪いロシアにこんなに複雑で面白いものがあるのか、と、ロシア文学や文化に惹かれていったわけだ。国と個人は別物であるという認識は、排外主義が広がっているいま、そしてネットで一部の国民が他の国民を代弁するようなことがどんどん増えているいまこそ、再確認しなければならないものだ。
たとえばイラク戦争のときにアメリカにいたひとも多いだろう。そのときは突きつけられなかったものが、いまのロシアに突きつけられるのはなぜか。なぜ、チェチェン戦争は仕方なくて、ウクライナ戦争は仕方なくないのか。SNSによる暴力の可視化はもちろん世論を動かしている。それにしても、戦争それ自体が悪だ、という考えに則れば、そこで差異をつけるべきではない。そんなことを考えながら、これまでの自分の無意識を反省した。
敗戦国の目から見た戦勝記念日
5月の旅では、ゴールデンウィーク終盤の4日に出発し、18日に帰国した。移動を含めて15日間。こんなに長くひとりでロシアに滞在すること自体が、ゲンロンに来てからはじめてかもしれない。この時期を選んだ理由はふたつ。ひとつは、5月9日の戦勝記念日をモスクワで過ごしたかったからだ。もうひとつは演劇が行われているシーズン中に来たかったこと。ロシアの演劇シーズンは9月から翌年の6月までで、夏休みに行ってもたいがいの劇場は閉まっているのだ。演劇の話は本稿のテーマには入らないのだが、ドンバス戦争下での家族の絆を描いたロシア軍劇場の作品を含め、9本の芝居を見たことを記しておく[◆2]。
戦勝記念日は、現在のロシアのアイデンティティにとって、もっとも重要な祝日である。赤の広場で軍事パレードが行われるだけでなく、近年では、「不死の連隊」と呼ばれる、一般市民が、戦争に参加した親族の肖像写真のプラカードを掲げて行進するイベントが各地に広まった。
年に一度、20世紀前半に起きた戦争の「勝利」を、戦車やらミサイルやら軍需品を見せびらかしながら祝うこの日に対して、戦争は悲惨であり、悪であると学んできた敗戦国のわたしは、ずっと違和感を持ち続けてきた。戦勝記念日については、同じように違和感を持っている日本のロシア研究者が少なくないこともあり、本誌でたびたび話題にしてきたので、よければ読んでみてほしい[◆3]。
わたしは1995年、ペテルブルクに留学しているときに、はじめて戦勝記念日に遭遇した。いまから考えると戦勝50年の大きな節目の年だった。ネフスキー大通りが完全に歩行者天国になって、ビール瓶や風船を持った大勢の人びとがあの広い道路を埋め尽くし、無礼講で騒いでいる様子は、まるでバフチンの言うカーニバルのようだった。ネヴァ川の対岸にあるペトロパヴロフスク要塞で祝砲が打たれ、夜には花火が上がる。ペテルブルクは緯度が高く、5月のこのころ、外は9時過ぎまで明るい。だが、花火は早めの時間に始まる。まだ明るい空に煙がもうもうと広がっていき、花火自体はぼんやりとしか見えなくて、日本とは異なる感性を感じたことを覚えている。ふだんはとくに愛国的な執着を持たないわたしだが、日本の花火はいいなあ、と、ちょっとした優越感さえ抱いたのだった。いまでもはっきり覚えているということは、戦争の終結ではなく勝利を祝っている人びとに対する、敗戦国の国民の小さな復讐のような感覚だったのかもしれない。いや、もちろんそれはこじつけで、若く世間知らずの留学生が、ただ、自分の知らない世界の常識に驚いただけだった。
この年、モスクワでは赤の広場で戦勝記念パレードが行われた。これは戦勝20周年の1965年、40周年の85年、45周年の90年に続いて4回目である。以後、パレードは周年ごとでなく、毎年恒例になった。1995年はプーチン政権になるよりも前の、エリツィン政権下だ。戦勝を記念する政策は必ずしもプーチン政権下に始まったものではない。たとえばモスクワのポクロンナヤ丘にある独ソ戦の記念館、勝利博物館は、戦時中に生まれた計画が戦勝40周年絡みで再燃し、95年にオープンしている。こうして、わたしが感じた「戦勝」を勝ち誇る空気は、強さを増していった。
戦勝記念日がますます国民的祝日になっていったのは、先述の「不死の連隊」が始まって以降のことだ。もともとはシベリアの街トムスクの独立系メディアTV─2のジャーナリストたちが、2012年に始めた草の根運動だった。このころすでに、戦勝記念日は各都市で盛大に祝われるようになっていた。彼らは、ポピュラーになった戦勝記念日に対し、市民が軍服コスプレをして、自分が戦ったのでもない勝利を祝う日になってしまったのではないか、じっさいに戦った親戚の写真を掲示して、しかるべき相手に敬意を示して、記念日の本来あるべき姿を取り戻そうじゃないか、と呼びかけたのだ。この運動はあっという間にロシア全体に広がった。それだけでなく、政府に近い愛国グループが類似の運動を立ち上げ、静かで具体的な追悼から、大規模でバーチャルな愛国運動へと変貌した。2013年から14年にかけて、ウクライナではユーロマイダン革命が起こって、クリミア併合や東部戦線での戦闘が始まるなど、ロシアのみならず国のアイデンティティが問題となる機会が格段に増えていた時期のことだ。
以前にもこの連載で書いたのではないかと思うが、SNSで見る限り、知識人やリベラルな文化人を含め、多くのひとが「不死の連隊」を支持していた。パレードに参加しないひとも、この日に戦争参加者の親戚の写真と情報をSNSに投稿するようになっていった。毎年5月9日になると、Facebookのタイムラインに、軍服に軍帽の白黒写真と、彼らの思い出を語る投稿が大量に流れてくるようになったのだ。いまでは戦争に反対して国を出たわたしの知人たちのなかにも、この流行に参加していたひとは複数いた。
多くのひとの命が奪われたはずの戦争での勝利の記憶が、なぜここまで大々的に、喜ばしい雰囲気のなかで祝われるのか。わたしの疑問は燻り続けた。2014年以降のウクライナとロシアの間に緊張関係があった時期も、人びとは無邪気に軍服姿の祖父母の写真を投稿していた。ロシアに限らず、旧ソ連圏にはこの運動に参加していたひとがそれなりにいたように思う。もちろん、2022年以降、その空気は変わったのだが。
バーチャル・パレード
では、ウクライナ戦争5年目の戦勝記念日は、モスクワでどのように祝われていたのか。
モスクワに着いたのは5月7日。ペテルブルクから高速鉄道サプサンで向かった。列車も戦勝記念日の祝祭ムードで、ドアや窓に「祝・戦勝記念日!」といったシールが貼ってある。座席番号と名前で利用できる乗客用のアプリが、飲み物やお土産の注文から沿線ガイドまでたいへん充実しているのだが、戦勝記念日を控えて、鉄道で行ける英雄都市の独ソ戦の歴史を紹介する動画や、有名俳優による愛国詩の朗読など、いかにもそれらしい愛国コンテンツもたっぷり入っていた。英雄都市とは、独ソ戦でとくに激しい攻防戦が行われた街に授けられた名誉ある呼称だ。
モスクワでもペテルブルクでも、街のあちこちに戦勝記念日の装飾がある[図2・3]。赤を基調とした「ПОБЕДА!」(勝利)、「9 МАЯ」(5月9日)の文字。オレンジと黒の縞模様のゲオルギーリボン[◆4]。ベルリン解放を示してソ連の旗を掲げる兵士など、歴史的な写真を用いたポスターも見られた。なんとなく街がお祭り気分で湧いているようにも見えるのは、勝利ののぼりや旗やポスターがあまりにたくさんあるからか。それとも春から夏へと向かう季節に特有の明るく楽観的な雰囲気のせいか。おそらく両方だろう。ライラックやリンゴの花が咲いていて、日本の桜の季節のように、街のあちこちに花がある。ことしの冬は寒かったし、モスクワでは4月の後半に積雪があった。1日のメーデーから続く5月の祝祭日は、ロシアの人びとにとって冬との訣別を確認する機会だ。


だがじっさいは、モスクワ市民はインターネット規制に煩わされていた。
2022年以降、ネットの規制はさまざまなかたちで行われてきた。リベラルメディアのアクセスが遮断されたり、外国のSNSが使えなくなったり。ツイッター(X)やFacebook、インスタグラムなどは、いまもロシア国内に残った人びとが利用しているが、ロシアではVPNを通さないとアクセスできない。2024年7月にはそれまでずっと維持されていたYouTubeへのアクセスが制限され、ことしに入って遮断された。テレグラムやWhatsAppなどのメッセンジャーアプリも使えなくなった。代わりにMAXという新しいロシア製のメッセンジャーアプリの導入が国民に推奨されているが、情報が政府に筒抜けになるとの噂があり、利用したがらないひとも多い。政府は中国型のネット監視を行いたいのだというのが大方の見立てだ。
この3月ごろからモスクワやペテルブルクを含む各地でネット接続が不安定になった。激しさを増すウクライナからの無人機の攻撃に対応するためだとされている。じっさい、モスクワに飛来するドローンの数は圧倒的に増えた。赤の広場で5月9日の記念式典をやるなら、それなりの備えがいるのは当然だろう。だから仕方ないとはいえ、戦勝記念日前後はネットが全然繋がらないことが何度かあって不便だった。地図アプリでは現在地表示が困難になった。パレードのリハーサルの日と戦勝記念日当日は、朝から昼過ぎまで電波がなかった。
5月9日、午前中に赤の広場で戦勝記念式典が行われた。せっかくモスクワに来ているのだが、街に出たからといって式典を生で見るのは不可能なので、まずはホテルでテレビをつけ、中継を見る[図4]。例年とは異なり、戦車や兵器のパレードは行わず、最新兵器の紹介は映像で済ませていた。いつものことながら、この日のプーチン演説でなにか大きな、そして破壊的な新方針が発表されるに違いないと憶測が飛び交っていたが、とくに新しい情報もなく、おもなメッセージは、「わが軍は優勢である」に尽きていた。

SNSでは、ウクライナの勝利を待望する人びとの間で、式典中の赤の広場を攻撃しない手はないぞといった非人道的な教唆をする声すら上がっていた。だが、そういったこともなく、式典は恙無くかつコンパクトに終わった。パレードには諸外国の外交官が集まり、同盟諸国の士官たちが行進に参加する。ことしは80周年の昨年のような規模ではなかったとはいえ、ベラルーシのルカシェンコ大統領、カザフスタンのトカエフ大統領、マレーシアのイブラヒム国王ほかが参加した。攻撃があれば大きな国際問題へと発展したはずだ。なお、ウクライナではアメリカの仲介もあってモスクワでのパレードの開催を認め、その間赤の広場は武力行使の対象から外すという大統領令も出されていた[◆5]。
パレードが終わったあと、わたしは地下鉄でモスクワ中心部へと向かった。地上に出ると、赤の広場から一直線に伸びるトヴェルスカヤ通りが閑散としている。車道が封鎖されていて車がいないだけでなく、歩行者もまばらだ。黒い制服を着た警察や治安維持関係者のほうが多いかもしれない。よく見ると、沿道の店はどれも入り口が封印されている[図3]。テロ対策だろう。午後や夕方から営業を再開するという張り紙を貼っている店もある。赤の広場をはじめ、クレムリン周辺の広場や公園は立ち入り規制がされていて、近づくことができなかった[図5]。この日トヴェルスカヤ通りにいるひとたちは、国内外の観光客のようで、封鎖された道路の向こうに遠く見える赤の広場の門を見て途方に暮れていた。

モスクワっ子はこの日中心部に出ても仕方がないことを熟知しているのだろう。地下鉄も空いており、やはりふだんはいない警備の存在が目立った。そういえば前日はモスクワから郊外に向かう道路がやたら混んでいた。この時期、ロシアの都市住民は土日には郊外のダーチャ(セカンドハウス)に移動して、庭いじりや犬の散歩など、のんびり過ごすひとも多い。参加型パレードもないので、モスクワに残ることに意味を見出すひとはあまりいないのかもしれない。
もう少し周囲を歩いてみたが、トヴェルスカヤ通りやクレムリン周辺にはまだ多少いた観光客たちも、道を一本なかに入るとどんどん減っていく。もともと住宅の少ない地域ではあるが、店も開いていないせいだろう、地元住民を含めて人出はかなり少なかった。こんなに閑散としたモスクワを見たのははじめてかもしれない。
さらに歩いてアルバート広場までやってきた。ここから、新旧ふたつのアルバート通りが伸びている。旧アルバート通りは昔のモスクワの面影を残した歩行者天国、新アルバート通りは、1960年代に建てられた本のかたちをした高層ビルが並び、ソ連時代のハイテクぶりに思いを馳せることができる。ふだん、このあたりは人通りが多く、観光客もたくさんいるのだが、車道が通行止めになっているせいもあって、やはりしんとしていた。
そろそろ地下鉄に乗ろうとしたところ、ふと目に入ったのがオンライン開催の「不死の連隊」を映すデジタルサイネージだった[図6]。赤の広場の写真を背景に、おもに白黒のソ連人たちの肖像写真が、5列に並んでゆっくり流れていく。後ろには次の列が待機している。それぞれの写真の下には写真の主の名前が示されている。肖像も名前も比較的小さいので、通行人が見ても、しっかり判別できるほどではない。映像には小さく「不死の連隊」と書いてあるほかはなんの説明もない。なにより、静止画を背景に、やはり静止画の古い肖像写真がだんだんと前に進んでいるように見せる映像はかなりシュールだ。そんな二次元の映像が、三次元の現実のストリートに差し挟まれているのだ。もしいま、たまたまなんとなく遊びにきた戦勝記念日など知らない観光客がいたとしたら、あの映像を見て、ひどく困惑するかもしれない。

戦争に参加した先祖たちを追悼し、顕彰し、記憶する「不死の連隊」。オンライン版は、事前にサイト上で名前と写真、生年などを登録しておくと、どこかのタイミングで流してくれるらしい[◆6]。ただし、100万人規模の参加者がいるはずなので、自分の祖父母や親の写真が流れる瞬間に遭遇する可能性は低い。
「不死の連隊」は、リアルに開催された年の様子を見ても、大量の肖像写真の持つ迫力に圧倒される。ただし、リアルイベントでは、オンラインとは違って、肖像写真を掲げて歩く、いまを生きる人びとがそこにいる。オンライン「不死の連隊」には生者がいない。死者の肖像写真が、自動的に前に進んで、自動的に交代する。「オンライン行進 онлайн-шествие」という言い方がされているが、肖像写真には足がない。
「不死の連隊」オンライン行進とは、地下鉄の乗り換え通路や道路を渡るための地下通路など、さまざまな場所で遭遇した。ニュースによると、この動画はテレビやネットだけでなく、ロシア全土のデジタルサイネージで流されたらしい[◆7]。モスクワの道端で、沈黙のうちに流れていく写真たちに注意を払うそぶりを見せるひとはとくに見かけなかった。むしろ、それらの顔たちを前に呆然と立ち尽くしたわたしが例外かもしれない。
ことし、「不死の連隊」がオンライン開催になったのはモスクワをはじめとするいくつかの都市のみで、ペテルブルクからユジノサハリンスクまで、多くの街でいまを生きる生身の人間が戦争参加者の肖像を掲げて行進した。ことしの参加者数は600万人以上だという。ペテルブルクでは、100万人以上が集まってネフスキー大通りを行進する、全国最大規模の「不死の連隊」が行われていた[◆8]。わたしがモスクワに来たことを後悔しなかったといえば噓になる。とはいえ、気を取り直して、こんな日にもひとが集まっていそうなソ連時代の博覧会跡地「ヴェデンハー ВДНХ」に向かった。あわせて2024年12月にオープンした「英雄行為博物館 Музей героизма」を見ておきたかった。

モスクワの万博記念公園
ヴェデンハーの巨大な空間は賑わっていた。
ヴェデンハーは、モスクワ北部にある、1939年設立のソ連時代の博覧会跡地の公園だ。不思議な名称は「国民経済達成博覧会 Выставка достижений народного хозяйства」の頭文字をとっている。公園にはスターリン時代に建てられた荘重な建物や噴水を中心に、無数のパヴィリオンが並ぶ。施設の番号だけを見ると500番台まであるのだが、ロシア語版ウィキペディアを見る限り、いまあるのは120程度のようだ。公式サイトを見ると、総面積は325ヘクタールとある。「世界一大きい展示・博物館・レクリエーション複合施設」、「モスクワでもっとも人気の公共空間のひとつ」で、指定文化財は49あるそうだ[◆9]。昨年の大阪・関西万博(155ヘクタール)の約2倍、1970年大阪万博(330ヘクタール)とほぼ同じ大きさだ。万博記念公園に当時のパヴィリオンや新しい展示場をぎゅっと詰め込んだようなイメージか。
ソ連崩壊後は寂れていた時期が続いたが、2013年から修復がなされ、いまではソ連時代の建築遺産のほか、宇宙やテクノロジー、それにロシア史などをテーマとする新しい展示場が続々と現れている。子ども向けのアトラクションやフードコートも充実していて、休日に家族で訪れたら退屈することはないだろう。スターリン時代の建物だけでなく、国民に対して国家の繁栄をアピールする万博ソ連圏版という当時の目的も遵守する、官民共同の投資の入った大型プロジェクトだ。
かつてここで開催された博覧会には、ソ連国内の各共和国や諸地域が参加していた。だから、公園にはスターリン様式の中央パヴィリオンのほかに、アルメニア館、ベラルーシ館、ウズベク館など、各地域の意匠を用いた凝ったパヴィリオンが並んでいる。中心部にある噴水は「民族友好の噴水」と名付けられ、各共和国を象徴する女性像が配置されている[図7]。ソ連建築が好きなひとにとっては堪えられない場所だろう。ソ連の栄華を感じられる空間であり、また公園としても散歩しがいがあるので、市民に人気なのも納得できる。

入り口の前には巨大な勝利のモニュメントが設置されていた[図8]。華々しい飾り付けとともに、たくさんのイベントが開催されていた。街中と同じく「ПОБЕДА!」、「9 МАЯ」の文字やゲオルギーリボンがあちこちに見られる。特設ステージでは独ソ戦時のカーキ色の軍服を着た男女が、オペレッタのようなものを演じており、立ち見の観客がステージをぶ厚く取り巻いていた。園内のいくつものベンチでは、これまた俳優が、当時の歌を歌ったり、寸劇を演じたりして、来場者が戦時下の市民生活に思いを馳せる機会を作っていた[図9]。当時のメディアや銃後の支えや鉄道など、青空展示がいくつもあって、ゲオルギーリボンをつけたりカーキ色のパイロット帽(ピロートカ)を被った親子連れやカップルが記念撮影をしている[図10]。全身独ソ戦コスプレのひとや、祖父母のプラカードを持っているひとも、ごくごく少数とはいえ、いた。体感では、来場者のうち、ゲオルギーリボンをつけているひとは1、2割程度、ピロートカは1パーセント未満といったところだった。



すでに察していただけていると思うが、現在のヴェデンハーはいささか愛国的な場所である。見た目の威圧感と壮麗さを重視したスターリン建築と、各共和国の意匠や特徴を誇張して個性を打ち出すスターリンの民族政策に忠実な共和国パヴィリオン、フルシチョフやブレジネフの時代の技術プロパガンダ、さらに21世紀のロシアの力を国民に知らしめるための展示が並んでいる場所なのだ。
発足から現在までの歴史をごくかんたんにまとめておこう。ヴェデンハーは、1939年にスタートした「全ソ農業博覧会」(ヴェエスハーヴェ ВСХВ, Всесоюзная сельскохозяйственная выставкаの略)に遡る。スターリン政権下での農業集団化の達成を国民に誇るため、ソ連20周年にあわせて大規模な博覧会を実施しようというプロジェクトだ。当初から面積136ヘクタール、250の施設という大規模なものだった。しかし、そもそも発案が1934年、動き始めたのが35年と遅かったせいもあり、革命20周年の37年には間に合わなかった。途中、責任者が粛清されて、せっかく建てたパヴィリオンを壊して建て直すというようなこともあった。37─38年は粛清がもっとも厳しかった時期で、この時期に大きなプロジェクトを任されることはリスクでしかなかったのではないかと察せられる[◆10]。
そして、せっかくオープンに漕ぎ着けたのに、すぐに独ソ戦が始まった。当初、博覧会は毎年数カ月ずつ実施されていた。戦争初年の41年には展示が行われたが、その後は兵器修理工場や倉庫として銃後を支える場所となった。戦後、1947年から再建と拡大が始まり、現在アイコンとなっている壮麗なスターリン様式の建物が建てられて、地域ごとのパヴィリオンが充実する。再オープンしたのは1954年。奇しくもスターリンが死んだ翌年だ。面積は207ヘクタールに広がった。
続くフルシチョフ時代の建築政策は、スターリン時代の華美を反省し、実用的な方向を目指すものだった。1958年、農業・産業・建設業の博覧会を合体させ、「国民経済達成博覧会」に名を変えることが決まる。1960年代には共和国パヴィリオンは産業や学問の部門別展示へと切り替えられ、共和国を代表するものではなくなった[◆11]。民族的な意匠も次第に消されていく。
そして、90年代ポストソ連時代の混乱期には、公園は整備が行き届かなくなり、パヴィリオンの展示は失われた。その後は、オフィスや商業施設の建設が目論まれたり、カルト宗教が園内に拠点を置いたりと、文字通り大混乱の時期が続いた。わたしが最初にヴェデンハーに行ったのはこの時期だが、率直に言って良い印象はなく、ほとんど記憶に残っていない。なかに入れないパヴィリオンが多く、入れても物産展をやっているだけだったりしたはずだ。この時期には「全ロシア展示センター」の名称で呼ばれていたことからも、博覧会場という歴史的なアイデンティティは重要視されていなかったことがわかる。それどころか、不動産の有効活用が目論まれ、園内にビジネスセンターを作るような計画もあった。かつての歴史的な姿を取り戻しつつ発展させる方針になったのは2010年代以降のこと。ソ連が崩壊して民間管理になっていたが、2014年にモスクワ市の管轄になり、いまに至る。
英雄の美学
広い公園をさまよいながら、いくつかの展示を見た。
まず、旧ウクライナ館。ここでは2025年、戦勝80周年記念で、「エスヴェオー(СВО, Специальная военная операция 特別軍事作戦)博物館」というウクライナ戦争の展示が行われていた。現在は「スラヴ文字博物館「言葉」」という企画で、中世からのスラヴ世界の文字や印刷、フォント、言語文化の歴史が、インスタレーションやアニメーションを用いながら、視覚的にわかりやすく、広い視野で展示されている[◆12][図11]。歴史のパートでは、中世ロシアの庶民の日常生活が書き残されたノヴゴロドの白樺文書、教会における聖書や聖人伝の翻訳や出版、印刷所の設立などが大きく取り上げられている。戦争とも絡めながら、日記などの私的な手書き文書にも焦点を当てていたところも非常に良かった。

これも一種の愛国展示であるが、子どもたちが言葉の歴史を学ぶことは悪くない。キーウよりもノヴゴロドにアクセントが置かれていたのと、ジェスチャーや方言までも丁寧に紹介されているのが印象に残った。展示は有料で、広い空間の割に、来場者は少なめだった。
「言葉」展が面白かったため、ここでかなり時間を使ってしまった。その後、とにかく無数にあるパヴィリオンの外観だけでも見ておこうと公園を歩いてみたが、広いのでそれだけで莫大な時間がかかる。ひとまず巨大な中心部を歩いたあと、地域パヴィリオンにも入ってみることにして、ベラルーシ館に立ち寄った。
パヴィリオンは中央の展示スペースとそれを取り囲むベラルーシ企業のショップエリアに分かれている。展示は、ベラルーシから見た戦勝記念日を扱うものだった。大きなモニターと旗、武器などの展示物、英雄の紹介などからなるよくあるタイプの展示であるが、独ソ戦の記憶に関して、ロシアと歩調を合わせた政策がとられていることが見て取れる。ショップではリネン製品や衣類、食品、化粧品などのほか、ルカシェンコの似顔絵や、ミームとなった彼の言葉が描かれたTシャツなどを売る店が大きな店舗を持っていたのに驚いた[図12]。入館無料のせいか、かなり賑わっていた。

そしていよいよ、「英雄行為博物館」を見る。あるいは、「烈士博物館」とも訳せるかもしれない。1939年に「モスクワ地方、トゥーラ地方、リャザン地方館」として建てられたスターリン様式の建物で、2024年12月、ルーシから現代までの英雄たちとともに、特別軍事作戦の「功績」を顕彰する展示が始まった。さらに2025年5月、戦勝80周年を記念して、独ソ戦と特別軍事作戦を繋ぐテーマでリニューアルオープンした[◆13]。ウクライナ戦争関連のプロパガンダ展示に入るのにはエネルギーを必要とするので、ここを見るのはいちばん後回しにした[図13]。

戦勝記念日ということもあるのか、入り口からけっこう混んでいる。コンパクトな会場で、3つの展示室があった。
入ってすぐにセキュリティチェックがあり、そこを通ると即座に展示が始まる。左右の壁に現在の戦争の功労者の映像が投射され、天井には独ソ戦と特別軍事作戦のさまざまな部隊の旗が2列に並んでいる。その奥は床が階段と坂でちょっとした丘のようになっていて、壁は奥に行くほど遠近法的に窄まっている。その壁には1945年と近年の戦勝パレードの映像が映され、足下のガラス張りの床の下にはナチスの鹵獲品とウクライナ戦争での鹵獲品が共存している[図14]。旗や武器、ワッペンなどだ。戦争で使われている「似たもの」を並置することによって、ほら、見て、同じでしょ、ウクライナが「ナチ国家」であるというロシア側の言い分は正しいでしょ、という主張がなされているのである[◆14]。素直な観客なら、そのまま受け止めるかもしれない。このようなタイプのプロパガンダの展示を何度も見てきた者としては、両側から迫ってくる戦勝パレードの映像の謎の迫力に慄きつつも、戦場から鹵獲できるものなんて、80年経っても大して変わらないのだなあ、と虚しい気持ちになった。

ロシア側が占領した(解放した)村や町の名前が列挙される狭い廊下を歩いて、メインの展示室に出る。これまたずいぶん狭い空間に、真ん中に鹵獲品の戦車を据えて、天井からはロシア軍の無人機を吊るして、一部を2階建てにして、通路をひとがひとり通れるくらいの狭さにして、展示物が詰め込まれていた。
足下のガラス張りの床の下には、特殊強化ガラスやらドローンやら、鹵獲品のなかでも新しいらしい軍需品が置かれていた。それらのものが、勝利の証しとしてだけでなく、新兵器や新素材の研究のために収集されていることを実感する。潜水部隊やバイク部隊、パラシュート部隊など特殊な部隊の紹介コーナーや、野戦のジオラマ、亡くなった軍人の映像が語りかけてくるインタラクティヴな仕掛けなどもあり、かなり充実している。さらには赤の広場に整列する特別軍事作戦の軍人たちが、独ソ戦の軍人たちのパレードを見守る巨大な絵画まで据えられていた[図15]。

最後の部屋は「戦士の道」と名付けられていた。ソ連時代の社会主義リアリズムの戦争記念彫刻を模した軍人の彫像が両側から迫る狭い道を進むと[図16]、奥には特別軍事作戦で亡くなった戦士たちを追悼する記念碑があった。現代の軍人の大きな胸像がふたつ、遠くを見据えている。彼らの前には星型の枠のなかに星型の灯明が敷き詰められている。頭上には変形星型の天蓋があり、青空にロシアとソ連の旗がはためく映像が投射されている。背後にも3方向に映像が投影されて、亡くなった軍人たちの名前が流れていく。赤い照明やめらめらと燃える炎の背景が「英雄行為」の情熱を的確に表しており、やりすぎな感もあるが、迫力がある。

ヴェデンハーという立地もあり、また無料の展示であることもあってか、家族連れがたくさん来ている。人びとはかなり真剣に展示を見ており、「かっこいい」戦争の断片を見て、引き込まれた様子の子どもたちもいる。狭いぶん、展示物が近く、臨場感がある。動線の作り方がやや迷路的で、じっさいに触れることのできるものもあり、しかも最後にはラスボスのように烈士の記念碑があるなど、ずいぶんとゲーム的な空間構造だ。おそらく、狭いことが逆に功を奏していて、見通しのきかない一見カオスな空間であるにもかかわらず、戦車や飛行機や軍服など、一目で判別可能な記号の集積からなっているため、クエストを解くかのように、展示を見ることができるのだ。子どもも大人も、大きなバイクのような全地形対応車とニッコリ写真を撮っていたのが記憶に残っている。最後の追悼の部屋は謎の要素が少ないせいか、人びとの滞在時間は短めだったように思う。
気になったのは、この展示に死の虚しさを感じさせる要素がきわめて少ないことだった。死者はいる。映像が写ったり、写真が掲げられていたりもする。だが、この博物館において彼らは「英雄」「烈士」である。決して「戦没者」ではないのだ。ロシアの発展と繁栄を展示するヴェデンハーに「英雄行為博物館」があることは、強いロシアを表象するシンボルとして、彼らの記憶を生き続けさせることでもある。
さらに、併設の小さなスペースでは、社会主義リアリズムを踏襲した作風のサラヴァト・シチェルバコフという彫刻家が、ドンバスやクリミアに現在の戦争の英雄記念碑を作っていることが紹介されていた。大理石の台座に銅像で「勝利」の歴史を刻むという古いプロパガンダの形式が、いまだに活用されていることに驚いた。まだ効果があるからそこにリソースが投入されるのか、それとも惰性で旧来の手法を踏襲しているのか。
わたしが訪れたあと、夏には「英雄行為博物館」は閉鎖された。手狭になったため、2026年11月に、モスクワ南方の郊外にある「モスキノ」映画公園に現在の4倍の面積の展示がオープンするらしい[◆15]。モスキノはモスクワの映画館や市内での映画撮影を管理・運営する公的機関である。映画公園は撮影用のセットがいくつも設置された巨大な映画村で、2024年にできたばかりのようだ。
ヴェデンハーの展示は、空間の制限のせいでゲーム的な工夫が凝らされ、また、無駄のないものだった。4倍になったときにどうなるのか。それに、フィクションが作られる映画村で、戦争プロパガンダの展示がどう見えるのか、気になるところだ。
疲れ切ったが、まだ明るいうちに体力を振り絞って市の中心部に戻った。19時半ごろ、クレムリンの最寄り駅から地上に出る。ふだんなら赤の広場やその手前のマネージ広場の出入りはだれでも自由だが、この日は昼間の柵が一部残されていて、遠回りをしてセキュリティチェックのゲートを通らねばならない。赤の広場はまだ閉鎖されていた。人びとはアレクサンドロフスキー公園の無名戦士の墓や英雄都市のモニュメントに献花をしたり、ジューコフ将軍像の前に設置された巨大な「勝利」の文字とともに記念撮影をしたりしていた[図17]。

パトリオット公園
今回の旅行では、ロシアの戦争文化・愛国文化に向き合うことを自分に課した。英雄行為博物館に行ったのもそのためだ。
わたしがロシア文学を学ぶようになった直接のきっかけは、トルストイの『戦争と平和』を読んだことにある。人間の運命を大きな視座で描いたこの長編小説に、高校生だったわたしは大きな感銘を受けた。なんの因果か従軍することになった農民の老人プラトン・カラターエフが語る、世界の歯車と人間の話は、わたしの人生観を変えた。だが、これまでわたしはこの小説の「平和」パートを好み、「戦争」の部分に対しては、十分に関心を持ってこなかったのではないか。それではだめだ、世界は戦争と平和の両方からできている。戦争から目を背けることはできないのだと、2022年以降思い知らされ続けてきた。
戦時下に戦争がどのように語られるのか。反戦の声はわたしにはわかりやすい。他方、戦争を擁護する人びとは、どのような論理を用いて、それをどのように表象しているのか、理解する必要がある。彼らの政治的主張はネット経由で知ることができる。だが、そのまわりにどのような空気や空間があって、どのようなひとが、どのくらいのコミットメントでそれを支持するのか、そういった「あわい」のようなものは、遠くにいてはわからない。意識的に見るものや、アルゴリズムに調整されたものからは見えないものを見る必要がある。はじめに述べたとおり、街を歩きながらたまたま目に入ってきたり、カフェにいたらたまたま聞こえてきたりするような、わたしの能動性の関与しない情報が欲しかった。
そんなわけで、自分に無理を強いて、パトリオット公園に行った。モスクワ郊外のオジンツォヴォ市にある、ロシア国防省が作った軍事のテーマパークである[◆16]。
パトリオット公園がオープンしたのは2015年のこと。本体は、戦車や戦闘機をはじめとする兵器の展示場だ。ほかに、訓練場や射撃場、戦争ゲーム施設、スポーツ施設、独ソ戦のパルチザンの生活の展示場、さらには戦争画のアトリエなど、軍に関する多様な施設が置かれている。総面積は5414ヘクタールで、ヴェデンハーや万博記念公園の比ではない。ここでは「アルミヤ」という最新兵器の見本市も開催されている[◆17]。軍事評論家の小泉悠さんはコロナ禍前にパトリオット公園に行ったことがあると言っていた。
2020年、戦勝75周年を記念してここに巨大な教会と博物館ができた[◆18]。カーキ色の「ロシア軍主教会」は高さ96・2メートル。教会のなかにはロシア軍の威光を称えた聖像画が大量にあるという。建造当初は、プーチン大統領が描かれていると報道された。これはさすがにプーチンが辞退して撤去されたらしい。教会のまわりには大祖国戦争(独ソ戦)についての巨大な博物館がある。
兵器には心が動かされないが、教会は見てみたい。前号の連載でセルビアの新しいイコンに触れた。ロシアでも新しいイコンは続々と生産されている。街中で新しく建設中の教会を見かけることも多いので、需要もあるのだろう。イコンに描かれる物語に、現代の軍人が登場することもある。たとえば、2018年にモスクワ郊外のブトヴォの「ロシア新致命者・表信者教会」で見たイコンには、聖人を迫害する赤軍兵士たちが描かれていた[図18]。ブトヴォは、スターリン時代に粛清された人びとの銃殺場となっていた場所で、多くの聖職者がここで命を奪われた。致命者とは殉教者のこと、表信者は命までは落とさずとも、信仰のために受難した者を指す。「新」がつくのは彼らが現代に列聖されたからだ。
ブトヴォでは赤軍兵士は宗教を迫害する側だった。だが、ロシア軍主教会では軍人が顕彰されている。いったいどのように描かれているのか、知りたかった。
パトリオット公園までは、モスクワから郊外列車で45分、そこからバスまたはタクシーで15分程度だ。列車もバスも本数は少なめなので、待ち時間がかなり長く、滞在先のホテルから鉄道駅まで行く時間も含めて2時間近くかかった。バスに乗ったのはティーンエイジャーの集団らほぼ現地のひとで、外国人は、わたしのほかは中国人が数名いるのみだった。砂埃のなか、殺風景なミンスク街道を走っていると、遠くに重苦しい色をした巨大な建物が現れた。
カーキ色のエントランスでセキュリティチェックを受けてなかに入る。左手の向こうのほうにやはりカーキ色の凱旋門があり、そのさらに奥に教会が建っている。凱旋門へと続く遊歩道には、「英雄と功績──世代の継承」という独ソ戦とウクライナ戦争の軍人たちの活躍を比較しながら顕彰する本格的なパネル展示が行われていた[◆19][図19]。「祖国の英雄の日」の記念パネルだという。1769年にエカテリーナ2世が聖ゲオルギー勲章を制定した日にちなんで、2007年から12月9日に祝われる、いわばゲオルギー勲章受勲者の日だ。なるほど、ゲオルギーリボンが人口に膾炙していく背景には、こんな祝日もあるのだ。展示に使われているポスターの掲示板もカーキ色。あたりを見ると、街灯も、ベンチもカーキである。

凱旋門を抜けて、広場に出る。正面にカーキ色の巨大な教会がある[図20]。映像で見ていたよりも重厚かつ重量感があり、重苦しい。まるで戦車のようだ。金の丸屋根も、エメラルドグリーンに光る採光ガラスも、カーキ色の躯体の存在感を際立たせていた。翼廊やドームを山状に積み重ねた、安定感のある正教会。とはいえ、どうも不安定な感じもする。なにより、色だ。ナポレオン戦争の勝利を記念するペテルブルクのカザン聖堂や、モスクワの救世主ハリストス大聖堂も、威圧的ではあれ、こんなあからさまな武器の引用は用いていなかった[◆20]。

戦争には美学がある。ひとは戦車や銃や戦闘機に美的に惹きつけられる。軍服は人類史のなかで憧れの的であり続けている。ひとはそれらをかっこいいと思うし、デザインする側はかっこいいと思われるように努力している。それはエンタメを見れば一目瞭然だ。映画にせよドラマにせよアニメにせよ漫画にせよ、戦争の美学を用いて人気を獲得する作品は多い。軍艦が女の子になる『艦隊これくしょん ─艦これ─ 』や、その名も少女と戦車の『ガールズ&パンツァー』が絶大な人気を博したことは、そうした人間の心理をよく表しているだろう。NHK大河ドラマでさえ、戦闘シーンがないと視聴率が下がる傾向にあるそうだ。そういえば、戦車が主役というだけで日本で受けていたロシアの現代映画もあった[◆21]。
カーキ色の教会は、威圧的な存在感でわたしに迫ってくる。まわりでは家族連れが記念撮影をしている。子どもたちははしゃいでいる。わたしが感じる威圧感には、灰色の雲がどんよりと垂れ込んだ重苦しい天気の日だったことも影響しているのだろうか。なお、どこかテーマパークっぽい虚構性を感じたことも記録しておく。
そもそも、軍と教会は親密なものだ。ロシア正教会は、ウクライナ戦争を全面的に支援している。これから戦争に向かう軍人たちを、聖職者が聖水で清める姿を、さまざまなニュースで見かけるようになった。反戦のそぶりを見せた聖職者たちは、密告されて教会から追い出されている。ウクライナの戦争博物館でも従軍聖職者たちに焦点を当てた展示を見たことがある。そんなことを考えながら、教会の存在感に押しつぶされそうになるのをぐっと堪えて、自らを鼓舞しながら階段を上り、なかに入る。
神のご加護
ロシア正教の教会の内部は、聖像画で埋め尽くされていて美しい。ロシア軍主教会も美しかった。内装もやはりカーキ色がベースで、正面には深い青を背景に、金色のキリスト像が空中に浮かぶ。屋根のステンドグラスにはさまざまな勲章がアレンジされている。聖人たちを描いたイコンは、金色の背景がカーキ色の壁や柱によく映える。シャンデリアも凝っていて、ひとつひとつのランプが星の輝きのようだ[図21]。

すべてが洗練されていた。むしろ、訪問者に与える効果を最大限にするために計算し尽くされたような印象だ。そして、あきらかに現代人の美的感覚に寄せて作られている。イコンの図像やその配置にはカノンがあって、本来こうした教会の内装では作家の個性は出せないはずだが、かなり自由に変えているように見える。夜空に浮かぶキリストの像の青は、現代の塗料にしか出せなそうな印象的な色で、視覚効果を狙った現代美術を思い起こさせる。カーキ色も現代性の根幹を作っているのだろう。あざといまでに美しいのだ。
建築家は1985年生まれのドミトリー・スミルノフ[図22]。わたしははじめて聞く名前だ。3Dモデリングを用い、最新のテクノロジーと伝統の技法を融合させているそうだ[◆22]。コンピュータ・グラフィックからキャリアを始めたらしいので、教会の独特の整った美しさも、CG的感性に起因するのだろう。彼自身が建築畑でないからこそ可能な、斬新なアイデアを用いているようだ。

モザイク画には、歴史的にロシアが戦ってきた戦争が、中世から現代に至るまで描かれている。モンゴルのくびきからの解放への糸口を作ったクリコヴォの戦いや、北方戦争、クリミア戦争、ナポレオン戦争など、ロシアの戦争の歴史が一望できる。13世紀のアレクサンドル・ネフスキーと18世紀の大元帥スヴォーロフといったように、絶対に出会わない人びとが集合している図像もある。この歴史を超える感覚は、ゲームやアニメなどの空想的な世界観のなかで培われたものかと思いきや、ワシリー・ネステレンコ(1967年生まれ)という歴史画・宗教画の大家の仕事だった。インタビューを読む限りかなりの愛国者だ。どの戦いにもロシア軍を守る天使が描かれている。また、ロシア軍に勝利をもたらしたとされる「奇跡のイコン」が描き込まれているものも多い[図23]。

もっとも迫力があるのが、教会の後方にならぶ大祖国戦争から現代に至るロシア軍の活躍を記念する6枚の作品だ。それまでの戦いは、丸屋根のアーチのところなど、建築物のかたちにあわせた、変形のフォーマットに描かれているが、大祖国戦争以降は、上部がアーチ状になった縦長の巨大なパネルが使われている。どの絵も天上と地上の2画面からなり、天上には天使や聖人が大きく描かれ、地上には戦ったたくさんの人びとがいる。パネルの下には、「ブレスト要塞防衛戦、ウクライナ・モルダヴィア・ベラルーシ防衛戦、スモレンスクの戦い、モスクワ攻防戦」など、そこに描かれている軍人たちがどの戦いに参加したのかが記されている[図24]。人物の顔が書き分けられているので、実在の人物に合わせているのかもしれない。

図24の天上部分の中央に大きく描かれているアレクサンドル・ネフスキーは国を救った軍人であるだけでなく、キリスト教世界を救った聖人でもある。これらの絵画では、単に戦場の軍人が天使や聖人に守られているというだけでなく、キリスト教世界のために命を投げだす覚悟で戦った人間は、聖人になる可能性もあることが示されている。
大祖国戦争を描く5枚のモザイク画のうち最後のものは、「カリーニングラード奪還、東欧諸国解放、ベルリン攻防戦、ナチスドイツ降伏、軍国日本粉砕」で、そこには日の丸と日本の軍人の姿もあった[図25]。

6枚目のモザイク画に描かれているのは、現代の軍服を着た軍人たちである[図26]。絵の下の、どの戦争の参加者であるかを示すキャプション部分を見ると、やたら文字が小さい。そこには、第二次世界大戦後にソ連・ロシアが関わってきた戦争が列挙されていた。長いがすべて訳出する。

中国内戦、朝鮮戦争、ハンガリー・ラオス・アルジェリアの動乱、ベトナム戦争、エジプト・シリア・モザンビークの軍事衝突、チェコ軍事衝突、ダマンスキー半島の衝突、カンボジア・バングラデシュの戦争、アンゴラ戦争、エチオピア・ニカラグアの軍事衝突、アフガニスタンにおける国際責務遂行、レバノン・チャドの軍事衝突、ナゴルノ=カラバフ紛争、ユーゴスラヴィア戦争、アブハジア・タジキスタン・沿ドニエストルの軍事衝突、第一次・第二次チェチェン戦争、ジョージアへの平和の強制、シリアでの国際テロリズムとの戦い、クリミア再併合
わたしはいままで、ソ連・ロシアがこんなに多くの戦争に関わっていることを考えてもみなかった。ロシアには大規模な軍隊があり、そこで軍人は仕事として戦争をしているというあたりまえのことを意識していなかった。たしかに、友人にも父親が軍人だというひとは複数人いる。ロシアでは珍しいことではない。
日本では、自衛隊は基本的に戦場には行かないし、戦争に関わるにしても平和維持活動に限られている。われわれ国民が親しんでいる自衛隊の活動といえば、災害時の救援活動くらいだろう。ロシア軍では、自衛隊が災害時の救援をするのと似たような頻度で、他国の戦争に介入しているということか。
軍人という職業は人間の仕事のなかでももっとも古いもののひとつだ。どんなに文明が進んでも、軍人はいなくならないだろう。戦争もなくならないだろう。いま、ロシアで軍人の文化が急速に目立つようになってきているのは、むしろ、軍人が自分の職務を遂行していることが正当に評価されることを求めているからなのだろう。政治的な正しさが優先される時代に、軍人という職業はどう評価できるのか。
ロシアと同じく軍が大きな力を持つアメリカを見ると、軍人は映画などでもかっこよく描かれ、憧れの対象ともなっている。ハリウッドのセレブたちがアカデミー賞授賞式などでポリコレを誇示することと、軍人が生き生きと活動する映画に出演することは、アメリカでは矛盾しない。ロシアではいまだにソ連映画的な正しい倫理観か、あるいは自己アイロニーの美学にがんじがらめになっていて、明るくてかっこいい軍人のモデルを作りきれていないのかもしれない[◆23]。
ところで、現代の軍人が描かれた図26をもう一度見てほしい。天上の空間で、2人の天使があきらかに女性として表象されている。おそらく、軍人たちを支える存在としての女性が暗示されているのだろう。プーチン政権は2010年代以降、伝統的価値観を重視する政策をとっているが、彼らの女性観がこんなところからも見て取れるのが興味深い。それだけでなく、天使や女性の表象や、ニュアンスのあるピンク色の空などには、アルフォンス・ミュシャの《スラヴ叙事詩》への参照なども考えてみたくなる。ロシア正教のイコンの美学と社会主義リアリズムに現代的なイラストの要素も混ざる、重厚だがどこかポップなモザイク画は、軍人の新しい美学になるのだろうか。それはどこまで「ロシア的」な美なのだろうか。
ちなみに、教会の建築プランが決定してから完成までは1年半しか時間がもらえなかったそうだ。突貫工事かと思いきや、テクノロジーによる効率化と軍の建設班の努力のおかげで間に合わせることができたという。しかし、結局、コロナ禍のせいで、2020年5月9日に予定されていたオープンは延期された。
顔の氾濫
教会の「美」の圧力ですでにぐったり疲れてしまったのだが、このあと独ソ戦博物館「1418 記憶の道」も見なければならない。下調べをしているときにはよくわかっていなかったのだが、この博物館は、聖堂のまわりの公園を挟んで外側を城壁のようにぐるりと取り囲んでいる[図27]。「1418」は独ソ戦の日数だ。独ソ戦の始まりから終了まで、自分の足で歩いて、なかなか終わらないことを実感させる、体験型ミュージアムの極北と言っていい。もちろん、途中にいくつも出入り口があり、いつでも見るのを止めることができる。しかし、戦争はそうもいかない。小休止や、終戦への期待は定期的にやってくるが、自分の意思で抜け出すことだけはできないのだ。

入り口前の地面には「あなたの1418歩を歩んでください」と大きな文字で書かれているのだが、どう考えても1418歩では済まない長い道のり。全長1・5キロメートルあるのだそうだ[図28]。しかし、博物館の話はなんとか簡潔にとどめたい。この原稿も思いのほか長くなってしまった。

ひとことで言うと、よくできた博物館だった。パトリオット公園にあって、最近の愛国気分の盛り上がりのなかで作られたものなので、どんなプロパガンダを見せられるのかと危惧していたが、戦争の歴史的な歩みを現代的な展示のさまざまな方法──ジオラマ、映像技術、クエスト、データやデータベース、アルテファクト、オーラルヒストリー、詩や日記や新聞記事などのテクスト──を駆使して、視覚的にも体験的にも興味を持たれるように、そぞろ歩きの観光客にも印象に残るように、また、興味を持って見るひとには発見があるように、工夫して作られていた。
気になった点をふたつに絞って紹介しよう。
ひとつめは展示への導入とルートの作りかた。展示は、1941年6月のセクションから始まる。戦争前夜だ[図29]。ここは、独ソ戦の時代にワープするトンネルのような作りなのだが、レニングラードとモスクワの街の写真に子どもの写真がコラージュされて、トンネル全体に投射されている。天井は雲のたなびく青空。通路には子どものポップな落書きが、あたかも街路であるかのように描かれている。戦争は、平和な生活に侵入してくるのだ。

そして、次の部屋で戦争が始まる。最初に空爆があったいくつかの都市の映像が、180度のワイドスクリーンにカラーで映し出される[図30]。写真をAIで色付けして炎をやや強調して、動画にしているのだと思われる。スピーカーからは爆撃音が聞こえてくる。展示が始まってすぐだということもあり、前の部屋とのギャップが強烈だ。当然ながら、2022年2月のことを思い出した。平和から戦争へいっきに切り替わるのは、子どもは怖がりそうな気もするが、戦争が始まるときに人びとが味わうあのひどいショックを再現しているのだろう。

このようなコントラストが可能になるのは、この博物館が教会のかたちをなぞった回廊式の建物であるからだ。回廊と小ホールが交互に組み合わさっていくので、長い展示を見て歩くのに、建物がアクセントとリズムを与えてくれるのだ。回廊の展示はだいたい同じ作りで、右手に大きなセピア色の戦争の写真、その下には戦争参加者たちの写真データベースがずらりと並んでいる[図31]。さらにその下の展示ケースには、手紙や日記など、個人の存在を感じさせる資料や、記事の切り抜きや文書が並ぶ。左手は、写真のスライドショーか、映像で戦況や戦時下の状況の説明がなされるか、あるいは銃弾や武器や旗などの戦争関連のものが置かれている。パネルとパネルの間の柱部分では、関連の公文書を読むことができる。左側にはほかに、戦車などの重機が置かれていることもあり、床に撮影ベストスポットのマークがついていたりもする。さらに、床が一部ガラス張りになっていて、武器やレンガや壁の破片など、戦争の遺物を見せる。

じっさい、この回廊と同じタイプの展示が1・5キロメートルずっと続くだけだったとしたら、とてもじゃないが観客の集中力は持たないだろう。合間に、レニングラード包囲戦や、スターリングラードの戦いやパルチザンの生活などのジオラマが挟まることによって、飽きずにすみ、また、思考が立体的に整理されていくのだ[図32]。

ふたつめは、戦争参加者の顔写真の使用について。この展示は、じつはかなり戦争参加者の写真に焦点が当たっている。
図31で回廊部分の右側、上下3段でずらっと顔写真が並んでいるのを確認してほしい。この、戦争参加者の写真の列は、最初の回廊から最後の回廊までずっと続く。ところどころに検索画面があって、自分の親戚や知り合いを、名前などで検索し、情報を表示することができる。とくに書かれてはいなかったが、「不死の連隊」と同じデータベースを使っているのかもしれない。展示の最後の部屋は、最初と同じようなアーチ型の廊下なのだが、戦争参加者の肖像写真が大量に映し出され、その数がカウントされていく[図33]。

この展示には大きな留保すべき点がある。これだけ無数の顔写真が並ぶと、ひとりひとりに興味を持つのは難しい。いろんな顔、いろんな名前があるのはいいが、とはいえ何十万という規模の数で古い写真を並べられても、ほとんどのひとは区別がつかないのではないか。
負の記憶を継承するなかで、重視されてきたのはつねに名前だった。石に名前を刻むことが、すなわちひとが生きた証しを残すことだと考える人間の思考回路は、墓石を見ればあきらかだ。戦争や虐殺や災害で大量死が生じたあと、残された人びとは犠牲になった人びとの魂を弔うために、石に名前を刻んできた。戦没者の記念碑には、必ずと言っていいほど、そこに祀られている人びとの名前がずらっと刻まれている。日本でも、沖縄の平和祈念公園には、「平和の礎」という巨大な戦没者追悼記念碑群があって、丘の上に規則正しく並べられた石のプレートにひたすら名前が記されているのを見ることができる。それらの名前を見て、個別のひとの顔を連想することはほとんどないが、とはいえ、これだけの個人が戦争に巻き込まれたことに愕然とするのである。
近年の愛国ロシアでは、名前が本来担っていた記憶の継承の機能を、写真が果たしている。この原稿で最初の方に紹介した、戦勝記念日のパレード「不死の連隊」が典型的だが、人びとは死者を記憶するだけでは飽き足らず、顔写真として現実の生の空間に呼び戻し、政治に参加させるのだ。持ち手がついてプラカードになった写真は、人形劇の人形とも類似したかたちをしている[◆24]。
これはいったいどういうことなのか。なぜロシアの人びとは、そんなに顔写真に囚われているのか。そういえば、ロシアでは、墓地に写真が飾ってあったり、墓碑に浅彫りで肖像画が彫り込んであったりする場合も少なくない。肖像画付きの墓石はボスニア・ヘルツェゴヴィナで立ち寄ったセルビア正教会の墓地でも見たものだ。
ロシア語で顔はリツォ лицо。リツォは顔だけでなく、個人をも示す。個別の人格はリーチノスチ личность で、リツォの派生語だ。ロシアで顔と個人は深く結びついている。さらに、もしかすると、顔へのこだわりは、聖人の顔をクローズアップで描いたイコンに伝統的に親しみ、庇護や奇跡の力を求めてきた、そんな伝統があるからかもしれない。そう考えると、ロシア軍主教会の新しいイコンも、大きな必然性があるように思えてくる。
「記憶の道」博物館に視線を戻そう。独ソ戦の歴史を振り返りながら、知らない人びとの顔を大量に見る──こうした営みがなにに似ているかといえば、現実社会それ自体かもしれない。電車に乗るとき、博物館に行くとき、われわれは、たくさんの知らないひとの顔を見る。店の店員ら、名札をつけているひともいる。しかし、たいていのひとのことは覚えていないし、2度目に会っても気づきもしない。
記憶の政治のなかで回復された名前も、回復された肖像も、どちらも本質的には本人ではなく、親戚や子孫、友人らのためのものである。同時に、遠く離れた他者が関心を持つごくわずかな可能性のための、頼りないフックでもあるのだろう。後者の場合は、名前の文字列より、顔のほうが有効かもしれない。
ところで、回廊の右手の、3段の肖像写真の上には、セピア色の戦争写真が展示されていることは先に述べた。これらの写真は、どうも解像度が粗めで、近づくとぶつぶつしているようにも見える。1418日の道のりを3/4くらい歩いたところで、突然気がついた。近寄って、じっと目を凝らしてみる……この写真は単なる写真ではなく、モザイクだ! しかも、無数の顔写真からできている。これまで見てきた何十枚もの大きな写真は、すべて小さな小さな肖像写真を集積したものだったのだ[図34・35]。

これには驚いた。
おそらく、気づいているひとはほとんどいない。どこにも書いていなかったと思う。ガイド付きツアーなどでは語られるのだろうか。
なんのために、この、肖像写真の集積が必要だったのだろうか。ひとつ思うのは、これは、コンピュータなしには作れないということだ。これだけ細かい作業は、人間の目と手で行うのは不可能だろう。データベースに格納された肖像写真たちは、無作為に選ばれた素材となる。顔は、コンピュータ・グラフィックの力で、持ち主を離れ、ときに雑に扱われて、時代を代弁しているかのような顔をさせられるのだ。
とはいえ、スミルノフやキュレーターが大祖国戦争の死者たちの顔を蔑ろにしているわけではまったくないはずだ。単に顔をできるだけ露出させようとしたのではないか。独ソ戦のソ連での犠牲者は、軍人と民間人を合わせて2000万人とも言われる。それだけのひとたちが一体となって国を守り、ヨーロッパを守り、世界を守ったという意識こそが、死者の顔を集結して戦争のシーンを作るということをなんの躊躇いもなく行わせているのではないか。戦争の功績を後世に伝えるために、戦争で頑張ったひとたちがふたたび動員されている。
他方、モザイクといえば、聖像画である。前節で見た教会内の壁画はモザイクだった。CGで作った写真のモザイクと、教会の石のモザイクは手法も手間もまったく異なるはずだと思うのだが、1年半の納期であの数のモザイクを作ったなら、それはやはりコンピュータの技術が大いに活躍しているのだろう。いずれにせよ、写真のモザイクは、聖像画のモザイクに想を得ているはずだ。モザイクはソ連の公共壁画でよく使われる手法でもある。
ソボールノスチ соборность という言葉がある。ソボール собор には会議、会合、聖堂などの意味があり、ソボールノスチはロシア的な宗教的一体性、神への共通の愛を通じた人びとの自由な団結、霊的結合などと説明される。19世紀、ロシアの思想界は西欧派とスラヴ派に分かれて論争を繰り広げた。ニコライ・ホミャコフやイワン・キレエフスキーらスラヴ派の知識人は、西欧の個人主義に対抗して、全人類の連帯や同胞愛を体現するロシア的な概念としてソボールノスチを提唱する。教会に集まって、全員が一体となって神に向き合うあの感覚。ドライに考えると、日本で言う「同じ釜の飯」的な感覚なのだろうか。いや、あの、肖像写真からなる戦争写真モザイクを見て、ソボールノスチはもっと大きな一体化であるだろうと思った。自分の顔は保ちながらも、知らず知らずのうちに、大きななにかの一部になっている。
ふと、このソボールノスチは、東方正教会の聖堂の内装を思い起こすと理解しやすいのではないかと考えた。
東方正教会の内部の壁は、イコンで埋め尽くされている。聖人の顔で埋め尽くされていると言ってもよい。ロシア軍主教会は巨大で、天井が高く、採光窓が多く明るい。風通しもよくて(空調にも工夫が凝らされているらしい)、こうして考えてみても正教会としては標準的ではなさそうだ。比較のために15世紀に建てられたクレムリンのウスペンスキー大聖堂を見てみよう[図36]。教会はさほど広くなく、窓は少なく、壁はびっしりとイコンで埋まっている。教会内にいると、四方八方からイコンの顔が迫ってくる。聖人たちは、生身の人間に己の生き様で圧をかけてくる。彼らは信仰に命をかけたのだ。教会のなかで、ひとはイエスや聖母や聖人たちの複数の視線を等しく浴びる。そして、判断がつかなくなってくる。そこが神や聖人に守られて居心地がいい場所なのか、それとも監視され、粗探しをされ続ける場所なのか。少なくとも確固たる信仰を持たない者はそうではないだろうか。

「記憶の道」博物館でも、訪問者は戦勝のために命をかけた先祖たちの無数の視線に晒され続ける。「不死の連隊」もそうだ。信仰のため、勝利のため、命をかけて戦った者たちの視線につねに晒されている状態が、現在の「ソボールノスチ」の条件なのだとしたら? それはやはり、窮屈で重苦しいだろう。

顔のない犠牲者たち ピスカリョフ記念墓地
本稿ではここまで、モスクワの話をしてきたのだが、最後にサンクトペテルブルクに戻りたい。1995年にわたしがはじめて戦勝記念日に出会ったあの街である。
独ソ戦のころ、この街はレニングラードと呼ばれていた。だから、英雄都市の呼称を得たのもサンクトペテルブルクではなくレニングラードだ。戦争関連のメモリアルに刻まれているのも、このソ連時代の呼称である。そして、レニングラードには独ソ戦に関して他の街とは異なる記憶がある。
レニングラードは872日間ドイツ軍に包囲されていた。水道・電気・ガスなどのインフラが破壊され、補給路も絶たれて、市民は真の飢餓を経験した。空爆も激しかった。寒波のきつかった41年から42年にかけての冬にも薪はなく、家具が燃やし尽くされた。配給は1日にパン2切れ程度。皮革製品やリノリウムを煮込んで食べたという話もある。それどころか、生きるためには、死体(人肉)やペットやネズミだって食べた。街中に餓死した人びとの死体が転がっていた。2年半の包囲戦で亡くなったひとは100万人以上である。
ペテルブルクには、いまもレニングラード包囲戦の記憶が残っている。終戦後81年、まだぎりぎり、戦争を経験した世代が生き残っている時期だ。飢えや死の記憶、それに、死を逃れるためになんでもした罪や恥の記憶も根強いだろう。もちろん、共に戦い抜き、生き残ったポジティヴな記憶も共有されているはずだ。
日本で原爆の記憶がいまも語り継がれ、世代を超えて残り続けているように、ロシアでも、レニングラード包囲戦の凄惨な生活や凄惨な死の記憶は忘れられていない。2022年2月に、ペテルブルクで大々的な反戦運動が起こったのも、戦争の負の記憶が彼らにのしかかっているからだろう。レニングラード包囲戦については日本語で読める文献も多数あるので、興味のある方は調べてみてほしい。
ペテルブルクの南の外れ、モスクワ大通りの終点には、1975年に建てられた包囲戦のメモリアルがある。円形の広場を壁でぐるっと囲み、一箇所その壁が突破されたところに、オベリスクが建っている。社会主義リアリズムの群像彫刻もある。戦後30年が経って、当時苦しみながらも街を守った人びとを称える、英雄(化)のためのメモリアルが作られたのだ[図37]。

他方、街の反対側、北東の外れのピスカリョフ記念墓地には、レニングラード攻防戦の間に亡くなったひとのうち、約50万人が眠っている。6月の渡航の際に、はじめてこの墓地を訪れた。
地下鉄「勇敢広場」駅からバスに乗って、広い車道の不屈大通りをまっすぐ郊外に向けて10分ほど行くと、左手に墓地が見える。墓地の門を入ると、すぐに「永遠の炎」のモニュメントがある[図38]。無名戦士の追悼碑で、つねに炎が燃えている。モスクワのアレクサンドロフスキー公園にあるのと同じものだ。門と永遠の炎は少し高台になっていて、墓地全体を見渡すことができる。そこで見た光景は、わたしが想像していたものとはまったく異なっていた。

墓地といっても、芝生の畝があるだけなのだ。正確な大きさはわからないが、たとえば幅5メートル×長さ15メートルといったサイズ感の、長方形の畝だ。そこに、年号と、鎌とハンマーのマーク、あるいは星のマークがついた、ちいさな石碑が添えられているだけ。石碑のサイズは50センチメートル四方もあるだろうか。そして、そんな畝が、400から500メートル先の祖国の母の記念碑まで、いくつも静かに並んでいる[図39]。ひらけたスペースのさらに両脇には多少木々の茂ったところがあるが、芝生の畝はそちらにも続いているらしい。

鎌とハンマーのマークは一般市民が、星のマークは軍人が眠る墓なのだそうだ。軍人よりも一般市民のほうが多く、没年は1942年のものが圧倒的に多数だった。
解説はほとんどなく、併設された博物館もかんたんに歴史的経緯を説明するだけのたいへん小さいものだった[◆25]。祖国の母の記念碑も、たとえばヴォルゴグラード(旧スターリングラード)にあるような、ひとを鼓舞する威圧的なものではなく、静かで控えめだった[図40]。祖国の母の像の後ろにある横長の石の記念碑には、大理石ではなく、もっと質素でざらざらとした表面の、御影石のようなグレーの石が使われている。中央にレニングラード包囲戦を象徴する詩人オリガ・ベルゴリツの詩行が細い線の文字で刻まれ、その両脇に浅浮き彫りで包囲下での兵士と市民の生活の6つのシーンが彫られている。最後のひとつが墓所に花冠を掲げる追悼の場面だったのには心を打たれた。

この墓地には顔がない。名前もない。ただ、芝生の生えた盛り土が、綺麗に整備されて静かに並んでいるだけだ。ベルゴリツはそれを、こんなふうに歌っている。
ここにレニングラード人が眠っている。
ここに市民の男、女、子どもらが
赤軍兵士と並んでいる。
人生のすべてをかけて
お前を守った人びとだ、レニングラードよ、
革命の揺り籠よ。
彼らの気高い名を、ここに列挙することはできない。
あまりに多くのひとが、御影石の永遠の守りの下にあるのだ。
だが、おぼえておけ、この石に耳を傾ける者よ、
忘れられるひとはひとりもおらず、忘れられるものはひとつもない。
ベルゴリツの詩のうち、ここで引用した最後の詩行にある「忘れられるひとはひとりもおらず、忘れられるものはひとつもない Никто не забыт и ничто не забыто」はいま、ドンバス戦争の被害の記憶や、ロシアのプロパガンダからすると「ファシスト国家」であるところのウクライナの所業を糾弾するために用いられている。ここでは、レニングラード攻防戦の死者たちは匿名で、顔も名も明かさぬまま静かに眠っている。自分の分身たる写真や名前が、子孫たちによってデータベースに登録され、あちこちの博物館で掲示されていることを、彼らはどう思うだろうか。やっと報われたと思うのか、それとも、もう十分戦ったのだから、静かに寝かしてほしいと思うのか。
だれひとり忘れない、なにひとつ忘れない──しかしそれもやはり、ロシア的一体性から逃れることを許さない言葉であるとしたら。
死者の思いはわからない。後世のわたしたちは、彼らにそれぞれの文脈で勝手な思いを重ね合わせる。そもそも人間は複雑なもので、ひとつの事象に対してひとつの感慨しか抱かないということはないため、いずれにせよ、後世のひとが記憶と呼ぶものは、その一部でしかありえない。だから、いろんな部分をいろんなひとがそれぞれの見方や偏見で見出すことで、写真や名前でしかない平べったい過去の姿が、ほんの少しずつ厚みを獲得していくのだろう。
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2013年から続いてきた本連載も、ついに最終回となった。いま、これらの論考を単行本にまとめる作業を行なっている。当初は楽観的で牧歌的なエッセイだったのが、2022年以降はすっかり方向性が変わってしまった。しかし、この大きな変化こそ、一冊の本に残しておくべきなのかもしれない。来年の刊行となる予定なので、よければ手に取ってほしい。
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撮影(図22・28・36を除く)=上田洋子
◆1 主人公を演じたガリーナ・ヴィシネフスカヤはオペラ歌手。亡命した世界的チェロ奏者ロストロポーヴィチの妻で、エリツィン一家と家族ぐるみのつきあいがあった。主人公が街で現地の女性に招かれた家は、爆撃を受けて半壊状態である。老婆と孫や兵士たち、そして現地の女性との言葉少ない交流のなかに、戦争に対する複雑な感情が見える優れた反戦映画だ。
◆2 わたしが見たドンバス戦争についての演劇は、ロシア軍劇場小ホールで上演されたヴィタリー・パヴロフ『接触線』、エヴゲニー・ハルラノフ演出、2026年。URL=https://teatrarmii.ru/spectacles/liniya_soprikosnoveniya/ あらすじは以下だ。ドンバス地域に生まれた2人の兄弟が主人公。2014年に東部戦線での戦闘が始まったとき、兄はウクライナに、弟はロシアに暮らしていた。弟が実家を訪ねてきて、敵同士として戦った2人が顔をあわせる。しかも2人は同じ女性を愛していて……。よくできた作品で、わたしの隣に座っていたいかにも頑強な迷彩Tシャツの中年男性が、感動した様子で拍手を続けていたのが印象に残った。なお、ロシアでは特別軍事作戦(ウクライナ戦争のロシアでの呼称)を扱った演劇は推奨されているのだが、本数も上演回数も多くはなさそうだ。
◆3 たとえば『ゲンロン13』(2022年)所収の以下がある。乗松亨平、平松潤奈、松下隆志、東浩紀、上田洋子「帝国と国民国家のはざまで」。アレクサンドラ・アルヒポワほか「祝祭になる戦争、戦争になる祝祭 「戦勝記念日」にみるパフォーマティヴな顕彰」、高橋沙奈美訳。
◆4 ゲオルギーリボンは、エカテリーナ2世が制定した聖ゲオルギー勲章にちなむ。いつのころからか戦勝記念日のシンボルとなった。
◆5 УКАЗ ПРЕЗИДЕНТА УКРАЇНИ №.374/2026. Про проведення параду в м. Москві. URL=https://web.archive.org/web/20260508212339/https://www.president.gov.ua/documents/3742026-59389
◆6 公式サイトは以下。URL=https://polkrf.ru なお、メディアでは「不滅の連隊」の記載が多いが、本稿ではあえて「不死の連隊」と訳す。ロシア文化における不死の特別な位置については、ボリス・グロイス編『ロシア宇宙主義』、乗松亨平ほか訳、河出書房新社、2024年参照。中国における2025年9月の抗日戦勝パレードの際に、プーチン、習近平、金正恩が不死を話題にしたと報じられたことも記憶に新しい。
◆7 «Течет река “Бессмертного полка”. В России проходит онлайн-шествие народной памяти» // Российская газета. 09.05.2026. URL=https://rg.ru/2026/05/09/v-rossii-idet-onlajn-shestvie-bessmertnogo-polka.html
◆8 たとえばこちらの記事を参照。«Полк, флот, окна и школы: Петербург отметил День Победы крупнейшей акцией» // Деловой Петербург. 09.05.2026. URL=https://www.dp.ru/a/2026/05/09/polk--flot--okna-i-shkoli
◆9 公式サイトは以下。URL=https://vdnh.ru/visitors/about/
◆10 スターリン粛清期が文化エリートらの生活にどのように影を落としていたのかは、アレクセイ・ゲルマン監督の映画『フルスタリョフ、車を!』(1999年)がよくその空気を映し出している。
◆11 たとえばこちらを参照。Броновицкая А. «От ВСХВ к ВДНХ: трансформация выставочного ансамбля в Останкино в конце 1950-х – 1960-х гг.» // Archi.ru. 18.04.2014. URL=https://archi.ru/russia/54559/ot-vshv-k-vdnh-transformaciya-vystavochnogo-ansamblya-v-ostankino-v-konce-1950-kh-1960-kh-gg
なお、ヴェデンハーの歴史については公式サイトに詳細な記述がある。URL=https://vdnh.ru/visitors/about/
◆12 パヴィリオンの公式ページは以下。URL=https://vdnh.ru/places/tsentr-slavyanskoy-pismennosti-slovo/
◆13 2024年の英雄行為博物館オープンについては以下の公式サイトのニュースを参照。«Более 200 мультимедийных поверхностей, уникальные экспонаты и инсталляции: топ главных особенностей Музея героизма на ВДНХ» // ВДНХ афиша. 11. 12. 2024. URL=https://vdnh.ru/news/71515/ 翌年のリニューアルオープンのニュースは以下。«Более 600 экспонатов можно увидеть в Музее героизма на ВДНХ» //ВДНХ афиша. 17.06.2025. URL= https://vdnh.ru/news/4186/
2025年は先述のエスヴェオー博物館の展示が隣の旧ウクライナ館で開催されていたので、特別軍事作戦を顕彰する似た展示がヴェデンハーにふたつ同時にあったことになる。公式サイトではオープンのニュースしか見当たらないが、コムソモーリスカヤ・プラウダの情報サイトによると、エスヴェオー博物館は年末まで開催されていたようだ。
URL=https://www.kp.ru/afisha/msk/vistavki/vystavka-zashhitnikam-otechestva-v-muzee-geroizma-na-vdnh-v-moskve/
◆14 戦時下の国で、国民が敵国に対し「悪」のイメージを持つように、過去の戦争とのアナロジーを強調するプロパガンダの方法は、ウクライナでも用いられていた。ナチスドイツの攻撃で焼け野原になったワルシャワの街と、激戦の末ロシアに占領されたマリウポリの街の写真を並べるなど、似た光景を同一視して悪を強調するものが多かった。この問題は東浩紀『平和と愚かさ』(ゲンロン、2025年)の「ウクライナと新しい戦時下」(362頁以下)に詳しく論じられている。
◆15 英雄行為博物館の移転については以下を参照。«Музей героизма ждет обновление: его экспозиция в кинопарке «Москино» станет масштабнее почти в четыре раза» // ВДНХ афиша. 30.06.2026. URL=https://vdnh.ru/news/5097/
◆16 公式サイトは以下。URL=https://parkpatriot.ru/
◆17 公式サイトでは、アルミヤ2025の様子を知ることができる。次回は2027年の開催とのこと。URL=https://www.rusarmyexpo.ru/
◆18 公式サイトは以下。URL=https://xn--b1apfwr.xn--p1ai/
◆19 独ソ戦と現在の状況を比較しながら説明するパネル展示は、ヴェデンハーや独ソ戦の勝利を記念する勝利博物館の野外展示、さらにソ連時代の彫刻が並ぶムゼオン公園や街角でも見かけた。先人たちの英雄的な行為を現在のロシア人が引き継いでいるとするものがほとんどで、戦争に対して国民を鼓舞しようという意図が窺える。
◆20 とはいえ、イズマイロフスキー近衛連隊の教会であったペテルブルクの至聖三者大聖堂(1835年)は、フリーズに武器のレリーフの装飾がある。さらに、露土戦争の勝利の際には、砲身の列を5段に重ねたデザインの勝利記念柱が鹵獲品の大砲から鋳造され、聖堂の北正面に建てられた。記念柱はソ連時代に撤去・溶解されたが、2005年に再建された。
◆21 アレクセイ・シドロフ監督『T‐34 レジェンド・オブ・ウォー』、2019年。
◆22 スミルノフはもともとデザイナーで、インテリア、グラフィック、ウェブデザイン、テレビ番組のセットまで多様な仕事を手掛けてきたという。それが、2012年にモスクワ、 ルビヤンカの「ロシア正教新致命者・表信者教会」(ブトヴォのものとは異なる)のコンペで優勝し、教会建築に携わるようになった。正教の信仰や知識を問わずデザインや建築の各専門家を集め、コンピュータ・テクノロジーを駆使して建築デザインを行う。パトリオット公園内の展示パネル「ドミトリー・スミルノフの創造の革命──ロシア軍主教会の主任建築家が語る、永遠を守りつつ新しいものを作ることについて」を読む限り、ルビヤンカの教会でセルゲイ・ショイグに気に入られてロシア軍主教会に関わったようだ。スタジオのサイトは以下。URL=https://sretenskie.ru/ パトリオット公園ではもうひとつ、星を重ねたような、戦隊もののドラマに出てきそうなカーキ色の博物館を建てている。URL=https://sretenskie.ru/glavnyy-muzey-vsrf ヴェデンハーの愛国展示「ロシア わたしの歴史」の美術も担当。
◆23 映画批評家のアントン・ドーリンは、アレクセイ・バラバーノフ監督の『ロシアン・ブラザー』(1997年)とその続編(2000年)の主人公ダニーラを、ロシアの国民的ヒーローのプロトタイプであると論じている(Долин А. Плохие русские. Кино от «Брата» до «Слова пацана». Медуза. 2024)。ダニーラは元兵士(おそらくチェチェン戦争に従軍)で、民話「イワンのばか」のように素朴でまっすぐで、寡黙。兄のために殺し屋になるが、その際に善悪の価値判断をするそぶりはない。優しいようで得体が知れない、どこかに戦争の影を背負った人物として描かれている。
◆24 ロシアにも名を尊重する運動はもちろんある。大祖国戦争の戦死者名簿も作られている。それに人権団体メモリアルによるスターリンの粛清の被害者の名を復活しようとする一連の試みもある。彼らはアーカイヴを調査して、だれがいつどこで粛清されたのかを明らかにしていった。「不死の連隊」やこの博物館の写真の扱い方に、社会的にも物議を醸したメモリアルの運動を乗り越えようという気概を見るのはわたしの考えすぎだろうか。
◆25 ピスカリョフ記念墓地の解説は公式サイトが充実している。墓地の各所に二次元コードがあり、公式サイトの解説ページに誘導される。サイトから戦時中に亡くなった人びとの名簿(記憶の書 Книги памяти)データベースにアクセスすることができる。
公式サイトURL= https://pmemorial.ru/
記憶の書URL= https://pmemorial.ru/memory-books
2026年10月24日刊行『ゲンロン19』

上田洋子





