「家国天下」と新儒家の憂鬱
あるいは儒学の政治利用について
儒学は死に、そしてさまよえる魂となった
──余英時『現代儒学論』
2023年10月、中国・湖南省のテレビ局「湖南衛視」が「マルクスが孔子と出会うとき」(当马克思遇见孔夫子)という奇妙な番組を放映した。1話30分の全5話構成で、内容はおおよそつぎのようなものだ[◆1]。
ある日、湖南省にある(孔子とはなんのゆかりもない)嶽麓書院という建物で、孔子がマルクスの来訪を受ける。ふたりは書院の廊下や庭園を散歩しながら、学生や御用学者たちの待つスタジオへ移動してゆく。そこでかれらは伝統的な中国思想とマルクス主義がいかにぴったりと噛み合っているかを語りあい、「総書記」の提唱する「マルクス主義と中華優秀伝統文化の有機的結合」が歴史的必然であることを確認する。孔子は初対面のときこそ客人の抱擁を拒み、礼と握手にとどめるのだが、幾度かの対話を経て、最後にはスタジオのあたたかい拍手に包まれながらマルクスと熱い抱擁を交わすのだった……。
この番組の背景には、2023年6月に習近平が行なった「第二の結合」をめぐる談話がある。それは、マルクス主義を中国社会の実情に結びつける「第一の結合」を経て、いまや「中華優秀伝統文化」との結合を成し遂げるべきだというものだ。その意味で、この番組は少なからず習近平の意向を踏まえていたといえる。
とはいえ、設定の荒唐無稽さもさることながら、内容もとくに中身のないお粗末なものだったので、この虚実入り混じった「理論番組」には中国大陸の内外から批判と嘲笑の声が寄せられた[◆2]。
たしかにそうした反響が生じるのもやむを得ないことではある。けれども、私はこの現象をもう少し深刻に受け止めたいと思う。というのも、これはいま儒学が置かれている状況を表す痛切なイメージでもあるからだ。しかもその根幹には、中国の局所的な問題にとどまらない、思想の政治利用というおおきな問いが潜んでいる。ここでは中国固有の文脈を読み解くことから始めて、その問いにせまってみることにしよう。
「闇の唯物論」とのたたかい
歴史を振り返れば明らかなとおり、20世紀の中国において、儒学は無数の非難にさらされてきた。たとえば1910年代以降の新文化運動では、科学と民主による近代化を提唱する知識人や学生たちが「打倒孔家店」というスローガンを掲げ、儒家批判を行なった(孔家店とは孔子がうみだした儒家の学説やそこから生まれた制度のこと)。毛沢東の率いる中国共産党によって大陸が「解放」されると、その傾向はより過激になる。たとえば文革初期の1966年には、「破四旧」(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の打破)という運動が展開され、儒家の経典や建築を含む多くの文化財が破壊された。また文革末期の1974年には、毛沢東の側近である「四人組」が「批林批孔運動」を推進し、文革路線の是正や経済と教育の復興をもくろんだ周恩来らを「反動的」な儒家になぞらえて糾弾している。儒学とは近代化を阻む障害であり、反革命の象徴であった。
一方で儒家の側もまた、ときに共産主義との対立軸を鮮明にすることで、みずからを一種の政治思想として位置づけてきた。その典型的な例が牟宗三(1909−1995)である。牟は20世紀後半に儒学──ひいては中国哲学全体──の体系的な再構築に取り組んだ思想家で、いわゆる「現代新儒家」(以下、新儒家)の代表的な人物とされている。
牟は山東省の農村で生まれた大陸の思想家だが、多くの仕事を香港と台湾で行なっている。中華人民共和国の建国直前、1949年の夏に家族を大陸に残して単身台湾へと亡命したからだ。もともと牟は唯物弁証法と階級闘争を批判する論考「弁証法は真理なのか」で1931年にデビューしている。その後一貫して共産主義に反対する立場を取り、亡命して以降は生涯大陸の土を踏まなかったという。
こうした姿勢は、『道徳的理想主義』や『時代と感受』といった一部の著作に残された共産主義批判の記述からも見てとれる。それらはみな2003年に編纂された『牟宗三先生全集』で読むことができるのだが、かれの反共思想の根拠や詳細を把握するうえでもっとも重要な著作は、じつはこの全集には収録されていない。
それは1952年に台湾の招商局訓練委員会から刊行された『共産主義インターナショナルと中共批判』(《共產國際與中共批判》)という小冊子である。これが全集に収められていないのは決して政治的な理由からではない。長らくその存在を忘却されていたからだ。この冊子は、彭国翔という大陸の研究者によって、ハーバード燕京研究所の図書館で発見された。当然かれはこの発見を中国国内では公表せず、2006年に香港で発表している[◆3]。
『共産主義インターナショナルと中共批判』は、タイトルとは裏腹に「共産主義インターナショナル」つまりコミンテルンにはほぼ言及しておらず、共産党を終始批判するものとなっている(そのため、以下では『中共批判』と略記する)。その内容は、端的にいえば家族という概念の擁護を軸としている。
伝統的な儒家思想において、親子や兄弟、夫婦などの家族関係は「天倫」と呼ばれた。つまりそれは、まるで天に定められたように人間がおのずと形成する秩序とみなされたのである。しかし、(牟の論じる)共産主義の観点では、家族とは父親に財産と権威を集中させる家父長的な制度であり、封建制社会の終焉にともない解体されるべきものであった。ゆえに「共産党の邪僻なる理論によれば、家族は消し去ることができるという。当然ながら、かれらは世にいう天倫の存在を承認しないのである」[◆4]。そこで、この「理論」を退けることが『中共批判』のひとつの大きな目的となった。
その方法はなかなかに興味深いものだ。牟はまず、およそ人間には「道徳的精神実体」が備わっていると主張する。それは慈愛や孝行、友情などが生じる可能性の根拠であり、決して物質には還元できない。これを「情」という主観的な要素をつうじて現実化したものが家族であり、つまり家族とは「道徳的精神実体」の主観的形式である。また、「義」という要素にもとづいてこの実体を客観化したものが国家である。それは政治的な制度や組織、そして法をつうじて形成され、近代的な国民国家によって十分に客観化されたという。ただ、客観的精神としての国民国家には領域や集団の規模に限界がある。そのため、ひとは道徳的精神実体による「諧和的綜和」(調和の取れた総合)の要求にもとづいて、天下の諸国が平和的に結ばれるような「大同」の理想をめざすことになるという。
ところが、共産党のいう家族の解体を容認すると、このような道徳的精神実体の発展プロセスそれ自体が断絶され、その先への道が閉ざされてしまう。だからこそ、家族の概念は何としても守り抜かなければならない。
もっとも、厳密にいえば、共産主義が家族一般の解体を主張していると考えるのは少々早計ではある。たとえば『共産党宣言』では、「プロレタリアにとってのすべての家族的な絆が、大工業によってますます引き裂かれ、子どもがたんなる商品そして労働用具にますます転化される」ことが問題視されており、労働者階級における「強制された無家族状態」(および「公的な売買春」)のうえで成り立っている19世紀のブルジョア的な家族こそが批判の対象となっていた[◆5]。また、エンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』のなかで、人類の家族が集団婚から対偶婚を経て一夫一婦婚へと移行してきたと論じつつ、近代的な一夫一婦婚が財産の所有関係によって女性を家に縛り付けるものであることを強く批判している。そして生産手段が共同所有になることで、婚姻は財産の所有ではなく純粋な個人的異性愛にもとづくものになり、一夫一婦婚が「はじめて完全に実現される」と述べている[◆6]。こうした主張をどう評価するかはさておき、牟の議論がいささか単純化された解釈にもとづいていた点は否めない。
にもかかわらず、牟の批判はいま思えばきわめて的確であった。というのも、『中共批判』刊行から約10年後の1966年には大陸で文化大革命が始まり、子どもが親の反革命的な言動を密告して逮捕・処刑させるという悲劇的な事案が数多く起きたからである。中国ではいくつもの家庭が「革命」のために文字通りの意味で解体されたのだ。いま中国のニュースサイトを少し調べてみると、当時の行ないを悔いる元紅衛兵の証言をいくつも読むことができる(有名な事例としては、少年時代に母親を密告して銃殺刑に追い込んだ弁護士・張紅兵の一件がある)。
『中共批判』のなかで、牟は「子女は父母の命を革めなければならない。[……]父子・兄弟・夫婦が互いに殺しあうこと、それこそが革命であり、進歩である。しかしこんなものは人類にとって奇怪な変異にほかならない」と述べている[◆7]。たしかにかれの批判は単純だったかもしれないが、それが正当になるような事態が現実として起きてしまったというのが、歴史を踏まえた公平な理解といえるだろう。
牟は事態をきわめて深刻に捉えていた。かれは共産主義との対決が、ほとんど全人類の命運を左右すると考えていたようである。「家族を否定してしまったら、人類はただ壊滅するほかなく、禽獣へと回帰することだろう。これによって天地は閉塞し、草木は落魄し、賢人は身を隠し、さらには全人類が損なわれてしまう」[◆8]。さらに牟は以下のように語る。
共産党は、集団的かつ客観的な階級の概念によって言論や行動の範囲を定め、壊滅を指向している。われわれは家族や国家、自由民主、ひとの本性や個性、理想と価値、歴史と文化によって思想や行動の範囲を定め、それによって人類を救い、光明を切り開かねばならないのだ。[……]かの者はただ闇の唯物論の観点にしたがって一切を否定し、一切を仇敵とみなしているにすぎない。[◆9]
闇の唯物論。牟は『中共批判』のなかで繰り返しこの言葉を使っているほか、『時代と感受 続編』では共産党を「ならず者」と表現しつつ、「それはひとの本性や自然にもっとも反する魔道である」と断言している[◆10]。こうした表現は少なからず扇動的であり、悪口と紙一重ではあるが、しかし亡命の哲学者による切実な感情の発露であったともいえる(また当時の大陸の状況がそれだけ常軌を逸していたこともたしかである)。いずれにせよ、20世紀の儒家を代表する人物が、「闇の唯物論」とのたたかいを自身の使命としていたことは、ひとつの歴史的背景として押さえておくべきだろう。
ところで、読者のなかには、家族の概念を擁護するために牟が行なった「道徳的精神実体」をめぐる議論からヘーゲルを想起したひとがいるかもしれない。じっさい牟自身もヘーゲルに言及しつつ、自身の構図を弁証法的な発展のプロセスとして説明している。
けれども、ヘーゲルと牟宗三のあいだにはいくつもの明白なちがいがある。ここでは私たちの議論に関係することがらに絞って、簡単に三点ほど挙げておこう。
まず、自由や道徳の果たす役割がまったく異なっている。ヘーゲルは道徳(Moralität)と人倫(Sittlichkeit)を区別した。前者は主観的な意志にかかわるものであり、後者はそのような意志による道徳と客観的な規範が統合されたものである。両者は自由の概念が自己を具体化しながら発展してゆく段階とされており、『法の哲学』には(抽象的な法から)道徳を経由して人倫へと移行するプロセスが描かれている[◆11]。これに対して、『中共批判』では道徳的な精神が発展段階を進み、自由はその精神が客観化される際のひとつの形式あるいは指標にとどまっている。じっさい、同書で牟は「精神の表現が自由民主の成立に到達することは、近代的な意味での「国民国家」の成立への到達に等しい。血統的種族から国民国家へと進むことによって、はじめて精神の成果を表示することができる。ゆえに国民国家は[……]精神の表現の客観的形態である」と述べている[◆12]。
また、この引用からもうかがえるように、『中共批判』に示された牟の構図には(市民)社会に固有の位置づけが存在しない。かれは家族と国家にそれぞれ主観性と客観性を割り当てつつ、道徳的精神実体の発展プロセスにおいて両者を直結させている。これは、家族─市民社会─国家という段階を経て人倫が発展していくと考えたヘーゲルとは対照的な点だ。ヘーゲルにとって市民社会は、個人がさまざまな欲求を抱えながら他者と分かちがたい相互依存関係をもつ場であり、そこでは特殊性と普遍性が対立を維持しながら結びつけられている。このような「差異性」としての市民社会を国家とはっきり区別する点にヘーゲル哲学の大きな特徴があったわけだが、このような観点は牟の議論には見られない。
さらに、両者は国家およびその先の段階についてもまったく別の見解をもっている。ヘーゲルにとって国家は人倫の最高段階であり、諸国家の上に位置する倫理基準や審判者は存在しない。そのため、国際法はあくまで守るべき当為にとどまり、諸国家はそれぞれ異なる意志をもった特殊な存在者として、一種の自然状態のなかで対峙することになる。こうした国際関係の構造的限界を踏まえて、ヘーゲルは諸国家の特殊性から普遍的な世界精神が弁証法的に立ち上がり、歴史──「世界法廷としての世界史」──のなかで最高の審判を下すと考えた。その一方で、牟宗三はあくまで国家を「大同」という理想へ進むための通過点とみなしている。ヘーゲルが国際法から世界史へと移行したのに対し、牟にとっては天下の平和こそが精神の到達点となっているのである。
こうした相違は、牟宗三がヘーゲル風の表現を用いつつも、そのじつきわめて儒家的な議論を行なっていることを物語っている。たとえば、人間には道徳的精神実体が宿っているという主張は、ほとんど孟子の「性善説」を言い換えたものだと考えられる。性善説は、人間には善意があることを前提とする一種の楽観主義として理解されがちだが、じっさいには個々人のもつ善意や悪意とは関係がない。むしろ、人間の心には道徳的な行ないをする可能性があることを肯定し、それが天賦の「性」、つまりあらかじめ授けられたものだとする立場を意味している。
くわえて、このような「実体」を確認することから出発し、家族─国家─天下と発展していくプロセスは、『大学』という儒家の経典に由来する「家国天下」の段階説をほぼそのまま反復したものと言ってよいだろう。これは端的にいえば、儒家の道徳的な実践はまず自分の身をおさめること(修身)から始まり、つぎに自分の家族を調和させ(斉家)、それから国を治め(治国)、やがては天下に平和をもたらすこと(平天下)へと連続的に発展していくという考えのことだ。
ここで特筆すべきなのは、これらの段階を移行する際に起きるのが、ヘーゲル的な否定や止揚というよりは、むしろ単純な類推と拡張であることだ。それはつまり、国家や天下をひとつの大規模な家族とみなすような思考のパターンが存在すること、さらに踏み込んでいえば、家族という概念を経由し、そこから類推することによってはじめて、より大きな公的秩序を構想しうるような想像力の制約がはたらいていることを示唆している。この点は牟宗三の議論にも見いだせる。たとえばかれは大同の成立条件について「一方で[諸国家が]個体性を保持しつつ、他方で世界の調和性を要求することにより、天下を一家となすことが可能になる」[◆13]と述べている。
むろん、市民社会とは近代的な概念であり、『大学』は漢代に編纂された『礼記』のなかの一篇なので、「家国天下」に市民社会が含まれていないのは当然だ。また、当時の国とは諸侯の治める地域のことであり、天下は王や皇帝の統治する領域を意味していたのであって、いまの国民国家や世界とは規模がまったく異なる。だから問題はむしろ、「家国天下」の構図をそのまま現代に転用することで生じているといえる。そして議論を先取りしていえば、かつて牟宗三の批判対象であった中国共産党の側こそが、いまでは牟と同じ構図を反復し、同じ制約と問題に囚われつつあるように思われる。
「家国天下」の簒奪
20世紀において、儒学と共産主義はじつに穏やかならぬ関係にあった。牟宗三の一例からうかがえるように、それは単なる一方的な弾圧ではなく、ときに敵対関係をつうじて自身の立場を組み立てるようなものであったともいえる。
とはいえ、いまや中国ではこのような緊張はまったく存在しないかのようだ。なんといっても孔子とマルクスが抱擁を交わす時代である。かつての革命の歴史を念頭におくと、まさに隔世の感を禁じえない。もちろんここに至るまでには相応の経緯があり、そして両者の緊張関係はほんとうには解消していないのが事実である。以下、簡単に整理しておこう。
1976年の毛沢東の死去をきっかけに、10年以上にわたって続いた文化大革命は収束へと向かう。翌年8月にはその終結が正式に宣言された。
その後実権を掌握したのが鄧小平である。鄧は1978年末に開催された中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議において、階級闘争から経済建設へと方針を転換し、改革開放政策を推進してゆく。これは一言でいえば市場経済への移行であった。かれの姿勢を象徴するのが、いわゆる「猫論」である。それは「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕えるのがよい猫だ」というもので、イデオロギーの純粋性よりも生産力の向上を優先するプラグマティックな考えを表している。
市場経済への移行は、文化面での規制緩和をともなった。1977年に「高考」、つまり大学受験が復活し、大学がふたたび学問の拠点として機能しはじめると、1980年代には西側の学問や中国の伝統的な思想・文化が一挙に解禁され、のちに「文化熱」と呼ばれるような知的熱狂が起きた。それまで台湾や香港で展開されていた新儒家が大陸で発見・逆輸入されたのもこの時期である。当時とくに大陸の研究者のあいだで、新儒家とはなにか、そしてだれがそのカテゴリに入れられるべきかをめぐって論争が起き、三世代にわたる思想家の系譜が遡行的に構成されていった。さらに1986年には、新儒家の研究が国家の第7次5カ年計画における重点研究課題のひとつに組み込まれ、大陸における学問分野として公的な承認を獲得するに至る[◆14]。しかしその承認のためには、もともと新儒家がもっていた政治への意識、とりわけ共産主義に対する批判的な意識をたくみに切り離すことが必要だった(彭国翔による牟のテクストの発見は、この前提を再認識させてくれる事例だった)。
鄧小平のプラグマティズムは、大陸で儒家を扱う障壁を十分に取り除いたが、共産党が儒学を積極的に取り込んでいくようになったのは江沢民の時代からであったように思われる。1989年に総書記に、1993年に国家主席となった江は、鄧小平の存命中はその政策を継承したが、鄧の死(1997年)を境に独自路線を強めていった。
なかでもとくに重要なのが、2000年に提唱された「三つの代表」という思想である。これは、共産党は中国の「先進的な生産力の発展の要求」、「先進的な文化の前進の方向」および「最も広範な人民の根本的な利益」の三つを代表すべきであるというものだ。この考えは、共産党が労働者階級を代表して共産主義革命をめざす前衛政党から、中国人民の経済・文化・利益を代表する執政政党へと舵を切ったことを意味していた。そしてこれを機に、党が文化政策を推進し、伝統文化の振興へと積極的に介入していくようになる──この転換を象徴する現象として、2000年代以降、共産党中央委員会の機関紙「人民日報」のなかで儒家の概念が肯定的な文脈で多用されるようになったことが指摘されている[◆15]。
2003年に誕生した胡錦濤政権は、「三つの代表」の路線を継承しつつ、伝統的な思想や文化をめぐる政策を次々と打ち出していった。まず特筆すべきなのは2004年の「和諧社会」の提起である。これは文字通りには「調和ある社会」を意味し、急速な経済成長による格差拡大や環境破壊を是正し、持続可能な社会の建設を推進する考えだ。牟宗三が天下の平和という理想を「調和の取れた総合」と表現したように、調和(「和」「和諧」「諧和」)は儒家思想の重要な概念であったわけだが、それが党による統治のスローガンに使用された格好だ。
また、対外的な影響力向上のためソフトパワーとして伝統的な思想や文化を活用するという発想が生まれたのもこの時期である。たとえば、2004年には海外への文化的発信のための機関である「孔子学院」が創立され、第一号がソウルに建てられた。この機関は、外国人の中国語や中国文化の学習を支援する一方、学問の自由の侵害やスパイの疑惑などから設置先の大学や政府とたびたび衝突を起こしていることでも知られている[◆16]。
共産党によるこうした伝統文化の利用には、いくつかの理由が考えられる。専門家のあいだでよくいわれる点としては、マルクス─レーニン主義や毛沢東思想の求心力が低下しイデオロギーの空白が生じたこと、また1989年の天安門事件によって党の正統性の危機が顕在化した結果、経済成長以外に統治の正統性を保証する資源が要請されたことなどがある[◆17]。もっとも、そこでじっさいに行なわれていたのは、せいぜい関連する研究や組織に予算を配分したり、政策に儒家の概念やイメージを取り入れたりするくらいであり、伝統文化はあくまで統治のためのひとつのツールとして利用されていたにすぎなかったように思われる。
ところが、伝統思想の動員は習近平政権によってあらたな段階を迎える。かれはただ儒学を擁護し、その振興に寄与しているだけでなく、共産党を伝統的な思想や文化の正統な継承者として位置づけるようになった。たとえば習近平は、孔子生誕2565周年を記念して2014年に開催された国際儒学連合会第5回大会で講演を行ない、「中国共産党は終始中国の優秀な伝統文化の忠実な継承者であり、発揚者であった」と明言している[◆18]。
それだけではない。私たちにとってとりわけ重要なことに、習は家族的な想像力を前面に押し出しながら、民族の統合を強調し、国家への忠誠を要求し、さらには世界の平和を提唱しているのである。たとえば「家庭を重視し、家庭教育を重視し、家風を重視する」という2016年の談話のなかでは、家族の運命は国家や民族の運命と緊密に関連しているので、くれぐれも家族を大切にしてほしいと人民に呼びかけている。またそれによって「多くの家庭が愛家と愛国を統一させ、家族の夢の実現を民族の夢のなかに融け込ませなければならない」と力説している。ここでいう民族の夢とは、「中華民族の偉大な復興」という「中国の夢」のことだ[◆19]。
また、習近平は「人類運命共同体」という世界平和のスローガンを掲げている。この言葉は2012年にはじめて使用され、その後新しい世界秩序の呼び名として繰り返し提唱されるようになった。共産党研究の文脈では、これは中国的な「天下」の概念の翻案であると考えられている。そして興味深いことに、かれはそれをやはり全世界の家族的な団結として表現しているのだ。じっさい、2024年のとある談話のなかで、習は人類運命共同体の構築とは「われわれがともに生活する地球を、平和で、和睦し、調和するひとつの大家庭へと作りあげること」だと述べている[◆20]。
さらに直近の事例になるが、2026年7月1日から施行された「中華人民共和国民族団結進歩促進法」も重要だ。これは「民族の団結と進歩を破壊し、民族を分裂させる行為をする」大陸の外の組織や個人にも法的責任を追及するという条項を含んでおり、大きな注目を集めている。そしてその序文にも「中華民族は各民族が結集した、多元一体の大家庭である」と明記されているのである[◆21]。中華民族が多元的かつ一体であるというのは、費孝通という人類学者が1988年に提唱した「中華民族の多元一体構造」という有名な学説にもとづく党の公式見解だが、今回の法律はわざわざそれを「大家庭」と言いなおしているわけだ。
牟宗三が思い描いた「闇の唯物論」とのたたかいは、相手が共産主義革命を(事実上)放棄し、儒家の概念や思想を肯定することによって宙吊りにされてしまった。それどころか、習近平政権になって、共産党はほとんど歴史修正主義的な仕方で伝統文化の正統な継承者を自称し、「家国天下」という儒家の思考のすじみちそのものを簒奪してしまったのである。
このような簒奪が問題なのは、ひとつには、さきほどヘーゲルと牟を比較するなかで確認した「家国天下」がもたらす想像力の制約──家族という概念を経由し、そこから類推することでのみ、より大きな公的秩序を構想しうる──がここでも繰り返されているからである。そして現代にこの構図が転用されることによって、市民社会の位置づけや役割を適切に評価することが困難になるという問題もまた、存続しているように思われる。
もうひとつの理由は、たとえどれほど共産党が文化的正統性を強調しても、結局のところ党のイデオロギーたるマルクス主義が動かしがたい原理としてつねに優先され、伝統的な思想や文化はあくまでそれと矛盾しない限りにおいてのみ受け入れられるからである。こうした主従関係は、たとえば「第二の結合」を説明する際によく使われる「マルクス主義を用いて中華優秀伝統文化の優秀因子を激活する」という表現からもうかがえる。これは2023年の習近平の発言にもとづく定型句で[◆22]、「激活」は活性化を意味する中国語だ。つまり伝統文化はつねに篩にかけられ、党が「優秀因子」とみなしたものだけが結合や活性化の対象になりうるというわけである。
じつのところ、共産党がこうして儒家の思想やロジックを取り込んでいくのに対し、儒家の側から抵抗する動きがなかったわけではない。1990年代以降に登場した「大陸新儒家」と呼ばれる思想家たちは、儒学をアクチュアルな政治思想として再構築しようと試みている。そのなかには、現行の政治制度の抜本的な変革を要求するものも数多く存在する。
たとえば康暁光という思想家は、2004年ごろから、儒教をふたたび中国の国教にしようと提唱し、そのために中国共産党をいっそ徹底的に「儒化」すべきだと主張している。それによると、党の幹部養成学校で儒家の経典を教え、昇進や採用の際に儒学の試験を実施するなどの改革を行なうことで、「儒学がマルクス─レーニン主義に取って代わり、共産党が儒士の共同体になり、そして仁政が実現する」のだという[◆23]。このような中共儒化論は、共産党が統治のツールとして中途半端に儒学を利用することに対するカウンターとしては筋が通っているが、しかしそれは(一党独裁体制こそ否定しないものの)もはや共産党としての体裁を完全に放棄させるものであり、党がみずから実施するとは考えられない。じっさい、「人民日報」にも儒教の国教化を明確に否定する論評が掲載されている[◆24]。
より大胆な主張としては、蒋慶の「議会三院制」論が挙げられる[◆25]。端的にいえば、それは民間から推薦された儒者や「科挙」に合格した人物によって構成される「通儒院」、民主的な普通選挙によって議員が選出される「庶民院」、そして孔子の末裔が議長をつとめ、歴史上のさまざまな偉人の子孫や各宗教界の有力人物から構成される「国体院」の三院によって議会をつくり、天道と民意と歴史に沿った王道政治を実現しようというものだ。
蒋慶は現代の大陸の儒家としては相応の影響力をもっているが、この三院制はさすがに荒唐無稽といわざるをえない。しかもこの提言は、明らかに中国共産党による統治の終焉を前提としている。ただ興味深いことに、かれの発言はこれといった弾圧を受けていないように見受けられる。じっさい彭国翔の件とは異なり、蒋の著書は総じて大陸の出版社で刊行されている。
この点について、張博樹という中国のリベラリストは、大陸新儒家のこうした政治思想は「過度に空虚で、現実となる可能性が絶対になく、そのため統治者から脅威と見なされることもありえず」、また「影響力があるものの政府にとってはそれほど害とはならない知識人に、いささかの「自由」な声があるということ」を演出するのに利用されているのではないかと指摘している[◆26]。慧眼と言うべきである。
游魂から操屍へ
思想史家の余英時は、「現代儒学の苦境」という1988年のエッセイのなかで「儒学は死に、そしてさまよえる魂となった」と宣告し、中国の知識人のあいだで大きな話題を呼んだ。ここで「さまよえる魂」と訳したのは「游魂」という言葉で、いわば宿るべき身体を失い、現世を漂泊している魂を意味している。
ここで余が言おうとしているのは、政治や社会から切り離され、日常生活における諸実践との結びつきも失ったことで、制度としての儒学はすでに死んでしまったということだ。ただそれと同時に余は、まだ魂まで失われてはいない(つまり完全には消滅していない)とし、「屍を借りて魂を還す」、すなわち別の形式によって儒学があらたな生を得ることに希望を見いだしている[◆27]。
「游魂」をめぐる余の宣告は正しい。それは儒学をふたたび社会制度として実装しようとする大陸新儒家の試みがほとんど空想にしか見えないことからも理解できる。けれども、それから約40年が経とうとするいま、「屍を借りて魂を還す」という余の希望がどれほど実現されたのかについては、やはり疑問が浮かぶ。たしかに昨今でも観光資源や自己啓発といった用途は健在であり、また学問の対象としては重要でありつづけている。しかし、儒学がそうした文脈をこえて現実的な効力を発揮しうる場面を考えたとき、はたして共産党に権威と正統性を付与し、その統治のツールとして機能する以上の役割が存在しえているだろうか。
このように考えたとき、「マルクス主義を用いて中華優秀伝統文化の優秀因子を激活する」という文言がじつに味わい深いものにみえる。さきほど紹介したときには、「激活」は活性化という意味だと説明した。しかしより正確に言うと、これはなんらかの刺激をあたえて対象に生気や活力を取り戻させることを表している。余英時の比喩を踏まえていえば、それはまるで魂の抜けた屍に電極を刺し、その四肢を操っているようなものではないか。じっさい、「第二の結合」をめぐる言説においては、マルクス主義が魂となり、中華優秀伝統文化が根になるとされている。つまりそこでは、儒学は魂の抜けた状態のまま、歴史ある形骸として利用されることがほのめかされているのである。
游魂の時代はつづいている。余が予見したように、これは現代の儒家に課せられた条件である。しかしいまでは、共産党という制度と権力をともなった主体に政治利用されるという新しい局面を迎えている。それは皮肉にも、「屍を借りて魂を還す」という余の希望とは正反対の現実を突きつけている。儒学の魂が別の屍を借りて再生することは未だかなわぬまま、マルクス主義の魂が(共産党という身体をもっていながら)儒学の屍を借り、思うがままに操っているのだ。游魂から操屍へ。それこそがいまの儒家をとりまく状況なのかもしれない。
儒学の政治利用をめぐって
とはいえ、結論を急ぐまえに立ち止まって考えてみたい──そもそも体制に権威や正統性を付与し、ときにかたちを変えながら利用されることは、かつて儒学が果たしてきたひとつの歴史的役割だったのではないだろうか。
たとえば漢代の儒学官学化はその最たる事例といえる[◆28]。当時、五経博士(『尚書』『周易』『詩経』『礼記』『春秋』の五経を専門に教授する官職)の設置や、儒学を中心に据えた教育制度や官吏登用の仕組みの整備により、儒学は国家の正統教学としての地位を形成していった。それと同時に、漢代の儒学は五行説や陰陽思想といったほんらい別の学派に由来する思想と融合しながら、天命を受けた天子としての皇帝が人々を統治するという「天命思想」を理論化し、王朝の交代や天子の即位を自然の法則のように説明した。要は皇帝が人民を治める根拠を宇宙論的な規模で保証したわけである。
しかしここで重要なのは、正統性の付与が権力の制約と表裏一体であったことだ。つまり、皇帝は天によって任命される一方で、誤った政治をしたときには災害や日食などの天変地異をつうじて天から警告を受けると考えられたのである。そして、皇帝がこうした警告にしたがわずに失政を続けると、やがて天命が失われ、「易姓革命」すなわち王朝の交代が起きるとされた。これは災異説や天譴論と呼ばれ、官僚や知識人が自然災害などをきっかけに政治改革を行ない、権力の暴走を防ぐための回路となった[◆29]。
この点を念頭におくと、共産党が儒家思想のなかから統治に役立つものだけを「優秀因子」として選び取りながら、ほんらいそこに備わっていた権力を制約する仕組みを巧妙に切り離していることがわかる。すでに見てきたように、共産党は自身を天命を受けた統治者ではなく伝統の正統な継承者として位置づけながら、人民の団結や国家目標への服従を要請する際に儒家の概念を動員している。天命思想がけっして採用されないのは、もちろんそれが非科学的な「迷信」であるからだろうが、そこに天譴論が付随してしまうからでもあるのだろう。
こうした党の警戒感が露出してしまった事例として、上海の歴史学者・朱学勤の天譴論事件がある。朱は、2008年に四川大地震が発生したとき、「南方都市報」という新聞のオピニオン欄に「これは天譴ではないか」という趣旨のコメントを寄せた。すると当局がこれを問題視し、該当のオピニオン欄の停止と担当編集者の停職という処分が下されたのである[◆30]。
体制を権威づけるために儒家思想をうまく使いながら、同時にそこに付随する権力への制約を切り離すこと。このような操作が可能なのは、結局のところ、統治者の運命を左右する「天」の存在が、ひいては儒家思想そのものがもはや価値観として内面化されていないからであろう。党はマルクス主義という既存の価値を優先し、そのために儒学というツールを奉仕させているのだから、道具によって自分を縛るような真似をするはずがない。そしておそらくはここに、政治利用というものの本質が潜んでいる。
そもそも政治利用とはなんだろうか。ここまでの考察を踏まえていえば、それは特定の政治的な目的を達成するためにある文化的資源を導入し、既存の権威や主要な価値観を損なわないかぎりにおいてそれを利用することである。とはいえ、ここからさらに踏み込んで考えてみると、ふとひとつの疑問が浮かんでくる──じつは日本こそ、歴史上、儒学の政治利用に非常に長けた国だったのではないか? ここでは、律令国家の儒学、江戸の朱子学、近代の漢学から若干の事例を取りだして検討してみよう。
『日本書紀』には、継体天皇7年(513年)に百済から段楊爾という五経博士が派遣されたという記述があり、遅くともこの時期には日本に儒学が伝来していたと考えられる。ただし儒学が国家の制度に組み込まれていったのは7-8世紀以後のことである。当時日本は、663年の白村江の戦いでの敗北を経て、唐の制度や文化を積極的に取り入れながら、律令制にもとづく中央集権国家の構築を進めていた。
もっとも、当時制定・施行された大宝律令と養老律令は、もとになった唐の律令とは似て非なるものであったことがわかっている。両者のちがいは租庸調の税制や位階制など多岐にわたるが、重要な点としては、唐令が皇帝の服装や行列の形式などを細かく規定しているのに対し、日本の律令には天皇にかんする取り決めがないことが挙げられる。この点について、歴史家の大津透は、日本の律令には唐令のかたちを借りて従来の土俗的な社会のあり方を制度化した側面があり、当時はまだ「天皇の本質に関わる固有の習俗」を明文化することも、中国的なものに変えることもできなかったのではないかと述べている[◆31]。つまり当時の日本にとって、唐の諸制度は国力の強化という喫緊の課題のために「接ぎ木された文明」であったというのである。
イデオロギーとしての儒家思想という点でより重要なのは、こうした制度設計と並行して天命思想が利用されはじめたことだ。たとえば『日本書紀』巻第25には、蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた「乙巳の変」ののち、孝徳天皇、皇祖母尊(皇極)、中大兄皇子(のちの天智天皇)が群臣を集め大槻の樹の下で誓盟を交わしたという記述がある。その誓盟のなかには「世が末になり、人心が軽薄になって、君臣の秩序も失われてしまった。幸いに天が私の手をお借りになって、暴逆の者を誅滅した」という文言があり、一連のクーデターを天の意志によるものとして正当化している[◆32]。天智天皇は死後に「天命開別天皇」という和風諡号を与えられているほか、日本最古の漢詩集『懐風藻』の序文にも「淡海先帝[=天智天皇]の命を受けたまふに及至びて」云々とあり、天命を受けた天皇であることが強調されている[◆33]。
平安京への遷都で知られる桓武天皇は、天命思想をより意図的に利用した人物だったといえる。桓武は784年の長岡京遷都ののち、785年と787年の冬至に都の南郊にあたる河内国の交野で郊祀という儀礼を行なっている。これは天子みずからが、自身に命を与える天そのものをまつるという中国の重要儀礼だが、従来の天皇は決して行なわなかったとされている(なお856年に文徳天皇が行なったのち、天皇による郊祀は途絶えている)。桓武が郊祀を敢行した背景には、生母の高野新笠が百済系の渡来人の子孫であったため、天皇としての血統に弱点を抱えていたことがある。そのため、天命を受けた天子としての権威づけを必要としたというわけだ。
天命思想をめぐるこれらの現象が一種の政治利用だと考えられるのは、ただ単に政治的な目的に奉仕していたからではない。むしろほんらいその裏面にあるはずの天譴論ないし災異説が──つまり権力を制約し、ひいては革命を肯定する思想が──当時の日本では十分に機能せず、根付くこともなかったからである。
じっさい、歴史家の伊藤聡は、律令体制における天皇の統治の根拠は儒家的な天命よりも日本固有の神孫であることによって与えられており、天譴論が君主の責任を問うものとして機能しえないようになっていたと指摘している[◆34]。また水谷千秋は、『日本書紀』や『続日本紀』の読解をつうじて日本にも一種の天譴論があったことを明らかにしているが、その内実は災異を天の譴責とみなしつつも、天皇がそれを受けて自身の政治を反省するのではなく、むしろ神仏に鎮静化を祈るようなものであったという[◆35]。こうした「和漢折衷」の態度によって、日本は天命思想がもつ両義性を調和させ、その危険性を取り除いた。つまり儒学を内面化してその論理を貫徹するのではなく、むしろ天皇を権威づけるために、儒学の特定の機能だけを取捨選択し、たくみに動員したのである。
儒学の受容をめぐるこのような構図は、朱子学が本格的に日本へ導入された江戸時代にも繰り返された。そもそも朱子学を学問の分野として見たとき、そのひとつの大きな特徴は『礼記』から『大学』と『中庸』を抽出し、『論語』『孟子』とあわせて四書という枠組みを設けた点にある。これは五経を学ぶための階梯として位置づけられ、『孟子』の経典としての重要性を向上させることになった。
しかし、『孟子』には武力による易姓革命を肯定する(少なくともそのように読める)箇所がある。それは「梁恵王」下の一節で、夏の桀王が殷の湯王によって放逐され、殷の紂王が周の武王によって討伐されたという古代中国の王朝交代伝説について意見を求められた孟子が、それらはあくまで徳を失った「一夫」を征伐したにすぎず、君主への反逆行為ではないと述べたのである。
この「湯武放伐」をめぐる孟子の発言をどう解釈するかは、君臣の主従関係によって成り立つ武家社会の根幹にかかわる問題であった。そして当時の思想家の多くが、放伐論を否定し、革命の思想を抑え込もうとしたのである。たとえば、徳川家康から家綱まで四代にわたって将軍に仕えた儒者の林羅山は、家康から湯武放伐にかんする意見を尋ねられたとき、このように答えている。
上にいるのが桀や紂[のような悪人]であり、下にいるのが湯や武[のような徳をもつ人物]でなければ、それは弑逆の大罪となり、天地もこれを許容することはありません。世の人々がこれ[湯武放伐]を口実とするのは、淫らな人物が[伝説の賢人として知られる]柳下恵をまねるようなものなのです。ひとえに天下の人々の心が帰服していれば君主となり、帰服していなければ一夫となるでしょう。[◆36]
この発言はなかなかに巧妙である。まず、上にいるのが桀や紂のような悪人であり、下にいるのが湯や武のような徳をもつ人物でなければ放伐は大罪になるという点は、朱熹の『孟子集注』に沿ったものである。桀・紂や湯・武は伝説上の人物なので、朱熹は孟子のいう放伐の可能性を理屈のうえで認めつつも、それはほとんど神話的な条件を前提とする、例外的な事柄だと考えた。羅山はそこからさらに踏み込んで、世の人々が湯武放伐を口実にすることを例外の悪用として退けつつ、天下統一を成し遂げた家康を放伐の対象から慎重に外しているのである。朱子学を修める御用学者としてはほとんど完璧な答弁ではないだろうか。
もっとも、朱子学が体制のイデオロギーとしてどれほど中枢に入り込んでいたのかについては、慎重に考える必要がある。多くの歴史家が指摘するように、当時、羅山を含む儒者や儒学の地位は決して高くなかったし、家康はあくまで仏教に帰依していて、朱子学は統治や正統化の道具として必要に応じて使われていたにすぎないと考えられている[◆37]。つまりここでもまた、儒学は権力を制約する機能を外されたまま、選択的に利用されているのである。
江戸時代の儒者たちは、湯武放伐や革命の問題をめぐって、じつに多種多様な議論を展開している。ここでは近代の話にもつながる興味深い事例として、山崎闇斎の弟子であった朱子学者の浅見絅斎に触れておきたい。
絅斎は、まず忠義とは「君がいとしうて忍びられぬと云ふ至誠惻怛の本心」[◆38]によるもの、つまり利害関係や君臣の徳および素質とは関係なくおのずと生じてしまう愛のようなものだと考えた。そしてこの純粋な愛情によって革命を否定したのである。たとえば「拘幽操師説」という講義録のなかで、絅斎はこう語っている。「君父の愛しくどうも離れられぬ味が[……]やむにやまれぬ情が、桀紂にもせよ、誰にもせよ[……]唯いとをしいより外ない。天命に順ひ、人心に応ずると云様なことが、いまいましうてどうもなられぬ」[◆39]。
絅斎の議論は、ある意味で羅山よりも徹底した放伐否定論といえる。というのも、羅山が朱熹の注釈をなぞりながら放伐に厳格な条件を設け、事実上起こりえないものとしたのに対し、絅斎は愛情によって一切の放伐を無条件に拒絶しているからだ。
だがこのふたりの儒者のあいだには、だれに対する放伐を否定するかという点で決定的なちがいがある。将軍を擁護した羅山とは異なり、絅斎は一貫して天皇を君主とし、天皇への放伐を否定したのだ。たとえば絅斎は、「拘幽操附録師説」のなかで「たとえどんな人形であったとしても、天子と名がつくものを変えることはできない。名分というものはかくも厳しく不可侵なものだ」と述べている[◆40]。さらに『箚録』という著作では、源頼朝や北条氏ら武家による権力の掌握を君主たる天皇への反逆とみなし、かれらを「乱臣賊子」と断じているのである。
では、徳川による統治は反逆にはあたらないのだろうか。この点について絅斎はじつに意味深な発言を残している。
恐れ多いことではあるが、ただ今の世についていえば、天子を崇め、天子の御名代として天下を東から御下知になっているそのあり方は、いにしえの西伯[周の文王]のようだ。上下がこのように穏やかである以上、十分に古の聖王の時代のようであって、たとえ天子に実権がないとはいえ、頼朝が何となく権力を盗み取ったような体とは格段に違っており、正しいことなのである。これより先のことは、今日はまだ敢えて口にするところではない。学者はそれぞれ自ら察し、自ら吟味して会得するがよい。[◆41]
ここで絅斎は、いかにも儒者らしく伝説の聖王になぞらえて徳川を称揚している。しかし徳川はあくまで天子の「名代」であって君主ではなく、その立場も名代という分を弁えながら世のなかを穏やかに統治できているという事実によって肯定されているにすぎない。ならばこの前提が崩れるとどうなるのか──絅斎は「今日はまだ敢えて口にするところではない」と語るに留めている。
思想史家の野口武彦が示したように、江戸の儒学における放伐否定論は、当初は徳川を擁護し権威づけるものとして動員されたものの、のちに天皇が君主の位置におかれることによって、最終的にはおなじ論理構造を保ったまま討幕を肯定する思想へと転換した。つまり「天子(皇室)に対する放伐はわが「国体」に反するが、皇室から任命された将軍職のごときは廃するも可という論理」にである[◆42]。すでに見たように、絅斎は決して幕府を批判したわけではない。しかし放伐否定論による擁護から徳川を外し、その正統性に沈黙の留保を添えたことによって、かれはこのような論理転換のひとつのきっかけを生みだしたといえるだろう[◆43]。
それだけではない。江戸の放伐論がたどった将軍から天皇への推移は、いま思えば、近代の日本における漢学と天皇の関係の下地を少なからずつくりあげたように見える。日本が天皇主権の近代国家を構築するにあたり儒学が果たした役割はなかなか重要で、たとえば思想史家の小島毅は、国家神道の形成過程で、儒家の儀礼や制度の多くが、改変や取捨選択を経て「神道式」の儀礼として導入されたことを示している[◆44]。こうした問題について考えるのもきわめて重要ではあるが、ここでは(私の研究者としての出自にもかかわっている)斯文会系の漢学者の言説を取り上げてみたい。
斯文会は、1918年に教育勅語の翼賛や国体精神の高揚を目的として創設された公益法人で、1880年に岩倉具視らがつくった斯文学会を母体としている。その活動内容は学術誌『斯文』の刊行、漢学の講座や孔子祭の開催などで、現在も文京区の湯島聖堂の維持管理を行なっている。もっとも、その創設目的からもうかがえるように、戦前には政治家の庇護を受けながら、儒学を使って天皇を讃美し、戦争やアジアへの侵略を正当化する言説を数多く展開した過去もある[◆45]。
たとえば斯文会の当時の中心人物で、東京帝国大学の中国哲学研究の礎を築いた学者でもある服部宇之吉は、同会が開催した教育勅語公布40周年記念講演会で、「我が斯文会は[……]儒教を主として東亜の学術を闡明し以て明治天皇の教育に関する御勅語の御趣旨を翼賛し奉るを以て目的として居る」と述べている。そして興味深いことに、かれはすぐさま「儒教といふのは申すまでもなく我が国体に純化せる儒教を意味するのでありまして支那の儒教そのまゝを持つて参るのではない」と言い添えているのである[◆46]。
この発言の裏にはやはり天命思想の問題があると見てよいだろう。じっさい服部は、講義録『支那の国民性と思想』の第9講「天及天命の思想と支那の国体」のなかで、天命思想を的確に解説しつつ、「天命説といふものは、如何に改造され、如何に他の思想が加わつて来ても、革命を否定するに至らぬことは、それが支那思想の特色で、我が国に天命説の行はれざりし所以である」と結論づけている[◆47]。つまり服部もまた、天子に正統性を付与すると同時に革命を肯定する儒家の天命思想が、天皇と相性のわるいものであると明確に認識していたのである。そのため儒家思想を「国体に純化」させること、つまり天命思想にひそむ革命の契機を切り離すことが必要になった。
こうした「純化」の一例として注目すべきなのは、おなじく東京帝国大学の漢学者であった高田真治が1935年に『斯文』に寄せた「政治的天命思想と周公の理想」という論文である[◆48]。高田によると、当時の日本には、中国的な「王道」と日本的な「皇道」を区別し、前者には天命思想が含まれるので日本的な精神とは相容れないとする考え方があった。とはいえ、それを認めると儒教や漢学が「我が国民にとって不用の学」となるだけでなく、満州国の掲げる「王道楽土」のスローガンにも抵触してしまう。高田にとって満州国は「支那四千年来の天命思想が、現実に吾人の眼前に展開されて居る」ものであった。これを擁護するためにも、「皇道」の特殊性に頼るのではなく、天命思想を読み替えながら天皇と調和させようとしたのである。
高田の論旨は、かいつまんで言うとつぎのようなものだ。歴史上、中国は「王道」の理想を掲げて革命を幾度も繰り返し、その都度天命の受け手も変化してきた。しかし、ほんらいは一度受けた天命を失うことなく「無窮に保有する」ことが理想のはずである。そこへ行くと「我が国体は万世一系の皇室を戴き、皇統の無窮なること天壌[天と地]と窮り無きものである」から、中国が達成できなかった王道の理想はむしろ日本の国体によって実現されているといえる。そこで高田はこのような結論を下す。
余は天命思想が我が国体と相容れないのではなくて、寧ろ天命思想の理想が実現されているところに我が国体の無比の精華が存すると言い度いのである。[……]我が列聖は皇祖以来神徳真に天と等しく之を現人神と称し奉ることは、即ち天徳を現人神に体し給ふが為めであつて、真に天人合一神人一如の境に達し給ふが為めである。然らば天命が無窮であると謂ふことは、必然にして当然であらねばならぬのである。[◆49]
革命を繰り返す中国にではなく日本の皇統や「泰平」の世にこそ儒家的な理想が体現されているという主張は、じつは江戸時代から見られるものではある[◆50]。高田の議論のなかで興味深いのは、「孟荀二子が革命を是認する所の論議を為すのも、未だ天命思想の理想を看破せぬが為めである」として、天命の付与と革命の肯定が表裏一体であるという中国の思想家の考え自体がそもそも誤りであると述べていることだ[◆51]。つまり王道の理想が明らかになり、さらに「万世一系の皇室」によって実現されることによって、革命の可能性は理屈のうえですら消え去ってしまうのである。
ここには、天譴論を意図的に受容せず、あるいはたくみに改変しながら受け入れた律令国家の天皇や、放伐論と対峙しつつ愛情によってそれを拒絶した浅見絅斎とはまた別種の、そしてさらに徹底した思考がある。高田はほんらいの儒学には革命の思想などないと主張したのだ。まさに「純化」もここに極まれりといったところだろうか。
王健という中国の思想史研究者は、日本の儒学史を論じた著作のなかで、その独特な受容の仕方を「神体儒用」と表現している。つまり神道や天皇が(あるいは武家の価値観が)つねに本体となっており、儒学はそこに実用的な機能を提供するだけだったということだ。ここまで見てきたように、日本はその時々の目的にしたがって、儒学をきわめて柔軟に──率直にいえば都合よく──解釈し、利用してきた。王によると「中国の儒学は、日本に伝わって以降、もはや深層に根ざした価値や理念として文化の体系を支えることはなく、いきいきとした文化的生命をもった人間のありかたとされることもなかった。それはむしろ「実用的」な日本儒学へと転じたのである」[◆52]。
さきほど私は、中国共産党による政治利用を操屍と呼んだ。なぜならそれは、政治や社会を規定する制度としての儒学が死んだあとに、残された屍を操るようなものであったからだ。その一方で、かりに日本では儒学が国家の制度や価値観の中核をなすものとして根づかなかったのだとすれば、その政治利用のモデルは、あたかも人形使いのように、はなから霊魂のない儒家の形骸を使役するようなものだったといえないだろうか[◆53]。
もちろん、これは政治利用の特徴について言ったのであって、日本には儒学をおのれの魂として生きた個人が存在しなかったという意味ではない。ここに取り上げたのは日本の儒学史のごく一部分であり、私自身は「神体儒用」という構図ですべてを捉えようとすると見逃すものも多いのではないかと考えている。王氏の議論のなかで興味深い点は、この枠組みそのものよりも、むしろその原因の分析にある。よく言われるように、日本は外来の思想や文化を学び、吸収して独自のかたちに変化させることに秀でているとされる。王はその特色こそが儒学の恣意的な利用を可能にしたのではないかと述べているのである。
外来のものを取り込み、作りかえていく日本の能力は、急速な近代化や経済発展の原動力となり、多くの豊かな文化を生み出してきた。私は、それをおおむね好意的に受け止めている。けれども、儒家思想の正統化の機能を利用しながら、そこに付随する制約を都合よく切り離すような「儒学の政治利用」もまた、この力のひとつの側面──近代の歴史を踏まえていえば負の側面であることを、私たちは銘記しておくべきなのだろう。
なにをなすべきか
この文章では、とある奇妙な番組を足がかりにして、中国共産党による儒家思想の政治利用について考えてきた。たしかにそれはきわめて恣意的な濫用であり、また多くの日本の読者からすれば、異なる政治体制をもった別の国で起きている特殊な事例に思えたことだろう。だがすでにはっきり示したとおり、それは儒学の歴史のなかに織り込まれた役割の現代的な表現であり、ほかでもない日本が通ってきた道でもあるのだ。さらにいえば、それは自身への制約を取り払おうとする、権力の普遍的な欲望の発露でもあるのかもしれない。ではその歴史を踏まえて、また現代の儒学をとりまく危機的な状況を受けて、私たちにはどんな提案ができるだろうか。
まず、儒家的な制約としての天譴論を復活させるのは不可能だろう。それはじつにすぐれた仕組みではあったが、中国であれ日本であれ、もはやひとはそのような宇宙観のもとで生きてはいないからだ。であれば、天譴論にもとづく易姓革命も現実的ではないように思われる。そもそも現代社会には天譴や易姓革命以外にも多くの方法があるのだから、ここであえて儒家的な制約の手段に固執する必要性もないだろう。
いま起きている事象にリアルタイムに応答するという意味では、党のやり方を今後も批判的に検討することが重要になる。ただ私自身はむしろ、日本の歴史も踏まえながら、儒家思想の側を積極的に変えていく努力をしていかなければならないと考えている。つまり儒学を正統化の装置という役割から解放し、団結と動員の道具ではなく、新たな公共をかたちづくるものへ作りかえていくことが必要なのではないか。ここでは最後にその暫定的な指針をふたつ提示して、議論を締めくくることにしよう。
まず、家族の概念の脱構築が必要だ。『ゲンロン』の読者には周知のとおり、これは東浩紀が『観光客の哲学』や『訂正可能性の哲学』のなかで切り開いた道である[◆54]。東によると、家族とは必ずしも血縁のみによって規定された排他的な集団ではない。むしろ、偶然性と拡張性に満ちていながらも一定の帰属意識を確保するような、開かれた共同体として再構成される可能性を秘めている。習近平という圧倒的な権力者が、儒家の概念や論理を動員しながら、民族や国家そして世界人民の家族的大団結を叫ぶいま、私たちは儒家の側から家族の概念における「家父長的」な団結と服従のイメージを変えていく必要があるだろう。東の言葉を借りれば、それは党が伝統の正統な継承者を称するのに対し、伝統そのものを「訂正」していく試みになるのかもしれない。
これはけっして容易なことではないが、たとえば祖先祭祀の儀礼を再解釈する試みが参考になる。一般的に、儒家(とりわけ朱子学)の祖先祭祀においては、消散してしまった先祖の気を集めるため、その血脈を受け継いだ嫡子が儀礼を司る必要があるとされていた。それがときに家父長的な家庭の秩序を強化するものと考えられたわけだが、これに対して中国学者のマイケル・ピュエットは、儒家的な儀礼の力はむしろ現実の生活とは異なる関係性に身を置かせることにあったのではないかと述べている。それによると、一部の儀礼のなかには、死んだ祖父をまつるために男孫が祖父を演じ、その孫の父(祖父の息子)が自分の息子につき従うといった演劇的なプロトコルによって現実の家族関係をシャッフルし、互いの視野や感情、あるいは認識を(たとえ一時的にではあれ)柔軟にする機能があったという[◆55]。また、哲学者の中島隆博は、朱熹の展開する「祭祀の内的な論理の中に、別の祭祀の可能性がある」こと、つまり後継者のいない祖先の霊や、「異姓」の妻や外親の祭祀を認める記述があることを指摘している。中島によると、それは「父ではないものを子ではないものが継承する」可能性を示している[◆56]。
もうひとつの指針は、「家国天下」の構図から離れ、その回路自体を解きほぐしていくために、家族の概念を経由しないかたちで構想されるような共同性や連帯を儒家の伝統からうみだしていくことだ。この点にかんして特筆すべき事例としては、人類学者の項飆の仕事がある。かれは『自己を方法とする』などの著作のなかで、自分が身を置くミクロな共同体のあり方やその条件、人間関係や課題などをきちんと把握し、あくまでその「小さな世界」に立脚しながら、国家や世界の大きな制度について考えるべきだと主張している[◆57]。
簡単にいえば、大上段から原理を振りかざすのではなく地に足つけて考えろという話なのだが、興味深いのは項がそのような思考の方式を「郷紳」と名づけていることだ。郷紳とはかつて中国に存在した一種の身分で、退職した官吏や科挙に合格して任官資格をもったまま地元に留まっているひとなど、儒学の教養を身につけた地方(=郷)の知識人(=紳)の集団のことである。かれらは数年で任期が満了する地方役人とは別のかたちで権力や影響力をもち、とくに明清期の中国において地方社会の安定に大きな役割を果たした。
もちろん、項飆はインテリは地元に残って偉くなれと言っているわけではない。かれにとって郷紳は、自身が所属する小さな共同体について隅々まで理解し、自分の言葉で説明できる能力をもった人物の象徴であり、またそうあろうとする気質のことである。その意味で、項のいう郷紳の精神は、カズオ・イシグロのいう「縦の旅行」とも親和性が高いのではないかと思う[◆58]。
さらにいえば、項のいう郷紳の精神は、家と国家のどちらにも還元されない公共的な立場をやしなう可能性を秘めている。それは「家国天下」の構図から抜け落ちてしまう社会的なものを、儒家の歴史のなかから埋め合わせようとする試みでもあるのだ。もともと項の議論は、コロナ禍に登場した新しい人生論ないし共同体論として中国で注目を集めた節があるのだが、それが過去の儒家の生き方をヒントにして生まれたという点にもまた、大きな価値があるといえる。
*
現代中国の儒家は、游魂の時代を経て、あるいはその延長線上で、操屍の時代に突入している。これが私の見立てである。これは決して中国の局所的な問題にとどまるものではない。私たちは日本の歴史を踏まえたうえでこう言うべきである──儒学はまたしても正統化のツールとして利用されようとしている。
儒学という東アジアの思想的資源が直面しているこの苦境を乗り越えるには一体どうすればよいのだろう。じつにやっかいな難題だが、少なくともマルクスに抱きかかえられ、魂を注入されるのが正解であるはずはない。かと言って、私自身にもまだ進むべき新しい道が見えているわけではない。
そのようなときは易に尋ねるのが儒家のたしなみというものである。じつは今回のキーワードであった「革命」という言葉は、そもそも『易経』革卦にある「湯王と武王は命を革め、天に順って人々に応じた」(湯武革命、順乎天而応乎人)という記述に由来している[◆59]。そしてこの革卦のなかには、「君子は豹のごとく変わり、小人は面を革める」(君子豹変、小人革面)という文言もある。「君子は豹変す」という有名な言いまわしもまた、ここに由来しているのである。ここでいう「豹変」とは、(しばしば誤用されるように)節操なく言動を変えることではなく、自身のあやまちをすぐに改め、みずからよい方向に進んでゆくことを意味している。君子にはそれができるのだが、小人は面を革めること、つまりうわべを変えて取り繕うことしかできないというわけだ[◆60]。
思想の政治利用とは、いうなれば面を革めることである。思想家の側からすれば、それはおのれの面だけを屍や人形のように扱われることだ。たしかにこれは問題だが、しかし私たちは、そのような所業を横目に、思想の欠陥やあやまちと向き合い、自分たちの手でそのあり方を大胆に変えていくことができる。面にかかずらうのではなく、豹のごとく変われ。おそらくはその先に希望がひらかれる。
◆1 この番組は、「芒果TV」という湖南衛視運営のプラットフォームで配信されており、YouTubeでも閲覧できる。URL=https://m.youtube.com/watch?v=Fyv4iwlt604&ra=m
また、この番組を取り上げた日本語の記事に以下がある。安田峰俊「「聖人・孔子」をプロパガンダに利用する中国の茶番 マルクスと孔子の対談動画が物笑いの種に」、「東洋経済オンライン」、2024年10月。URL=https://toyokeizai.net/articles/-/833493
◆2 たとえば中国の大手レビューサイト「豆瓣」では、2026年6月現在、この番組に300件弱のレビューが寄せられており、その大半が星1の最低評価になっている(最大値は5)。なかにはこんな意見もあった。「これぞ脱構築主義の最高峰。感動のあまり熱い涙があふれた。迷わず星6つを付けたが、ひとつはみ出てしまった」。URL=https://m.douban.com/movie/subject/36613865/comments
◆3 『共産主義インターナショナルと中共批判』の全文は、彭の解説とともに以下に収録されている。牟宗三,《共產國際與中共批判》,《中國文哲研究通訊》第19卷(2009年),第3期,第5─26頁。また、彭は同書の公開後に牟宗三の政治・社会評論にかんする研究書をまとめており、そこでも詳しい論評や表紙の紹介を行なっている。以下を参照。彭國翔,《智者的現世關懷──牟宗三的政治與社會思想》(台北:聯經出版,2016年)。
◆4 牟宗三,《共產國際與中共批判》,第8頁。
◆5 マルクス、エンゲルス『新訳・共産党宣言』、新訳刊行委員会訳・発行、1997年第1版、2020年第3版、41、40頁。
◆6 以下を参照。エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』、土屋保男訳、新日本出版社、1999年、第2章。引用箇所は103頁。
◆7 牟宗三,《共產國際與中共批判》,第8頁。
◆8 同上,第11頁。
◆9 同上,第14頁。強調は筆者。
◆10 牟宗三,《時代與感受續編》,《牟宗三先生全集》,第24冊(台北:聯經出版,2003年),第423頁。
◆11 ここから3段落の記述は、以下を参照している。ヘーゲル『法の哲学──自然法と国家学の要綱』(上)・(下)、上妻精、佐藤康邦、山田忠彰訳、岩波文庫、2021年。
◆12 牟宗三,《共產國際與中共批判》,第19頁。
◆13 牟宗三,《共產國際與中共批判》,第13頁。強調は筆者。
◆14 詳細は以下を参照。John Makeham, “The Retrospective Creation of New Confucianism,” in John Makeham (ed.), New Confucianism: A Critical Examination, New York: Palgrave Macmillan, 2003.
◆15 以下を参照。Shufang Wu, “The Revival of Confucianism and the CCP’s Struggle for Cultural Leadership: a content analysis of the People’s Daily, 2000-2009,” Journal of Contemporary China, 23:89, 2014, pp. 971-991.
◆16 孔子学院をめぐる問題については、ドリス・リウ監督の「In the Name of Confucius」(2017年)というドキュメンタリー映画が参考になる。作品はいまでも公式サイト上で公開されている。URL=https://inthenameofconfuciusmovie.com/
◆17 たとえば以下を参照。Chun Lin, The Transformation of Chinese Socialism, Durham, NC: Duke University Press, 2006; Steve Tsang and Olivia Cheung, The Political Thought of Xi Jinping, Oxford: Oxford University Press, 2024.
◆18 〝习近平在纪念孔子诞辰2565周年国际学术研讨会上的讲话〟,新华网,2014年9月24日。URL=https://cn.chinadiplomacy.org.cn/2014-09/24/content_76847964.shtml
◆19 习近平,〝注重家庭,注重家教,注重家风〟,新华网,2025年1月31日。URL=https://www.news.cn/politics/20250131/0113946215834b2e97cc418fc169e87b/c.html
なお「中国の夢」については、『ゲンロンy創刊号』(2026年)所収の私の論考「はてなき天下の夢──現代中国の「新世界秩序」について」で触れている。
◆20 习近平,〝在会见出席中国国际友好大会暨中国人民对外友好协会成立70周年纪念活动外方嘉宾时的讲话〟,外交部,2024年10月12日。URL=https://www.mfa.gov.cn/web/ziliao_674904/zyjh_674906/202412/t20241218_11497088.shtml
◆21 条文は以下より閲覧できる。URL=http://www.mod.gov.cn/gfbw/fgwx/16448582.html
◆22 习近平,〝开辟马克思主义中国化时代化新境界〟,求是网,2023年10月15日。URL=https://www.12371.cn/2023/07/01/ARTI1688188913551281.shtml
◆23 康晓光,〝我为什么主张〝儒化〟〟,儒家网,2010年4月18日。URL=https://www.rujiazg.com/article/1178
◆24 乐黛云,〝乐黛云人民日报撰文:文明复兴不是文化〝复归〟〟,北京大学新闻网,2006年8月15日。URL=https://news.pku.edu.cn/xwzh/129-109047.htm
◆25 蒋庆,〝王道政治是当今中国政治的发展方向──〝儒教宪政〟的义理基础与〝议会三院制〟〟,儒家网,2013年5月14日。URL=https://www.rujiazg.com/article/3320
◆26 張博樹『新全体主義の思想史──コロンビア大学現代中国講義』、石井知章、及川淳子、中村達雄訳、白水社、2019年、303頁。
◆27 余英时,《现代儒学的困境》,《现代儒学论》(上海:上海人民出版社,2010年),第187页。
◆28 教科書的な通説では、前漢の武帝の時代に董仲舒という儒家の貢献によって「儒教の国教化」が起きたとされている。だが思想史研究では、このタイミングやプロセスをめぐって諸説あり、儒学はより漸進的なプロセスを経て徐々に国家の正統教学として整備されていったのであって、武帝と董仲舒による「国教化」という言説は後漢の班固の『漢書』「董仲舒伝」などをつうじた後世の創作という面が少なからずあるともいわれている。詳細は以下を参照。福井重雅『漢代儒教の史的研究──儒教の官学化をめぐる定説の再検討』、汲古書院、2005年。渡邉義浩『後漢における「儒教國家」の成立』、汲古書院、2009年。
◆29 災異説については以下を参照。串田久治編著『天変地異はどう語られてきたか──中国・日本・朝鮮・東南アジア』、東方書店、2020年。
◆30 以下を参照。〝南方都市报因发表朱学勤〝天谴〟论连遭中宣部警告〟,《乌有之乡网刊》,2008年6月18日。URL=https://www.wyzxwk.com/Article/zatan/2009/09/38222.html
◆31 大津透『律令国家と隋唐文明』、岩波新書、2020年。とりわけ第4章「固有法としての律令法」を参照。
◆32 『日本書紀』(上)、井上光貞監訳、中央公論社、1987年、255-256頁。
◆33 小島憲之校注『懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋』、岩波書店、1964年、59頁。
◆34 伊藤聡「祟・天譴・怪異──日本における天災と信仰」、『中国──社会と文化』第36号、中国社会文化学会、2021年、38-48頁。
◆35 水谷千秋『日本古代の思想と天皇』、和泉書院、2020年、とりわけ第一部「日本古代における天命思想」を参照。また串田久治編著『天変地異はどう語られてきたか』所収の座談会のなかでも、歴史家の細井浩志が「災異説は日本では陰陽道という、日本独特の呪術へと変容していったので、本来の災異説の政治や社会に対する批判性というか社会性は、日本では生まれなかったといえます」と発言している(270頁)。
◆36 林羅山「対幕府問」、京都史蹟会編纂『林羅山文集』(上)、ぺりかん社、1979年、343頁。引用は筆者による口語訳。
◆37 詳細は以下を参照。渡辺浩『近世日本社会と宋学』増補新装版、東京大学出版会、2010年。同『東アジアの王権と思想』増補新装版、東京大学出版会、2016年。趙剛「江戸初期における朱子学の展開と林羅山──徳川家康との関わりを中心に──」、『皇學館論叢』第35巻第6号、2002年、48-67頁。
◆38 若林強斎筆記「拘幽操師説」、倉本長治編『浅見絅斎集』、誠文堂新光社、1937年、216頁。
◆39 同書、218頁。
◆40 若林強斎所録「拘幽操附録師説」、内田周平編『拘幽操合纂』続編、谷門精舎、1938年、47丁。口語訳は筆者。
◆41 浅見絅斎「箚録 上」、『浅見絅斎集』、419頁。口語訳は筆者。
◆42 野口武彦『王道と革命の間──日本思想と孟子問題』、筑摩書房、1986年、46頁。
◆43 倉本長治編『浅見絅斎集』に収録された田崎仁義の解題では、絅斎が「我国体の明徴を補け、正統天子の神聖絶対を宣揚し、自ら排覇倒幕の気運の雲蒸するを望むところの深志」(71頁)をもった人物と評されている。本文にも記したとおり、筆者は絅斎が明示的に倒幕を扇動したわけではないと考えているが、田崎の記述は(同書の編纂が1935年の天皇機関説事件をきっかけとする国体明徴運動の影響下で行なわれたことを示しているだけでなく)絅斎の思想に討幕の論理を引きだす余地があることをあらわす実例であるといえる。
◆44 以下を参照。小島毅『天皇と儒教思想──伝統はいかに創られたのか?』、光文社新書、2018年。
◆45 斯文会の戦争協力問題については、以下を参照。ショーン・オドワイヤー「近代日本の儒教と戦争」(中里見敬訳)、『言語文化論究』第51号、2023年、1-18頁。陳瑋芬,〈「天道」、「天命」、「王道」概念在近代日本的繼承和轉化──兼論中日帝王的神聖化〉,《中國文哲研究集刊》第23期,2003年,第235-262頁。
◆46 服部宇之吉「勅語渙発四十年記念講演会について」、『斯文』第12編第12号、1930年、1頁。強調は筆者。
◆47 服部宇之吉『支那の国民性と思想』、京文社、1926年、219頁。
◆48 高田真治「政治的天命思想と周公の理想──併せて吾が国体との関係を論ず」、『斯文』第17編第1号、1935年、1-17頁。
◆49 同書、17頁。
◆50 詳細は以下を参照。渡辺浩『東アジアの王権と思想』第6章「「泰平」と「皇国」」。
◆51 高田真治、前掲論文、15頁。
◆52 王健,《儒学在日本历史上的文化命运:『神体儒用』的辨析》(郑州:大象出版社,2023年),第273頁。
◆53 こうした態度は、たとえば朝鮮がいかに儒学を深く受容したかを考えてみると、やはり独特なものであったといえる。よく知られているように、高麗王朝からの「易姓革命」によって1392年に誕生した朝鮮王朝(李朝)は「崇儒排仏」を国是とし、儒学とりわけ朱子学を中心に据えた国づくりを行なった。姜在彦は『朝鮮儒教の二千年』(講談社学術文庫、2012年)のなかで建国神話から李朝末期までの朝鮮における儒教の役割をまとめており、また邊英浩は『朝鮮儒教の特質と現代韓国』(クレイン、2010年)で、李朝の時代に国家の隅々まで浸透した朱子学が現代韓国のナショナリズムや記憶の問題にどのような影響を与えたかを論じている。
◆54 東浩紀『観光客の哲学 増補版』第2部および『訂正可能性の哲学』第1部(いずれもゲンロン、2023年)を参照。
◆55 Michael Puett and Christine Gross-Loh, The Path: What Chinese Philosophers Can Teach Us About the Good Life, New York: Simon & Schuster, 2016. 邦訳はマイケル・ピュエット、クリスティーン・グロス゠ロー『ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』、熊谷淳子訳、早川書房、2016年、52頁。もちろん、ピュエットの紹介する儀礼の演劇性が男性のみによって上演されていることは留意すべきである。この問題にかんしては、アンセルム・チャン監督の「破・地獄」(2024年、邦題は「旅立ちのラストダンス」)という映画に触れておきたい。これはポストコロナの香港の葬儀業界を描きながら、(道教的な)儀礼の演劇性と家族の問題をジェンダーの観点から掘り下げた傑作である。
◆56 中島隆博『危機の時代の哲学──想像力のディスクール』、東京大学出版会、2021年、192-194頁。
◆57 项飙、吴琦,《把自己作为方法:与项飙谈话》(上海:上海文艺出版社,2020年)。
◆58 詳細は以下を参照。倉沢美左「カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ 事実より「何を感じるか」が大事だとどうなるか」、「東洋経済オンライン」、2021年3月4日。URL=https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b
◆59 鈴木由次郎『易経』(下)、〈全釈漢文体系〉第10巻、集英社、1974年、129頁。口語訳は筆者。なお厳密には、この箇所は卦辞の注釈である彖伝の一節である。
◆60 朱熹をはじめ多くの儒家たちは「君子豹変、小人革面」から自己の訂正をめぐる道徳的教訓を引き出してきたが、これは『易経』のテクストそのものの解釈としては正しくないという見解もある。それによると、ここでいう君子と小人は徳の有無ではなく地位の上下に対応しており、地位の高い人物は天子の革命に応じて新体制に協力し、低い人々はそれに従うといった意味であるという(同書、137-139頁)。ここでは易の正確な解釈を論じるというよりは、むしろ過去の儒家の議論を引き受けて、私なりの指針を示す助けとしたい。
2026年10月24日刊行『ゲンロン19』

伊勢康平





