スカーレットは新たな家族像をつくりだしていた──ミッチェル『風と共に去りぬ』|鴻巣友季子 聞き手=上田洋子

マーガレット・ミッチェル Margaret Mitchell(1900-49)
引用元=https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gone_with_the_Wind_(1936,_first_edition_cover).jpg
『風と共に去りぬ』は世界的なベストセラー小説だ。日本でも長らく愛されてきた。とはいえ、ヴィヴィアン・リー主演の映画や宝塚のミュージカルなど「劇」としての受容が圧倒的に多かった。『風共』は「見られる」作品だったのだ。
鴻巣友季子氏の新訳(新潮文庫、2015年)が、それを「読まれる」作品へ変えた。南北戦争下のアメリカを生き、家族や土地を守りぬく主人公スカーレット。従来の恋愛小説のイメージとは異なる、銃後の家族を描いた骨太の戦争文学の姿が、いきいきとした現代的な翻訳で明るみに出された。
ゲンロンでは2021年3月に、鴻巣氏をお迎えしてこの新訳について語っていただくオンラインイベントを開催した[★1]。『風共』の原文では、地の文に登場人物の声が溶け込む「自由間接話法」が駆使されている。語り手が主人公に同一化したり、逆に客観的に離れたりすることで、戦争の建前と日常の二重性が十全に描かれているのが素晴らしい。
複雑な社会を複雑なまま描く文学の力に感銘を受けたことが、今回の特集に4年を経てつながった。コロナ禍が起こり、戦争のニュースが日常化したいま、『風共』の現代性についてあらためて鴻巣氏に尋ねた。(上田洋子)
いま古典はどのように読まれているか
──鴻巣さんは『風と共に去りぬ』(以下『風共』、新潮文庫)の翻訳者です。2015年のこの新訳によって、それまで日本では映画や演劇で親しまれてはいても、小説としてのイメージの薄かった『風共』はいっきに読まれるようになったのではないでしょうか。鴻巣さんには2021年、「『風と共に去りぬ』とアメリカ」というテーマでゲンロンカフェにもご登壇いただきました。そのときにも伺ったのですが、『風共』にはアメリカのさまざまな面が映し出されている。今回は、『風共』に見いだせる家族の問題や一族の想像力、そしてアメリカのいまについてもお聞きできればと思います。
ところで、一族の想像力というテーマで語るべき文学作品を考えたときに、意外にもアメリカ文学の名がたくさん挙がりました。家族という主題はアメリカで特に重要視されているのでしょうか。
2024年に、ニューヨーク・タイムズが21世紀のベストブックス100を発表しました[★2]。このリストを見ると、主なテーマは、「南北分断」、「環境問題」、そしてこの20年くらいで流行している「ディストピア」の3つです。それらに関連して歴史・戦争ものもよく扱われます。この3つの他というと、際立って多いのが家族ドラマです。
例えばリストの5位にあるジョナサン・フランゼンの『コレクションズ』は邦訳もありますが、中西部の伝統的な家族観を重んじる田舎に暮らす夫婦の話です。発売された直後に9・11が起き、ベストセラーのリストがすべて化学兵器やテロリズムについての書籍にがらっと変わったのですが、これだけはランキングから弾き出されず売れつづけたというくらい、あらゆる層が読んでいました。 ただしアメリカでは、やはり保守とリベラルで読書の傾向が分かれていると感じます。
その典型が35位に入っているアリソン・ベクダルの自伝的作品『ファン・ホーム』です。これはグラフィックノベルと呼ばれる大人向けのマンガですが、英米ではこのジャンルもブッカー賞などの候補になるんです。主人公はお店を営む夫婦と3人の子どもたちで、長女がレズビアンなのですが、実は父親も同性愛者だった。その親子の苦悩とほのかな和解と悲劇のプロセスが描かれています。ブロードウェイでも上演され、トニー賞ミュージカル作品賞も受賞したのですが、一部の保守からは目の敵にされ、学校や図書館で禁書にされている州もあります。こちらも邦訳があるので、よければ探してみてください。
他方で近年ではリベラルの側から、古典の差別的な描写が問題視され、内容が改変されるということもあります。アガサ・クリスティーやロアルド・ダールの『チャーリーとチョコレート工場』、ディズニー作品などですね。けれどこれらの作品は、子ども時代に、あるいはある世代の人たちの多くが通過するものですし、本だけではなくさまざまな産業が背後にある。映画や舞台やテレビ、それに関連する物販、観光などに展開される巨大なIP(知的財産)のもとで食べているひとも多い。古典作品というのは、長年一定以上の購買者が途切れず、この先も安定した利益が望める優良商品ですし、なにより読み継がれるべき名作でもある。そういう知財を世間の攻撃から保護し、生き永らえさせる苦肉の策なのでしょう。
さて、『風と共に去りぬ』ですが、これはアメリカ南部の農園〈タラ〉に育ったスカーレット・オハラが、南北戦争や家族の事情に翻弄されながらも、力強く生きていくさまを描いた小説です。確かに南部の保守的な家族や奴隷制度も描かれているため、いまのリベラルは警戒しているところがある。世界的なベストセラーとなった『風共』は、アメリカでは「第二の聖書」と呼ばれることもあるのですが、いちど『ザ・ニューヨーカー』というリベラルな文芸誌の小説部門の名物女性編集長デボラ・トリースマンにどう思っているか尋ねてみたところ、「とんでもない」という反応がありました。ただ、同作品中に差別的な発言があったとしても、それは小説上の必要性があってのことで、著者のマーガレット・ミッチェル自身がそう考えているわけではありません。また女性のスカーレットが経営の才覚を発揮するなど、1936年当時を考えると非常に先進的な面もあります。
「拡張的家族」の想像力
──日本では『風共』といえば、1939年に公開された映画版のイメージが強く、華やかな南部貴族たちの恋愛小説だと思われてきました。けれど鴻巣さんの翻訳を読むと、戦争の文脈や女性たちの活き活きとした姿など、それだけにとどまらない魅力があることがわかります。
いまの若い世代はむしろ映画を知らないので、原作を直接読んですぐに、「これはスカーレットとメラニーの友情小説だ」という受け止め方をするそうです。わたしは翻訳してみてはじめて、恋愛ではなく友愛や隣人愛としての『風共』の魅力に気づきました。そもそも『風共』は恋愛小説として読むとあまり面白くない(笑)。スカーレットは周りが見えない恋愛音痴ですし、レット・バトラーは大人の男性ですが、初恋相手のアシュリは白馬の騎士という典型の域を出ず、人間性がよく見えない描かれ方をしています。
そのアシュリと結婚したメラニーはこれまで脇役と思われてきましたが、メラニーこそが実の主人公だとも言えます。いっけんおとなしく、保守的な家庭の天使のような人物ですが、スカーレットになにかあったときには周囲を敵に回しても頑なに彼女を擁護する芯の強さがあるんです。
──シスターフッドの視点から読む『風共』は非常に面白いですね。隣人愛としての『風共』についてはいかがでしょうか。
スカーレットはよく利己的でわがままだと形容されますが、決して自己愛ばかりのひとではありません。確かに最初のころは、アトランタでの傷病兵の看護があまりにきつく「みんな死んでくれればいいのに」などとひどいことを心のなかでつぶやいたりもしています。けれども、戦争が長引くなかで、不本意にもメラニーの出産を手伝うことになり、その直後には心の拠り所だった母・エレンが亡くなってしまう。スカーレットはこれらをきっかけに変わっていくのです。タラに戻った後は、妻を失って認知症のようになっている父・ジェラルドや病み上がりの妹たち、産後で衰弱しているメラニーと赤ん坊のボー、自分の子どものウェイド、年老いた使用人たち、さらにはアトランタにいる最初の夫の家族のピティパットおばさんやアシュリの妹たちなど、大勢のひとの面倒を見ることになります。集まってくるのはスカーレットとは血縁・家族関係にない人が多いのですが、彼女は誰も切り捨てず引き受けようとする。これをわたしは「拡張的家族」と呼んでいます。
──多様な人たちを家族として抱える、というスカーレット像はとても現代的ですね。
これはネタバレになってしまいますが、『風共』は最後レットに去られたスカーレットがタラに戻ろうと決意したところで終わります。その後どうなるかわからない、いわばオープンエンドの結末が議論を呼んだわけですが、わたしはアシュリとレットとスカーレットの3人は最終的に同居するのではないかと思っているんです。
まず、アシュリとボーは、亡くなる際にメラニーから託されたわけですから、スカーレットはタラに呼び寄せて面倒を見るのではないでしょうか。アシュリの妹たちやピティパットおばさんもついてくるかもしれない。そうしたらレットも、皆をひとりで支えないといけないスカーレットのことが絶対心配になるでしょう。
──それはとても面白いですね。タラではアシュリたちと、アトランタではバトラーと暮らすという二拠点生活も考えられるかもしれません。
大いにありえます。もともとアトランタの豪邸はレットのものですし、スカーレットは自分で興した大事な事業もありますからね。そして、3人とも歳を取ったらタラで同居して農業を営む(笑)。
──まさに新しい家族の形態ですね。ただ『風共』には遺族が公式に認めた続編があるのではなかったですか。
『スカーレット』と『レット・バトラー』の2つがあります。『レット・バトラー』は続編というよりは、『風共』と同時代の話だったりバトラーの過去編だったりするようです。『スカーレット』のほうは後日譚で、乳母のマミーが亡くなり、レットと再会したりまた離れたりするといった内容ですが、残念ながら一人称で書かれてしまった。やはり『風共』の面白さは、3人称で語られることで生まれる、ボケとツッコミの文体にあります。物語の外に語り手がいて、強烈な性格の主人公をはじめ登場人物たちにツッコミを入れるからこそ、物語に多面性が生まれるんです。
戦争が人びとを結びつけた
──ミッチェルの『風共』に話を戻しますが、スカーレットがさまざまなひとと関わることになる展開は、著者自身が意識して描いたものなのでしょうか。
そうだと思います。『風共』には、ミッチェル自身の母方の曾祖父のようなアイルランド移民や、フランスから移住してきた貴族、ホワイト・トラッシュと言われるような白人貧困層や小農家、ネイティブ・アメリカンなど、人種や階級差についても細かく描かれています。ただ、多様な人種や階層を欺瞞なく描くことはどんな作品であれ難しい。『風共』でも、黒人や白人貧困層などのマイノリティに物語上重要な役割を担わせることで、マジョリティに都合のよい存在になってしまっているという指摘もあります。
──とはいえ、戦争が起きると社会が一旦リセットされて、本来出会わない者たちが出会うということはよくありますね。
南北戦争によって、安定した社会では起きえない越境が生じる物語であるとも言えます。例えばアシュリは文学や音楽を好む文化的な人物ですが、戦後の混乱で生き抜く力を発揮することができず、ただスカーレットに頼ることになる。これに対してフランス系の南部青年ルネは、もともとは文化資本側の人間でしたが、姑と共にパイを売る屋台を始めて、商売で成功します。ブルデュー風に言うと、文化資本から経済資本への転換に成功したわけです。
──ミッチェルの新聞記者としてのキャリアが活かされている部分はありますか。
記者時代に戦記物が得意だったというのは、『風共』の臨場感のある戦争の描写にも表れています。街のさまざまな事件記録や人びとの家族構成・名前もたくさん調べていたようです。
また、『風共』執筆にあたって、ミッチェルは、素人の女性たちが出版した南部戦争の体験記を参考にしています。それらを読むと、女性をデートに誘う場面や戦争帰りの生活などが、かなり『風共』に似ている。だから『風共』が出版されたときに、多くの読者が「これはわたしだ」とか「うちのおじいちゃんが描かれている」と思ってしまって、問い合わせが殺到した。それでミッチェルは実在の人物は一切モデルにしていないと何回も宣言したそうです。それくらい、人びとの集合記憶を刺激したのでしょうね。
──ミッチェル自身の家族と重なっているところはあるのでしょうか。
わたしはスカーレットのモデルは、ミッチェルの母方の祖母・アニーではないかと思うんです。行動力があるけれど強引なひとでもあって、自分の着替えが間に合わないからと言って列車を待たせたとか、お金のために自分の子どもも訴えたというエピソードがあるくらい。生き残るために手段を選ばない性格はスカーレットに投影されているのではないでしょうか。
その娘でミッチェルの母のメアリ・イザベル(メイベル)は、スカーレットの母・エレンのような理想的な南部女性でしたが、家を仕切ることに専念したエレンとは違って、婦人参政権運動にも携わっていました。その分裂がミッチェルへの教育にも反映されています。一方では南部女性の美徳を説いて、他方では男性に負けないくらい勉強をしなさいと言う。仕事と家庭の分裂は19世紀にすでに始まっていたとも言えます。
ミッチェルの父・ユージンは真面目な法律家です。その父・ラッセル・クロフォード・ミッチェルはかなりやんちゃで、南北戦争に参戦したのち商売に成功した豪胆なひとでした。彼もスカーレットのキャラクターに影響しているかもしれません。
ただ登場人物の造形については、ミッチェル自身が合成物だと書き残しているように、先ほどの体験記のほかに、19世紀のヴィクトリア朝文学など過去の小説の要素が多く取り入れられています。例えば『ジェイン・エア』や『嵐が丘』からもキャラクター造形を借りているようです。
スカーレットの分裂とアメリカ社会
──さきほどのミッチェルの母の仕事と家庭の分裂は、スカーレットにも見いだせますね。
そのとおりです。スカーレットは家族を扶養する大黒柱であり、同時にケアラーでもあります。つまり家父長制のなかで父親と母親がそれぞれべつべつに担うべきとされる役割を同時に担うことになってしまった。
この分裂はアメリカの分裂でもあると言えます。アメリカでは女性の自立や社会進出を是として推進していこうという動きがある。けれど伝統的な家族・宗教観のもとにまとまろうとする家父長制も根強く残っている。これを言い換えると、アメリカが抱えている最も深刻な病態は「個人と連帯」の対立ではないでしょうか。
アメリカは個人の独立を重んじる国です。宗教弾圧から逃れ、イギリスから独立し、自由を謳って始まったのですから。けれどもう一方では連帯・統合も掲げています。1788年の合衆国憲法は「われら合衆国の国民はより完全な連邦を形成し(in Order to form a more perfect Union)」という前文で始まります。Unionは統合・統一という意味です。だからある意味、個々をならして1つにするという思想にもつながる。しかも「より完全に・完璧に」。昔日本の学校ではperfectには基本的に比較級がつかないって習いましたけど(笑)。
黒人初の大統領になったオバマでさえ、このフレーズに選挙戦のなかで言及していました。この2つがどう合わさるのか、多様性を重んじながらどのように連帯することができるのかが、いま世界最大の難問です。
スカーレットもこの葛藤を抱えています。タラという土地に集まった大家族を養いケアするのだけれど、どうしても彼女の個性が暴れてしまう。それは近代人としてのエゴや、新しい女性の生き方の発露でもあります。この2つがどうしても馴染まないのです。だから、スカーレットというキャラクターはあんなにはちゃめちゃなのです。
──いまのアメリカの保守性と革新性を両方秘めている主人公だとも言える。
そうですね。スカーレットは、当時の女性で多角経営に乗り出すという点では革新的な人物ですが、最終的にはタラの赭土の土地に帰ろうとする保守的な部分もある。
現代のアメリカでも、多様な人びとがいる街はマンハッタンやロサンゼルスなどの大都市や学園都市の一部で、そこから1時間も車で行くと白人だらけだったりする。アメリカの多様性はある意味でコントロールされていると感じます。これからどうなるのかは本当にわかりません。
──おっしゃるとおりです。今日は『風共』の魅力からいまのアメリカまで貴重なお話をありがとうございました。
鴻巣さんは、アマンダ・ゴーマンやマーガレット・アトウッドなどの近年の新作と、このような古典の翻訳を同時にされているのが素晴らしいです。そのようなハイブリッドなお仕事をされているからこそ、『風共』の普遍的な面白さを引き出せるのだと思います。
ミッチェル自身も、南北戦争前後の時代を当時の第一次世界大戦後の状況に重ねて書いています。古典も出版された当時は新作です。古典が持っていた新作としてのエキサイトメントを伝えたいといつも思っています。
2025年2月20日
オンラインにて収録
構成・注=編集部
★1 鴻巣友季子×東浩紀×上田洋子「『風と共に去りぬ』とアメリカ」、2021年3月12日
URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20210212
★2 “The 100 Best Books of the 21st Century,” The New York Times.
URL=https://www.nytimes.com/interactive/2024/books/best-books-21st-century.html


鴻巣友季子