聖像画と記念碑 ヤセノヴァツで考える ロシア語で旅する世界(14)|上田洋子

クロアチアのボスニア・ヘルツェゴヴィナとの国境地域に、ヤセノヴァツという村がある。そのちいさな村にグーグルマップ上でセルビア正教の教会を見つけた。2024年10月の2度目の旧ユーゴスラヴィア取材にむけて準備をしていたときのことだ。1941年から45年まで、ヤセノヴァツには旧ユーゴスラヴィア地域最大の収容所群があった。東浩紀とわたしはその跡地にできた記念公園を訪問することにしたのだ。
第二次世界大戦中の4年間、クロアチアを支配していたのはナチス・ドイツの傀儡国家「クロアチア独立国」だった。この国で政権を執っていたファシスト政党「ウスタシャ」は、ナチスをまねて人種法を公布し、セルビア人とそのほかの非クロアチア人や反体制クロアチア人に対して、ときにドイツ軍や、ドイツとともにクロアチアを占領していたイタリア軍でさえも戦慄するような暴力行為を行ったとされている。ヤセノヴァツの収容所で、多くのひとが残虐に殺された。
現在、収容所跡地には記念碑がたち、記念公園が作られている。取材旅行ではこの記念公園と、そこから車で数分の場所にあるヤセノヴァツ村、村のすぐ隣、ウシュティツァのロマ収容所記念公園、そしてサヴァ川とウナ川を挟んで対岸のボスニア側にあるドニャ・グラディナを訪れた。ドニャ・グラディナは囚人たちが処刑され、埋葬されていた場所だ。ヤセノヴァツはひとつの収容所ではない。複数の収容所と処刑場、労働農場などからなる収容所網である。90年代のボスニア戦争における虐殺の代名詞が、東浩紀が前号の『ゲンロン17』で取り上げたスレブレニツァの虐殺(1995年)であるならば、第二次世界大戦期のユーゴの虐殺の代名詞はヤセノヴァツだ。
しかし、ヤセノヴァツの悲劇はナチス・ドイツのユダヤ人弾圧やソ連の強制収容所システムなどとは比較にならないほど世界で知られていない。もちろん、ドイツやソ連とこの地域とでは国力も違えば、虐殺や人権侵害の規模にも大差がある。世界に流通する情報の量がそれらの所業に匹敵しないのは致し方がない。だが、原因はそれだけではない。情報不足の背景には、戦後、ティトー率いるユーゴスラヴィア政府が、民族ごとの戦争被害や戦争犯罪を追及しない政策をとったことがある。旧ユーゴ時代、第二次世界大戦の戦争被害については、1945年にティトーが発表した戦死者170万人という数字が動かし難い権威となっていた。研究によってそこに疑義を呈することさえ難しかった[★1]。
ティトーは共産主義者のパルチザン軍を率いて、ドイツ、ウスタシャ、それにセルビア王党派のチェトニク軍と戦った。泥沼の民族戦争を勝ち抜き、ユーゴスラヴィア連邦国家を築いたユーゴスラヴィアの英雄である。戦争被害のデータは、ある程度当時のティトー政権に都合のいいように水増しされていたと言われている。なにより、民族対立を煽るような詳細は、ユーゴスラヴィア再統合の邪魔であった。
戦争被害の記憶と結びついた民族同士のわだかまりは鳴りを潜めつつも生き続け、ティトーの死後、息を吹き返す。現在のクロアチア共和国の初代大統領トゥジマンは民族主義者の歴史家で、ユーゴスラヴィアでヤセノヴァツの戦争被害を大きく見せるなど、クロアチアに不利な歴史解釈がなされていると告発した。
ヤセノヴァツではたくさんの罪のないひとが殺され、暴力に晒された。それなのに戦後、この固有名詞は弔いの対象ではなく、歴史解釈の争点となってしまった。「ヤセノヴァツ」という言葉で、ウスタシャによるセルビア人弾圧の全体が語られることすらあるようだ。クロアチアはカトリック、セルビアは正教という信仰の違いの問題も含め、このときの対立は1990年代のユーゴスラヴィア紛争へとつながり、現在にまで尾を引いている。
収容所跡地のような、負の歴史を記憶する場所を訪れる旅行のことを「ダークツーリズム」と呼ぶ。
率直に言って、こうした旅はある程度の精神的な負担を覚悟しなければならない。愚かで残虐な人類の歴史を目の当たりにすることになるからだ。世界各地で戦争や争いが続く現状に照らしあわせ、ますます暗い気持ちになりもする。そんななか、魅力的な記念碑は、「真・善・美」といったポジティヴな感覚を仲介として、心の負担を軽減しつつ、見るひとに重い歴史を記憶させる。生き残ったひとの証言や、亡くなったひとが残した生の痕跡が博物館で展示されるのは、抑圧された集団のなかにも個人個人の生があったことを示すためでもあるだろう。そうしたひとつひとつの生は訪問者ひとりひとりの個別の生と等価なものだ。
いっぽう、負の歴史を記憶し、それを後世に繋ぐ役割を担っているのは博物館だけではない。たとえば宗教もまた、人類の歴史の記憶に大きな力を持っている。そのことは、さまざまな聖典の存在とその影響力からも、また昨今の戦争における宗教イデオロギーからもよくわかる。
1度目の旧ユーゴ訪問の際に、いくつかの教会で「ヤセノヴァツの新致命者たち」[★2]という聖像画を見た[図1]。カトリックのクロアチア人のもと、ヤセノヴァツ収容所で正教の信仰を保っていたがゆえに亡くなった人々を祀るものだ。あのとき以来、このイコンのことが気になっていた。
「致命者」とは正教会の用語で殉教者のことだ。正教会に限らずキリスト教世界では、いまもときどき過去の殉教者が列聖されている。とくにロシアをはじめとする旧共産圏の正教世界では、共産主義の力が衰え、宗教が復活するに従って、革命や戦争の荒波のなか、旧来の信仰を守って死に至った致命者が信仰の対象になっていった。もっとも有名なのはロシア皇帝ニコライ二世だろう。
ヤセノヴァツのセルビア正教会を訪れ、この地で「ヤセノヴァツの新致命者たち」のイコンを見ることができた。それだけでなく、この教会ではまったく新しいイコンが生まれていた。今回の原稿では、ヤセノヴァツをめぐって、記憶と記録、忘却と新たな歴史などについて考えてみたい。
ヤセノヴァツ前史
現在のクロアチアは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを西側から「つ」の字を逆向きにして囲むようなかたちをしている。ヤセノヴァツが位置するのはこの逆「つ」の字の上部、スラヴォニアと呼ばれる地域の国境地帯である。1941年から45年まで、ウナ川とサヴァ川が合流する地点を中心に、ヤセノヴァツと総称される収容所とその関連施設が点在していた[図2]。
当時のユーゴスラヴィア地域は不安定な状況だった。複雑なその歴史を駆け足で辿っておこう。
バルカン半島は20世紀はじめまで、西はオーストリア=ハンガリー帝国、東はオスマントルコに支配されていた。16世紀以降、オーストリアはオスマン帝国に対する防衛線として軍政国境地帯を設ける。ここにはクロアチア人やセルビア人が多く入植し、屯田兵となった。ちょうど現代のクロアチアとボスニアの国境にあたる地域であり、彼らが混在して生活するようになった所以である。ヤセノヴァツがあるのもこの場所だ。
19世紀半ばから、国民国家を標榜する民族独立運動がヨーロッパで広がる。これはバルカン半島にも及び、クロアチアとセルビアは民族意識を高めていった。1914年にはボスニア系セルビア人の若者がオーストリア皇太子に発砲するサラエヴォ事件が起こり、第一次世界大戦が始まった。第一次世界大戦はセルビアを含む連合国側の勝利に終わり、戦後の1918年、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人による南スラヴ人の統合国家「セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人王国」が誕生した。同国は1929年に「ユーゴスラヴィア王国」に改名するも、きわめて複雑な民族問題を抱えていたため、国のあちこちで不満が募っていった。
1939年にナチス・ドイツがクロアチアの自治を認めて以降、対立はますます激しくなった。第二次世界大戦中は、ドイツ軍の支持を得たクロアチア版SSとも言えるファシスト組織のウスタシャ、それに大セルビア主義を掲げるチェトニク、共産主義思想を掲げるパルチザン軍が戦った。
すでに触れたとおり、セルビアは正教、クロアチア・スロヴェニアはカトリックで、宗教が異なる。さらに、ボスニアのムスリム人、アルバニアの正教徒など、バルカン半島には多様な信仰を持つ人々が暮らしてきた。この地域がユーゴスラヴィアとしてまとまっていた時期のほうが例外なのだ。
この統一に貢献したのが先述のとおり、パルチザン軍の指導者ティトーである。戦後、ティトー独裁のもとで、共産主義の多民族国家ユーゴスラヴィア共和国はうまく機能していたように思われた。しかし、1980年に彼が亡くなるとまとまりを失い、90年代には内戦へと至る。戦後体制が終了し、次の戦争が始まったわけだ。
ヤセノヴァツ収容所のある旧軍政国境地帯はクライナ地方と呼ばれるが、その土地柄ゆえに、民族の衝突による悲劇の土地となり続けた。第二次世界大戦時、ここはウスタシャによる虐殺の舞台となった。そして、約50年後のユーゴ紛争の際には、ここに暮らすセルビア人が自称独立国家の「クライナ・セルビア人共和国」の建国を一方的に宣言する。クロアチア人とセルビア人が激しく戦った末、クロアチア軍が勝利し、多くのセルビア人が難民となってこの地を離れた。
博物館が記録・記憶するもの
ヤセノヴァツ収容所の跡地には、だだっ広い野原が広がっている。ザグレブ方面から車で向かうと、左側の窓から、広大な空き地のなかに巨大な花のかたちをした記念碑が見えてくる。ユーゴスラヴィアでは、共産主義時代のマッシヴな記念碑がよく知られているが、ボグダン・ボグダノヴィッチによるヤセノヴァツの蓮の花の記念碑(1966年)もそんな傑作のひとつだ[図3]。
博物館のリーフレットに、ボグダノヴィッチの言葉が載っていた。
鉄筋コンクリートのメランコリックな蓮の花は、双方の悪意を止めるだけでなく、ある種のカタルシス的な効果を持っている。それは誰も侮辱せず、誰も脅かさない。復讐を求めることはないが、真実を隠すことは決してない[★3]。
記念碑の抽象的なフォルムは、悲劇を記憶すると同時にディテールをぼやかし、復讐心を煽らずに、人類共通の普遍的な悲劇に接続するという難しい役割を担っている。
花のモニュメントのそばには池があって、実際に蓮の花が咲いていた。このあたりは湿地帯だ。この環境では囚人たちは逃げるのが困難であっただけでなく、収容所のバラックはじめじめとして過ごしにくかっただろう。モニュメントのあたりは第三収容所で、レンガ工場があったという。コンクリートの美しいモニュメントと地面を覆う瑞々しい緑の芝生に、収容所の面影はない[図4]。現在は訪問者も少なく、われわれのほかに、壮年の夫婦が一組、家族が一組、グループがひとつ、写真家が2名、といったところだっただろうか。そもそも交通の便が非常に悪い。われわれはハイヤーをチャーターした。
サヴァ川を挟んで向こう側のドニャ・グラディナは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでもセルビア人居住区であるスルプスカ共和国の領域だ。最初にも書いたが、そこでは囚人たちが処刑され、埋葬された。埋葬されるまでもなく、殺されてサヴァ川に流された者も少なくないそうだ。
ドニャ・グラディナも記念公園になっている。やはりだだっ広い野原が、林に囲まれていた。集団埋葬地と記念碑がぽつりぽつりと点在している[図5][★4]。被害者の数を訴える新しい標識が痛々しい[図6]。
クロアチア側に戻り、ヤセノヴァツ博物館に入ろう。大きくも小さくもないワンフロアの建物である。1969年にオープンしたあと、2回の展示替えを経て、いまのものは2006年に設置した展示だそうだ。年表、歴史的経緯や収容所の暮らしを解説するパネル、収容されていた人々の写真や証言のほか、彼らの手紙の現物や衣類、日用品など、歴史を体現するものが並べられている。広い展示室の天井には、犠牲者の名前がずらりと掲げられていた[図7]。博物館は、失われた収容者の名前をさまざまなアーカイヴを調査して復元し、収容者リストの作成を続けている。
ヤセノヴァツで亡くなったひとの数は数千から100万人を超えるものまで諸説あるが、博物館の展示では8万1998人の数字が示されていた。その後調べたところ、2018年時点で8万3811人の名前が発見されており、実際の人数はこれにあと10-20パーセント増える程度、つまり、9万から10万人程度というのが実情だろうとする専門家もいた[★5]。いずれにせよ、ドニャ・グラディナで掲げられている70万人とはずいぶんかけ離れている。こちらの数字の根拠のひとつに、無数に存在する集団埋葬地と遺骨や遺品の調査があるようだ[★6]。
博物館には収容者の名前と生没年、性別、民族が次々に紹介される映像もあった。蓮の花の記念碑には名前は刻まれていなかったので、博物館こそが、追悼の場所としての役割を担っているようだ。だが、全体として悲劇を訴えるトーンは控えめで、悲惨な状況を強調して感情に訴えかけるようなことはない。展示物のなかで怖ろしさや非情さをもっとも感じさせたのは、収容所跡地から発掘された虐殺に使われた武器である。ナイフ、金槌、木槌。そのプリミティヴなかたちが生々しい[図8]。とはいえそれまでに目にしてきた暴力についての情報からすると全体的にニュートラルで淡々と、事実とデータを示す展示になっている。やや腑に落ちない気持ちすら持ちながら、ヤセノヴァツをあとにした。
のちに山崎佳代子『解体ユーゴスラビア』(1993年)を読んでいて、共産党時代のヤセノヴァツの展示についての証言を複数見つけて驚いた。ひとつめは3度ほど記念館に行ったひとの言葉で、最後に博物館を訪問したのは1989年だと言う。
そのひとによると、そもそも、「ヤセノバッツの記念館の方向を示す道路標識が一つもない」とのこと。これはいまもあまり変わっていないのではないか。当時、道は舗装されておらず、看板は錆びて文字がかろうじて読める程度だったらしい。さらに、地元の警官に道を尋ねたら、そこで見たことについてはあまり喋るなと言われたそうだ。展示内容は、現在のものからほど遠い、凄まじいものだ。引用しよう。
記念館に入って、そこで、記録映画を見ました。[……]それを見ると、もう、恐ろしいことばかり、文字どおり、地獄絵ですよ。七日七晩、うなされるくらいの衝撃でした。サバ川に山のような死体を投げ捨てて。[★7]
お宅のこのリビングルームとキッチンをあわせたくらい、せいぜいそのくらいの広さでしょう、そこにぎっしり、所狭しと、ウスタシャが虐殺に用いたありとあらゆる凶器が展示されているんです。ナイフといっても、いろいろ。子供の喉をかき切るものとか、大人の喉をかき切るものとか、種類があるんです。それから、ひどいのは女性の両の乳房にひっかけて、高いところに生きたまま吊り下げるための金具とか、頭を叩き割るための道具とか、[……]人間の残虐性そのものですよ。[★8]
もうひとり、修学旅行でヤセノヴァツに行ったという女性の証言でも、右記と同じ館内の動画が語られていた。さらに「建物とか証拠品とか書類なんかはウスタシャが逃げるときに燃やしてしまったといわれてますが、記念館には、当時の写真とか遺品とか、ずいぶん残っていました」という[★9]。職員にはヤセノヴァツの生還者がいて、ある写真を指して、これは自分の姉がウスタシャに殺される光景を撮影したもので、自分はこの場面を目の当たりにした、と説明したらしい[★10]。
これら証言者たちが見たものとわれわれが見た展示はまったく異なる。かつて展示されていたものはどこに行ってしまったのか。
翌日、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのスルプスカ共和国博物館でヤセノヴァツの展示を見つけた。スルプスカ共和国最大の都市バニャ・ルカにある、共和国を代表する郷土史博物館だ[図9]。大きな建物で、1階には先史から第二次大戦までの常設展示と特別展がある。ヤセノヴァツの歴史は2階のゾーニングされた場所に展示されていた[図10]。
そこで見た写真は、凄惨そのものだった。死体、死体、死体、拷問……それも、わざとノコギリなどの鈍器を用いて人体を切断するような……。子どもの死体の写真が一面に並んだ壁もあった。博物館で自分が撮った写真をいま見返しても身の毛がよだつ。
ノルウェーのソ連・バルカン研究者コルストによると、かつてヤセノヴァツ博物館にあった展示資料はユーゴ紛争の際にバニャ・ルカに移されたそうだ。そして、その一部がクロアチアに戻され、現在のおとなしい展示が作られた。われわれはその両方を見たのだ。クロアチアとセルビアのあいだでは、ヤセノヴァツがアウシュヴィッツ型の絶滅収容所だったのか、それともスターリンのソ連型の労働収容所システムだったのかが論争になり続けているという[★11]。現在のヤセノヴァツ博物館を見たひとはそれは労働収容所だったと思うはずだ。他方、スルプスカ共和国博物館の展示からは、絶滅収容所の姿が見える。実際はどちらの側面もあったはずだ。
「セルビア人の3分の1を殺害し、3分の1を追放し、3分の1を強制的にカトリックに改宗させる」という、ウスタシャの言葉がある。ウスタシャはセルビア人たちを収容所に送るだけでなく、村ごと虐殺したり、学校にいる子どもたちを選別して殺したりもしていると言われている。ナチス、ウスタシャ、チェトニクのようなものが活躍できるのは、ひとえに大規模な戦争が行われていたからだ。戦争は、倫理を無化する。
加害と被害の記録は、どれも真実の一面しか写していない。おそらく、現在はクロアチア側にあるヤセノヴァツ博物館は、さまざまな配慮から残虐さを薄めているし、スルプスカ共和国博物館は、さまざまな配慮から残虐さを強調している。どちらか一方を見て判断するのではなく、両方を見て、両方の言い分にさまざまな背景や理由があることを探っていくぐらいしか、われわれにできることはないのかもしれない。どちらからも等しく距離を取って、人間の行いとして普遍化する[★12]。両者にそれぞれの真実があるなら、普遍的な真実はどこかそのあいだにあるはずだ。
ヤセノヴァツの村は戦場だった
さて、ヤセノヴァツ収容所記念公園から車で数分のところにヤセノヴァツ村がある。メインの通りが数本しかない小さな村だが、90年代の内戦で焼かれたらしい家がまだいくつか残っている。村の中心にふたつの小広場とカトリック教会のある一角があって、それぞれの広場には新旧の記念碑が据えられている。古いほうは母子像を中心としたもの[図11]。「ファシズムのテロと戦った戦士たちと犠牲者を記憶する」とあるので、第二次世界大戦についてのユーゴスラヴィア時代の記念碑だろう。
無骨な母子像は、日本の公園に立っていても違和感がなさそうだ。背景のプレートには「死者が生者の目を開く」という文字が刻まれ、抽象的な文言で記憶の大切さを呼びかける。具体的な被害者の集団名は名指されていなかった。
もうひとつの記念碑は1991年から95年の戦争のもの[図12]。「クロアチア共和国に対する侵略」の被害者を追悼すると明示されている。これを見て、ウクライナのキーウにあるバービン・ヤル虐殺記念碑が、ユダヤ人虐殺の跡地であるにもかかわらず、ドイツ軍によるソ連市民への攻撃としか書かれていなかったことを思い出した。
ソ連政府はユダヤ人の問題を特権化したくなかった。おそらくユーゴ政府も戦争被害者を名指したくなかった。「ユーゴスラヴィア」や「ソ連」という、複数の民族が一体となっていることにアイデンティティのある国家において、国家の成員のうち個別の被害者を名指し、記憶することは、必ずしも平和を導かない。民族にはそれぞれ自分たちの歴史や物語がある。一体となっているからといって、彼ら同士みんな仲がいいとは限らない。特に仲がよくなくても、一体となっているほうが有利な場合もある。問題を具体的に名指さない態度は、もちろん、逆を言えば問題を可視化させないための事なかれ主義かもしれない。とはいえ、同じ領域、あるいはすぐ隣で共存しているなら、互いに我慢できないところもあるというものだ。おそらくティトーは民族主義があちこち吹き荒れる時代を生きてきて、それを痛いほど感じ、あえて目をつぶる政策を選んだのだろう。
さて、ヤセノヴァツ村に来たのはこの記念碑のためだけではない。先駆者聖イオアン生誕教会、冒頭で触れた、あのグーグルマップで見つけたセルビア正教会を見に来たのだ[図13]。グーグルマップ上では「セルビア正教修道院」と表記され、正式名称は出てこない。
地図に示された地点へと向かうと、白い壁の新しい小ぶりな教会があった。教会はだれにでも開かれているので、門を通ってきれいに整備された中庭に入る。中庭には殉教者(致命者)たちを記念するオベリスクが立っていて、ニコライ二世の姿もあった[図14]。
オベリスクをじっくり見ていると、30代くらいの修道女に声をかけられた。親切な彼女の案内で教会のなかを見学することができた。
先駆者聖イオアン生誕教会はもともと1775年に建てられた。1941年、ヤセノヴァツ収容所の囚人たちによって破壊され、その一部は収容所関連施設として用いられたという[★13]。ウスタシャ政権はセルビア人に対して激しい宗教弾圧を行った。クロアチア独立国内のセルビア正教会はかなりの数が破壊され、多数の聖職者が非業の死を遂げた。ドイツ軍の協力を得るなどしてかろうじて逃げて、生き延びた数少ない生存者がその記憶を繋いだ[★14]。おそらくセルビア人の囚人たちは自分たちの信仰の対象を破壊するよう強いられたのだろう。
先駆者聖イオアン生誕教会が再建されたのはティトーの死後、1984年のことだ。しかし、教会は90年代のユーゴ紛争でふたたび破壊された[★15]。1999年、教会はもう一度修復され、2000年に修道院として再出発した。
ヤセノヴァツは1991年から95年まで存在した自称独立国家「クライナ・セルビア人共和国」の領域内に含まれていた。先にも触れたように、クライナ・セルビア人共和国はクロアチア軍と戦って敗れ、同国のセルビア人は多くが難民となり、クロアチアからセルビアやボスニア・ヘルツェゴヴィナへと移住を余儀なくされた。だから、いまはヤセノヴァツ村にはセルビア人はほとんどいないという。おそらく、教会を再建しても教区民がいない。修道院に生まれ変わったのには、こんな背景もあるのではないか。この村にはまだ戦禍の傷跡が残っていることはすでに記したが、あれはセルビア人が住んでいた区域だと、修道女が言っていた。収容所の外の世界にも、さまざまな戦争の傷跡が残っている。
宗教と物語の力
先駆者聖イオアン生誕教会には「ヤセノヴァツの新致命者たち」のイコンがかけられていた[図15]。それだけでなく、収容所跡地から発見された遺骨が聖遺物として祀られていた。ヤセノヴァツに加えて、ボスニアのグラモチ、リヴノ、ドルヴァルの致命者たちの聖遺骨もある。プレヴィロフツィの新致命者にかんしては、聖遺骨とともに、彼らを描いたイコンが祀られていた。これらの町に収容所があったわけではない。セルビア人が選別されて集団虐殺が行われただけだ。ただ、集められて、殺されただけ。
正教会には「不朽体」といって、聖職者の遺体を木乃伊として教会に安置する習慣がある。棺や聖遺物箱に入れられているとはいえ、遺骨が剥き出しで聖堂のなかに置かれているさまは、わたしにとってはあまり居心地のよいものではないのだが、そこは習慣の違いだ。そもそも、欧州の聖堂には王族や聖職者の棺が置いてあることも多い。ここの修道院では毎年9月13日をヤセノヴァツ新致命者の日と定め、9月1日から13日まで、毎日ミサを行うほか、記念行事を催しているそうだ[図16]。
教会には聖遺物のほかにも見慣れないものがあった。新しいスタイルで描かれた聖像画である。正教の教会には「イコノスタス」という、イコンが複数組み込まれた壁がある。教会によっては天井や壁がすべてイコンで埋め尽くされている場合もある。正教徒にとって、イコンは信仰の対象であり、教会にとってもなくてはならないものだ。「ヤセノヴァツの新致命者たち」に見られるように、正教のイコンに描かれる聖人たちは生気と人間味が除去されているがゆえに、どこか神々しい。
イコノスタスや壁にかかっているイコンは、これまで目にしてきたようなオーソドックスなものだった。しかし、教会の入り口の売店に、なんだか見たことのない聖像画があった。リアリズムでもなければ、イコン特有の神々しいスタイルにも準じていない。このイコンはとてもかわいらしい。どこかアニメや漫画のような、現代的な手つきと色使いで描かれている。直接的か間接的かはわからないが、そこには明らかな日本のサブカルチャーの影響が見られる。規範を逸脱していても、これはイコンだと思うのだから不思議である。
たとえば《聖致命者たちの行列》という絵は、明かりのない夜にヤセノヴァツの受難者(「致命者 мученик」はこうも訳せる)たちが天使に導かれて歩みを進めている[図17]。伝統的なイコンも、目が非常に大きかったり、顔の平面化に特徴があったりなど、独特のデフォルメがされているのだが、この絵ではなんと聖人たちの身長が2.5頭身ほどになっている。まるでアニメのキャラのようで、子どもにも親しみが湧くだろう。
別の、200人ほどのヤセノヴァツの受難者たちをぎゅっと詰め込んだイコンは、みんな表情が微妙に異なる。残された写真を参考に、似た顔にしているのだという[図18]。考えてみると、たしかにニコライ二世のイコンも、おそらく写真を参考に顔を似せている。現代のイコンでのみ可能なことだ。このイコンは、教会とは別の建物である祈祷所に他のイコンと並んでかけられていた。先ほどの修道女にこれらのイコンを褒めると、別棟に原画を展示しているから、コーヒーでも飲みながら見てはどうかと招いてくれた。
そこには20枚ほどのカラフルな絵画が展示されていた。記念公園の睡蓮の池におもしをつけて沈められている者たち、炎に焼かれる者たち、有刺鉄線にぶら下がる者たち、地中の穴に埋められる者たち、空に梯子をかけて、神様のもとへと昇っていく子どもの受難者たち……[図19・20]。
ひどい暴力の場面を描いた絵も多い。しかし、彼らが列聖されているからであろうか、その表情は穏やかだ。
これらの作品は、マリアさんというこの修道院のシスターが、ヤセノヴァツ収容所を生き延びたおばあさんたちに話を聞いたり、書物を参考にしたりしながら描いたものだそうだ。もしかしたら、これらはイコンとは呼べないのかもしれない。あるいはそのうちいくつかのイコンの形式にある程度則った作品だけがイコンとして認められているのかもしれない。それにしても、たしかにデフォルメされてかわいくなったこの絵なら、拷問の場面ですら子どもにも受け入れられそうだ。かわいくて親しみやすいため、じっくり見ることもできるので、暴力を描いた負のディテールも注視することができる。もっとも、そもそも聖人画に受難の場面はつきものだ。裸体の胸に矢の刺さった聖セバスチアヌス像などは目にしたことがあるひともいるのではないか。繰り返すが、殉教者とは、信仰ゆえに迫害され、拷問や暴力のもと命を落とした人々である。その生涯には暴力がつきものだ。
キリスト教には聖書のほかに、宗教者の生きざまが物語化されたものとして聖人伝がある。一枚の絵画を複数のコマに分割してある聖人の一生を表すイコンもある。そうした作品では聖像画のなかに時間が組み込まれていてとても興味深い。加えて、中世ヨーロッパではキリストの生誕や聖書の物語を劇にしてお祭りで上演する聖史劇があった。わたしは子どもの頃、プロテスタント系の幼稚園に通い、その後しばらく日曜学校にも通っていたのだが、礼拝で配られる素敵なイラストに聖句が添えられたカードを集めるのが楽しかった。宗教は物語を面白く広めて、共同体の共通認識を浸透させる役割を果たしてきた。新しい文法で描かれた新しい聖人についてのイコンも、新しい歴史の物語を担っていくのだ。
ヤセノヴァツ収容所について、収容所の記念公園と博物館、スルプスカ共和国博物館の特別展示、そしてシスター・マリアの聖像画と、3つの語りを見てきた。3つのまったく違う解釈だが、それぞれがそれぞれの真実を宿しているのだと思う。自分の国の過去にそうした暴力があったこと。民族として迫害を受けたこと。暴力に耐え、信仰を捨てずに死んでいったひとたちがいること。同時に、それぞれが目や口を閉ざしている真実もある。見ていなかったり、見えていなかったり、見えていても語らなかったり。外からそれぞれを等しい距離で見ているわたしたちは、それら見えていること、見えていないこと、語られないことを見極める努力ができる。
ところで、先に証言を引用した山崎佳代子の『解体ユーゴスラビア』は1993年に出版されたものだ。タイトルから、かたい歴史解説かルポルタージュを想像したのだが、まったく異なる、文学的な本だった。冒頭に簡単な歴史の紹介があるあとは、セルビアの首都ベオグラード在住の著者がこの時期にどこでどんなひとと会い、どんな話を聞いたのかがひたすら綴られていく。日記とインタビューが混ざったような特異な形式であり、山崎の生活をとおした、戦時下の日常の優れた記録となっている。
50人弱の証言者が登場するだろうか。たまたま遭遇した知り合いの知り合いと交わしたひとことから、隣人、久しぶりにじっくり話した友人、戦時下の安否が心配で電話をかけたスロヴェニア人まで。もちろん、山崎の暮らすベオグラードという場所や人間関係の範囲によって、語り手たちの多様性は制限される。とはいえ、親しい友人に限ることなく、知人の知人との立ち話など、偶然の出会いがもたらしたものが加わることで、その範囲は広がる。大半はセルビア人だが、モンテネグロ人やクロアチア人もいる。戦場になっているクライナ・セルビア人共和国から逃げてきた人たちもいる。ここで描かれるのはユーゴ紛争のほんの一面に過ぎない。戦争はこの本が刊行されたあともまだまだ続く。6年後の1999年にはNATOがベオグラードを空爆するなど、この本の登場人物たちは思いもよらないだろう。
クロアチア人とセルビア人のように話す言語も見た目も似ていても、細かい慣習や宗教的価値観を共有していないと、日常的に誤解が起こる。それどころか似ているからこそ、前提条件が相互にずれていることに気づかない。ちいさな誤解と無理解が積もり積もって、大きな爆発が起こる。同じ場所に混在して暮らしているのだから、それは身体的な衝突になる。ユーゴスラヴィアの歴史や、いまのウクライナ戦争を見ていると、そういうことを実感する。もちろん、不和の爆発に直接つながる大きなファクターは存在するが、それでも、日々の不満の積み重ねがベースにある。
しかし、ひとは誰かと隣り合って生きることを免れない。隣人とのトラブルは人類の歴史につきものだ。では、隣人と共生するために、あらためてなにができるのか。
わたしは、ティトーの、存在した個別の悪を慣らしたり、なかったことにしたりする政策はやはり間違っていたと思う。歴史や現実の受け止めかたはひとそれぞれだ。真実はひとつではない。理想の統一は、かならず理想からはみ出るひとを生む。
ばらばらな現実を受け止めて、真実が複数あることを理解する。歴史を物語として整えつつも、極力単純化はしない。そして、複数の物語が存在することを受け入れる。相互理解には時間がかかる。この、時間の必要性そのものを可視化して、その上で互いの物語に耳を傾けあう道を模索する。あるいは耳を傾けずとも、相手が別の物語の持ち主であることを認識する。特別なことはなにもできない。ただ、そんな回り道をするしかないように思う。
追記
シスター・マリアの作品を日本で展示する計画があると、このとき修道女から聞いた。山崎佳代子氏の企画だという。複製展示にはなるようだが、実現した際にはぜひ足を運び、ヤセノヴァツに思いを馳せてほしい。
撮影=編集部
★1 Kolstø, Pål. “The Serbian-Croatian Controversy over Jasenovac.” S. P. Ramet et al. (eds.), Serbia and the Serbs in World War Two, 2011, p. 225.
★2 『ゲンロン17』では「受難者」と訳しているが、日本正教会の翻訳「致命者」に改めた。
★3 Public Institution Jasenovac Memorial Site.(リーフレット)。ヤセノヴァツ記念公園の公式サイトは以下。Jasenovac Memorial Site. URL=https: //www.jusp -jasenovac.hr/
★4 ドニャ・グラディナの公式サイトは以下。トップページの動画から、集団埋葬地の規模が見て取れる。Memorial Zone Donja Gradina. URL=https: //jusp-donja gra dina. org/
★5 Goldstein, I. “About the number of victims of the Jasenovac camp complex.” Vreme. 2023.10.11. URL=https://vreme.com/en/vreme/o-broju-zrtava-jasenovackog-logorskog-kompleksa/
★6 The Concentration Camp Jasenovac 1941-1945. Donja Gradina, 2020, p. 57. URL=https://jusp-donjagradina.org/katalog-koncentracioni-logor-jasenovac-1941-1945/ これは2020年にベオグラードで開催された展示「ヤセノヴァツ収容所 1941-1945」の図録である。展示にはセルビア文化省、セルビア国防省、スルプスカ共和国教育文化省などが関わっているが、感情に訴えかけるようなプロパガンダ的な記述ではなく、落ち着いたトーンで歴史が説明されている。そもそも、クロアチア側のヤセノヴァツ記念公園とドニャ・グラディナ記念公園は1991年までひとつの組織だった。ドニャ・グラディナが保存と研究のセンターとしてあらためて組織化されたのは2002年のことだ。
ドニャ・グラディナには多くの集団埋葬地があり、無数の骨が発掘されている。収容所のキャパシティに合うように、ヤセノヴァツまで連れてこられたものの収容されるまでもなく殺されたという例も多いという。犠牲者の数が定まらないのには複数の要素が絡み合っている。
★7 山崎佳代子『解体ユーゴスラビア』、朝日選書、1993年、189頁。
★8 同前。
★9 同書、141頁。
★10 同書、142頁。
★11 Kolstø, Pål. “The Serbian- Croatian Controversy over Jasenovac.” pp. 225, 234-236.
★12 第二次世界大戦下のユーゴスラヴィアの複雑な状況を知るには、坂口尚『石の花』(1983-86)が手軽に読めて助けになるのでここに挙げておく。
★13 Манастир Јасеновац. // Манастир Рмањ. URL=https://web.archive.org/web/20110124002728/http://www.manastir-rmanj.com/manastiri/54-manastir-jasenovac.html
★14 Пилипович Р. «Культ новомучеников Ясеновацких в Сербской Православной Церкви (возникновение, развитие и литургическая практика.)» // ЦЕРКВА МУЧЕНИКІВ: ГОНІННЯ НА ВІРУ ТА ЦЕРКВУ У ХХ СТОЛІТТІ. Матеріали Міжнародної наукової конференції (6–7 лютого 2020 р., Свята Успенська Києво-Печерська Лавра.), 2020, с. 597-604.
★15 教会が破壊されたのは、1995年5月1日から3日に実施されたクロアチア軍による攻撃「閃光作戦」の際のことであるという。この攻撃でクロアチアは西スラヴォニアの領土を大きく勝ち取った。注13 Манастир Јасеновац.参照。
『ゲンロン18』の刊行を記念して、東浩紀と上田洋子によるトークイベントが開催されました。イベントでは、原稿には入れることのできなかった取材写真を豊富に紹介しています。ぜひ記事とあわせてご覧ください。
東浩紀×上田洋子 【『ゲンロン18』刊行記念特別番組】平和は記憶できるか?──クロアチア&ヤセノヴァツ取材報告
URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20250516


上田洋子
1 コメント
- TM2025/05/21 14:36
愚かな悪は場所を違えて多数ある。ヤセノヴァツ収容所のことは知らなかったし、日本からほど近い済州島でも愚かな悪の発露があったと先日ハンガンの小説を読んで初めて実感した。 剥き出しの記憶は届く人は限られる。平和に近い人ほどそれを消化できないかもしれない。でも平和の中で忘れている人ほど人間の愚かさを思い出すべきなんだろう。 先駆者聖イオアン生誕教会のイコンは平和の中にいる人にも届く記憶なのかもしれない。 そう考えるとそれらが日本で展示されることは意義深い。 この上田さんの論考自体、私に記憶をくれた。 複雑なものを単純化しない。 大切な言葉だと思う。