聖像画と記念碑 ヤセノヴァツで考える ロシア語で旅する世界(14)|上田洋子

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2025年5月10日刊行『ゲンロン18』

 

 クロアチアのボスニア・ヘルツェゴヴィナとの国境地域に、ヤセノヴァツという村がある。そのちいさな村にグーグルマップ上でセルビア正教の教会を見つけた。2024年10月の2度目の旧ユーゴスラヴィア取材にむけて準備をしていたときのことだ。1941年から45年まで、ヤセノヴァツには旧ユーゴスラヴィア地域最大の収容所群があった。東浩紀とわたしはその跡地にできた記念公園を訪問することにしたのだ。

 第二次世界大戦中の4年間、クロアチアを支配していたのはナチス・ドイツの傀儡国家「クロアチア独立国」だった。この国で政権を執っていたファシスト政党「ウスタシャ」は、ナチスをまねて人種法を公布し、セルビア人とそのほかの非クロアチア人や反体制クロアチア人に対して、ときにドイツ軍や、ドイツとともにクロアチアを占領していたイタリア軍でさえも戦慄するような暴力行為を行ったとされている。ヤセノヴァツの収容所で、多くのひとが残虐に殺された。

 現在、収容所跡地には記念碑がたち、記念公園が作られている。取材旅行ではこの記念公園と、そこから車で数分の場所にあるヤセノヴァツ村、村のすぐ隣、ウシュティツァのロマ収容所記念公園、そしてサヴァ川とウナ川を挟んで対岸のボスニア側にあるドニャ・グラディナを訪れた。ドニャ・グラディナは囚人たちが処刑され、埋葬されていた場所だ。ヤセノヴァツはひとつの収容所ではない。複数の収容所と処刑場、労働農場などからなる収容所網である。90年代のボスニア戦争における虐殺の代名詞が、東浩紀が前号の『ゲンロン17』で取り上げたスレブレニツァの虐殺(1995年)であるならば、第二次世界大戦期のユーゴの虐殺の代名詞はヤセノヴァツだ。

 しかし、ヤセノヴァツの悲劇はナチス・ドイツのユダヤ人弾圧やソ連の強制収容所グラーグシステムなどとは比較にならないほど世界で知られていない。もちろん、ドイツやソ連とこの地域とでは国力も違えば、虐殺や人権侵害の規模にも大差がある。世界に流通する情報の量がそれらの所業に匹敵しないのは致し方がない。だが、原因はそれだけではない。情報不足の背景には、戦後、ティトー率いるユーゴスラヴィア政府が、民族ごとの戦争被害や戦争犯罪を追及しない政策をとったことがある。旧ユーゴ時代、第二次世界大戦の戦争被害については、1945年にティトーが発表した戦死者170万人という数字が動かし難い権威となっていた。研究によってそこに疑義を呈することさえ難しかった★1

 ティトーは共産主義者のパルチザン軍を率いて、ドイツ、ウスタシャ、それにセルビア王党派のチェトニク軍と戦った。泥沼の民族戦争を勝ち抜き、ユーゴスラヴィア連邦国家を築いたユーゴスラヴィアの英雄である。戦争被害のデータは、ある程度当時のティトー政権に都合のいいように水増しされていたと言われている。なにより、民族対立を煽るような詳細は、ユーゴスラヴィア再統合の邪魔であった。

 戦争被害の記憶と結びついた民族同士のわだかまりは鳴りを潜めつつも生き続け、ティトーの死後、息を吹き返す。現在のクロアチア共和国の初代大統領トゥジマンは民族主義者の歴史家で、ユーゴスラヴィアでヤセノヴァツの戦争被害を大きく見せるなど、クロアチアに不利な歴史解釈がなされていると告発した。

 ヤセノヴァツではたくさんの罪のないひとが殺され、暴力に晒された。それなのに戦後、この固有名詞は弔いの対象ではなく、歴史解釈の争点となってしまった。「ヤセノヴァツ」という言葉で、ウスタシャによるセルビア人弾圧の全体が語られることすらあるようだ。クロアチアはカトリック、セルビアは正教という信仰の違いの問題も含め、このときの対立は1990年代のユーゴスラヴィア紛争へとつながり、現在にまで尾を引いている。

 

 収容所跡地のような、負の歴史を記憶する場所を訪れる旅行のことを「ダークツーリズム」と呼ぶ。


★1 Kolstø, Pål. “The Serbian-Croatian Controversy over Jasenovac.” S. P. Ramet et al. (eds.), Serbia and the Serbs in World War Two, 2011, p. 225.
★2 『ゲンロン17』では「受難者」と訳しているが、日本正教会の翻訳「致命者」に改めた。
★3 Public Institution Jasenovac Memorial Site.(リーフレット)。ヤセノヴァツ記念公園の公式サイトは以下。Jasenovac Memorial Site. URL=https: //www.jusp -jasenovac.hr/
★4 ドニャ・グラディナの公式サイトは以下。トップページの動画から、集団埋葬地の規模が見て取れる。Memorial Zone Donja Gradina. URL=https: //jusp-donja gra dina. org/
★5 Goldstein, I. “About the number of victims of the Jasenovac camp complex.” Vreme. 2023.10.11. URL=https://vreme.com/en/vreme/o-broju-zrtava-jasenovackog-logorskog-kompleksa/
★6 The Concentration Camp Jasenovac 1941-1945. Donja Gradina, 2020, p. 57. URL=https://jusp-donjagradina.org/katalog-koncentracioni-logor-jasenovac-1941-1945/ これは2020年にベオグラードで開催された展示「ヤセノヴァツ収容所 1941-1945」の図録である。展示にはセルビア文化省、セルビア国防省、スルプスカ共和国教育文化省などが関わっているが、感情に訴えかけるようなプロパガンダ的な記述ではなく、落ち着いたトーンで歴史が説明されている。そもそも、クロアチア側のヤセノヴァツ記念公園とドニャ・グラディナ記念公園は1991年までひとつの組織だった。ドニャ・グラディナが保存と研究のセンターとしてあらためて組織化されたのは2002年のことだ。
ドニャ・グラディナには多くの集団埋葬地があり、無数の骨が発掘されている。収容所のキャパシティに合うように、ヤセノヴァツまで連れてこられたものの収容されるまでもなく殺されたという例も多いという。犠牲者の数が定まらないのには複数の要素が絡み合っている。
★7 山崎佳代子『解体ユーゴスラビア』、朝日選書、1993年、189頁。
★8 同前。
★9 同書、141頁。
★10 同書、142頁。
★11 Kolstø, Pål. “The Serbian- Croatian Controversy over Jasenovac.” pp. 225, 234-236.
★12 第二次世界大戦下のユーゴスラヴィアの複雑な状況を知るには、坂口尚『石の花』(1983-86)が手軽に読めて助けになるのでここに挙げておく。
★13 Манастир Јасеновац. // Манастир Рмањ. URL=https://web.archive.org/web/20110124002728/http://www.manastir-rmanj.com/manastiri/54-manastir-jasenovac.html
★14 Пилипович Р. «Культ новомучеников Ясеновацких в Сербской Православной Церкви (возникновение, развитие и литургическая практика.)» // ЦЕРКВА МУЧЕНИКІВ: ГОНІННЯ НА ВІРУ ТА ЦЕРКВУ У ХХ СТОЛІТТІ. Матеріали Міжнародної наукової конференції (6–7 лютого 2020 р., Свята Успенська Києво-Печерська Лавра.), 2020, с. 597-604.
★15 教会が破壊されたのは、1995年5月1日から3日に実施されたクロアチア軍による攻撃「閃光作戦」の際のことであるという。この攻撃でクロアチアは西スラヴォニアの領土を大きく勝ち取った。注13 Манастир Јасеновац.参照。
 

『ゲンロン18』の刊行を記念して、東浩紀と上田洋子によるトークイベントが開催されました。イベントでは、原稿には入れることのできなかった取材写真を豊富に紹介しています。ぜひ記事とあわせてご覧ください。

東浩紀×上田洋子 【『ゲンロン18』刊行記念特別番組】平和は記憶できるか?──クロアチア&ヤセノヴァツ取材報告
URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20250516

上田洋子

1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。早稲田大学非常勤講師。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。著書に『ロシア宇宙主義』(共訳、河出書房新社、2024)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS、2018)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著、森話社、2017)、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(調査・監修、ゲンロン、2013)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社、2012)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010)など。

1 コメント

  • TM2025/05/21 14:36

    愚かな悪は場所を違えて多数ある。ヤセノヴァツ収容所のことは知らなかったし、日本からほど近い済州島でも愚かな悪の発露があったと先日ハンガンの小説を読んで初めて実感した。 剥き出しの記憶は届く人は限られる。平和に近い人ほどそれを消化できないかもしれない。でも平和の中で忘れている人ほど人間の愚かさを思い出すべきなんだろう。 先駆者聖イオアン生誕教会のイコンは平和の中にいる人にも届く記憶なのかもしれない。 そう考えるとそれらが日本で展示されることは意義深い。 この上田さんの論考自体、私に記憶をくれた。 複雑なものを単純化しない。 大切な言葉だと思う。

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