人文的、あまりに人文的(10)『言葉と物』『有限性の後で』|山本貴光+吉川浩満

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初出:2017年2月10日刊行『ゲンロンβ11』

吉川浩満 この連載も10回目になりました。

山本貴光 あっという間だね。

吉川 これ、いつまで続くんだろうね……。

山本 どしたの急に(笑)。そうはいっても、論じるべき本は山ほどあるからネ。

吉川 ちょっと気が遠くなるよね。いつクビにしてもらえるか……。

山本 いやいやいや、そこは逆にやる気を出すところでしょ!

吉川 ところでさ、いまさらなんだけど、人文書って、なんなんだろうね。

山本 ほんとにいまさらだ(笑)。そういえば、この連載では人文書とは何ぞやという話をしていなかったかもね。

吉川 うん。今回は初心にかえって、その辺のところから話してみようか。

山本 まず、「人文」という言葉の来歴を確認しよう。もともと「人文」というのは、ヨーロッパ由来の、英語でいう「ヒューマニティーズ」を表すためにおそらくは明治期につくられた言葉なんだよね。

吉川 ヒューマニティーズ。

山本 うん。語源はラテン語の「フマニタス」。ルネサンス期の知識人は、神の研究に代わって人間の研究の重要性を唱えたんだよね。その際にお手本となったのがギリシア・ローマの古典。だからフマニタス研究というのは、人間の研究であると同時に文物、特に古典の研究でもあった。

吉川 もとをたどればやっぱり古典ギリシアに行き着くと。

山本 でね、当時の日本の知識人がヒューマニティーズの概念を受け止めようとしたとき、これをうまく表す日本語がなかったものだから、中国の古典に助けを求めた。

吉川 うん。元号と同じだ。

山本 古来より中国では、この世界の森羅万象を「天」と「人」のふたつの要素で考えてきた(場合によっては「天地人」)。天というのは、大きく宇宙・自然一般を指している。で、人というのは文字どおり人間のこと。そして「文」というのは「あや」、つまり有様や形のことだね。これを参考にして、ヒューマニティーズを人文と訳して言い表した。

吉川 ふむ。

山本 だから、日本語の「人文」を考える場合、それが古代中国語とヨーロッパ語のハイブリッド語であることを理解することが大事。
吉川 なるほど。ヨーロッパの概念を中国語で表し、日本語として用いると。近代日本らしいアクロバットだね。それに天/人の対比がキャッチーなところもいい。

山本 うん。天の文が「天文」で、人の文が「人文」。「天文」学はいわゆる自然科学とほぼ重なると思うけれど、それが人間の営みであるかぎりにおいては「人文」学の対象でもある。

吉川 そう考えると数学史や科学史も一種の人文学と考えることができるね。どんな分野の対象であれ、それを「人の文」の相の下で見れば人文学になる。理系/文系の区分よりも使いでがあるよね。

山本 うん。そういえば先日、2月に出る『現代思想』の特集「美しいセオリー」のために原稿を書いたんだけどね★1

吉川 おお。私も書いた。なに書いたの?

山本 アインシュタインが友人への手紙に書いた図を紹介したよ。題して「理論の理論」。彼はそこで、観察された経験から公理が発想され、公理から命題が演繹されて、命題が経験と照合されるという自然科学のあり方を説明してるんだけど、それを考察して図にしたりすること自体は人文的な営みだよね。

吉川 たしかに。まさに科学的認識論(エピステモロジー)だね。

山本 うん。吉川くんはなに書いたの?

吉川 えーと、「功利主義」……。

山本 ほう。どうしてまた?

吉川 ちょっと思うところがあって、不用意にも……。

山本 読むのを楽しみにしよう(笑)。それはとにかく、この連載で扱う「人文」「人文書」は、以上のように「人文」概念を広くとらえて使っています。他方、歴史的事象としての「フマニタス」については、安酸敏眞さんの『人文学概論――新しい人文学の地平を求めて』(知泉書館、2014年)を参照してください。

吉川 さて、前置きが長くなっちゃったけど、人文がそういうものだとして、「これぞ人文書!」というものがあるとしたら、なんだろう?

山本 うーん。難しいけど、ミシェル・フーコーの『言葉と物』は外せないかな。

 
ミシェル・フーコー『言葉と物――人文科学の考古学』渡辺一民、佐々木明訳、新潮社、1974年

 

吉川 だよね。人文書の金字塔。
山本 ものすごく乱暴にいえば思想史に近い仕事だよね。といっても、ただ昔の思想や作品を並べるというのではない。フーコーは、人びとが世界を見るときに拠って立つ知的な枠組(エピステーメー)を探究しようとしている。膨大な文献を渉猟しつつ中世以降のヨーロッパにおけるエピステーメーの内実と変遷を描いたのがこの本だと、とりあえずはそういえるかな。

吉川 彼は自分のやり方を「知の考古学」と呼んでいるね。そして本物の考古学と同じように、知の考古学も時代の断絶を見出すことになる。

山本 うん。フーコーはふたつの断絶を見ているね。ひとつは16世紀、ルネサンス時代の終わりにあったという。それまでの時代のエピステーメーは「類似」(アナロジー)にもとづいていた。それが17世紀になって、一切を数学的な原理にもとづいて「分類」したうえで秩序化するエピステーメーが登場した。これが古典主義と呼ばれる時代。

吉川 そして18世紀末、ふたつめの断絶がくる。フーコーはこれ以降の時代を近代と呼ぶんだけど、そこで初めて「人間」が登場すると。

山本 おもしろいよね。もちろん、それまでにも人類は存在してきた。でも、知の主体であると同時に客体でもあるような人間、これは現在の我々も共有している人間観だろうけど、そうした「人間」はこのとき初めて誕生したと。彼はこの人間を、カントに依拠しながら「経験的=先験的二重体」と呼んでいるね。

吉川 我々が自分でそうであると思っている人間というのは最近の発明品なわけだ。しかもフーコーは、その終焉もまた近いと予言してこの本を終える。格好いいから引用しようか。

 人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
 もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば――そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。(p.409)


山本 原書が刊行された1966年、フランスではたいへんな評判になったらしいね。バゲットのように売れたとか、ビーチで読むのがクールだったとか、いろいろいわれている。

吉川 バゲットってパンでしょ。どんだけ売れたんだ(笑)。ところで野暮をいうようだけど、こういう仕事を学問的な妥当性という観点から評価することはできるだろうか。たとえばフーコーによるルネサンス、古典主義、近代のエピステーメー規定の正否を判定できるような尺度ってあるだろうか。
山本 うーん。難しいね。フーコーの仕事は、学問というより文芸に近いかもしれない。問いをつくりだしたり、ものの見方を提示して、読者のものの見方に変化を起こすような。

吉川 野暮ついでにいえば、グーグルNグラムなどのビッグデータを用いて文化事象を分析する『カルチャロミクス――文化をビッグデータで計測する』(エレツ・エイデン、ジャン゠バティースト・ミシェル、草思社、2016年)みたいな仕事と比較してもおもしろいかもね。

山本 あるいは、人間が日々生み出す厖大なデータとその統計的分析から意外な人間集団の姿をあぶり出す『ソーシャル物理学――「良いアイデアはいかに広がるか」の新しい科学』(アレックス・ペントランド、草思社、2015年)のような試みとかね。いずれにしても、現在さまざまに行われている人間や文化にかかわる科学や技術を検討してみると、フーコーの偉大さを再発見できるかもしれない。

吉川 数年前に刊行されたフーコーのインタビューは興味深かったね(『わたしは花火師です――フーコーは語る』ちくま学芸文庫、2008年)。「歴史家ですか?」と聞かれて「否」、「哲学者ですか?」と聞かれても「否」、「では何者ですか?」と聞かれて「私は花火師です」と答えたという。なにをふざけたことを、と怒り出す人もいるだろうけど、たしかにそんな風に答えるしかないかもしれないとも思う。

山本 実際、巨大で美しい思想の花火を打ち上げて、我々に大きな影響を与えたわけだ。

吉川 まったく。これに比肩しうるようなスケールの人文書って、ほかになにがあるだろうか。

山本 うーん。古くはマルクスの『資本論』(国民文庫、岩波文庫、日経BPクラシックスほか)――今年は第1部刊行から150周年だね――とか、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス――資本主義と分裂症』(上下、河出文庫、2006年)とか?

吉川 おお、そうだね。あとはなんだろう。クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(みすず書房、1976年)とか、アドルノ=ホルクハイマー『啓蒙の弁証法――哲学的断想』(岩波文庫、2007年)とか?

山本 そう考えると少ないよね。

吉川 あと、この本は難解で長大な書物として有名だけど、面白ネタの宝庫でもあるよね。

山本 有名なベラスケスの絵画の分析にはじまり、ボルヘスやサドやルーセルの作品、あとはこの本で初めて目にするような著者たちの忘れられた文物まで、おそるべき博覧強記。パッと開いたところをつまみ食いするような読み方でも十分に楽しめるよ。あるいは今なら、フーコーが図書館にこもって探し読んだ文献も、ネットの各種アーカイヴ(これもフーコーにとって重要な概念だった)で読めるから、自分の目でフーコーの見立てを検討しやすいかも。

吉川 この本をリソースにすれば、いくらでもブログ記事が書けそうだね(笑)。
山本 人間の終焉を予言した『言葉と物』だけど、昨年、まさにポスト・ヒューマンというべき哲学書が邦訳刊行されました。次はこれいってみようか。

吉川 カンタン・メイヤスー『有限性の後で』だね。
 
カンタン・メイヤスー『有限性の後で――偶然性の必然性についての試論』千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳、人文書院、2016年

 

山本 この本も、『言葉と物』ほどではないにせよ、思想界にセンセーションを巻き起こしたね。フランス語の原版は2006年刊行。メイヤスーは1967年生まれの(成功した哲学者としては)若い著者ながら、本書によっていわゆる「ポスト構造主義」以降最大の思想運動ともいえる思弁的実在論(Speculative Realism/SR)のリーダー的存在と目されるようになった。

吉川 フーコーは『言葉と物』で人間の終焉を予言したわけだけど、メイヤスーはもっと積極的に、近代のカント的な人間とは別の仕方で思考しなきゃいけないんだというんだよね。

山本 うん。カントは、我々は実在――カントはそれを「物自体」と呼ぶ――を直接認識することはできないと考えた。我々が認識しているのはあくまでも「現象」であって、それは徹頭徹尾、人間の感官や思考のあり方に依存して現れている。たとえば、目の前に六面体のサイコロがひとつあるとする。私たちはそのサイコロをつねにある角度から、ある光の下で見たり、その表面に触れて感じ取っている。サイコロという実在物をそのまま認識はできなくて、人間なら人間の目や耳や肌を通じて経験するしかない、というわけだね。

吉川 どんな存在も人間の感覚や思考とかかわるかぎりにおいて存在すると想定するこの思考法を、メイヤスーは「相関主義」と呼んで批判する。

山本 もし人間が相関の外に出られないとすれば、たとえば人類が誕生する前の数億年前の化石とか宇宙の状態とか、彼はそれを「祖先以前性」と呼ぶんだけど、そういうものについてなにもいえないじゃないか、と。

吉川 うん。でも実際には祖先以前的な事柄についても我々は語りまくっている。つまり知ってか知らずかダブルスタンダードを用いているわけだ。哲学はそんな詐術を捨て、実在に直接アクセスする思考を立ち上げなければならない。そのために召喚されるのが……。

山本 数学! メイヤスーによれば、数学こそ相関主義と無関係に実在にアクセスできる手段ということなんだけど、私はこの点については正直ちょっと留保したい気がする。どう?
吉川 先の『言葉と物』とは別の意味で判断がつかないところがあるよね。実在に直接アクセスするということは、人間の思考とは無関係にアクセスするということだから、ちょっと取り付く島もない感じはする。

山本 その辺については本職の哲学者たちの検討を待つとして、ここではこの本の「人文的、あまりに人文的」な意義について考えてみようか。

吉川 人の文という観点からは、この本のモチーフはよくわかる気がするよね。

山本 うん、ほんとに。相関主義の閉域から出られない息苦しさ、あるいはダブルスタンダードを用いることの自己欺瞞に、我々――我々の範囲をどこまでとれるかはわからないけれど――は飽き飽きしてるんだよね。だからメイヤスーの相関主義批判はスカッと爽快なところがある。

吉川 ディープラーニング以降の人工知能ブームなんかを見てもそれはいえるよね。たとえば、GoogleのAIのアルファ碁が人間にはまったく予想できない手を指したりするのを見て、我々はときめいちゃうわけだ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』(河出文庫、2005)のスーパーコンピュータが「究極の答え」として弾き出す「42」みたいな、人間的相関とは無関係なところからスルーパスがくるのを待望してたりするんだろうね。いいかわるいかは別として。

山本 その意味では、この本が提起した祖先以前性の概念と相関主義批判は、ある意味パンドラの箱を開けたというか、そういうエポックメイキングな意義があると思う。

吉川 うん。それが出てくる前には思いもよらなかったかもしれないけど、出てきたあとで考えてみたら出るべくして出たとしか思えないような、まあ簡単にいえば、「そうそう俺もそう思ってた!」といいたくなるような、そんな作品(笑)。

山本 あと、この本を読んだとき、「これは一種のサイエンス・フィクションだ」と思った。絵空事だ、という意味じゃないよ?(笑)

吉川 攻めるね、と思ったらそうじゃないんだ(笑)。

山本 SFといっても人によって定義はさまざまだろうけれど、私の場合、「現実の世界に実際には存在しないもの(科学・技術にかかわる要素)を置いてみたり、差し引いてみたらなにが起きるか」を想像のなかで実験したりシミュレーションしてみるフィクションという具合。たとえば、タイムマシンとか人間の意識をデジタルコピーする技術とか。ただしメイヤスーの本の場合、「学問」という広い意味でのサイエンスが、もし「祖先以前性」という概念を頭に入れて世界を見なおしたら、なにが見えるか、考えられるか、という報告でもあると思うんだよね。まあ、あくまでもものの喩えだけれど。

吉川 人間にはどれだけのことが考えられるかという実験だね。概念をつくって提示することは哲学の大きな仕事でもあり、我々読者からしてみれば読む醍醐味でもあるね。そういう「人文的、あまりに人文的」な意味でも『有限性の後で』はおもしろい。

山本 メイヤスーの邦訳された単著は今のところ『有限性の後で』だけかな。論文は『現代思想』のバックナンバーでいくつか読めます。思弁的実在論については『思弁的転回(The Speculative Turn: Continental Materialism and Realism)』という論集を覗いておくと見取り図を得られると思います。同書はオープンアクセス版がネットでも公開されていましたね★2

吉川 というわけで、今回は人文書ど真ん中の2冊を取り上げてみました。

山本 ではまた次回……でいいよね?

吉川 よし、やるか!

山本 ごきげんよう。



★1 『現代思想 2017年3月臨時増刊号 総特集*知のトップランナー50人の美しいセオリー』、青土社、2017年。

★2 The Speculative Turn: Continental Materialism and Realism, edited by Levi Bryant, Nick Srnicek, Graham Harman, www.re-press.org, 2011.URL=http://www.re-press.org/book-files/OA_Version_Speculative_Turn_9780980668346.pdf

山本貴光

1971年生まれ。文筆家・ゲーム作家。コーエーでのゲーム制作を経てフリーランス。著書に『投壜通信』(本の雑誌社)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文体の科学』(新潮社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川浩満との共著、太田出版)、『サイエンス・ブック・トラベル』(編著、河出書房新社)など。翻訳にジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川と共訳、ちくま学芸文庫)、サレン&ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ。ニューゲームズオーダーより再刊予定)など。

吉川浩満

1972年生まれ。文筆家、編集者、配信者。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、文筆業。晶文社にて編集業にも従事。山本貴光とYouTubeチャンネル「哲学の劇場」を主宰。 著書に『哲学の門前』(紀伊國屋書店)、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』(ちくま文庫)、『理不尽な進化 増補新版』(ちくま文庫)、『人文的、あまりに人文的』(山本貴光との共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(山本との共著、筑摩書房)、『脳がわかれば心がわかるか』(山本との共著、太田出版)、『問題がモンダイなのだ』(山本との共著、ちくまプリマー新書)ほか。翻訳に『先史学者プラトン』(山本との共訳、メアリー・セットガスト著、朝日出版社)、『マインド──心の哲学』(山本との共訳、ジョン・R・サール著、ちくま学芸文庫)など。
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