人文的、あまりに人文的(6) 『パンセ』『哲学においてマルクス主義者であること』|山本貴光+吉川浩満

初出:2016年10月07日刊行『ゲンロンβ7』
幾何学の精神と繊細の精神

吉川浩満 前号では、今年最大の事件として宮下志朗さん訳のモンテーニュ『エセー』についてお話ししました。
山本貴光 うん。
吉川 じつはもうひとつあるんだよね。同じくらいでかいやつが。
山本 なんだろう? 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』第200巻で完結とか?
吉川 でかい! けど、そうじゃなくて……流れを読んで! ほら、『エセー』を愛読していたあの人。
山本 塩川徹也さん訳のパスカル『パンセ』完結だね。
吉川 ビンゴ。
山本 昨年の夏に上巻、秋に中巻、そしてこの夏に下巻が出て完結。岩波文庫で上・中・下の3分冊。全部で1500頁以上あるね。
吉川 おそろしい。アマゾンのカスタマーレビューでは今回の新訳について激しい議論が戦わされていたりもするけど、それはそれとして、たいへんな訳業だよね。
山本 うん。それに、この翻訳がたいへんだというのにはもうひとつ理由がある。こんなに分厚いのに、もともとひとつのまとまった本じゃないんだよね。生前にパスカルが書いた断片の集積なわけだ。
吉川 そう、それが死後にまとめられて『パンセ』となった。ポール・ロワイヤル版と呼ばれる初版は1670年に出たんだけど、そのときの題名は『宗教および他のいくつかの問題に関するパスカル氏の諸考察──氏の死後にその書類中より発見されたるもの』と、まさにそのまんま。
山本 実際に翻訳をしてみるとわかるけど、断片というのはそれを読み解くための文脈の情報を含んでいないことが多いから、解釈がとても難しい。これはパスカルじゃないけど、そうした忘れがたい断片に「腹部」とか「熱風の管」というのがある。『ソクラテス以前哲学者断片集』(岩波書店)という本に収められているまさに断片[★1]。
吉川 断片すぎる!(笑)
山本 こうなると、もはやなんなのかさえ謎(笑)。考古学で、陶器のかけらみたいなモノを掘り出したはいいけれど、もともとどんな形をしていたのかを推測するのは困難というのとも似ているね。話を戻せば、そもそも断片の集積から1冊の本を編纂するということ自体、文脈を復元したり創造したりする高度で難しい仕事だよね。
吉川 訳者と編者に感謝だ。ところで、山本くんは『パンセ』に特別な思い出とかはある?
山本 じつはね、私はパスカルは嫌いではないんだけど、『パンセ』についてはよい読者じゃないんだよね。「人間の不幸は、ただ一つのこと、一つの部屋に落ち着いてじっとしていられないことからやってくる」「流行が魅力を作り出す。正義を作り出すのも同じく流行だ」とか、個々の断片を面白く感じることはあるんだけど。
吉川 名言の宝庫だよね。「人間は考える葦である」をはじめとして、「クレオパトラの鼻。もしそれがもう少し小ぶりだったら、地球の表情は一変していたことだろう」といったよく知られたものから、「精神が豊かになればなるほど、独創的な人間がたくさんいることが分かる。並の人間には人々の間の差異が目につかない」のように、耳が痛いようなのまで。あるいは「哲学をばかにすること、これこそ本当に哲学することだ」なんてのも。以上、今回の塩川訳を引用してみました。この夏に出た下巻には、テーマ別に有名な文章をコンパクトにまとめた「『パンセ』アンソロジー」や「用語集」が収められていて、けっこう楽しい。下巻のアンソロジーから読んでみてもいいかもしれないね。
山本 他方で、彼の信仰についての議論がちょっと飲み込みにくくてね。理解はできるが納得はできないというか。
吉川 ほう。
山本 パスカルは17世紀を代表する数学者であり、いまの言葉でいえば科学者でもありました。その方面の仕事は『科学論文集』(岩波文庫)や『パスカル数学論文集』(ちくま学芸文庫)で読めます。で、それと同時に、要になるのは信仰だっていう話もする。これは西洋の哲学史上、さまざまに変奏されてきた理性と信仰の関係をめぐる問題でもある。ともあれ、これをどう理解すればいいのかっていうのはずっと気になっているかな。そんなわけで彼の人間論とか科学や数学についての文章はおもしろく読めるんだけど、『パンセ』の護教論はいまだうまく受け止められていないなあという感じがするんだよね。
吉川 まあ、初版タイトルの『宗教および他のいくつかの問題に関するパスカル氏の諸考察──氏の死後にその書類中より発見されたるもの』が語るとおり、そもそも信仰がメインテーマなんだもんね。キリスト教の護教論。
山本 吉川くんにとっては『パンセ』はどんな作品ですか。
吉川 まずは「幾何学の精神」と「繊細の精神」の対比にしびれるね。幾何学の精神というのは、まさに幾何学の方法に見られるように、少数の原理から世界を演繹する合理的認識の能力。それに対して繊細の精神というのは、日常世界にあらわれる複雑で微妙で多様な原理を一挙にとらえるような、しなやかな観察眼といえばいいかな。これがパスカルにとっての哲学の方法になる。もちろんどちらも大事なんだけど、人文学/人文主義との関わりで、この対比にはいろいろと考えさせられる。
山本 しかもパスカルは、両者を兼ね備えることは難しいことだけれど、どちらかだけの精神では足りないと言いたいようだね。
吉川 それと、さっき山本くんが指摘した信仰の問題ね。パスカルは確率論の創始者のひとりでもあったわけだけど、それを信仰の問題にも適用してしまう。『パンセ』では、もし理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けたところで失うものはなにもないし、むしろそれによって生きることの意味が増すじゃないか、と「論証」するんだけど。
山本 有名な「パスカルの賭け」だ。
吉川 これ、まあそう言われればそうかもしれないけど、おそらく納得できるのはすでに信仰をもっている人だけだよね。この論証を聞いて信仰に飛び込む現代人がいるとは思えない(笑)。
山本 私もそのあたりに引っかかるんだよね。
吉川 とはいえ、パスカルの信仰をめぐる議論が現代ではなんの意義ももたないかというと、そんなことはない。20世紀にかたちを変えてよみがえった。私にとってはこれがでかい。
山本 イデオロギー論だね。
吉川 そう。20世紀の中盤から後半にかけて活躍したマルクス主義哲学者ルイ・アルチュセールが展開したイデオロギー論。これがほかならぬ『パンセ』から霊感を得ているんだよね。
山本 有名な「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」(『再生産について──イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』上・下、平凡社ライブラリー、2010年)は、いわばパスカル信仰論の現代版のような感じ。
吉川 パスカルという人は、こんな思い切った議論をする。信仰に関しては、もう合理的な議論なんてやめなさい、なにも考えずに儀式に従い、定められた身ぶりを繰り返すことで、頭を空っぽにしなさい、そうすれば信仰は自然にやってくるだろう、と。要するに、あたかも信仰をもっているかのように行動せよ、そうすれば信仰が得られるだろう、ということ。
山本 べつに心からの信仰心なんていらないわけだ。
吉川 うん。そしてアルチュセールは、これは17世紀のキリスト教信仰にかぎらず、現代社会におけるイデオロギーの働き方でもあるんだと言う。まさに従来のイデオロギー論を塗り替えるような仕事だよね。それまではイデオロギーというと、誤った信念だとか自己欺瞞だとか、そういう認識論的・意識的・観照的な次元で否定されるべき対象だった。つまり、我々が世界を曇りなき目で見るのを邪魔する遮蔽物みたいな扱いだった。
山本 そもそも、イデオロギーという言葉のもとになった18世紀のフランス啓蒙思想家たちの「観念学」(イデオロジー)には、必ずしも悪い意味はなかった。彼らと仲違いしたナポレオンが観念学者たちを「イデオローグ」という蔑称で非難しはじめたところから、この言葉の不幸がはじまる(笑)。
吉川 そうそう。それがパスカルに霊感を得たアルチュセールによって再びひっくり返された。いわば情動論的・無意識的・行為論的な次元でイデオロギーを扱うことが可能になった。我々は心の中でなにを思っていようとも、すでになんらかの信仰=イデオロギーをもっている。より正確にいえば、パスカルが論じたように、日々の行為や儀式や習慣のなかにそうした信仰=イデオロギーが物質化されている、という具合に。
山本 イデオロギーは、いわばコンスタティヴな次元だけじゃなくてパフォーマティヴな次元でも働いていると。これは認知科学や行動経済学の知見を援用してヴァージョンアップできそうだね。
吉川 うん、できると思うし、すべきだよね。いまでは「イデオロギー」という言葉自体が忌避されているようなところがあるけれど、だからといって我々はイデオロギーを克服したわけではない。
山本 アルチュセール的に考えれば、認知的にどれだけ賢くなったところでイデオロギーから解放されるわけではないんだからね。情動的な次元でのイデオロギーの働きというものがある。
吉川 イデオロギー論の展開については、『パンセ』はもちろん、先の「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」に加えて、テリー・イーグルトン『イデオロギーとは何か』(平凡社ライブラリー、1999年)やスラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』(河出文庫、2015年)を読んでみてほしいね。あと、あの浅田彰さんも20代の助手時代に「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」(『思想』1983年5月号、岩波書店)なんて論文を発表しているよ。

ルイ・アルチュセール『哲学においてマルクス主義者であること』、市田良彦訳、航思社、2016年
山本 さて、折しもそのアルチュセールの生前未刊行だったノートが『哲学においてマルクス主義者であること』として刊行されたね。この話をしようか。
吉川 アルチュセールという人は、いろんな意味で難しいというか、なかなか一筋縄ではいかないね。書き物が難解というのもあるけれど、ほかにもいろいろと。フランス共産党における異端の理論家であり、構造主義四天王のひとり。つまりはフランス現代思想のスターだったんだけど、度重なる自己批判と思想的変転により、全体像が非常につかみにくい。さらには1980年、奥さんのエレーヌを絞殺して精神病院に収容され、長い沈黙へ。亡くなったのは1990年。
山本 教師としての面も見逃せないね。フーコー、デリダ、セール、バディウ、バリバールなんて人たちを育てた。
吉川 すごい豪華メンバー。
山本 で、この『哲学においてマルクス主義者であること』なんだけど、先にも言ったとおり、これは生前未刊行のノートを編集してまとめた本。ほとんど完成品というくらいに仕上がっていて、だいたい1976年に執筆されたようだね。本国フランスでは2015年に刊行されている。
吉川 タイトルを口にしただけで読者に逃げられるかもしれないね。まあ、どんな思想、作品にも時代の刻印というものはあるわけで、読者諸賢におかれましては、とりあえずは食わず嫌いで逃げ出さないようにお願いしたい(笑)。
山本 ははは。書名からの想像で判断しちゃうと、いい本を見逃すこともあるよね。
吉川 というのも、この本のテーマはほかでもない、「誰でも哲学することができるか?」という根本的な問題だから。
山本 時代の影が色濃く落ちているけれど、アルチュセール流の哲学入門だよね。社会的現実のもとで、社会的現実とともに、社会的現実に対して、いかに思考するかという。
吉川 そう。さっきのイデオロギー論じゃないけれど、時代の幻想やイデオロギーといった夾雑物と一切関係のない、まっさらな正解をくださいと言ったって、そうはいかない。そんなものを一足跳びに求めたところで、かえって最悪に凡庸なイデオロギーをつかまされることになるわけで。彼がいかにしてそうしたものと格闘したのかというドキュメントになっている。
山本 社会的現実と幻想/イデオロギーの関わりにおいて、哲学の役割を誠実に考え抜いた人だよね。
吉川 悲劇的なほどにね。この本もそう。まあ、あいかわらずわかりにくいところはあるけれど。
山本 もし副読本があるとしたらなにかな。
吉川 彼の思想の変化もあるから、時系列的に前後の2冊を一緒に読んでみるといいと思う。前の本としては1968年の「レーニンと哲学」(『マキャヴェリの孤独』、藤原書店、2001年)、後の本としては晩年の「偶然性唯物論」についての対話や手紙をまとめた『哲学について』(ちくま学芸文庫、2011年)かな。とくに「レーニンと哲学」は最高! そこからさらに一歩を踏み出そうとしたのが、この『哲学においてマルクス主義者であること』。
山本 ちなみに、いまのはあくまでアルチュセール流の哲学入門としてのセレクションだということを確認しておこうか。アルチュセールのライフワークといえばマルクスと資本論研究だからね。『マルクスのために』(平凡社ライブラリー、1994)、『資本論を読む』(上・中・下、ちくま学芸文庫、1996-1997年)、『再生産について』(上・下、平凡社ライブラリー、2010年)と、日本でもほぼ文庫化されている。
吉川 そうそう、主著を忘れると怒られちゃうね。その系列でも『再生産について』第1章「哲学とは何か」なんかはアルチュセーリアン哲学入門としていいかもしれない。ところで、この『哲学においてマルクス主義者であること』は、洒脱な装幀と細心の編集で非常に丁寧につくられている本だけど、版元の航思社はいわゆる「ひとり出版社」なんだよね。
山本 そう。永江朗さんのレポート『小さな出版社のつくり方』(猿江商會、2016年)なんかにもあるとおり、この数年、ひとり出版社/小規模出版社の活躍がすごいよね。
吉川 うん。よろこばしい流れだと思うんだけど、これはどういう状況の変化によるものだろう?
山本 なんていうのかな、自分で出版社を興そうという気持ち、わかる気がするんだよね。
吉川 聞こうじゃないか。
山本 またしてもゲームの話に引き寄せて申し訳ないけれど(笑)、日本のゲーム業界って1970年代くらいからはじまっているのね。これについては最近出た小山友介さんの『日本デジタルゲーム産業史』(人文書院、2016年)にとてもよくまとめてあるから読んでもらうとして、業界が成立して40年かそこいら経って、規模もそれなりに大きくなり、社会的な認知度も高まり、出すゲームもそこそこヒットするようになったときに、なにが起こったか。
吉川 なんだろう。
山本 現場でゲームをつくっている側がだんだん不満を覚えるようになったんだよね。なぜかっていうと、開発にかかるお金が増えてきた分、それを回収しないといけないという圧力も強くなって、あらかじめ売れることがわかっている、あるいは想像しやすいタイトルしかつくれなくなるから。
吉川 なんとなくわかる。
山本 そうすると、これは映画史上でも起きたことだけど、ヒット作の続編をつくれ、あるいは似たものをつくれというわけで、実験的な作品がつくりづらくなってゆく。そうするとね、ほんとにつくりたい人は辞めていっちゃうんだよね。
吉川 そうだろうねえ。
山本 それで独立して小さなスタジオをつくって、インディーズレーベルのようにしてゲームをつくるようになる。とまあ、つい長くなったけれど、独立してゲームづくりをつづけた開発者たちの姿は、ひとり出版社/小規模出版社と重なるところがあるなと思ったわけ。
吉川 なるほどね。
山本 彼らの活動を見ていると、一球入魂というのかな、本当に出したい本を選び抜いて出している感じもあるよね。
吉川 ほんとそうだね。ハード・ソフト両面でのDTP環境の整備もあって、旧弊にとらわれず小回りの利くかたちでの出版事業を営みやすくなっているのかもしれないね。
山本 人文書の場合、2000部とか3000部、ものによっては1000部くらい読まれれば十分に事業を回していけるだろうし。出版不況と呼ばれる現状だけれども、これはとても心強い。読者としては、こうした試みがさらに多様化してほしいし、支援したい。
吉川 そのためにも、そうやって出てきた本の価値を見出して、潜在的な読者に知らしめるような活動も大事だよね。東さんのゲンロンカフェや『ゲンロン』、それにこの『ゲンロンβ』なんか、まさしくそれを行う媒体だ。
山本 まさにまさに。
吉川 今回はこれくらいかな。
山本 うん。それではごきげんよう。
山本 イデオロギーは、いわばコンスタティヴな次元だけじゃなくてパフォーマティヴな次元でも働いていると。これは認知科学や行動経済学の知見を援用してヴァージョンアップできそうだね。
吉川 うん、できると思うし、すべきだよね。いまでは「イデオロギー」という言葉自体が忌避されているようなところがあるけれど、だからといって我々はイデオロギーを克服したわけではない。
山本 アルチュセール的に考えれば、認知的にどれだけ賢くなったところでイデオロギーから解放されるわけではないんだからね。情動的な次元でのイデオロギーの働きというものがある。
吉川 イデオロギー論の展開については、『パンセ』はもちろん、先の「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」に加えて、テリー・イーグルトン『イデオロギーとは何か』(平凡社ライブラリー、1999年)やスラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』(河出文庫、2015年)を読んでみてほしいね。あと、あの浅田彰さんも20代の助手時代に「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」(『思想』1983年5月号、岩波書店)なんて論文を発表しているよ。
社会的現実とともに思考する

山本 さて、折しもそのアルチュセールの生前未刊行だったノートが『哲学においてマルクス主義者であること』として刊行されたね。この話をしようか。
吉川 アルチュセールという人は、いろんな意味で難しいというか、なかなか一筋縄ではいかないね。書き物が難解というのもあるけれど、ほかにもいろいろと。フランス共産党における異端の理論家であり、構造主義四天王のひとり。つまりはフランス現代思想のスターだったんだけど、度重なる自己批判と思想的変転により、全体像が非常につかみにくい。さらには1980年、奥さんのエレーヌを絞殺して精神病院に収容され、長い沈黙へ。亡くなったのは1990年。
山本 教師としての面も見逃せないね。フーコー、デリダ、セール、バディウ、バリバールなんて人たちを育てた。
吉川 すごい豪華メンバー。
山本 で、この『哲学においてマルクス主義者であること』なんだけど、先にも言ったとおり、これは生前未刊行のノートを編集してまとめた本。ほとんど完成品というくらいに仕上がっていて、だいたい1976年に執筆されたようだね。本国フランスでは2015年に刊行されている。
吉川 タイトルを口にしただけで読者に逃げられるかもしれないね。まあ、どんな思想、作品にも時代の刻印というものはあるわけで、読者諸賢におかれましては、とりあえずは食わず嫌いで逃げ出さないようにお願いしたい(笑)。
山本 ははは。書名からの想像で判断しちゃうと、いい本を見逃すこともあるよね。
吉川 というのも、この本のテーマはほかでもない、「誰でも哲学することができるか?」という根本的な問題だから。
山本 時代の影が色濃く落ちているけれど、アルチュセール流の哲学入門だよね。社会的現実のもとで、社会的現実とともに、社会的現実に対して、いかに思考するかという。
吉川 そう。さっきのイデオロギー論じゃないけれど、時代の幻想やイデオロギーといった夾雑物と一切関係のない、まっさらな正解をくださいと言ったって、そうはいかない。そんなものを一足跳びに求めたところで、かえって最悪に凡庸なイデオロギーをつかまされることになるわけで。彼がいかにしてそうしたものと格闘したのかというドキュメントになっている。
山本 社会的現実と幻想/イデオロギーの関わりにおいて、哲学の役割を誠実に考え抜いた人だよね。
吉川 悲劇的なほどにね。この本もそう。まあ、あいかわらずわかりにくいところはあるけれど。
山本 もし副読本があるとしたらなにかな。
吉川 彼の思想の変化もあるから、時系列的に前後の2冊を一緒に読んでみるといいと思う。前の本としては1968年の「レーニンと哲学」(『マキャヴェリの孤独』、藤原書店、2001年)、後の本としては晩年の「偶然性唯物論」についての対話や手紙をまとめた『哲学について』(ちくま学芸文庫、2011年)かな。とくに「レーニンと哲学」は最高! そこからさらに一歩を踏み出そうとしたのが、この『哲学においてマルクス主義者であること』。
山本 ちなみに、いまのはあくまでアルチュセール流の哲学入門としてのセレクションだということを確認しておこうか。アルチュセールのライフワークといえばマルクスと資本論研究だからね。『マルクスのために』(平凡社ライブラリー、1994)、『資本論を読む』(上・中・下、ちくま学芸文庫、1996-1997年)、『再生産について』(上・下、平凡社ライブラリー、2010年)と、日本でもほぼ文庫化されている。
吉川 そうそう、主著を忘れると怒られちゃうね。その系列でも『再生産について』第1章「哲学とは何か」なんかはアルチュセーリアン哲学入門としていいかもしれない。ところで、この『哲学においてマルクス主義者であること』は、洒脱な装幀と細心の編集で非常に丁寧につくられている本だけど、版元の航思社はいわゆる「ひとり出版社」なんだよね。
山本 そう。永江朗さんのレポート『小さな出版社のつくり方』(猿江商會、2016年)なんかにもあるとおり、この数年、ひとり出版社/小規模出版社の活躍がすごいよね。
吉川 うん。よろこばしい流れだと思うんだけど、これはどういう状況の変化によるものだろう?
山本 なんていうのかな、自分で出版社を興そうという気持ち、わかる気がするんだよね。
吉川 聞こうじゃないか。
山本 またしてもゲームの話に引き寄せて申し訳ないけれど(笑)、日本のゲーム業界って1970年代くらいからはじまっているのね。これについては最近出た小山友介さんの『日本デジタルゲーム産業史』(人文書院、2016年)にとてもよくまとめてあるから読んでもらうとして、業界が成立して40年かそこいら経って、規模もそれなりに大きくなり、社会的な認知度も高まり、出すゲームもそこそこヒットするようになったときに、なにが起こったか。
吉川 なんだろう。
山本 現場でゲームをつくっている側がだんだん不満を覚えるようになったんだよね。なぜかっていうと、開発にかかるお金が増えてきた分、それを回収しないといけないという圧力も強くなって、あらかじめ売れることがわかっている、あるいは想像しやすいタイトルしかつくれなくなるから。
吉川 なんとなくわかる。
山本 そうすると、これは映画史上でも起きたことだけど、ヒット作の続編をつくれ、あるいは似たものをつくれというわけで、実験的な作品がつくりづらくなってゆく。そうするとね、ほんとにつくりたい人は辞めていっちゃうんだよね。
吉川 そうだろうねえ。
山本 それで独立して小さなスタジオをつくって、インディーズレーベルのようにしてゲームをつくるようになる。とまあ、つい長くなったけれど、独立してゲームづくりをつづけた開発者たちの姿は、ひとり出版社/小規模出版社と重なるところがあるなと思ったわけ。
吉川 なるほどね。
山本 彼らの活動を見ていると、一球入魂というのかな、本当に出したい本を選び抜いて出している感じもあるよね。
吉川 ほんとそうだね。ハード・ソフト両面でのDTP環境の整備もあって、旧弊にとらわれず小回りの利くかたちでの出版事業を営みやすくなっているのかもしれないね。
山本 人文書の場合、2000部とか3000部、ものによっては1000部くらい読まれれば十分に事業を回していけるだろうし。出版不況と呼ばれる現状だけれども、これはとても心強い。読者としては、こうした試みがさらに多様化してほしいし、支援したい。
吉川 そのためにも、そうやって出てきた本の価値を見出して、潜在的な読者に知らしめるような活動も大事だよね。東さんのゲンロンカフェや『ゲンロン』、それにこの『ゲンロンβ』なんか、まさしくそれを行う媒体だ。
山本 まさにまさに。
吉川 今回はこれくらいかな。
山本 うん。それではごきげんよう。
★1 腹部:「断片153」、『ソクラテス以前哲学者断片集』別冊、岩波書店、1998年、126頁。熱風の管:「断片B4」、同第1分冊、岩波書店、1996年、181頁。


山本貴光
1971年生まれ。文筆家・ゲーム作家。コーエーでのゲーム制作を経てフリーランス。著書に『投壜通信』(本の雑誌社)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文体の科学』(新潮社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川浩満との共著、太田出版)、『サイエンス・ブック・トラベル』(編著、河出書房新社)など。翻訳にジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川と共訳、ちくま学芸文庫)、サレン&ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ。ニューゲームズオーダーより再刊予定)など。

吉川浩満
1972年生まれ。文筆家、編集者、配信者。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、文筆業。晶文社にて編集業にも従事。山本貴光とYouTubeチャンネル「哲学の劇場」を主宰。
著書に『哲学の門前』(紀伊國屋書店)、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』(ちくま文庫)、『理不尽な進化 増補新版』(ちくま文庫)、『人文的、あまりに人文的』(山本貴光との共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(山本との共著、筑摩書房)、『脳がわかれば心がわかるか』(山本との共著、太田出版)、『問題がモンダイなのだ』(山本との共著、ちくまプリマー新書)ほか。翻訳に『先史学者プラトン』(山本との共訳、メアリー・セットガスト著、朝日出版社)、『マインド──心の哲学』(山本との共訳、ジョン・R・サール著、ちくま学芸文庫)など。
人文的、あまりに人文的
- 人文的、あまりに人文的(特別篇)『新記号論』|山本貴光+吉川浩満
- 人文的、あまりに人文的(10)『言葉と物』『有限性の後で』|山本貴光+吉川浩満
- 人文的、あまりに人文的(8)『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』『セカンドハンドの時代』|山本貴光+吉川浩満
- 人文的、あまりに人文的(7)『人生談義』『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』|山本貴光+吉川浩満
- 人文的、あまりに人文的(6) 『パンセ』『哲学においてマルクス主義者であること』|山本貴光+吉川浩満
- 人文的、あまりに人文的(2) 『子どもは40000回質問する』『思索への旅』|山本貴光+吉川浩満
- 人文的、あまりに人文的(1)『啓蒙思想2.0』『心は遺伝子の論理で決まるのか』 |山本貴光+吉川浩満