物を見る演劇──「オブジェクトシアター」入門|山口遥子

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    webゲンロン 2026年9月28日配信

 

 池袋の東京芸術劇場で、2025年から新しい舞台芸術祭「秋の隕石」が始まった。そのラインナップには、「オブジェクトシアター」の作品が並んでいる。2年目となる今年は、『バーニング・ガールズ』『白い部屋』の2作品、そして5日間にわたるワークショップ。日本の主要な芸術祭でこの領域が紹介されるのは、ほとんど前例のない試みである[★1]。

 「オブジェクトシアター」という語自体は、1980年にフランスで使われはじめたとされ、すでに40年以上の蓄積がある。にもかかわらず、日本ではその実践がまとまって紹介される機会はほとんどなかった。ここではその成立と展開の経緯 [★2]には立ち入らず、現代の代表的な実践家たちの言葉を手がかりに、人間を中心に置いてきたこれまでの演劇と何が違うのかを考えてみたい。

 あらためて口に出してみれば、「オブジェクトシアター」とは、かなり物々しい響きである(物だけに……)。オブジェクトと言うからには、美術品のような特別な「オブジェ」を用いる演劇かと思われるかもしれない。たしかにそういう場合もあるが、この名の下で上演されるほとんどの作品は、そのへんに転がっているような日用品を用いている。時計、ドーナツ、灰皿、じゃがいも、スポンジ、プラスチックコップ……、とにかく何でも構わない。私たちが日常的に目にしてはいるが、取り立てて関心を惹くわけではない「オブジェクト」の数々が、この種の舞台における主役である。昨年の「秋の隕石2025東京」で上演されたオブジェクトシアター作品においても、とりとめのない無数のガラクタが舞台を埋めつくした。

舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」ハンダ・ゴテ・リサーチ&ディベロップメント『第三の手』に登場したオブジェクトの数々。撮影=筆者

 なぜ、こんな「物」なんかを舞台の主役とするのか? 通常の演劇では、主役は当然「人間」である。それもそのはず、舞台上に人間と物が並んでいるとき、観客はほとんど自動的に人間の方を見ている。ソファが置かれ、そこに誰かが座っていれば、見るべきはソファではなく人である。そのソファが、どんな存在感を発し、どのような音で軋んでいるか、などといったことは、観客の関心外である。これに対して、人間はジロジロと見られる。普段は対話する相手の顔や体を隅から隅まで見るようなことは決してしない人も、チケットを買った観客になると、他人の顔や体を長いこと、遠慮なく見つめることになる。俳優の側もまた、見つめられるのを当然のことだと思っている。

 しかしそのように、物ではなく人間ばかりを観客が見つめている状況を良しとしない、あるいは「失敗」だとすら考える種類の舞台芸術がある。そうならないよう、観客の注意を「物」へと集めるべく、工夫と努力が尽くされる領域がある。それが人形劇とオブジェクトシアターである。

 なぜ「物」へと観客の注意を向けさせなければならないのか。それには色々な理由があると思うが、まず一つには、人間ができることには限界があるからだ。全米有数の人形劇研究拠点であるコネティカット大学のジョン・ベルは、人間の演劇は「あまりに限定されている」と言う。人間ではなく「物」をこそ相手に取って、その物質性と人間とが取っ組み合うことによって、人間だけでは思いつかないほど面白いものが生まれ、人間だけでは到達できない場所へ行けるのだと彼は力説する[★3]。ベルのいうところでは、「人形に手をおくとき、そしてその存在を、木として、金属として、プラスチックとして、革として、布として認めるとき、私たちはその物質的な性質そのものに接続し、それを理解しようと苦闘し、そして文字通り取っ組み合うことになる」。

 ここで言われている、「物との取っ組み合い」の困難は、人形劇やオブジェクトシアターに手を出したことがない人には想像しがたい。人間よりも物の方が御しやすいと考えられがちだが、実際は文字通り「苦闘」の様相を呈する。あまり上手くない人形劇を見れば分かるが、「操り人形」とはいうものの、意外と操れないものである。ベルギーの著名な人形遣い、モスー・ボンテは、「物」という相手の御しづらさについて、自分が操られるくらいの姿勢でないとうまくいかないという趣旨のことを言っている。「彼女[人形]がすることを私がするのです。私がすることを彼女がするのではない」。「人形にイニシアティブを与えなければなりません。彼女がされるがままなら、命を持つことはありません。すぐに死んでしまいます」[★4]。自分の意のままに物を動かそうとするのではなく、物が進んで能動的に動く仕方を探らなければ、物を動かしていることにならない。逆説的であるが、経験に裏打ちされた証言である。

オブジェクトシアターの一例。フェケテ・セレトレク『KAR』©下北沢国際人形劇祭/Yuri Manabe

 こうした感覚は、多くの人形遣いが共有しているものであるが、人形劇界の外には、こうした格闘なくして、「物」を簡単に御せると考えているように見えるパフォーマーも数多くいる。人形劇界で「悪しき演技」の典型として挙げられる例を1つ紹介しよう。マペット[★5]を用いた、アメリカのとある有名ミュージカル作品であるが、そこでは、俳優たちは人形よりもはるかに生き生きと自分自身の顔を動かし、演出家もそれを気にしない。人形は激しく上下するだけで生気はなく、観客の注意は俳優に向けられる。観客の脳裏に残るのは俳優の一生懸命な顔だけで、人形が何をやっているのかはほとんど分からない。こうした事態は、人形劇においては明確に「失敗」である。

 こうならないためには、人間は少しエゴをおさえる必要がある。自分はさておいて、相手(物)にイニシアティブを与えるというのは、人間主体の演劇にはあまり見られないことだが、人形劇やオブジェクトシアターにおいては基本的な態度である。人形も自分の身体を前に出さない、というのが人形遣いの基本ルールの一つであるが、このルールは、体の置き場所についてだけをいうのではなく、心構えの問題でもある。前出の劇団「ハンダ・ゴテ・リサーチ&ディベロップメント」も、まさにこの「エゴをほどく」という点を、オブジェクトシアターが人間にもたらす主な効用としている。同劇団主宰のトマーシュ・プロハースカは次のように言う。

〈物〉たちと向き合うとき、私たちは少しだけコントロールを手放すことになります。それはつまり、少しだけエゴをほどくということ。私の意見では、これは良いトレーニングです。エゴは外、魔法は内![★6]

 私たちは当たり前のように「物」をコントロールできると思っているが、実際はそうでもない。原発も、辺野古の埋立地もそうである。パンデミックや天災のような出来事が起きると急に少し慌て出すが、普段はついつい忘れがちである。しかし「物」を相手にする人形劇やオブジェクトシアターの演者は、日常的に、「物」が人間のコントロールを超えることを、その手でじかに実感している(もちろんかなり小さなスケールではあるが)。

 ドイツのオブジェクトシアター界におけるトップランナーの一人、アリエル・ドロンもまた、人間がエゴを手放し、物と人間のあいだの「ヒエラルキーを転倒させる」営みそのものとして、オブジェクトシアターを捉えている。それは、いまだに人間が主人で、物がそれに従うことが前提とされている人間社会の秩序を、舞台上でだけはひっくり返そうとする、革命の試みである。

物たちは、静かに、おとなしく、注目を求めることもせず、私たちに仕えています。でもそれが変わる時が来ました! レディメイド(既製品)を舞台に上げ、スポットライトを当てる。俳優の物語を助ける小道具としてでなはく、自分の物語を語る語り手として。慣れ親しんだヒエラルキーを転倒させるのです。すると突然、世界がガラっと変わって見えてきます[★7]。

 山でも海でも生態系が崩れ、災害が多発し、それをどうすることもできない人間の限界が明らかになっているいま、哲学の領域でも、「物」の主体性を考える議論が盛んになっているが、オブジェクトシアターの感受性も、これとかなり近いように思われる。

アリエル・ドロン『Boxed』©下北沢国際人形劇祭/Yuri Manabe

 例えば、アメリカの哲学者、ジェーン・ベネットが『Vibrant Matter』で挙げている場面がある[★8]。ふと排水溝を見ると、そこには男性用手袋、花粉の塊、死んだネズミ、ペットボトル・キャップ、棒きれが堆積していた。いずれも、人間には不要なゴミである。しかし、その時の彼女の目には、それが「ゴミ」と「物」のあいだで揺れ動いているように見えたという。つまり、これらの物は、作業員がそこで仕事をしたこと、誰かがゴミを捨てたこと、業者がネズミを駆除したことなどを示している一方、人間によるあらゆる意味づけを超えて、それ自体で存在し、それ自体で注意を惹きつけるものだった。ベネットはそれを「物の力(thing-power)」と名付けている。

 

 このように、物に力や主体性を認める眼差しは、オブジェクトシアターの実践家たちが創作するときの態度と、とても良く似ている。彼らにとっても、あらゆる身の回りの「物」は、人間の目的と結びついている一方で、それとは全く無関係に、それ自身で存在する演者でもある。また人形劇に造詣の深い文学研究者、ケネス・グロスは、オブジェクトシアターの演者が物を捉えるやり方を、次のように描写している。

あなたはフォークや塩入れの持つ、役者としての才能を見出すようになるだろう。コルク抜きの喜劇的な間の取り方、花瓶の即興能力、スプーンの表現力の幅をたしかめる必要が出てくる。シュガーボウルやグレービーボートが隠し持っている秘密を暴き出さなければならないかもしれない。燭台はワイングラスと話すことができるだろうか? ナプキンの「顔」はどこに見出せばよいのか? ハムレット役にペッパーミルを選ぶべきか、スープ皿を選ぶべきか、そしてマクベスは魚包丁が演じるべきか、角砂糖用トングが演じるべきかを決めなければならない。最終的にあなたは、食卓を囲む人々が去った後に残された、汚れた皿、飲み物が半分残ったグラス、ロブスターの殻や魚の不気味な骨の中にこそ、より優れた役者がいると結論づけるかもしれない[★9]。

 以上のことをまとめれば、オブジェクトシアターとはつまり、人間のエゴを手放し、物にイニシアティブをゆずりわたす実践である。ただそうすると、人間のことは顧みないのか、と言われるかもしれない。オブジェクトシアターは、物との対話に引きこもり、人間には関心がないのか?

 いやとんでもない、オブジェクトシアターの意味は、「物」の氾濫の時代に生まれた人々が、「物」を通じて自らの人間性を救い出すことにこそある、と考える人々もいる。1980年、「オブジェクトシアター」という語の生まれた場に居合わせた、先駆的パフォーマーであるクリスチャン・カリニョンは、ベネットよりも先に、身の回りのガラクタ、プラスチック製の安物の「ゴミ」に心を打たれ、それを舞台に上げさえした。なぜならば、それが、「小さな人々の持ち物だった」からだ。

彼らは貧しかったわけじゃないかもしれないが、趣味は貧しかった。僕の知っている人々だ。僕の仲間であり、僕自身でもある。これらのオブジェクトが僕の心を打つのは、それらが買われ、愛され、そして忘れ去られたものだからだ。舞台上でそれらに触れることで、僕は生命に触れているんだ。それらは生きていた人々の持ち物だったんだよ[★10]。

 オブジェクトシアターは、小さなもの、安っぽいもの、ガラクタを率先して拾い上げる。それは、小さな人々、忘れられた人々を示しているからだ。これもまた、オブジェクトシアターの一つの側面である。

 

 さて今年も、2つのオブジェクトシアター作品が、「秋の隕石」で上演されることになっている。いずれもすさまじいインパクトを有し、世界的に高い評価を得ている作品だが、その一方で、それは私たちと同じような、普通の「小さな人々」を映し出す作品でもある。以下では、今回来日する作品を簡単に紹介したい。

 『バーニング・ガールズ』という作品では、コートジボワールから来た2人の女子と、一つの大きなパン生地が登場する。彼女たちの母が普段売っている「ベニエ」というパン菓子の生地である。2人は、生まれたときから親しんでいるこの巨大なパン生地を相棒に、いままで女子として経験してきた数々の鬱憤を、舞台上で爆発させる。その開放感たるやものすごく、見ている私たち日本に生きる女子も、そのまま国会に殴り込みに行きたくなるような楽しさである。パン生地も女子たちも、圧倒的なオーラ(と小麦粉のけむり)で劇場中を満たす。

『バーニング・ガールズ』©Noorullah Azizi

 『白い部屋』は、ロシアから亡命して創作を続けている初老の男性画家2人を中心としたカンパニー・アヒェによる、これまた爆発的な作品。強烈なビジュアル・ジョークが、次々と現れては消えていく。笑いが止まらなくなるほどおかしいが、同時に背筋が寒くなるほどの切実さがある。ビジュアル・ジョークを字で説明するのは無粋であるが、説明のためにごく一部を挙げるならば、次のようなものがある。

 ・男がワインの栓に紐を引っかけて首を吊ろうとする(もちろん栓は抜けてワインが体に降り注ぎ、自殺は失敗する)

 ・男の口から吐き出されたチューイングガムが舞台の端から端まで数往復する(何十メートルもの長さまで伸びていく)

 バカバカしいジョークの数々であるが、それでいて、彼らがロバート・ウィルソンやカントールと並んで論じられるのも納得するほかない、衝撃的な面白さ。10年に一度しか生まれないような、すさまじい密度のオブジェクトシアターである。

『白い部屋』(c) internationales figuren.theater.festival_Photo: Erich Malter

 いずれの作品においても、人間とオブジェクトは舞台上で、文字通り激しく取っ組み合っている。その成果は出ただろうか? 人間だけでは作り出せないような面白さ、人間だけの演劇では見たことがないような世界が開けているだろうか? 私はそう思うが、疑う向きも当然おられると思うので、ぜひ劇場にたしかめにいらしてみてください。

ナディア・ブグレ『バーニング・ガールズ』 

日程:2026年10月23日(金)〜10月25日(日)
日時・開演時間
10月23日(金)19:00
10月24日(土)15:00★
10月25日(日)12:00◎
◎=見えない・見えにくい方のための「音声ガイド・タッチツアー」を実施いたします。(要予約)
★=終演後にナディア・ブグレ、アヌラ・アヤ・ラリサ・ラバレ、クリステル・エウエ、山口遥子によるポスト・パフォーマンス・トークを行います。該当回の公演チケットをお持ちの方はどなたでもご参加いただけます。

詳細はこちら
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アヒェ・エンジニアリング・シアター 『白い部屋』 

日程:2026年10月31日(土)〜11月2日(月) 
日時・開演時間
10月31日(土)18:00
11月1日(日)18:00
11月2日(月)16:00◎
◎=見えない・見えにくい方のための「音声ガイド」を実施いたします。(要予約) 

詳細はこちら
チケット購入はこちら 

【関連イベント:公開レクチャー】
『白い部屋』の制作背景や、現在の活動について話を伺います。 
■日時
10月21日(水)11:00–12:00(無料・予約不要・入退場自由)
■場所
東京芸術劇場 ギャラリー1
■使用言語
ロシア語、日本語(逐次通訳あり)
■登壇
アヒェ
■聞き手
山口遥子(舞台芸術祭「秋の隕石2026東京」オブジェクトシアター キュレーター) 
■通訳・聞き手
上田洋子(ロシア文学者、ゲンロン代表)

★1 「秋の隕石」以外では、2024年に始まった「下北沢国際人形劇祭」が、オブジェクトシアター作品をまとまった形で上演している。下北沢国際人形劇祭 公式サイト URL=https://www.sipf.jp/
★2 この点については次を参照。山口遥子「物を尊敬する演劇――オブジェクトシアターの実践と思想」『演劇学論集 日本演劇学会紀要』第81号、2025年、55–71頁。
★3 Bell, John. Foreword. Making Meaning in Puppetry: Materials, Practice, Perception, edited by Dassia N. Posner et al., Routledge, 2026, pp. 18-19.
★4 Piris, Paul C. R. T. The Rise of Manipulacting: The Puppet as a Figure of the Other. Doctoral thesis, The Royal Central School of Speech and Drama, University of London, 2012. pp. 245, 249.
★5 セサミ・ストリートで用いられているような、操演者の手を人形の頭の部分に入れ、あごが動かせるようになっている人形のこと。
★6 トマーシュ・プロハースカ、ハンダ・ゴテ・リサーチ&ディベロップメント『第三の手』当日パンフレット(舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」、東京芸術劇場、2025年10月)。
★7 アリエル・ドロン「オブジェクトシアター ワークショップ/実験体験編」当日パンフレット(舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」、東京芸術劇場、2025年11月)。
★8 Bennet, Jane. Vibrant Matter: A Political Ecology of Things. Duke University Press, 2010. p.5.
★9 Gross, Kenneth. "The Madness of Puppets." The Hopkins Review, vol. 2, no. 2, spring 2009, pp. 182–205.
★10 Levine, Gabriel. "Dump Puppetry: Ecology, Play, and Object Performance." Critical Inquiry, vol. 51, no. 2, 2025, pp. 347–64.

山口遥子

国立西洋美術館リサーチフェロー。博士(美術)。欧州を中心とした現代人形劇・オブジェクトシアター、及び日本現代人形劇成立史を研究。企画統括を務める第3回下北沢国際人形劇祭は、2028年2月29日〜3月6日に開催予定。
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