歌の命と「タワラ記念日」──俵万智×笹公人×渡辺祐真(スケザネ)「短歌はいいね、いつの世も」イベントレポート

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webゲンロン 2024年12月17日配信

 2024年7月19日、ゲンロンカフェ初の短歌イベントが行われました。歌人の俵万智さんと笹公人さん、書評家の渡辺祐真(スケザネ)さんの3人が、SNS時代のいま、若者を中心に人気の高まる短歌を語りました。

 イベントの後半では、「ゲンロン歌会」を開催。応募フォームに投稿された観客(視聴者)の作品のなかから、登壇者がそれぞれ印象に残ったものを選出し、意見を交わしました。五七五七七のリズムに、人びとはなにを託してきたのか。その一部をレポートします。(ゲンロン編集部)
 
 俵万智×笹公人×渡辺祐真(スケザネ) 短歌はいいね、いつの世も──ゲンロン歌会はじめ
 URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20240719

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 現代短歌作品のなかで最も世に知られている俵万智さんの歌です。1987年の歌集『サラダ記念日』は大旋風を巻き起こしました。俵さん初登壇で、7月18日はゲンロンカフェの「タワラ記念日」。多くの来場者が事前に自作を「ゲンロン歌会」に投稿しイベントに臨みます。

 歌会で選ばれるかどうかというのは、歌人にとって人生を左右するほどの一大事。それは千年前から変わらない、歌の「命」なのだと俵さんは言います。五七五七七という短歌の定型が持つリズムは表現力の源泉。同時に、歌の言葉はこの制約によって凝縮されて、本当に伝わるかどうかが綱渡りになってしまうことも。選に入るということは、作者の意図の通りとは限らなくても、そのようなリスクを超えて人の心を動かす作品であることの証になります。だからこそ、千年以上前に勅撰集が編まれ始めた時代から、歌人たちは選ばれることを目指してしのぎを削ってきました。今回の「ゲンロン歌会」は、参加者同士が意見を出し合う通常の歌会形式とは違って、出演者がライブで講評するかたちだったので、別種の緊張感もあったのかもしれません。

 現在は何度目かの「短歌ブーム」が来ていると言われています。スケザネさんからその実感を問われた笹さんは、それでも流行語大賞にまでなった『サラダ記念日』の頃にはほど遠い、と率直に語ります。SNSなどで個人的に自作を発表する人は増えているものの、短歌結社に参加する人は減っているのだそうです。同じ場所に集まって意見を交わす「密な」コミュニケーションである結社の歌会が、性質として合わないと感じる人も当然いるでしょう。

 それでも、やはり歌会に参加することが詠歌力を鍛える最良の道、と俵さん。日常会話も含め、自分が発した言葉に対する溌剌とした反応を、これほど得ることができる機会はめったになく、誤読されたり、思いのほか深読みしてもらえたりといったインタラクションが目の前で展開するのは大変刺激的だと言います。さまざまな意見が出たあとで、作者本人が自作を語ることも多いけれども、本当はそれすらなくても良いほど、歌は「相手がどう受け取るかが第一」だと、俵さんと笹さんは口を揃えます。笹さんは自分の師匠から「良く読むこと(良いほうに受け取ること)は礼儀でもあると教わった」のだそう。このように、長年作歌を続けてきたおふたりならではの実感が語られる場面で、会場参加者がみなしきりに頷いていたことから、詠歌経験のある人が多く来場されていたようです。

定型詩ならではの難しさと魅力

 前半は、進行役であるスケザネさんのプレゼンテーションをもとに、散文とは違う、短歌ならではの読み方、味わい方のポイントについて、具体的な名作を見ながら意見が交わされました。「一首につめこみすぎないこと」や「助詞の「も」の多用に注意」など、俵さんと笹さんが結社や歌会の場でよく伝えているという具体的なアドバイスも。文字や記号に頼ることを好まないという俵さんと、かなや漢字を歌の雰囲気に応じてよく考えるという笹さんの、個性の違いが浮き彫りになる場面もありました。

 とはいえやはり、歌の命は読み上げたときの音の響きやリズムにあるもの。この日「古事記」とプリントされたTシャツで登壇していた笹さんは、スサノオノミコトの「八雲立つ出雲八重垣いずもやえがき妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」の歌を挙げ、「リフレインこそ歌の醍醐味」と語ります。さらに例として、俵さんの「さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園」と『サラダ記念日』収録の名歌を挙げました。「古事記」編纂から現在まで1300年以上を経た現在でも、三十一みそひと文字もじの調べの力は変わらず存在し続けている。そのことが改めて示された一幕でした。

 「叙景と叙情」をぜひ覚えて欲しいというのは、笹さんの著書『シン・短歌入門』にも書かれているアドバイスです。信念をそのまま披瀝するような言葉を、五七五七七の枠にただ当てはめるだけでは歌にはなりません。笹さんは、叙景のないモノローグは、誰が詠んでも同じ意味になりがちであると指摘します。自分の肉眼が捉えた景色に託して、己の心の動きを表現することによって、はじめて短歌は短歌らしい姿を得られるのでしょう。それに重ねて俵さんは、俳句と異なり、自分の思いまで入れることができるスペースがあるのが短歌だと語ります。

 ここでスケザネさんが、その歌が短歌であるかどうかの分かれ目とは何かと質問。難しい問いに、やや緊張した場面が訪れます。「詩がある(しみじみとした余韻がある)のが短歌ではないか」という笹さんに対して、「上手い下手はあっても、三十一文字の調べのある歌を、歌ではないと言う権利は誰にもないと思っている」と俵さん。言葉が持つ文脈は時とともに変遷するし、我々一人一人が持っているボキャブラリーや知識も異なる。誰かにとって「詩がない」と感じる表現であっても、人や時代が変わることで詩情が感じられる場合もある。ちょうど休憩時間となったため、この話が深められることはありませんでしたが、俵さんはこのような意味を伝えようとしていたように思います。

新しい表現を全員で探る「歌会」という場

 後半のゲンロン歌会では、「読」の一字を入れるというお題に、60首以上の歌が集まりました。俵さんが七首、笹さん、スケザネさんがそれぞれ五首ずつ選出し(一部の歌は重複)、合計十五首が講評されました。「今回はみなさんの意見を聞く時間がないけれど、それぞれの歌の第一印象を心のなかに持って、私たちの読みと比べてもらうと良いかもしれません」と冒頭で俵さんが述べられたように、歌会では参加者ひとりひとりの印象や感想が等しく重要になりうるものです。前述のように、異なる文脈を持った人が集まって話し合うことで、よりよい表現を全員で探りながら新たな詩情を見出すのが歌会の場だからです。みなさんも、選ばれたそれぞれの歌から受けた印象や感想をぜひアーカイブ動画でコメントして、時差はあれども歌会に参加してみてください。

 「読」という題を、それぞれの作者がどのように取り入れているのかも注目ポイントです。素直に「読む」としている人が中心でしたが、「読書会」「読点」「解読」など、熟語の一部として工夫したものに佳品が多く見られました。一般の歌会とは違って、笹さんの「いきなり詠むのは難しいのではないか」という配慮により、今回は既発表作の投稿も許可されていましたが、笹さん曰く「おそらく全部新作ではないか」とのこと。参加者の熱意と気合いが感じられます。

 最後の質疑応答では、シラス配信者として「なかいしんごの平安サブカルチャーに恋して」チャンネルを運営している紙職人のなかいしんごさんが手を挙げました。短歌を始めて一年未満というなかいさんは、提出作を俵さん・笹さん両氏に選ばれたことを受けて、その喜びとともに「古筆のような、ビジュアルとしての文字にどのような感覚を持っているか」と尋ねました。「活字のレイアウトにはこだわらない」という前置きの上で俵さんは、書家の方に自分の短歌を書いてもらったときのエピソードを語ります。美しく加工された料紙の上に、書家の筆が文字を描き、さらに短歌の表現力が重ね合わされた結果、「クリエイティブの掛け算」が起こり、まったく別のアートが生み出されていたとのことでした。

 その後も視聴者や会場から質問が多数寄せられ、四月に新発見された藤原定家の古今和歌集注釈自筆本の話や、固有名詞と一般名詞の抽象性について「後者がかならずしも抽象度が高いとは限らない」(!)といった非常に興味深いお話が展開されました。ぜひ最後までご視聴ください。

 

 このレポートも歌に始まり歌に終わろう、ということで最後に一首ご紹介します。高校時代のスケザネさんが、みやしゅう記念館で行われた短歌大会に参加するべく、初めて詠んだという作品です。じつはこちらは残念ながら配信に乗らず、会場でのみ発表されたもの。初めての作品でも(むしろ初めてだからこそ、ということもあるかもしれませんが)、これほど心に鮮やかな印象を残すものが生まれることがある。そんな、誰にでも開かれた表現方法としての短歌の手触りが、少しでも伝われば幸いです。(小島奈菜子)

 消えかかる街灯の中君の顔暗くなるたび違った笑顔

 俵万智×笹公人×渡辺祐真(スケザネ) 短歌はいいね、いつの世も──ゲンロン歌会はじめ
 URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20240719

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