「わかったふり」を越えて──大塚淳×竹内薫×宮本道人「科学はどこまで「わかる」のか」イベントレポート
哲学とコミュニケーションから「科学」に向き合ってきた三氏は、AIと科学の関係をどう考えるのか。AIにとって、人間にとって「わかる」とはなにか。4時間弱かけて行われた対話の一部をお届けする。
大塚淳×竹内薫×宮本道人「科学はどこまで「わかる」のか──AI時代の科学文化と物語」
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20240301
イベントは竹内によるプレゼンから始まった。竹内は、「小学生や中学生のころから授業で先生が説明する内容がわからなかった」と告白する。黒板に書かれたことの意味を、あらためて自分で考え直さないと理解できなかったというのだ。長年、科学作家として活躍し、科学をわかりやすく説明してきた竹内ですらそのような経験があった。「わからない」という体験が「わかる」からこそ、それをクリアすることの価値と道筋を仕事として訴えてきたとも言えるかもしれない。
竹内によれば、「わかる」ことには二つのポイントがある。ひとつが「見るとわかる」である。人間は視覚で理解することが多い生き物だ。たとえば動物の標本にせよ星や地層にせよ、人は現物を見ることでそれがどのようなものかわかったという感覚を得ることができる。
しかし、科学の世界には「見る」だけではわからないものもある。たとえばブラックホールがそれだ。そもそも、ブラックホールは光をふくむすべてのものを吸収するため、目には見えない。その可視化に成功した装置として「イベント・ホライズン望遠鏡(ETH)」があるが、そこに映っているのは、ブラックホールに物質が吸収される際の温度上昇によって生じるかすかな光にすぎない。つまりこの場合、そこに見えているものを理解するためには、現象や装置についての説明が必要となるのだ。
「わかる」ためのもうひとつのポイントであるこの要素を、竹内は「物語」と呼ぶ。竹内いわく、専門的な科学論文もひとつの物語である。そこでは数式や専門用語が使用されるが、あるルールにしたがった言語でなにかを説明するという意味ではふつうの物語と変わらないからだ。そして、専門家同士ではむしろ数式などの「科学の言語」で物語を伝えあうほうが正確かつ話も早い。逆に言えば、その物語を一般人に伝えるためには科学の言語を日常言語に置き換える必要があり、それこそが科学コミュニケーターの仕事であるのだ。
科学文化とSFが描く世界
続いてプレゼンを行なった宮本は、なんと竹内に憧れて科学コミュニケーターの道に進んだそうだ。
というのも、宮本が高校生のとき、学校で「ロールモデルとなる人にインタビューをする」という課題が出た。その際に連絡を取ったのが、当時夢中になって読んでいた数々の本の著者である竹内だったのだ。竹内は見知らぬ高校生からの依頼に対して、インタビュー内容をWebサイトに公開することを条件に取材を引き受けたという。宮本にとっては、それが「科学作家」としてインタビューを構成する初めての経験となった。成果として公開した記事も好評だったとのこと。宮本にとって竹内は若き日の「指導者」であり、「経験を積ませてくれた」人物だった。その後、テレビの解説などでも活躍する竹内の姿を追いかけながら宮本はキャリアを積み、こうしておなじ場に登壇するに至ったのだ。今回のイベントでは、高校時代のインタビュー以来18年ぶりの再会を果たしたという。
まさにドラマチックで物語的なエピソードだが、この話を紹介した意図はその感動を伝えることだけではないと宮本は言う。宮本自身が竹内との出会いによって科学コミュニケーターとして活動するようになったように、人と人のあいだの関係性や影響など、この世界は「数値化」できない要素が絡み合ってできている。科学は「数式」でわかっても、科学文化は「数値」だけでは計れないのだ。
宮本はそこから、科学と文化を考えるための重要な例として、AIとSFの関係をあげる。じつは、現代のAIや関連する技術を語る上ではSF由来のことばが欠かせない。わかりやすいところでも、アンドロイド、ロボット、アバターなどがそれにあたる[★1]。つまり、SFで想像されたことが技術開発の歴史を部分的につくってきたという面もあるのだ。このようなSF的想像力はいまさまざまな企業にも注目されており、インテルの事例をもとにひろまった「SFプロトタイピング」(事業展開を模索するためにSF作品を創作して未来の社会をイメージする手法)も多くの場で活用されている。また、AI研究者のほうからも、その社会的影響の考察や未来予測の一環としてSF作品を創作する試みが出てきている[★2]。
宮本はこうした流れと関連する書籍の制作にも携わっているが、そのモチベーションづくりとして「本のコスプレ」をしていた様をスライドで曝け出すなど、イベントのところどころでそのユーモアと熱量を溢れ出させる姿も印象的だった。ぜひアーカイブ動画でその熱を体感していただきたい。
AI時代の真理とクリエイティビティ
最後に大塚が「人間による理解の範囲を超えるほどに発展するAIは、われわれの科学観にどのような影響を与えるのか」という問題を提起した。
大塚は、これを考えるためには、人間と真理の関係がどのような歴史を歩んできたのかを振り返る必要があると考える。中世の人間にとって、真理は神に帰属するものであり、人間はその啓示を受け取り解釈する存在に過ぎなかった。しかし、近世から近代にかけて、人間は理性を行使することで世界の真理を直接把握できると考えられるようになった。この発想こそが科学を生み、その発展を支えてきた。
そのうえで、大塚によれば、今後AIが科学に活用されるという未来は避けられない。なぜなら、近代的科学の根本には「だれがいつ同じ実験をしても同じ結果になる」という再現性=客観性へのこだわりがあるからだ。そこには、人間の主観を排するための機械化や自動化をよしとする発想が必然的に含まれており、それを推し進めていけば、仮説の検証や正当化をすべてAIに任せる「AI稼働型科学」こそがより正しい科学だということになる。
しかし、このAI稼働型科学への移行は、人間には理解できない真理をAIが司り、人間はその啓示を受け取るに過ぎないという世界観につながる。つまり、かつて神から人間の手に渡った真理の審級を、こんどは機械仕掛けの神へと差し出すということかもしれないのだ。またAI技術のブラックボックス化は、AIの言うことを解釈することができるごく一部の研究者やエンジニアたちの「神職化」を進めることにもつながる。遠くない未来、人間社会は中世的真理観へと退行してしまうのかもしれない──。大塚による問題提起は、科学的真理そのものだけではなく、それを支えてきた人間文化を問いかけるものでもあるのだ。
科学文化を担う科学コミュニケーターは、この未来予測をどう考えるのか。詳しくはアーカイブ動画で確認していただきたいが、ここではイベント後半のやりとりのなかからひとつの話題を取り上げよう。大塚が、自身は決してAI脅威論を唱えたいわけではないとした上で、AIによる生成物はどうしても「陳腐」になってしまうのか、それともそこには「クリエイティビティ」があるのかと問いかけたシーンだ。
真っ先に答えた竹内によると、現在の生成AIが行なっているのは、それが大規模言語モデルにせよ画像の生成技術であるdiffusionモデルにせよ、超高速な連想ゲームの延長にすぎない[★3]。あくまでも既存の雑多なデータをもとに反射的に連想を繰り返す現段階のAIには「意識」はなく、そのためそこには「クリエイティビティ」もない、というのが竹内の主張だ。
これに対して、大塚はさらに次の問いを投げかける。AIにクリエイティビティがないとすると、逆にわれわれ人間が「クリエイティビティ」と呼ぶものはなんなのか。この問いの前提には、どんな創作物であろうとなにかほかのものからの影響によって成り立っており、まったく「ゼロ」から作り出されたものはないはずだという認識がある[★4]。
大塚の問いに竹内は、事実とはべつに「ゼロからなにかを生み出してオリジナリティを出せた」「それまで学んだものとはちがう次元のものがつくれた」という「感覚」を持つことがクリエイティビティとされているのではないか、と答えた。ここで竹内があげた意外な例が、スポーツ選手の学習である。スポーツ選手が技能を習得する過程において、ある一定のレベルを超えると、次第にその選手独特の癖が重要な要素として認識されるようになる。つまり、個々の身体の特徴や身についた習慣から生み出される動きが、「その選手にしか生み出せないもの」としてクリエイティビティやオリジナリティと結びつけられるのだ。芸術や学問についても、一般に人間にとってのクリエイティビティとはこれに近いものなのではないか、というのが竹内の考えである。
ならば、個々人によって異なる身体的な偏りやそれに応じた物語を「楽しむ」ことこそ人間ならではの特徴であるはずだ。科学者の多くは、「わからない」ことが「わかる」ようになる瞬間や、あるいは「わからない」という状態こそを楽しんでいるはずだ、と三氏は口をそろえていう。つまり、それまで未知だったことが既知になるのが喜びなのはもちろんのこと、未知の事柄を未知だとしっかり認識するのも重要なことであり、そのプロセス全体が科学者にとっての楽しみであるというのだ。
大塚いわく、そのような科学者の態度とは対照的に、ChatGPTなど生成AIが生み出すハルシネーション(事実に基づかない情報を生成すること)は、「わからない」ということが「わからない」から起きる。AIのような「わかったふり」を越えるには、三氏の真摯な対話から垣間見えるように、「わからない」ことを「わかる」ことこそが大事なのだろう。(青山俊之)
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20240301
★1 「アンドロイド」はヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』(1886年)、「ロボット」はカレル・チャベットによる戯曲『R.UR.』(1920年)、「アバター」はニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』(1992年)が由来となった用語である。
★2 これに関連して、宮本はこの4月に刊行された以下の書籍にも携わっている。大澤博隆監修、宮本道人ほか編集『AIを生んだ100のSF』、2024年、早川書房。
★3 文章生成AIの技術モデルとなっているtransformerや、画像生成AIのdiffusionモデルについては下記のイベントレポート記事にて詳細をまとめている。
「AIが「考えない」ことを考える──「生成系AIが変える世界──「作家」は(/今度こそ)どこにいくのか」イベントレポート」。URL= https://webgenron.com/articles/article20230712_01
★4 宮本がここで重ねて指摘したのが、企業でSFプロトタイピングを行なった際、人が思いつく想像の組み合わせの多くが「被る」ことである。たとえば「未来の食卓」を想像するというお題では、「バーチャル母の味」という回答が頻出するのだという。宮本に言わせれば、この発想は参加者同士が共感して話題が盛り上がるパターンではあるものの、他の人が思いつかない想像力であるような本当の「クリエイティブ」だとは思えないという。