AIと人間、そして言語と身体のゆくえ──今井むつみ×暦本純一「AI時代の言語と思考」イベントレポート
今井むつみ × 暦本純一「AI時代の言語と思考──知性はどこからはじまるのか」
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20240120
イベントは、暦本の「今井はChatGPTをどう考えるのか」という問いかけから始まった。今井らの『言語の本質』は、人間の言語習得のヒミツを「オノマトペ」と「アブダクション」という切り口から分析した著書である。かんたんに言ってしまえば、オノマトペとは「げらげら」「にこにこ」「わくわく」といった擬音語・擬態語・擬情語のことであり、アブダクションとは観察したデータから仮説を形成するという推論の形式のことだ。それらは本書で、あくまで人間に固有の能力として捉えられている。
そんな今井も、ChatGPTの登場当時はその自然言語処理能力の高さに衝撃を受けたという。とはいえ、今井・暦本両者が同意するように、現在のChatGPTは、膨大なデータをもとにして次になにを話せばよいかを予測する「物量作戦」ないし「力技」によって駆動しているにすぎない。GPTのように膨大なデータを処理できない人間が言語を扱えるようになるのは、言語が身体感覚とつながりをもって学習されること、すなわち「記号接地」があってこそというのが今井の考えだ。
オノマトペ・アブダクション・クリエイティビティ
今井は冒頭の暦本の問いを受けて、ある興味深いエピソードを提示した。今井が研究調査のために保育園に赴いた際、保育士の言葉遣いの巧みさに驚愕したという話である。たとえば、子どもたちになにかを片付けてほしい場合、「お片付けてして」という動詞を用いて呼びかけると、あまりうまくいかない。なぜなら、動詞は文脈のなかで用いられると、さまざまに意味内容を変えるからだ。ゴミを捨てる動作もおもちゃを端に寄せる動作も、同じように「片付ける」という一言でまとめられてしまう。子どもたちにとって、動詞は抽象的すぎるのだ。
そこで保育士さんは「これをポイしてね」というように、オノマトペを用いて子どもたちに呼びかける。そうするとうまくいく。子どもたちにうがいをしてほしいときは、同じくオノマトペを用いて、「ブクブクペー」じゃなくて「ガラガラペー」だからね、と説明する。そうすれば、子どもたちは単に口をゆすぐだけでなく、喉の奥で音を立てて「うがい」をすることができる。動詞と違って、オノマトペには人間の身体感覚に訴えかけるなにかがあるのだ。こうしたオノマトペのもつ身体性こそが、言語を身体に「接地」させる際の鍵になるのである。
今井はさらに、赤ちゃんがショベルカーを「バヨバヨ」というオノマトペで表現した例を提示する。「バヨバヨ」というオノマトペはまったくもって予想外のものだが、よく考えてみると「バ」という音の激しさと「ヨ」という音のしなやかさで的確かつ創造的にショベルカーの様子を表している。ここで今井は、このような巧みなオノマトペをChatGPTも創れるのだろうか、と問う。今井の試した範囲では、ChatGPTはたしかにオノマトペを提示するものの、すでにあるものを組み合わせるだけで、そこにはあまりクリエイティビティがないそうだ。今井は、「バヨバヨ」と言った赤ちゃんのように、「思いもよらない要素をポンと繋げてしまう能力」にこそアブダクションの力があり、それこそが人間の創造性の本質なのではないかと語る。
これらのエピソードに対して暦本は、「たしかに現在ChatGPTが行っていることは言語列の処理が中心だが、将来的にはその枠を超えられる可能性がある。そうすれば、人間の持つ「身体感覚」をGPTにも持たせることができるかもしれない」と語る。たとえば、GPTに骨格をインプットするなどの方法が考えられるというのだ。クリエイティビティについても、もし仮にそれを「既存の知の組み合わせ」から生まれるものだと考えるならば、GPTが獲得することも不可能ではないと暦本は言う。
しかし、それに対してすかさず今井は「ゴッホやゴーギャンが独創的だったのは、既存の体制や価値観に否を突きつけたからであって、いったいGPTにそのようなことができるのか」と問いかける。暦本は、「GPTが自身のアウトプットの良し悪しを判断するシステムの頂点にはいまだに人間がいるが、むしろその介入がなくなれば、独創性の獲得につながるかもしれない」と応じる。生成AIの可能性に信頼を置く暦本と、あくまでそれに慎重な今井のスタンスの違いが明らかになったのである。
AIと人間は本質的に違うのか
後半では、今井のスライドをもとに白熱した議論が繰り広げられた。今井はスライドで、三歳児に対して行った「ねけっている」や「フェップ」の実験をもとに、人間とAIの違いを改めて強調する(この説明だけではなんのことかわからないはずだが、実験の内容については図や動画とともにイベントのアーカイヴ動画で詳しく確認することができる。どちらも大変興味深い実験であり、ある意味で視聴者も参加することができるものだ)。
今井によれば、AIは最初から膨大な量の情報を与えられないと学習できない。だが人間は、たとえば赤ちゃんがそうであるように、知識がゼロかとても少ない状況から新たな知識を自律的に作り上げていくことができる。言い換えれば、人間にはデータの有限性という「制約」があるからこそ、その限られたリソースから新たな知識へと飛躍するためのアブダクションという推論のモードが必要になるのだ。
暦本はこのプレゼンを受けて、「たしかにいまのGPTにアブダクションはできない」と認めつつも、「生成AIが少ない経験や知識量からどのようにすれば本質を抽象できるかの研究は、いま世界中の研究者が取り組んでいるところであり、それがうまくいけばブレイクスルーになる」と、あくまで生成AIの可能性を強調する。さきほどの二人のスタンスの違いが変奏されるかたちで、「人間とAIのあいだには、その推論方法において本質的な違いがある」とするのか、「その違いは生成AIのさらなる研究・発展によって埋められ得る」と考えるのかがここでもはっきりと分かれた。
さらに両者の対立は、意外なことに「今後あるべき教育のカタチ」の議論にも飛び火する。研究で小学校などにも赴くことのある今井は、現在導入が進められている「学習ツールとしてのAI」はほとんど効果をなしていないと語る。それに対して暦本は、ChatGPTのような生成AIは家庭教師の代わりとして使うべきだと主張する。暦本によれば、本来教育はすべての子供に対してマンツーマンで行うのがもっとも効果的だが、現状ではコストの問題でそれは不可能だ。その点、教えるのがAIであれば人的コストはかからないというのだ。しかし今井はこれを受けて、「現場での経験に基づいて考えれば、「個別で教えれば全員わかる」というのは幻想にすぎないと気づくはずだ」と暦本を鋭く批判する。暦本はこれに対して、「個別で教えれば全員わかる、ということではもちろんない。しかし個別教育よりも全体教育のほうが常に勝っているとも言えないのではないか」と反応する。議論の結末はぜひアーカイヴで確かめてほしいが、ここでもAIに期待を託す暦本とAIの活用に慎重な今井の対立が繰り返しあらわれる形となった。
このように、二人はイベントを通じてそれぞれの研究の知見から両者譲らぬ白熱した議論を繰り広げた。しかし終盤には、意外にも二人とも大の本阿弥光悦好きという点で一致し、美術の話題に花が咲く場面もあった。AIの可能性を強調していた暦本も、「美術教養や鑑賞の技術を身につけるのは、実際に展覧会に赴いて身体感覚を介さないと難しい」と語り、人類の文化的蓄積に身体を介して触れることの重要性を強調した。
本イベントも、書き言葉だけでは汲み尽くせない魅力的な身体性をところどころに有している。両者の実験例や体験談、フィールドワーク経験など、具体的なエピソードが豊富なのも本イベントの大きな魅力である。アーカイヴ動画を視聴することで、今井や暦本の効果的なジェスチャーや語り口、抑揚を含めた白熱の議論をぜひ身体に「接地」させてほしい。(田村海斗)
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