ようこそタイBLの世界へ──辛酸なめ子×福冨渉「いま、タイBLがアツい!」イベントレポート
辛酸なめ子×福冨渉「いま、タイBLがアツい!──『The Miracle of Teddy Bear』から読み解くタイ事情」
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20230824
タイBLとはタイで作られたボーイズラブ作品のことであり、ドラマの形態をとることが多い。日本では、コロナ禍中にYouTubeで無料公開されたドラマ『2gether』にファンが自主的に字幕をつけ、SNSで紹介されたことで一気に広まった。
辛酸もまたその流れでファンになった一人だ。グッズも集めているという。タイBLドラマでは、ハガキやクリアファイルなどのグッズになると登場人物がなぜか皆厚着になるらしい(?)。そんな、あまりにもニッチな「タイBLあるある」を楽しげに披露する辛酸は、「タイBL沼」の深さを体現していた。タイBLにハマった辛酸がタイ料理店で取ったというとある行動に、思わずクスッと笑ってしまう場面もあった(ぜひアーカイブを確認してほしい!)。オタクの行動力はすごいのだ。
辛酸と福冨によれば、タイBLでは大学を舞台にした作品が多い。事件が起きる場も部活のイベントや合宿などで、描かれるのは日本でいう「日常系」のような身近な出来事ばかりだという。大きな破綻は起きず、日常の中での人間関係を丁寧に描くタイBLが、コロナ禍にひとの心を癒すコンテンツとなったのもうなずける。
創作と現実の関係──『The Miracle of Teddy Bear』翻訳秘話
そんなタイBLだが、今年8月に日本語訳が公刊された『The Miracle of Teddy Bear』はすこし趣が違う。福冨の紹介によれば、著者のプラープはあるサスペンス小説でヒットを飛ばした若き俊才であり、日本でいえば直木賞を受賞しつつ同時に芥川賞にもノミネートされるような作家である。その経歴からもわかるように、本書はエンタメBLでありながら、タイの社会や政治状況も取り入れた小説となっている。
主人公のナットくんが大事にしていたテディベアのタオフーが、ある日突然人間になってしまい……というあらすじからして非日常的だが、これはタイBLの王道からはすこし外れているという。目次を見るとタイの歴史に関係すると思われる文言が並んでおり、日本の読者にはなんのことか一目で理解できないのではないか。内容も家族の葛藤や、権力がみずからにとって都合のいい歴史や情報だけしか伝えない問題など、重厚なテーマを扱っている[★1]。作品に散りばめられたこれらの「目くばせ」は、タイのいまをよく知る福冨の解説を聞くとより理解が深まるので、ぜひ書籍と合わせてアーカイブを視聴してほしい。
イベントではさらに、福冨が同書の翻訳秘話を明かす場面もあった。上記の社会的な記述をめぐって、編集者との意見の相違があったというのである。編集者からは、BLが男性キャラ2人の恋愛を楽しむものである以上、日本語訳では社会の厳しい現実や政治的イシューに関する箇所を省くべきではないかという提案があったという。しかし福冨は、それらの要素は物語全体に深く関わると考え、あえて記述を残したと語った。タイでは、同作のドラマ版(U-NEXTにて配信中)に「最優秀家族促進ドラマ賞」が与えられている。これはすなわち本作が、タイのいまの家族および社会のあり方に対して、なんらかのポジティヴな提言を行なっているということであるだろう。現実の厳しさや政治の問題は、タイ社会に暮らす人々のベースとなっている条件である。そこを踏まえなければ、物語の良さは半減してしまう。辛酸もまた、タイに詳しくなれる描写があるのはうれしいと答えた。
この問題について、蛇足だがすこしだけ筆者の考えを補足しておきたい。筆者は日本の商業BLの一読者として、現実の社会状況とBL作品の関係に関心を持ってきた。日本のBLにも、登場人物全員が同性カップル関係にあり性的にマジョリティである人物が1人も登場しなかったり、周囲となんの軋轢もない環境にあったり、というような(現在の社会状況では残念ながらあまり想像できないような)ファンタジー的な設定の作品はたしかに多い。他方で現状の政治・社会的背景を盛り込んだ傑作も少なからずある[★2]。
現実社会を反映していないファンタジー的なものと反映しているリアリスティックなもの、どちらか一方、特に前者だけを好む読者ももちろんいるが、筆者はどちらにも良さがあると思っている。ましてや現在のLGBTQをめぐる政治状況を考えると、後者のような作品がまったく存在しないと、BLというジャンル全体が端的な「嘘」であると感じられてしまうだろう[★3]。『The Miracle of Teddy Bear』はBLの快楽を全面に押し出しながらも、社会の変化に合わせてアップデートされた作品なのである[★4]。
とはいえ本書の基調はエンタメであり、「ツンデレ」キャラのナットくんと(元テディベアだからか)若干天然気味なタオフーのやりとりも楽しい。だからこそ、厳しい現実社会と対峙するタオフーたちの姿に胸をつかれる。
イベントでも、一見相反するその作風をなぞるかのように、タイの性的マイノリティや王室の現状から、タイ人の眉毛やおすすめのタイ語、福冨のタイ留学時のエピソードまで、タイBLとタイを存分に楽しめるトークが展開された。ぜひアーカイブで奥深い「タイ沼」をのぞいてみてほしい。(栁田詩織)
★1 福冨によれば、タイの義務教育課程では、教育省が作成した歴史教科書が使用されることが一般的で、現在の歴史研究の水準からすると支持されえないが、権力に都合のよい記述が含まれているという。この歴史の叙述が『The Miracle of Teddy Bear』の目次に大きな影響を与えている。 また「webゲンロン」ならびに『ゲンロンβ』で連載最終回を迎えた、福冨氏が翻訳するタイSF小説『ベースメント・ムーン』(プラープダー・ユン著)も、テーマのひとつにタイ政治をすえた作品だ(「webゲンロン」では最終回を近日公開予定)。こちらもぜひあわせてお読みいただきたい。
★2 たとえば、自身がゲイであることによる葛藤や周囲へのカミングアウトなどを丁寧に描く中村明日美子の『同級生』シリーズや永井三郎の『スメルズ ライク グリーン スピリット』が挙げられる。一般青年誌に掲載されてはいるが、ゲイカップルが現実社会で労働し、親の介護などにも直面する『きのう何食べた?』も当てはまるだろう。
★3 現実の社会状況とBL作品をめぐる問題は現在のSNSだけでなく過去にも「やおい論争」などで提起されてきたものであり、筆者はその知見を念頭に置いている。詳細は以下を参照。溝口彰子『BL進化論』、太田出版、2015年、第3章。
★4 この意味で、『The Miracle of Teddy Bear』は前掲書で溝口が提案した「進化系BL」=「ホモフォビアや異性愛規範やミソジニーを克服する手がかりを与えてくれる」BL作品(前掲書、13頁)に当てはまるのではないかと筆者は考える。
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