私たちにとって仏教論争とはなにか?──師茂樹×おかざき真里×亀山隆彦「仏教と論争、あるいは歴史を描くこと」イベントレポート
ひとつは、9月に完結を迎えたおかざき真里の『阿・吽』。マンガ家のおかざきは等身大の最澄を、同時代に生きた空海や南都仏教の人々とともに圧倒的な想像力で描いた。
次月の10月には、花園大学教授で仏教学者である師茂樹の『最澄と徳一──仏教史上最大の対決』が刊行された。タイトル通り、仏教史上最大の論争とされる最澄と徳一の論争を読み解いた著作である。
ゲンロンカフェでは、去る11月20日にこれらの刊行を記念したイベントを開催した。登壇者はおかざきと師に加え、私塾「上七軒文庫」を師とともに運営する仏教学者の亀山隆彦。マンガ家と仏教学者がともに1000年前の仏教者に挑む、濃密な6時間の一部をご紹介したい。(ゲンロン編集部)
1000年前の仏教者を描くには──イメージソング・文字・阿頼耶識
イベント前半は、おかざきによる『阿・吽』の創作秘話を中心に話が展開した。
1200年前の人物である最澄と空海を、どのようにマンガのキャラクターに落とし込んでいったのか。おかざきによれば、ヒントとなったのは二人の残した「書」──最澄の綺麗で冷静な書に対して、空海の独特な激しい書体──、そして描き続けるなかでひらめいた「イメージソング」だったという。
イメージソングの話には虚をつかれた。というのも、そこでおかざきが挙げた楽曲は、天台宗や真言宗の「御開祖様」というイメージからはかけ離れた、現代の洋楽だったからである。
まずは最澄のイメージソングは、Stingの「Englishman In New York」だったという。おかざきは、同曲のPVの途中に登場する老人の寂しげな姿に、最澄の異邦人性と孤独さを見いだしたのだという。実際最澄は晩年、後述する徳一との論争に、一人孤独に没頭していってしまう。
おかざきはこれらのイメージをもとに、最澄と空海のキャラクターをつくり上げていったという。作家が言葉を重ねていくように、マンガ家は手を動かし、描き続けることでキャラクターを掴んでいく。
この話を受けて、師は、そこで「キャラクター」ができあがっていくプロセスは「文字」にも共通するのではないかと返した。英語の character は文字という意味も持つ。私たちは、あたかもはじめから辞書的な意味があり、それをもとに言葉を使っているように考えがちだ。しかし文字もまた、繰り返し使われることではじめて意味が生まれ、使われるほどに新しい意味に更新されていくものなはずである。
この主題は『阿・吽』の、経典を読む際に文字が浮かびあがり最澄の周りを取り囲むシーンとも呼応する。おかざきは幼少の頃から、言葉によってイメージが喚起され音楽が浮かぶという仕方で、文字の力を感じてきたという。亀山は文字に着目するこの仏教理解は、現在の最先端の空海研究ともつながる視点だと評価した。
師によれば、キャラクター/文字の積み重ねという営みは、『阿・吽』でもしばしば重要なシーンで登場する仏教の概念、「阿頼耶識」にも通ずる。
阿頼耶識とは、世界の成り立ちを説明するために主に唯識学派が注目した心のあり方だ。仏教の世界観は諸行無常である。だから、世界だけでなく、「私」もまたつねに変わってゆく。固定した「私」というものは本来存在せず、瞬間瞬間に起きる心の外からのさまざまな刺激が存在するだけなのだ。しかしその積み重ねを振り返って後から見ると、一連の連続した「私」の経験として感じられる。この事後的に見られるというメカニズムを説明しようとしたのが阿頼耶識だという。
師と亀山は、そんな阿頼耶識を、『阿・吽』における最澄の描写だけでなく、おかざき自身の執筆のプロセスにおいても見いだす。一回一回の作画の積み重ねから一貫したキャラクターを生み出す過程は、まさに阿頼耶識の構造をトレースしているというのだ。仏教を題材としたおかざきのマンガの実践を、さらに仏教学者の2人が解釈するというつながりが生まれ、興味深い議論となった。
「わからない」仏教に近づく
仏教が私たちにとって身近な宗教であることは間違いないだろう。だが阿頼耶識のような概念は、案外馴染みがない。果たして私たちは、仏教についてどれくらい知っているだろうか?
おかざきは仏教が「わからない」と繰り返した。『阿・吽』執筆時にも、わからないままに仏教の周りを埋めて描いていくことを自らに課していたという。むしろ、現代の世界は科学の中にあるという意識から、科学からの仏教理解を試みたことも明かした。
これを受けて亀山は、最澄や空海の時代の仏教は、まさしく現代の科学のような立ち位置にあったと語った。現代であれば科学が、社会や政治に対して理論を立てて技術を提供する。かつてはその位置に仏教があった。仏教を信じるか否かという個々人の信仰以前に、社会や政治の諸問題に取り組む手段が仏教しかなかったのである。
とはいえ現代の仏教も、他の学問と無関係なわけではない。逆に、現在の学問から仏教理解が進むことがある。例として亀山は、文化人類学者ヴィヴェイロス・デ・カストロが提唱した多自然主義とパースペクティヴィズムという概念を挙げた。
多自然主義とパースペクティヴィズムは、人間以外の生き物にも、その独自の世界の見方があることを認める立場である。この概念は仏教における「餓鬼道」を理解する手立てとして利用できる。餓鬼道は衆生が輪廻転生してゆく六つの世界(六道)の一つであり、私たちが生きる人間道と重なり合っている。にもかかわらず、餓鬼たちと私たちはお互いを認識していない。このような認識は、多自然主義を援用すれば、両者がまったく異なるパースペクティヴに属しているからだと理解できる。
もちろん、こうした新しい解釈だけで仏教の全体が理解できるわけではない。1200年前、最澄や空海ら仏僧は、驚異的な記憶力で経典を暗記し、すべてを仏教にささげた。それができない私たちには、仏教はそもそも「わからない」ものである。だからこそ、それに少しでも近づくために、あらゆるアプローチを使う。おかざきの「わからなさ」に、仏教学者の二人はそう応答した。
史上最大の仏教論争を理解する──最澄と徳一
イベント後半は、師の新刊の主題である最澄と徳一の、いわゆる「三一権実論争」が取り上げられた。
じつはおかざきは『阿・吽』において、徳一を描くことが難しかったという。徳一と論争する最澄が、それまでの孤独だが誠実なキャラクターからぶれてしまうためだ。実際に残された文書の中で、最澄は徳一を、「麁食者」(粗末なものを食べる者、転じていい加減な知識で知ったようなふりをする者)と、人が変わったように激しい言葉を使い非難している。おかざきはその豹変に説得力を持たせるため、東北で最澄が徳一と邂逅していたという史実にはない設定を取り入れた。そこでのすれ違いをきっかけに最澄が激昂していく、という展開を選んだのだ。
師は両者の論争を物語に落とし込むことの難しさに同意する。一般的にこの論争は、「三乗説対一乗説」──衆生が歩む修行の道が複数あるのか、それともブッダになるための一つの道しかないのか──という構図で、強烈な個性を持つ二人の仏僧が争ったものとして解釈されている。しかし、師によれば、これは単純な見方であるという。この論争は、それまでの仏教の膨大な蓄積の中に位置付けられるべきものであるため、理解には予備知識もまた多く要求される。最澄一人の内面だけに落とし込めない性質のものなのだ。
そこで師は、『最澄と徳一』において、当時の社会状況から論争を描きなおした。当時、三論宗と法相宗の間で大きな対立があったため、それを解消することが多くの仏僧に共通する課題だった。最澄もまた、この対立に対する第三の勢力として位置付けられる。最澄は天台以外の多様な宗派の経典も総動員して徳一を説諭するが、その理由はこうした仏教界を巻き込む文脈からはじめて理解できるのだという。
1200年前の仏教論争から私たちは何を学べるか?
それでは、以上のような文脈があったにもかかわらず、なぜこの論争は個人間の対立として理解されてきたのだろうか? それは他ならぬ最澄自身が、このやりとりのなかで、「三乗説対一乗説」という単純なストーリーに落とし込んでしまったからだ。それが近代の学者にまで影響を及ぼしてきたと師は指摘する。
しかし、これもまた単純に最澄による宣伝というわけではない。師の理解では、最澄は「歴史学的過去」、つまり客観的事実ではなく、個人や集団の問題を解決する「実用的過去」の記述をめざしていた。つまり、最澄が目指す仏法の実現のための、最澄なりの「正しい」見方を提示したと考えることができる[★1]。師は、「実用的過去」が行き過ぎると自分に都合の良い過去を作り出す恐れがある一方で、「歴史学的過去」もまた当事者を傷つける可能性があると指摘する。このことを踏まえた上で、私たちがこの論争をどう受け止めるかが重要なのだ。
では、この1200年前の仏教論争から、現代に生きる私たちは何を学べるだろうか。筆者が受け取ったのは、異なる主張がぶつかる場合に、その対立が当事者の内面だけではなく、社会状況や両者のコミュニケーションの中で立ち上がるものと見る視点である。理解を諦めることなく、異なる信念を持つ相手といかに対話するか。これは現代、さまざまな政治的対立やSNSでの「論争」にさらされている私たちにも通ずる問題だ。
対立を過度に単純化せず、文脈と合わせて論争全体を理解すること。亀山は師による『最澄と徳一』だけではなく、おかざきの『阿・吽』もまたその実践として読めるものだと評価した。孤高の天才というイメージに収まらない、人や社会と関わる最澄や空海の描写はたしかに珍しい。師と亀山の二人は『阿・吽』への賛辞を送った。
イベントは6時間弱にも及び、以上のレポートはその一部をまとめたものにすぎない。他にも『阿・吽』における女性キャラクターの描写や少女マンガとの接点、日本にまだまだ眠っている膨大な古写本、最澄や空海の時代の仏僧の驚異的なまでの記憶力、衆生が救済される56億7000万年後(!)という数字の現実味……などなど、話題は多岐に及び、仏教思想にまったく馴染みのない筆者も様々な哲学・歴史的、あるいは現代的な問題を想起しながら興奮して聴くことができた。マンガ家と仏教学者の稀有な異種格闘戦をぜひ目撃してほしい。(栁田詩織)
シラスでは、2022年5月20日までアーカイブを公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。
師茂樹×おかざき真里×亀山隆彦「仏教と論争、あるいは歴史を描くこと──『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』刊行&『阿・吽』完結記念」(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20211120/)
★1 この「歴史学的過去」「実用的過去」という考え方については、『最澄と徳一』197頁にくわしい。また師はイベント中、参考文献としてヘイドン・ホワイト『実用的な過去』(岩波書店、2017年)を挙げている。関心のある方はこちらも手にとってみてほしい。