ゲンロンα 2020年7月20日配信
第1回
『古事記』、第2回
『平家物語』、第3回
『おくのほそ道』『鶉衣』と、4ヶ月にわたって、能楽師の安田登、文筆家の山本貴光を案内人として、従来の古典の見方を覆す画期的な視点を提案してきた今シリーズ。最終回となる第4回の題材は『論語』。ご存じの通り『論語』は、中国の春秋時代の思想家で、儒教の始祖である孔子と、その弟子たちとの対話を記録した書物だ。動乱の時代を迎えた現代を生きるために、戦乱の世の中を生き抜いた人々の知見を読みかえす。 安田の読みにより『論語』の印象が大きく変わる講義は2部にわたった。連続講義の締めくくりにふさわしい、贅沢な4時間であった。(ゲンロン編集部)
漢字で読み解く『論語』の真実
安田は、20世紀中国の詩人、聞一多の作品から、『論語』をいま使われている漢字ではなく、当時の文字である青銅器の表面に鋳込まれた文字、すなわち金文で書いてみようという着想を得た。その試みから、『論語』「為政篇」に登場する有名な一文、「子曰。吾十有五而志于學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而從心所欲。不踰矩」の「不惑」の「惑」の字は孔子の時代に存在しなかった可能性が高く、本来は「或」の字を使用していたのではないか、という仮説にたどり着いたという。
「或」は鉾で陣地を描き、土地を区切る意味を表す。人は四十になると、自分の能力や欲求を制限しはじめてしまう。その枠を取りはらえということが、孔子の本来の教えではないだろうか。安田はそう解説する。 続けて、『論語』「学而篇」を引用し、「志学」について解説する安田。旧字体の「學」は、対象を真似、身体を通して学ぶことを意味する。安田は謡や能の稽古の方法を紹介しながら、古代中国で教養の基礎をなした「六芸」は、そうした身体を介した学びであるという。 六芸、すなわち「礼、楽、射、御、書、数」は、他者とのコミュニケーションの教養である。たとえば「礼」は祖先の霊との詩を媒介とするコミュニケーションを意味するという。「御」は、馬車を操る術であり、モノとのコミュニケーションを起こして、身体拡張をすることと読み解ける。 安田によれば、この六芸のなかでもっとも重要なのは「楽」である。楽は音楽のことで、古代においては、人を呪い殺すこともできる力を持つとされていた。楽は礼と切り離せない概念であり、祖先の霊と交信するときに用いる不思議な力でもあった。これもまた御と同じく、身体拡張の感覚と結びつく。古代中国では、自分の身体を拡張し、コミュニケーションの可能性をひらき、世界に触れていくことが重視されていた。
我々はどうしても近代以降のイメージで、道徳の教えとして儒教を理解してしまう。だが本来は、自分自身の感性を拡張し、他者との関わりを広げていく教えでもあった。教えを学んで新たなことができるようになるまでには、試行錯誤しながら下積みをする時間が必要だ。安田は、師とともに、友とともに歩む段階を経てはじめて、他者がいなくても自分にとっての学びを続けられる域に達することができるという。 山本はそれを承けて、SNSはそうした訓練の時間を取らないまま、いきなり舞台に上がるようなものだと指摘した。SNSで他者とのかかわりに摩擦が生まれるのは、『論語』に照らしても当然なのだ。
君子と小人
安田は、『論語』で説かれる「君子」は、もともとは身体・精神に障害を持つ人を指していたはずだという。彼らは、「普通の人」=「小人」であれば取るに足らないものとして気にしないことを、細やかに気にして生きることが多い。それが転じて、「様々な気づきをもてる、徳の高い人間」の意味にするようになったのだと。 我々は他者の悪い部分にばかり注目してしまう。しかしそうではなく、どのような状況下でも理性をはたらかせ、いったん保留して評価できるのが「君子」ではないか、と安田は語る。 今までうまくいっていたことがうまくいかなくなり、判断を迫られるとき、小人から君子への道が開かれる。山本は、専門であるゲーム開発やプログラミングの例を用いて、失敗の理由を分析し、次のステップへ移行していくプロセスの重要性を説いた。定石どおりの手ではなく、試行錯誤の末に自分で答えを見つけた瞬間こそ、脱皮のチャンスなのだ。
続いて話題は「為政篇」に戻り、「五十而知天命」の一節が遡上に上った。「天」は、「大」の字とおなじ原型を持つが、天のほうがより、頭部が強調されたかたちをしている。そもそも天の字は、人間の頭頂部を示していたというのだ。そして「命」の古代文字は、おおきなものに跪く人間のかたちを象っており、「天から刻印されたもの」という意味をもつ。 この「天命」を知るにはどうすればよいのか? 安田は「尽心」が必要だという。自分にできるかぎりのことを行い、余計なものを除いていくこと。そこから、自分の持つ天命を再発見することができるのだ。 最後に安田は「切磋琢磨」に触れた。この四字熟語もまた『論語』の学而篇を出典とする。現在は「仲間同士競い合う」という意味で用いられているが、本来は「あるモノを加工する」という意味の言葉だった。転じて「一人一人にあったものごとのやり方がある」という意味で使われたこともあったという。 いまこそ、この「切磋琢磨」の多様な意味を見直すべきときかもしれない。新型コロナウイルス感染症の流行によって、人々の行動が制限される一方、テレワークをはじめ働き方の多様化が進んでいる。従来のオフィスでは成果が出せず苦しんでいたひとが、かえってパフォーマンスを発揮できるようになった例もある。まさに「一人一人にあったものごとのやり方がある」ということだ。 ひとは新型コロナによって適切な場所を見つけ、力を発揮できるようになることもある。「禍の時代」を生き抜くためには、「切磋琢磨」の精神が必要なのかもしれない。 最終回を迎えた講義は、2時間×2番組に及んだ。博覧強記の知識をもとにした大ボリュームの古典講義。講義の核をなす漢字の読み解きを味わうには、動画視聴をお勧めしたい。(清水香央理)
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