映像はリアルな空間とどう関わるか──大山顕+佐藤大+東浩紀「人間は見ることを取り戻せるのか」イベントレポート(上)|ゲンロン編集部
ゲンロンα 2020年6月1日配信
ZOOM呑みで、ひとは自分のことばかり見ている
第1部は、佐藤のプレゼンを軸にトークが繰り広げられた。 はじめに、佐藤は『新写真論』の自撮り論から示唆を受けたという「ZOOM呑み」論を展開した。佐藤によると、ひとはZOOM呑みやリモート会議を行うとき、分割画面のなかの自分しか見ていない。そして、それは「ZOOM画面によって共有しているもの(疑似空間)」の不気味さに対処するためである。放送序盤で飛び出したこの鋭い指摘にトークは早くも大盛り上がり。 まず前者の指摘については東が、オンライン授業で教師側の満足度が不自然に高くなってしまうのは、「自分に向かってしゃべったことを自分で理解する」というその自己完結性に由来しているのではないかと応答した。 後者の「ZOOM画面によって共有しているものとはいったいなんなのか」という問題については議論がさらにヒートアップ。大山はZOOM画面上の「画面と画面がぴたりとくっついたゼロ距離の空間」の持つ不気味さを、スクショという行為への違和感と結びつけた。大山によると、セキュリティに敏感なインスタグラマーはいまや、位置情報が記録されないpng形式で画像を残すため、カメラアプリの画面をそのままスクショすることで自撮りを行うようになっているという。『新写真論』の「スマホによる撮影=スクショ」というテーゼをベタに体現してしまっているこの事例の紹介に対して、東は驚きを隠さない。写真が物理空間と結びつかず、「面」だけが存在する世界の出現をそこに感じるというのだ。
現実のものとなる「四人称視点」
次に佐藤は、『新写真論』における「四人称視点」の問題に深く切り込む議論を展開した。 『新写真論』で論じられている「四人称視点」とは、たとえばTPSのゲーム画面を見ているときに生じるような「自分自身が含まれた視覚認識」のことである。佐藤はその議論を受けて、ゲーム実況動画を見るという行為は「四人称視点」をより先鋭化したものであり、われわれの考える物語のあり方をゆらしているのではないか、と指摘する。とくにゲームがオープンワールドになって以降、「ゲーム実況者の数だけ物語があり、視聴者は好きな実況者を選んで動画を視聴する」という事態が生まれていると佐藤はいう。 佐藤が「四人称視点」による物語のあり方のゆれを実感させられた作品として挙げたのがドラマ『ウエストワールド』である。佐藤によると、『ウエストワールド』シーズン3では、ある物語上の展開を通して「『神の視点』としてのAIに管理された現実世界」が描かれているという。佐藤は、ここで描かれる世界は『新写真論』の「もしかしたら写真は人間を必要としなくなるのではないか」というテーゼで表現される未来とも親近性があると指摘する。
佐藤大の近作と『新写真論』『ショッピングモールから考える』
佐藤はプレゼンの最後に、彼が脚本で参加している近作と大山の仕事とのつながりを紹介した。 映画『#ハンド全力』は、熊本県の仮設住宅に住む高校生が3年前の震災直後に撮影した写真をSNSで再発見し投稿することから物語が動き出すという設定で、大山が『新写真論』で論じた「SNSによる走馬灯サジェストサービス」をはからずも物語化したものとなっているという。 『サイダーのように言葉が湧き上がる』は、とある地方都市のショッピングモールや団地が物語の舞台となっており、大山も設定考証として参加。佐藤によると、本作の監督は大山と東の『ショッピングモールから考える』を映画制作にあたって熟読していたという。 残念ながら、この2作は6月1日現在の時点でコロナ禍による公開延期を余儀なくされてしまっている(公開情報を追ってぜひチェックしていただきたい)。じつは、番組序盤ではそのことと関連してコロナ以前は全世界的に映画館の興行収入が上昇していたことについての議論もなされており、それが第1部終盤で「四人称」視点やショッピングモールの問題につながるというスリリングな展開もあった。そちらを含めたイベントの全容はぜひ動画でお楽しみいただきたい。 佐藤のプレゼンを中心に進行した第1部は、途中で東が「くらくらしてきた」というほどの盛り上がりを見せ、議論はそのままの勢いで第2部の大山によるプレゼンへと突入した。イベントレポート後編のリンクはこちら。(住本賢一)