コロナ時代の隔離社会、コミュニティは復活するのか? 高橋沙奈美+上田洋子「復活2020──コロナ・イデオロギーと正教会」【コロナ禍の世界から #1】 |ゲンロン編集部
ゲンロンα 2020年4月28日 配信
世界中でコロナウィルスの感染拡大が続き、先行きのみえない日々が続いている。他方、4月はキリスト教の復活祭やイスラームのラマダンなど、各宗教の重要なイベントが集中する時期でもある。そこでゲンロンカフェでは、4月24日に「復活2020──コロナ・イデオロギーと正教会」【コロナ禍の世界から #1】と題する放送をおこなった。ゲストはロシアやウクライナの正教会を研究する高橋沙奈美。現在ドイツ滞在中の高橋のもとへビデオ通話をつなぎ、ゲンロン代表の上田洋子がコロナ禍下の宗教と人々の暮らしについて問いかけた。
本記事では、高橋のプレゼンを中心に進行した放送の模様をお伝えする。なお、この放送を収めた動画はVimeoにて全篇をご覧いただけるので、本記事の内容に関心を持たれた方はこちらのリンクから議論の全容をぜひお楽しみいただきたい。(編集部)
ネット万能主義の対極にいる宗教者
世界的に感染が拡大するなか、各国で修道院や聖堂といった宗教施設がクラスター感染の発生源として厳しい目を向けられている。だが高橋によれば、こうした状況、とりわけ正教会が置かれている状況を考察することで、コロナ禍と人々の暮らしについて、日本の主要な議論とは違った論点が得られるという。というのも、そこでは人々が社会生活に欠かせない宗教と、個人の生命にかかわる感染拡大とのあいだでどのように折りあいをつけるのか、そして情報技術で補完できないものとどう向きあうのかという難題に直面しているからだ。高橋は、「コロナ・イデオロギー」をめぐる東浩紀の議論に言及しつつ、宗教者の生活がそもそもネット万能主義とは対極に位置するものだと主張する。正教会からコロナ禍を考える意義
日本ではあまり馴染みがないかもしれないが、そもそも正教会とは、コンスタンティノープル(現イスタンブール)を中心に展開し、いまはおもにロシアなどで発展しているキリスト教の教派である。高橋は正教会の特徴として地政学的な側面を挙げる。正教会にはカトリックでいう教皇のような全教会を束ねる存在がいないため、各地で設立された独立教会がそれぞれ管轄地を治めてきたという。やがて教会の管轄地が国民国家の領域と同一化されていった結果、それぞれの国家の状況や国家間の関係性が、各正教会の運営に色濃く影響することになった(現代では移民によって諸民族の独立教会が各国に設立されており、事態はますます複雑になっている)。高橋によれば、これはつまり国によって状況や対策が異なるコロナウイルスの感染拡大に対して、独立教会ごとに異なった対応をとることができるということを意味している。情報社会における宗教と感染症のジレンマのなかに、行政と教会の関係性という問題が複雑に入り込んでいること。正教会からコロナ禍を考える意義はここにあるだろう。「超濃厚」な接触! 正教会の典礼
正教会を簡単に説明したあとで、高橋はその具体的な典礼(聖堂での祈祷や儀礼)を紹介した。昨年に自身も洗礼をうけ、正教徒になったという高橋。ドイツにあるロシア正教会での実体験を交えながら、典礼が感染のリスクを避けられないことを示した。 たとえばパンとぶどう酒をハリストス(=キリスト)の尊体および尊血として食べる「領聖」という儀礼では、子どもから老人まで多くの信者が教会に集合し、まさに「三密」が揃った状況でひとつのスプーンやタオルを使い回す。高橋はこれによって「みんなまんべんなく感染していく」だろうと感じたという。とはいえ、領聖は正教にとって重要な儀礼なのでやめることもできない。そこでコロナ禍を受けて、各地の正教会では感染予防と領聖などの典礼をいかに両立させるかが問題になったようだ。感染対策と正教会
正教会による感染対策の例として、高橋はおもにロシアとウクライナの正教会を取りあげた。もともと国と教会の関係が安定していたロシアでは、政府の感染症対策の進展にあわせて教会が警戒や自宅での祈祷を呼びかけるなど、おおむね政府の指針に教会がしたがう結果になっているそうだ。 他方、ウクライナの状況はきわめて複雑であるという。高橋は、その原因はウクライナ正教会の分裂にあると述べる。そもそもウクライナ正教会はロシア正教会モスクワ総教主庁を母教会としていたが、ロシアとの対立などによって、2019年にあらたに政府の意向で独立教会が設立されたのである(なお、この詳細は『ゲンロンβ36』所収の高橋による論考を参照されたい)。 高橋によれば、この新ウクライナ正教会が政府の隔離政策の方針にしたがっていち早く行動指針を示し、通常の典礼を禁じたうえで(個人的な教会訪問は可)信者らに「責任ある行動」を呼びかけたのに対し、ウクライナ正教会は政府の意向に反して「神の力がウイルスをほろぼすのだ」と表明、教会での積極的な祈祷を呼びかけるなど、両者は対照的な姿勢をとっている。さらに高橋は、新ウクライナ正教会が巧みなメディア戦略を展開する一方で、ウクライナ正教会では大規模感染や「原因不明の死者」が発生しておりメディアの批判や行政からの圧力を受けていることを示しつつ、両者の違いを強調した。すべての情報は偏っている?
しかし、こうした違いはどれほど両者の真実を表しうるのだろうか? 高橋はプレゼンの最後でこの写真を示しながら問いかけた。これはウクライナ正教会が隔離政策に反して典礼を行なうことを批判しようと押しかけたメディアの記者たちを教会の神父が逆に撮影したものだ。教会の「密」を非難しようと駆けつけた記者たちもまた「密」を作り出してはいないだろうか? また高橋は、ウクライナ正教会に対してメディアが情報の捏造を企てた事件に触れながら、情報とはつねに送り手の視点によって方向づけられたものであり、単一的な視点を生み出しかねないことに警鐘を鳴らした。 これを受けて上田は、感染者を社会の敵として攻撃する構図が形成されていると指摘。さらに、2月にウクライナ中部の村で中国からの帰還者受け入れに反対するデモが発生、暴徒化した事件を引きあいに出しながら、「ユーロマイダンで用いられた抵抗の手法がおなじ国の感染者の排除に転用されている」と嘆いた。 ならば、とここで放送を見ていた私は少し疑問に思った。これほどまでに人々が感染者やクラスターに攻撃的になっているのならば、教会もほかの業種と同様に「休業」すればよいのではないか? なぜ感染と攻撃のリスクを冒してまで聖職者は聖堂を開き、信者たちはそこへ足を運ぶのだろうか?
コミュニティをつくる宗教
高橋と上田の議論から浮かびあがってきたのは、教会のセーフティネットとしての役割である。高橋が「病院が体を治療する場所なら、教会は心を治療する場所。だから教会を閉鎖することはできない」というある聖職者のコメントを紹介すると、上田はそもそもロシアやウクライナでは介護や社会福祉が十分に発達しておらず、教会がセーフティネットとして機能していると説明した。 さらに質疑応答のなかで、ふたりは教会がもつコミュニティの形成力に言及した。上田が「ソ連が崩壊したあとに、つながりを求めるひとびとを受け入れたのが宗教だったのではないか」と分析すると、高橋は最近洗礼を受け、正教徒になった自身の体験を踏まえ、教会のコミュニティの魅力について語った。そこで特に私の印象に残ったのは、「典礼は周りのひとを見て覚えるものだ」という言葉である。これはつまり、典礼というものが、じっさいに現場へ通い、人々に囲まれ、見よう見まねで手足を動かし、ときに領聖することでしか習得=継承されえないということである。さらにいえば、教会のコミュニティというのもまた、その模倣と継承の反復によってはじめて形成され、維持されていくものなのだろう。 じつに月並みな話だが、まだひとはこのプロセスを情報技術によって完全に補完することができないといえる。言い換えれば、オンラインで領聖を受けることはできないのだ。じっさい、高橋の通っていたドイツの教会では、ロックダウン中に神父が信者の自宅をまわって励ましたり、領聖の機会をあたえたりしているという。 議論をしめくくるにあたって、上田は正教会を通じてコロナ禍を考えることが「神はいないと多くのひとびとが考えている現代にもなお、宗教が残っているのはなぜかを考えるきっかけになる」と述べた。おそらくそのわけは、コロナ時代の隔離社会でバラバラになったコミュニティを復活させるための(答えではなくとも)重要なヒントになりえるのだろう。(伊勢康平)高橋沙奈美 × 上田洋子「復活2020──コロナ・イデオロギーと正教会」【コロナ禍の世界から #1】
(番組URL:https://live2.nicovideo.jp/watch/lv325447249)