ニッポンの保守──2020年桜の陣(1) コロナ禍と保守|小林よしのり+三浦瑠麗+東浩紀

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ゲンロンα 2020年4月22日配信

 新型コロナウイルスが世界的に猛威をふるい、「外出自粛」、「ロックダウン」といった言葉も飛び交うなか、4月7日には緊急事態宣言が発令されました。ゲンロンカフェでは2月28日以降のイベントを中止、または延期し、一部の番組のみ無観客で配信を行っています。3月28日は、「ニッポンの保守──2020年桜の陣」と題し、小林よしのり氏と三浦瑠麗氏、そして東浩紀の鼎談番組を放送しました。話題はおのずとコロナをめぐる騒動が中心となりました。 
 社会の反応、政府の対応、言論人、知識人の言説に対し、3人はいまなにを思うのか。番組前半のコロナ禍をめぐる議論を先行無料公開します。憲法と皇室について展開された第2回はこちらから、ジェンダーがテーマとなる第3回はこちらからお読みいただけます。(編集部) 
  
※ 本イベントのアーカイブ動画は、Vimeoにてご視聴いただけます。ぜひご覧ください。 
URL= https://vimeo.com/ondemand/genron20200328

コロナウィルスは緊急事態か

東浩紀 今日は、保守の論客である小林よしのりさんと、保守とリベラルのあいだでうまく政権と付き合っておられる三浦瑠麗さんのおふたりに、いまの日本の言論人がどうあるべきか、おもに保守の観点からうかがえればと思います。じつは数ヶ月まえにこの座談会を企画した当初は、日程がちょうど花見の季節ですし、「桜を見る会」騒動の話からと思ってました。ところがその後状況が激変しました。いまでは世間は新型コロナウィルスの話題一色です。ゲンロンカフェも無観客になり、すでに1ヶ月が経っています(2020年3月28日収録)。今日もお客さんはいません。 

 まずは現在の状況について、どう思われていますか。 

三浦瑠麗 コロナをめぐっては、政府も専門家も非常に悲観的になり、人々はパニックに陥っています。外出自粛し自分を隔離していると、気持ちも落ち込みますよね。ただ一見悲観的、慎重に思えるその行動のうしろには、むしろ妙な楽観があると思うんです。つまり、他国をシャットアウトし経済活動をシャットダウンしても、世の中は壊れないと思っている、ということです。ひとはとても慎重に行動しているように見えて、かえって楽観論にもとづいて社会や経済を破壊し、破滅へ暴走してしまうことがある。たとえば戦間期の大恐慌を悲観した人々がブロック経済に走ったときに、それがのちの第二次世界大戦につながるとは思ってもいなかったはずです。いまもそういう状況だと思います。コロナ自体は2009年の新型インフルエンザのように収束する可能性もあるし、人類が乗り越えられない病ではないはずです。 

小林よしのり 自粛や封鎖、緊急事態宣言など、ひたすら愚劣なことをやっている。ひどい状態だと思います。 

 つまりおふたりとも、世界的にいまの対策は行き過ぎている、と。 

小林 わしはナショナリストだから、コロナに関しては世界と日本の差をわからなくては駄目だと思っています。その差を確信できる現象が世界的に展開している。 

 それは「日本は現状でうまくいっているから、それほど強い対策はしなくていい」ということでしょうか。 

小林 そう。日本は特別だと言うと、グローバリストは「それは危険なナショナリズムだ」と批判してきますが、日本人はもとから強迫神経症的なほど衛生観念が強く、うがいや手洗い、マスクもしている。濃厚接触もしていない。それに対して、外国人はマスクも手洗いもしないし、ハグもチークキスもする。つまり国柄や文化のちがいです。わしは毎年インフルエンザの季節には、発熱のある編集者やスタッフはわしに近づくなと警告を出しているし、自分でも家に帰ったら毎日手や顔、鼻の穴の中まで洗っています。 

 その日本でも、毎年1000万人はインフルエンザにかかり、ワクチンがあっても直接死だけで3-4000人、関連死を含めたら約1万人が亡くなる。しかし、コロナによる死者は現時点で50人ですよ。マスコミはインフルエンザとコロナをいっしょにしてはいけないと言いますが、そのまえにデータを示してくれと。東京で1日に50人風邪をひいたことの、なにがニュースなのか。 

三浦 コロナによる死者数と、普通の肺炎やがんの死者数、すべての数を並べて示すべきだと思います。そうしてはじめて、脅威に比して対策にどれだけの命をかけているのか、気づくはずです。統計を隠蔽できない死者数のグラフを見ても、日本は非常に緩やかに推移しています。 

 この理由には諸説あり、ひとつは小林さんも言われたうがい手洗いの効果によるもの、もうひとつは島国という優位性もあり、クラスターを的確に潰せているとするもの。そしてまだ検証中ですが、日本型のBCG(結核に対するワクチン)の接種の効果が言われています。イラクとイラン、旧西ドイツ地域と東ドイツ地域の死亡率のちがいは、BCGを継続的に接種しているかどうかでないと説明できない。その真偽はまだわからないですが、いずれにせよ、日本はあきらかにマシな状態です。にもかかわらず、小池百合子都知事は「ロックダウン」や「オーバーシュート」というセンセーショナルな言葉を使っている。 

 「ノー三密」もそうですね。彼女は、かつて代表をつとめた希望の党の公約として「満員電車ゼロ」とも言っていました。 

三浦 2017年の衆議院選挙ですね。厳しい言い方ですが、「満員電車ゼロ」を実現するためには、経済的に死ぬしかない。それではたらいの水といっしょに赤子を捨てるようなものです。今回のコロナ対策も同様で、わたしは――ものすごい批判を受けますが――政府は政府にしかできない経済対策や検疫をすれば十分で、不必要なことはすべきではないと主張しています。政府は政策を取らずに失われた命について、非がなくとも責任を取らされてしまう。だから放置できずに、どんな経済的、政治的なコストを伴っても対応をしてしまう。それは政治家が必然的におかれる構図です。しかし、実際に政府ができることには限りがある。 

小林 いまはテレビのコメンテーターの論調も、「なぜ緊急事態宣言を出さないのか」「戒厳令の練習をすればいい」と、すごいことになっている。 

 このところ疑問に思っているのは、各国がどのような法的根拠で、集会や移動の禁止を実施しているかです。去年は表現の自由が話題になりましたが、集会や移動の自由は政治的な自由を考えるうえでさらに重要です。集会がなければ政治はできない。にもかかわらず、5人以上の市民が街路で集まっていたら警官が寄ってきて解散、なんてことが平気で許容されている。しかもあまり議論になっていない。戒厳令が敷かれたというならまだ理解できますが、そういうわけでもなく、なんとなく不安が蔓延した結果、将棋倒し的に各国で超法規的措置が拡大しているというかんじです。いずれにせよ、人々は人権や自由をあっさり諦めてしまった。 

 政治思想の世界では、戦争のような「例外状態」になると主権者の力が強まるので、独裁を警戒する必要があるといった議論がありました。ところが今回は、日常と例外状態の区別も曖昧なままに、ずるずると自由が制限されることがありうるし、しかもそれに歯止めがかからないことがあきらかになってしまった。国家がスマホの位置情報を使って個人の移動を監視するなんて、数ヶ月まえなら非難の大合唱だったと思いますが、いまはなにも言わない。コロナ禍が終わったあと、集会や移動の制限、国境封鎖をみんなが喜んで受け入れたという今回の「実績」は、大きな政治的効果をもつと思います。 

小林 立憲主義の崩壊ですよ。 

 どこの国でも、政権側も最初は、集会や移動の制限はさすがにできないとためらっていたように見えます。ところが途中で潮目が変わり、それが意外と許されるどころか、むしろ人々が求めていることを政治家が感じ取り始めた。 

三浦 同じことを安全保障分野でやったら確実に反対するメディアでさえ、今回は緊急事態宣言を求めている。ただ、これには予兆もあり、9.11後の「対テロ戦争」がそれでした。安全保障や社会保障よりもテロを理由にしたほうが、主権の制限が通ってしまった。実際はアメリカ人が9.11のようなテロで死ぬ確率は極めて低く、銃乱射事件のほうが警戒すべき頻度で起きているにもかかわらず、です。いまの日本も同様です。昨年の弊社で行なった価値観調査に対テロのための監視強化に対する賛否を含めたのですが、結果は自民党を支持する層でも支持しない層でも賛成が優位でした。つまり反政権派までも、対テロでは監視強化を認めてしまう。テロや疾病といった原始的な恐怖は立憲主義を曲げさせるんです。 

コロナ禍のグローバリズムについて語る3人。左から三浦瑠麗、小林よしのり、東浩紀

現代社会の弱点

小林 わしも昔の韓国のようにテロリストが500人くらい国内に入り込んでいる状態なら緊急事態に賛成します。ミサイルが飛んできても賛成する。あきらかに緊急事態だと思うからです。 

 それは目に見える脅威だからでしょうか。 

小林 いや、コロナはデータとして「緊急」ではないということです。わしはコロナが実際に日本に入ってくるまで、中国人の入国は制限するべきだと考えていた。まったく情報がなかったから危険だと思っていたけれど、入ってきてみたら普通の風邪じゃないかと。 

 コロナウィルスは最近スペイン風邪と比較されますが、スペイン風邪当時の世界人口は20億人で、そのうち最大1億人が死んだと言われています。これはコロナとは比較にならない。スペイン風邪だけでなく、戦後もアジア風邪や香港風邪があった。アジア風邪は1950年代ですが、アメリカだけで10万人近く、世界で100万人以上が亡くなったと言われている。でも我々はいま覚えてすらいない。すごく突き放してみれば、これはそういう規模の災厄なんです。大きいけれど、人類の危機といったものではない。 

 それがここまで大騒ぎになり、世界中が鎖国し始め、経済全体が崩壊し始めている。ぼくはむしろそちらに驚いています。ひとの死に対する感覚が、当時と大きく変わってしまった。1950年代の10万人といまの10万人では、まったく騒ぎ方がちがう。だからこれは医学的な問題だけでなく社会的な問題でもある。そもそもコロナウィルスは12月に武漢ではじめて報告されましたが、そのまえから静かに広がっていたとも言われている。それが新型と発表されて市民が病院に殺到し、感染爆発が起きた。もしも騒ぎが大きくならなければ、ゆっくりと集団免疫ができていたかもしれない。 

小林 安倍首相も8割が軽症で、かつ重症者を含めた8割は他人に感染させないと言っていますね。 

 日本にもかなりまえから入っていたのかもしれない。ただ、たしかに今回の騒動は現代医療の弱点を炙り出したとは思います。緊急事態が起きて平時の何倍もの患者が押し寄せたときに、平時の丁寧な医療との切り替えができない。新興感染症だから軽症でも入院させねばならないし、医者は防護服を着なければいけない。そして病床があっというまに足りなくなり、医療崩壊が起きる。もっと荒っぽい対応だったら救えていたはずのひとが、丁寧な対応のために死んでるかもしれない。現代人は一人ひとりの死を、とても重要にとらえています。それはいいことなのですが、今回はその命への繊細な感性が、逆説的に死者を増やしているようにも見える。 

小林 生命至上主義になっていることが、生命を脅かしてしまっている。元気なひとにまでPCR検査しろという話があるけれど、冗談じゃないですね。陽性になれば重症軽症をとわず強制入院させていては、医療が崩壊するのは当たり前です。 

三浦 人間社会が自分で自分の首をしめている。いまは全員に検査を受けさせる派とまったく必要ない派のふたつが対立してしまっています。本来はどちらかではなく状況にあわせて対応するべきですが、この背景には専門家間の対立があるんです。わたしは昨日の夜からの朝まで生テレビで、上昌広さんと共演しました。上さんの発言は言い過ぎだと思うものもあるのですが……。 

 毎日新聞の記事では七三一部隊にまでさかのぼり日本の対策を批判していて、ちょっと驚きました。 

三浦 でも、わたしは上さんをまえから知っていて、どうしてそうなるかもすこしわかる気がするんです。そこには改革をしない厚労省や国立感染症研究所に対する、敵意にも近いいらだちがある。だから彼は言い過ぎてしまうのですが、一方の厚労省の反論にも事実誤認がある。そういう対立が政治空間に持ち込まれ、与野党も対立する。同じことが世界中で起きています。しかし、真実は両極の中間にあるはずです。 

 一人ひとりが知識を持って賢く行動すれば、民主主義はきちんと機能するし、世の中もよくなるという考えがありますね。象徴的なのが、荻上チキさんの——彼の仕事は重要だと思っていますが——TBSラジオ番組の「知る→わかる→動かす」という標語です。あの標語は現代の市民精神を体現している。でもそれはかならずしもうまくいかない。今回の場合、一人ひとりが「知る」とは「検査する」ことにあたります。自分の危険は自分で知りたい、そして理解したいという声が、いまはとても強いものとしてあります。でもそれはときに混乱を呼ぶし、ポピュリズムにもつながるんですね。とくに今回の場合、PCR検査をして陽性だったとしても特効薬があるわけでもないし、陰性だったとしても検査の精度は低いから安心できない。 

小林 PCR検査を健康な人間も全員しろと言っているのはマスコミで、それに扇動されているのは「大衆」です。それに対して保守は、自分の実感を大切にする「庶民」です。状況を見て不安になっても、自分の友人や親戚を見渡し、コロナの患者が全然見当たらないから流されない。PCR検査を増やしても無意味。陽性と出ても治療薬がないんだから。 

三浦 その区分はわたしが使うわけではありませんが、仰りたいことに納得はできます。自民党はそういう「庶民」の集まりという面があり、その感覚を大事にするのが自民党の温厚な保守です。わたしは、武見敬三さんはそういう保守の感覚と専門家としての知見を融合された方だと思いました。国外ではボリス・ジョンソンが、ワクチンが間に合わないからみんなが罹患するけれど、その被害をマイルドにするため、高齢者と持病があるひとには自己隔離をしてもらい、手洗いをしっかりしましょうと言いました。その後、批判から方針転換してしまったけれど、最後まで私権の制限をためらったのは立派だと思います。 

 ぼくも正しかったと思う。ただ、ボリス自身がコロナにかかってしまったので、状況が変わってしまった。あれを見たら「ボリスもかかってるから全員検査すべきだ」と反応してしまう。そういう反応は論理的ではないからこそ、彼自身はかからないようにしなければいけなかった。 

小林 わしは「たかが風邪で」とブログでも書いているので、そのわしがかかると大変なことになるという意識はあるよ。ゴー宣道場でひとりでも感染者が出ても叩かれる。 

 ぼくがとにかく驚いているのは、あえてこういう表現をすれば、これほど「弱い」感染症で、かくも大きな結果が出ていることです。コロナはペストやエボラ出血熱のような病気ではないし。スペイン風邪に比べても被害は桁がちがう。それなのに、冷戦終結から築いてきたひとつの時代の終わりを刻もうとする。グローバル社会がいかに脆弱だったかが示されてしまった。 

小林 あんたたちはグローバリストじゃなかったの? わしは20年間グローバリズムを批判してきたよ。 

 (苦笑)。ぼくはいまでもグローバル主義者ですが、小林さんの批判をコロナが体現してしまったと言えるのかもしれないですね。

自由を語りつづけること

三浦 中国に対する西洋のコンプレックスも出てきています。「フォーリン・ポリシー」に載ったイタリアの医療崩壊についての論文で、原因として集団検査による感染爆発だけでなく、民主主義のコストに苦しまされたことがあったと書いてありました。論文はとても参考になったし分析も正しいけれど、最後に透明性を大事にしてきた民主主義だが、感染症に対応するためには中国のような権威主義体制のほうがいいかもしれない、と書いてあるんです。そこだけは間違っています。中国型の監視は危険だし、最後には民主主義と資本主義が正しいのです。 

 アメリカは中国の感染者数を超え、対策もうまくいっていない。当然そうした議論は出てきます。すこしまえに『中央公論』(2020年4月号)で法学者の山本龍彦さんと対談をしました。山本さんは同じ監視社会でも、GAFAはプライバシーを守るし人権意識があるけれど、習近平の中国はそうではないから警戒すべきだという意見です。実際つい最近まで、これからの情報社会が中国型の監視社会になるのか、アメリカ・ヨーロッパ型で人権と自由が重視される社会になるのかという選択は、大きなイシューでした。ところが今回、アメリカとヨーロッパも人権を制限するときはためらいなく制限することが、剥き出しになってしまった。 

 データはオープンにされるべきだという議論は昔からありました。でもいままでは、政府が抱えるさまざまなデータをネットで公開し、民間が使えるようにすることで、ひらかれた公共をつくるという議論だった。それがいまでは読み替えられて、政府が持っている感染者の情報を全部オープンにし、みながスマートフォンで見られるようにしろという声になっている。中国だけでなく、韓国や台湾などもスマホによる感染者の位置情報監視を始めている。本来は人権やプライバシーの問題は慎重に議論しなければいけないし、コロナ以前であればそういう対策にリベラルは反対していたはずなのにいまはまったく議論になっていない。むしろなぜ日本はやらないのか、という声が大きい。 

小林 右派も左派も、いま強権を発動することが一番正しいと思っているということですね。でも、それは間違っているよ。自ら縛られにいっている。 

三浦 香港デモで「自由を勝ち取れ、支援するぞ」と言っていた左翼や一部の右翼も、舌の根も乾かぬうちに逆のことを言っています。自由はある意味で命よりも生活よりも尊いはずだったのに。 

小林 5人以上集まるからデモができないよ。 

 その点も大きな時代の変化です。あれだけの大騒ぎだった香港デモが、あっけなく終息してしまった。SNSがグローバリズムを進展させたこの20年は「デモの時代」でもありました。日本では2011年以降はデモが増えたし、世界ではそれ以前から、草の根で集まる新しいタイプのデモが広まっていた。その頂点に香港デモがあった。それがこういう形で終わってしまうとは、想像もしていなかった。 

三浦 今回の騒ぎには民主主義に対する自信喪失だけでなく、中国恐怖症も介在していると思います。中国でコロナの発生のまえには香港デモがあり、さらにまえに米中貿易戦争があったので、これを機に中国から生産拠点を引き剥がし、東南アジアやアメリカに回帰させようという発言が経済誌に載る時代になっています。冷戦後、ここまで赤裸々にヘイトを表明することはありませんでした。メキシコが発生源の新型インフルエンザとは大きなちがいです。アメリカが香港デモを中国経済叩きのために使っていた、その根底にあった恐れが、武漢でのコロナの発生によって増幅された。この影響も見落とせない。 

小林 自称「保守派」は反中のために自由を利用していて、本当に自由が大切だとは思っていない。中国と分離させる建前に、自由を使ってる。自称「保守派」が主張する「自由」は嘘なんだよ。自由の価値がものすごく低いんだ。香港デモを支持していたあいつらが、中国が武漢にしたことを、日本に求める意味がわからない。なにが大切なのかを考えなくてはならない。保守っていうのは自由が嫌いというわけではないですよ。わしはやっぱり、自由は大切だと思っている。 

三浦 中国恐怖症の前提には、先進国労働者の相対的優位が崩されて、過剰な資源配分を求めたことがあります。これを機に、たとえばイギリスは、特定業種のフリーランスに対して、条件を満たせば約32万円を限度に過去三年の同月の平均利益の8割をカバーするという、ベーシックインカムに近いことを言い出しています。リモートワークやIT化が進むなど、いいこともたしかに起こるだろうし、分配強化に踏み出すこともそのひとつかもしれません。しかしそれは経済を殺してまで、強権発動を自分たちで呼び寄せてまでやることではないはずです。そうしなければ格差是正ができなかった各国政府の無能さがいま、過剰反応を招いています。先進国の労働者が割を食っているというメンタリティーは、大恐慌時の右派左派ともにありました。ヒトラーはその感情を利用して強権を発動し、経済政策をうったんです。それが歳出を拡大し人々を救った部分はありますが、それだけではすまなかった。自由は奪われユダヤ人は虐殺され、周辺各国は蹂躙されました。そんなことせずに、きっちりと再分配をすればいい。簡単な話です。 

小林 いまマスコミやコメンテーターはとにかく強権発動に賛成で、世の中全体もみな羊のように従順になっている。だからわしは、保守は自由を否定することではないと、言いつづけ、書きつづけ、行動しつづけていくしかない。今日もわしひとりで反対のこと言いつづけなきゃいかんと思っていたけど、同じ考えのひとがここにはふたりもいた。 

 やはり会って話すということはとても重要で、集会の自由は大事です。しかしいまの潮流では、来週には小池知事が首都封鎖を言いかねず、今後は集まってしゃべること自体がネットで叩かれることもありえます。 

三浦 専門家が大衆に叩かれるからと忖度をしすぎると、自分のプロフェッショナリズムが阻害されます。もしウイルス学者が専門の見地からロックダウンを言うのであれば、経済の専門家はその見地から失われる需要について語るべきです。わたしは政治学者なので、政治的な自由について、国際協力の低下について語らなくてはならない。叩いてくるひとを勘違いさせてはいけない。それがプロの矜持だと思います。 

  
その(2)はこちら。 
その(3)はこちら。 

2020年3月28日 東京、ゲンロンカフェ 
構成・撮影=編集部 

本座談会は、2020年3月28日にゲンロンカフェで行われた座談会「ニッポンの保守──2020年桜の陣」を編集・改稿したものです。

小林よしのり

1953年生まれ、福岡県出身。漫画家。大学在学中に描いたデビュー作『東大一直線』が大ヒット。代表作の一つ『おぼっちゃまくん』は社会現象となり、アニメ化もされた。92年より連載中の『ゴーマニズム宣言』では、世界初の思想漫画として社会問題に斬り込み、数々の論争を巻き起こしている。最近はネットでの言論も盛んに行ない、Webマガジン「小林よしのりライジング」やブログでの発言が注目されている。近刊に『天皇論「日米激突」』 (小学館新書)、『慰安婦』(幻冬舎)など。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。

三浦瑠麗

国際政治学者。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、東京大学政策ビジョン研究センター講師を経て、株式会社山猫総合研究所代表。ブログ「山猫日記」主宰。単著に『シビリアンの戦争——デモクラシーが攻撃的になるとき』(岩波書店)、『日本に絶望している人のための政治入門』(文春新書)、『「トランプ時代」の新世界秩序』(潮新書) 、『あなたに伝えたい政治の話』(文春新書) 、『21世紀の戦争と平和: 徴兵制はなぜ再び必要とされているのか』、『孤独の意味も、女であることの味わいも』(ともに新潮社)。
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