白い橋の美学──『ドリナの橋』|山崎佳代子

イヴォ・アンドリッチ Иво Андрић(1892-1975)
引用元=https://en.wikipedia.org/wiki/File:The_Bridge_on_the_Drina.jpg
ヴィシェグラードは、ドリナ川のほとりの町。11のアーチに支えられた壮麗な石橋が架かる。ボスニアの南部にあり、セルビアとの国境も近い。ユーゴスラビアのノーベル賞作家、イヴォ・アンドリッチの代表作『ドリナの橋』(1945年)は、橋を小説の中心に置き、24章からなる円環形式をとり、姿を見せぬ語り手が、中世から第一次世界大戦勃発までの歴史を語る。作家は古文書館や修道院で史料にあたり、叙事詩や抒情詩、バラードや伝説などセルビアやボスニアの口承文芸に霊感をえて、史実を縦糸に、民謡の空想力を横糸に、壮大な小説を織り上げた。主人公を置かず、歴史の文脈の中で「集団」に焦点を当てる。「個人」を「集団」の「部分」として描く視点が、小説を個性あるものとした。町の年代記に、オスマナギッチ家やアリホジャの家族史を織り込み、「歴史」と「個人」を繋ぐ。
作家は語りの文体を変化させて、神話的な時間と歴史的な時間を響き合わせる。1章から8章まではオスマン帝国支配下の中世を描き、文体は民謡のように素朴で粗い。9章から最終章はオーストリア・ハンガリー帝国の占領下の近代を扱い、会話文を多用し、心理描写を深めて、戯曲的な文体となる。全編を貫くのは各章に描かれる「橋」で、抒情的で瞑想的な描写が通奏低音を奏でる。
小説の重要な主題は、中世オスマン帝国、そして近代オーストリア帝国の支配下でボスニアに形成される「民族意識」である。登場人物には民族名を記し、集団の中の個人を描く。混血も登場する。オスマン帝国の支配下でイスラム教に改宗したムスリム、改宗を拒み正教徒として生きるセルビア人、オスマン帝国から派遣されたトルコ人、スペインから迫害を逃れてきたユダヤ人、オーストリア帝国から来たカトリック教徒の軍人、商人……。だが民族の類型を描くのではない。同じ民族の中に、思想や美学、倫理観の異なる人物を書き込み、個人を活写する。オーストリア帝国に対して抵抗するか否かを巡り、ムスリムの間で意見が対立する様子、橋の上でイデオロギーを論じる若者たちが、同じ民族でありながら各々の思想を主張する様子も描かれる。ここで小説の流れを示そう。
『ドリナの橋』
1章から4章までは、ヴィシェグラードと築橋の過程を描写する。メフメド・パシャ大宰相の命を受け、セルビアの名建築師ラーデが築いた橋、その中央はカピヤという憩いの場だが、1878年までは処刑された者の首が晒された。水の精、人柱伝説……。溶けあう幻想と現実。そして大宰相の少年時代が描かれる。1516年のデウシルメ(生身税)で、オスマン帝国はボスニアでキリスト教徒男子を徴発する。少年たちは出生も名も信仰も奪われ、イスタンブールへ送られる。メフメド・パシャもその一人だった。築橋は困難を極めた。総監督アビダガは残忍な性格で、工事は難航した。築橋に反対した人物とされ、セルビア人のラディサヴが、肛門から杭を打ち込まれ処刑された。1571年に橋と隊商宿が完成する。だが大宰相はイスラム教の僧侶に暗殺された。
5章から8章は17世紀末から19世紀中葉まで、オスマン帝国支配下の町を語る。オスマン帝国は衰退。命をかけて隊商宿を守ろうとしたダウツホジャは老いて死ぬ。やがて洪水が町を襲うと、民族の違いを越えて人々は助け合った。1804年、オスマン帝国に対して、セルビア人が蜂起すると、町ではムスリムとセルビア正教徒が争いあう。オスマン帝国の防舎が築かれて、ふたたびセルビア正教徒が処刑された。一九世紀後半、セルビアが自治を獲得して公国となり、オスマン帝国の国境が大きく後退すると、町にはセルビアからムスリムの難民が流れ込み、疫病が蔓延し、反乱と内戦で不信感が満ちていく。そして悲恋の伝説が語られる。ヴェリエ・ルグ村のオスマナギッチ家の娘ファータに、ネズケ村のハムジッチ家の息子が求婚。婚礼の日、ファータは橋から身を投げた。いずれもムスリムの村である。
9章から最終章までは、19世紀末から第一次大戦勃発まで、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下に置かれた町が語られる。セルビアは、ふたたびトルコと戦った。戦火はヴィシェグラードにも及び、町は1878年にはオーストリア軍の占領下に置かれる。占領下の町には、未知の西欧文化が持ち込まれる。文官が到着、カトリック圏からポーランド人、クロアチア人、チェコ人などが、職を求めて町に現れ、民族地図は複雑になっていく。次々と布告が貼り出され、隊商宿の建物も撤去され、無骨な兵舎が建った。ある日、余所者の賭博師が来ると、人々は金の虜となる。やがてオーストリア・ハンガリー帝国による徴兵が始まり、土地の若者が新兵の列となって橋を渡って去っていった。
フランツ・ヨーゼフ帝の治世は、うわべの平和と繁栄をもたらす。土地の多くの者たちは、東西の文化が混ざり合う中で、新体制に適応していく。金が「生き血のように」流通し、ユダヤ人女性、ロティカが経営するホテルは賑った。切ない道化者チョルカンの片恋の話も語られる。19世紀末の町には西欧の闇が流れ込む。エリザベート皇妃崩御。水道、鉄道、物価高。資本主義が浸透し、やがて政治の嵐と戦争の兆しが町に満ちる。1908年、オーストリア帝国はボスニアを併合した。帝国は、戦争に備えて橋に爆破装置を仕掛けた。
第一次大戦前夜の町、1913年、バルカン戦争でセルビアがトルコに勝利し、オスマン帝国との国境が千キロメートルも後退すると、橋は「座礁した舟かさびれた巡礼地」のようになった。橋の上で、当時の思想の交響曲ともいうべき、イデオロギー論争が繰り広げられる。プラハやウィーンなどで勉強した学生たちは、社会主義、革命的民族主義、パン・スラヴ主義、運命論などを論じた。町にハンガリー人の夫妻が娼館を開き、ホテルはさびれていきロティカは老いていく。
若者の恋も描かれる。材木屋の書記ニコラ・グラシチャニンは、女教師ゾルカに思いを寄せていた。彼は二人でアメリカに行こうと、ゾルカに求婚した。だが、1914年のサラエボ事件を契機に第一次世界大戦が勃発、セルビア人迫害が始まり、グラシチャニンはセルビアに逃亡し、恋は終わる。町は無法地帯となり、「自警団」によるセルビア人狩りが続き、橋では司祭や農夫が絞首刑となった。セルビア軍とオーストリア軍の戦闘が始まり、ふたたび町に難民が溢れた。キリスト教徒間の戦い(カトリックと正教徒)は「ヴェールをかぶった深い不安」で、「出口も、確かな解決もない不幸」だ。ムスリムのアリホジャも難民となった親戚を受け入れた。ロティカの一族も左岸に逃れた。
そして橋は爆破された。先祖代々、橋の袂で店を経営してきたアリホジャは、突然、宙に放り上げられる。7番目の橋脚が消失し、アリホジャは息をひきとる。彼はドリナの橋をこよなく愛したダウツホジャの子孫であり、異なる宗教を背景とする土地の者たちが分かり合うため心を尽くした人物だった。
民族、残酷と冷酷
『ドリナの橋』は、アンビバレントな民族の関係を見事に描き出す。歴史的状況によって、愛と憎悪は振幅する。町ではイスラム教徒のムスリム、正教徒のセルビア人、ユダヤ教徒のユダヤ人が三つの集団を成すが、18世紀の洪水では「共通の不幸の重荷が彼らを近づけ」、ムスリムとそれ以外の民(セルビア人、ユダヤ人)を隔てる「深淵に橋をかけ」て、人々は助け合う。
だが戦争が、民族間に溝を掘る。第一次大戦の勃発は、それぞれの民族が異なった感情で受け止めている。オーストリア帝国によるセルビア人迫害が始まると、ムスリムの間にはセルビア人に殺意を持つ者まで登場する。同じ言語圏の中にありながら、支配者のイスラム教に改宗したものは新しい民族「ムスリム」を名乗り、改宗しないキリスト教徒との間に階級構造が生まれた。
支配者の力で、外側から民族意識は形成されるのだ。そして民族意識は、信仰という内なる世界をも支配し、集団と個人の深層意識を操作することになる。「宗教の仮面の裏」で、土地、権力、世界観が争われるのは、世界中の戦争に当てはまることだろう。
作品には二つの帝国の性格が語られる。デウシルメ(生身税)や串刺しの刑にみる中世のオスマン帝国の残酷。貨幣経済と官僚機構を持ち込む近代のオーストリア帝国の偽善や冷酷。鉄道で旅行が速くなり、事件も速度を増し、生活全体がいずこかに向かって突進する町、蓄音機の騒音と刺激の強い光を求める町とは、明治時代の日本も含めて、世界中が憧れた「近代」に他ならない。橋を築いたのは中世のオスマン帝国、橋を破壊した爆発物を仕掛けたのは近代のオーストリア帝国だった。
橋を巡る人々
作品は、魅力ある人物に彩られる。歴史上の人物、名宰相メフメド・パシャは、セルビア人のルーツを奪われた少年時代の影を振り払おうと町に東西を結ぶ橋を架けたが、イスタンブールでイスラムの僧侶に暗殺される。ラディサヴはセルビア民謡に歌われる英雄で、串刺しの刑の写実的な描写は史料によるという。杭から頭をのけぞらす姿を、農夫は聖人だと囁いた。残忍な処刑に耐えたラディサヴは、死によって精神的な存在へと変容する。二人は不条理な最期を遂げるが、受難者は死後に永遠の命を得るという、キリスト教の思想を体現している。
ユダヤ人ロティカは美しく善良な女性。ホテルの有能な経営者として親族を養い、貧者を助ける。勤勉で聡明な彼女は資本主義の中で成功するが、戦争により財を失い、難民となって町を去る。ムスリムのアリホジャは隊商宿の管理者の子孫で、橋をこよなく愛す。いつも自分の頭で考える、少数派の誠実な平和主義者だ。彼は、橋の爆破とともに死ぬ。やはりこの二人も地上では報われぬが、誠実な生き方が語られ、読み手の心に刻まれる。
佯狂者と言うべき人物も、作品に形而上的な陰影を与える。セルビア人であるがため処刑されるイェリシエ老人は尋問を受け、「自分の名はない、職業もない、この世の旅人である、うつろい行くこの世のはかなき旅人」だと答え、セルビア正教的な人生観を示す。道化者のチョルカンは失恋し、凍てついた橋の手すりに上る。身軽に、大胆に、魔力で運ばれるかのように踊りながら。また土地の酔漢、若いペチコザもぶどう酒を賭けて、橋の手すりを歩きとおす。彼の巨大な影は月光を浴びて橋上に踊る。月光に浮かぶ二人の影は、橋を天へ結びつける。
小説でただ一人、民族名が記されぬ者は、余所者の賭博師である。この男が現れると、ミラン(この子孫がニコラ・グラシチャニン)は賭博で破滅する。月夜の晩、橋の上で余所者と賭博を続け、ミランは家も土地も失う。最後に男が「命」を賭けようと言うと、ニワトリが啼き、金も男も消え失せた。男は、貨幣社会の闇を象徴する金貨の悪魔だ。橋は地獄と地上を繋ぐ。
大宰相の少年時代という不幸から、橋は生まれた。東(イスラム教世界)と西(キリスト教世界)を繋ぎ合わせるという思想を象徴する。橋の意味は多義的であり、交通の手段、社交の場、処刑場、告知を掲示する場として実用的な機能がある。だが地上的な意味のほかに、形而上的、芸術的、美学的な意味をも担う。一日の終わり、ロティカは窓から見える白い橋に慰められる。橋は、美によって感動を与える愛と魂の建造物なのだ。
アンドリッチの橋の哲学は、アリホジャの言葉に託される。「たとえここで壊されても」、「どこかで建てられるだろう。どこかに平和な土地があるにちがいない。分別のある人びとが神のめでたもう良き業を心得ている土地が。神がこのドリナの岸の不幸な町から手をひかれたとしても」と。「神の召命に応じて永遠の建造物をたて地上をより美しく、地上の人間の生活をより楽によりたのしくする偉大で聡明な人間がすっかりと姿を消してしまうこと。これはあり得ない」と。
ユーゴスラビア王国の駐ベルリン大使だったアンドリッチは、1941年4月6日にドイツがベオグラードを爆撃すると、大使館員一行とともにスイスとの国境に強制移動され、すでにナチス・ドイツの占領下にあった祖国に戻る。外務省を退職、友人の家に蟄居して執筆に専念し、『ドリナの橋』、『トラヴニック年代記』(邦題『ボスニア物語』)、『お嬢さん』(邦題『サラエボの女』)を完成した。ナチス・ドイツがセルビア各地に強制収容所を設け、クロアチア独立国はヤセノヴァッツ強制収容所を作り、セルビア人、ユダヤ人、ロマ人の大量虐殺が続いた時代だ。
歴史の闇、人間の暗さを描きつつ、アンドリッチは希望を手放さない。苦難にあう善き魂を記憶し、天へ続く橋に希望を託す。命の意味は、地上から天につながっているのだ。
付記
引用は『ドリナの橋』(現代東欧文学全集、第一二巻、松谷健二訳、恒文社、1966年)による。アンドリッチの翻訳作品に『イェレナ、いない女 他十三篇』(田中一生、山崎洋、山崎佳代子訳、幻戯書房、2020年)があり、解題には、アンドリッチの文学の背景となったボスニア、ユーゴスラビアの歴史、アンドリッチの生涯と詩学を記しておいた。
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、1991年のスロベニア、クロアチアにおける内戦により解体がはじまり、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナにも戦火が及んで、『ドリナの橋』の舞台となったヴィシェグラードも戦場と化した。歴史に興味のある読者には、内戦で難民となった人々の聞き書きを集めた拙著『解体ユーゴスラビア』(朝日選書)と『パンと野いちご』(勁草書房)の序章を参照していただきたい。なお拙著『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』(左右社)には、ヴィシェグラードを扱った章がある。


山崎佳代子