平和について、あるいは「考えないこと」の問題(後篇)|東浩紀

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エミール・クストリッツァの話から始めることになっていた[★1]。
クストリッツァについての紹介は必要ないだろう。世界的に知られる映画監督で、1954年にサラエヴォで生まれた。カンヌ国際映画祭で最高賞を2度受賞しているほか、ベルリン国際映画祭とヴェネツィア国際映画祭でも賞を獲得している。作品はいずれも評価が高く、とくに1995年に公開された『アンダーグラウンド』は、ユーゴスラヴィアの誕生から崩壊までの半世紀を寓話的に描いて話題となった。ぼくも個人的にたいへん好きな作品である。
けれども、そんなクストリッツァは政治的発言で毀誉褒貶の強い作家でもある。前回記したように、欧米メディアでは、ユーゴスラヴィア内戦の原因はセルビアのミロシェヴィッチ政権の拡張主義にあり、ほかの民族は被害者だったという見かたが支配的である。クストリッツァはその歴史観に公然と異議を唱えている。それゆえリベラル派から激しく批判されている。
ぼくはクストリッツァの支持者ではない。だから彼の政治的立場を擁護するつもりはないが、これからの議論の前提として記しておけば、彼はけっして単純なセルビア民族主義者ではない。そもそも出自はセルビア人ではない。ボシュニャク人である。
旧ユーゴスラヴィアではセルビア人が権力を握っていた。そのとき彼はセルビア人ではなかった。だから当時を単純に礼賛しているわけではない。1985年に公開された2番目の長編映画『パパは、出張中!』は、1950年代のサラエヴォを舞台にしている。主人公は不当逮捕で父を奪われた幼い少年である。公開時はまだティトーの死から五年しか経っておらず、体制批判の意図は明らかだ。また彼はロマの人々に共感を抱いているのでも知られている。1988年の『ジプシーのとき』は、全編ロマ語で撮影された世界初の映画だと言われる。
クストリッツァの政治的感覚の基礎にあるのは、特定の民族の優越性ではなく、むしろ内戦前のサラエヴォで実現していた多民族共生の経験であろう。少なくともある時期まではそうだったと考えられる。
サラエヴォが首都になっているボスニア・ヘルツェゴヴィナは、内戦が起こるまではセルビア人とボシュニャク人とクロアチア人が混在する多民族共生の地だった。むろん実際には葛藤があり、その抑圧こそが内戦につながった。とはいえ、とりあえず表面的には共生の平和が実現していた。
クストリッツァはその時代の記憶を大切にしている。前述の『アンダーグラウンド』や、同じようにユーゴスラヴィア内戦を扱った2004年の『ライフ・イズ・ミラクル』を観ると、彼の関心が、だれが正しくだれが悪かったのかといった善悪の判断になく、同じ文化を共有し、同じ言葉を話していた民族が殺しあうことの不条理さに向けられていることがよくわかる。彼の映画には兄弟のモチーフが頻出するが、それは明らかに民族関係の隠喩になっている。クストリッツァも、さすがにセルビア人が悪くなかったとは考えていないだろう。ただ、セルビア人だけを悪者にしても、共生は戻って来ないと訴えているのだ。
とはいえ、その主張は確かにセルビアの罪を相対化するものではある。だから批判されている。それにじつのところ、あとであらためて見るように、最近ではクストリッツァの発言自体も素朴な歴史修正主義に近づいている。
クストリッツァは2005年に洗礼を受けて、セルビア正教徒となった。彼自身はイスラムを信仰したことはない。とはいえボシュニャク人は伝統的にイスラム教徒として知られる。その出自を否定したことになる。2012年にはセルビア正教会から最高位の勲章を授かっている。
ロシアのプーチン大統領とも親交がある。2012年の大統領就任式に列席し、2016年には勲章をもらっている。2022年にロシアがウクライナを侵攻した直後には、セルビアとロシアの連帯を重視する立場を表明している。最近では、プーチン政権の援助を受けロシア文学を主題とした新作を撮る構想も発表している。こうなってくると、いくらむかしの作品が好きでも擁護はむずかしい。
ちなみに翌年の2023年には、かつて1999年のNATOによる空爆に反対し、そのためにクストリッツァと同じく批判され続けているドイツの作家、ペーター・ハントケと連帯する書物も出している。ページをめくると、ハントケの名「ペーター」が聖人ペトロになぞらえられており、クストリッツァのなかで問題が宗教的次元にまで高まっていることがよくわかる[★2]。いまの彼は、現代世界を支配する大きな不条理に対して、芸術と宗教の力で戦っているつもりなのだろう。
さて、そんなクストリッツァは、セルビア西部のリゾート地に小さなテーマパークを建設している。その名を「クステンドルフ」または「ドルヴェングラード」という。
★1 前回はこの人物の名を「クストリツァ」と表記していた。地名のスレブレニツァと音訳の原則を合わせたからだが、クストリッツァは日本でもよく知られている人物なので、今回から日本での慣例にしたがい促音を入れて表記することにした。
★2 Емир Кустурица, Видиш ли да не видим, Српска књижевна задруга, 2023. セルビア語の書籍。自動翻訳で読んだ。本稿の資料収集においてはかなり自動翻訳の助けを借りている。
★3 Емир Кустурица, “О Нама.” URL=https://mecavnik.info/ サイトには英訳も掲載されている。なお、日本語ではクステンドルフは『ライフ・イズ・ミラクル』のオープンセットが転用され公園になったと紹介されていることがあるが、それは誤りだと思われる。シャルガン・エイトの観光鉄道、あるいは後述のアンドリッチグラードと混同しているのではないか。公園内を歩いても、映画に登場した建築があるようにはみえなかった。
★4 東浩紀『訂正可能性の哲学』、ゲンロン、2023年。
★5 公平を期すために紹介しておくと、2012年夏に現地を訪れた日本人旅行者のブログには、いまだ多くの観光客で賑わっているようすが投稿されている。URL=https://4travel.jp/travelogue/10712813
★6 スラヴォイ・ジジェク「『アンダーグラウンド』、あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化」、森田祐三訳、『InterCommunication』第18号、NTT出版、1996年、26-32頁。この論文はいまはネットで公開されている。引用はネット版からだが、句読点のみあらためた。なお、ジジェク自身は「キッチュ」という言葉は使っていない。URL=https://www. ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic018/intercity/zizek_J.html
★7 2014年の開園式の模様は以下の記事で報じられている。この時点ではまだ映画撮影に使う予定と記されている。URL=https://balkaninsight. com/ 2014/06/26/andricgrad-plans-opening-on-centenary-despite-controversies/
★8 ヴィシェグラード虐殺では1000人から3000人のボシュニャク人が殺害されたと考えられている。虐殺はメフメト・パシャ橋周囲でも行われ、死体はドリナ川に投げ込まれた。英語版ウィキペディアによる。URL=https://en.wikipedia.org/wiki/Vi%C5%A1egrad_massacres
★9 ヤスミラ・ジュバニッチ監督『物語ることのできない人々のために』、2013年。あるオーストラリア人の女性が旅行中たまたまヴィリナ・ヴラスに宿泊してしまい、その異様な雰囲気に接したことをきっかけにホテルの過去を知り、ヴィシェグラードの闇に迫っていくというドキュメンタリー仕立ての作品。トロント国際映画祭出品。
★10 以下の記事に記述がある。URL=https://www.ibtimes.co.uk/franz - ferdinand -assassination-serb-leaders-boycott-sarajevo-ceremony-unveil-gavrilo-princip-1454487
★11 アンドリッチグラードは2014年6月28日に開園した。開園式典には、この絵に描かれたスルプスカ共和国のドディク大統領が、セルビアのアレクサンダル・ヴチッチ首相とともに出席した。この日はじつは第一次世界大戦の引き金となったサラエヴォでの暗殺事件から100年の日にあたる。日本ではあまり知られていないが、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻を射殺した若いセルビア人、ガヴリロ・プリンツィプは、最近セルビアでは、帝国支配に抵抗し民衆を解放した愛国者として再評価が進んでいる。観光地では顔がプリントされたTシャツも見かける。クロアチア人やボシュニャク人のあいだではいまだにテロリストであり、ここでも歴史認識の衝突が起きている。いずれにせよ、そんな日をアンドリッチグラードの開園日に選んだことには、当然のことながら強い政治的な意図が込められている。説明が煩雑になるので本文では紹介していないが、クストリッツァが描かれたこのモザイク画の隣には、じつは同じ大きさでプリンツィプと彼の仲間(青年ボスニア)が描かれたもうひとつのモザイク画も掲げられている。いまのクストリッツァは自分をプリンツィプになぞらえているのかもしれない。
★12 妄想めいた読解を許してもらえれば、アンドリッチグラードのモザイク画に描かれたクストリッツァたちが引き寄せているのは、この映画で流された草原なのかもしれない。『アンダーグラウンド』でいちど葬送されたユーゴスラヴィアの統一の夢を、いまのクストリッツァは、セルビア系政治家たちとともに復活させようとしている。
★13 本稿の執筆後(2025年3月27日)、アメリカのトランプ大統領がスミソニアン博物館群の展示に介入する大統領令を発した。とりわけ介入が必要な博物館として名指されたのが2016年のオバマ政権時に開館したアフリカ系アメリカ人歴史文化博物館で、こちらの歴史展示には今後大きな変更が加わることが予想される。じつはぼくは2023年にワシントンに1週間滞在し、スミソニアン博物館群を集中的に見学したことがある。そのときもっとも強い印象を受けたのがこの博物館で、そこでは建国以来のアメリカの2世紀半が、白人と黒人が「ともに」手を取り合って自由や平等の理念を実現した歴史として語りなおされていた。むろん、現実にはアメリカは奴隷制から出発した国であり、1960年代まで強い黒人差別が残っていたことも知られる。したがってその語りはフィクションといえばフィクションなのだが、裏返せば、それは、この半世紀のアフリカ系ほかマイノリティからの告発を真摯に受け止め、建国の理念を遡行的に「訂正」した試みだと理解することもできる。それゆえぼくはその歴史展示をたいへん好意的に見ていたのだが、それがこれからトランプの介入で覆るとすれば、それこそがまさにここで議論されている「訂正を拒否する歴史修正主義」の典型的な例である。トランプは白人男性が支配したかつての「古き良き合衆国」の記憶をあまりに大事にしている。それゆえマイノリティによる訂正を認めることができない。しかし、民主主義とは、本当はそのような訂正の営みなしには成立しないのである。なお、この2023年の取材報告はシラスで番組になっており、本誌刊行時には再公開されているはずである。東浩紀、聞き手=上田洋子、「民主主義とは訂正する力のことである──ワシントン『観光』レポートと考察」、2023年8月18日。URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20230818
★14 東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」、『ゲンロン10』、2019年。「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」、『ゲンロン11』、2020年。
★15 東浩紀「哲学とはなにか、あるいは客的─裏方的二重体について」、『ゲンロン15』、2023年。
★16 ロシア系カナダ人の政治学者、マイケル・イグナティエフは、このときクロアチアからセルビアへ向かう取材旅行を敢行しており、スラヴォニアの幹線道路が砲撃で寸断され、住民の心も荒廃しているもようを迫真の筆致で描き出している。『民族はなぜ殺し合うのか』幸田敦子訳、河出書房新社、1996年、第1章。
★17 ヴコヴァル祖国戦争記念センターの公式サイトには、2013年に共和国の政令で設置が決まったと記されている。ただしこの説明はクロアチア語版のみにあり、英語版にはない。URL= https: //www.mcdrvu.hr/o-nama/o-ustanovi/
★18 このシュミットの小論は神崎繁のつぎの著書に訳出されている。『内乱の政治哲学』、講談社、2017年、98-100頁。
★19 同書、11頁。
2025年夏に東浩紀の新刊『平和論、あるいは愚かさについて』(仮)がゲンロンから刊行予定です。今号で後篇を掲載した「平和について」は、加筆修正のうえその第一部になる予定です。同書にはほか、本文で紹介した3つの論文、『ゲンロン14』に掲載された「声と戦争」、『ゲンロン16』に掲載された「ウクライナと新しい戦時下」などが収録予定です。全国の書店で購入可能なほか、友の会第15期の会員のみなさまは「選べる単行本」で特典の1冊として受け取ることもできます。詳しくは友の会からの案内をご覧ください。
『ゲンロン18』の刊行を記念して、東浩紀と上田洋子によるトークイベントが開催されました。イベントでは、原稿には入れることのできなかった取材写真を豊富に紹介しています。ぜひ記事とあわせてご覧ください。
東浩紀×上田洋子 【『ゲンロン18』刊行記念特別番組】平和は記憶できるか?──クロアチア&ヤセノヴァツ取材報告
URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20250516


東浩紀
1 コメント
- 浦野竜一(U_Ryuichi)2025/05/19 21:00
なぜ自分が「歴史修正主義」的なものに、警戒と同時に共感を覚えるのか、精緻に言語化されていて、すごくよかったです。