ロシア語で旅する世界(9)アートは地方都市を変えるか|上田洋子

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初出:2019年9月26日刊行『ゲンロン10』

 ロシアでは電子ビザシステムの拡大が検討されている。日本も対象国だ★1

 ロシアの電子ビザは現在、極東地域に渡航する日本、中国、インドなどからの旅行者を対象として、限定的に導入されている。2019年7月1日より飛び地のカリーニングラードが電子ビザの対象地域となり、こちらは欧州諸国を含む多くの国で申請が可能になった。さらに10月1日以降は、第二の首都サンクトペテルブルクもその対象となることが先日報道された★2。2021年にはこの電子ビザがロシア全土に適用されるという。ビザの有効期間も、これまでの8日間から16日間に拡大されることになっている。2018年サッカーW杯ロシア大会の際にはチケット購入者にファンIDが発行され、観光ビザが免除されたが、これが電子ビザ制への移行の布石になったようだ。

 前号でも書いたことだが、ビザの取得はロシア旅行の障害となっている。航空券を取り、ホテルを予約しただけでは入国できない。ビザ申請用の手配確認書(バウチャー)を現地のホテルや旅行社から入手しなければならない。しかもビザの申請から取得まで約一週間かかる。これではロシアはだれもが思い立ってすぐに出発できる気軽な旅行先にはなり得ない。だから、その手間が大幅に改善されるならば、たいへん歓迎すべきことだ。

 この春、電子ビザを利用して極東のウラジオストクに行ってみた。じつは申請後もビザが下りるまでは気が気でなかった。うっかりデータに不備があったらどうすればいいのか。しかも、同時期に金正恩朝鮮労働党委員長がウラジオストクを訪問するとの報道があり、急にビザ発給が停止になったりしないかと不安になった。

 かつて、ロシア語力がまだ未熟なころ、留学中のロシアから東欧へ鉄道で旅をしたことがある。帰途、ポーランドとベラルーシの国境の町ブレストで無理やり列車を降ろされ、次の列車でワルシャワに送り返された。ロシアと東欧のあいだの国ベラルーシを通過するためにはトランジットビザが必要だ。ビザは取っていた。しかし、当時のわたしは愚かにも往路と復路、2回分のビザがいるということを理解していなかった。2000年ごろのことで、まだ携帯電話もWi-Fiもなく、ちょっとした絶望感を味わうはめになった。ビザに関して神経質になってしまうのはあのときの経験のせいかもしれない。

 他方、ウラジオストク行きの電子ビザはなんの問題もなく下りた。申請の4日後には、日曜にもかかわらず許可のメールが届いた。国境でもトラブルはなかった。金正恩委員長の通行による交通規制はあるにはあったが、市民の生活に影響を与えているようには見えなかった。ロシアの民主化を肌で実感した。

 


 今回はわたしにとって20年ぶり2回めのウラジオストクだったが、おしゃれなレストランや歩行者天国のショッピング街ができ、海沿いの公園が整備されて、魅力的な観光地に変身していた。とりわけ、そもそもビザが不要な韓国人、そして中国人のあいだで人気のツアー先になっているらしく、団体旅行客がとても多かった。ウラジオストクは2012年のAPECを皮切りに、2015年からの東方経済フォーラムなど、首脳レベルの国際会議の開催地となっている。2013年にはサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場の分館がオープンしていて、本格的なオペラ・バレエを見ることができる。今後はエルミタージュ、トレチヤコフ美術館、ロシア美術館というロシアの3大美術館の分館が開設されることになっている。
 ウラジオストクにかぎらず、ロシアの地方都市では文化投資によって市民および国内外の観光客に町の魅力をアピールするケースが見られはじめている。その先駆的な例は、2000年代末に現代美術による地域おこしを試みたペルミだろう。ペルミはヨーロッパロシア東部、ウラル山脈西麓の工業都市。昨年、この町を訪れる機会があった。収容所博物館の取材がおもな目的だったが、以前から文化都市構想のその後を見ておきたいと思っていた。

 前置きが長くなったが、今回はロシアの地方都市における文化政策と、芸術の関係について考えてみようと思う。ここではペルミのほか、ヴィクサという小さな鉄鋼業の町を取り上げる。ヴィクサは未訪問だが、優れたパフォーミングアーツの試みをつうじてその名を知ることになった。考えてみれば、ヴッパタール(ピナ・バウシュ)、ニコラ=レニーヴェツ(アルヒストヤーニエ)、そして利賀村(鈴木忠志・SCOT)と、芸術をきっかけに地名を知る機会は多い。

1 先駆者の運命――文化都市ペルミ


 現代美術で町おこし

 まずはペルミから見ていこう。

 ペルミでは2008年、ビジネスマンで国会議員のセルゲイ・ゴルデーエフと、大物ギャラリストで活動家のマラート・ゲリマンの企画で「ロシアの貧しいもの Русское бедное」という現代美術展が開催された。ロシアの作家たちの、ダンボールや古タイヤなど身近で安価な素材を用いた作品を集めた大規模な展覧会で、35000人以上の動員数を記録した。これは当時、地方都市の現代美術展としては前代未聞の数字だったらしい。

 ゲリマンはペルミ市に文化による都市の活性化を進言し、「ロシアの貧しいもの」展はその後現代美術館創設計画へと発展した。こうして、2009年にペルミ現代美術館(PERMM)がオープンし、ゲリマンが館長となる。美術展だけでなく、パブリックアートの設置や都市デザインの計画も発表され、少なくともメディアで情報を追っている限りでは、ペルミは先進的なアートの町であるように見えた。じつはゲンロンでは2014年3月、ゲリマンにインタビューをしたのだが、そのとき彼は、ロシアではデザイナーという専門職がなく、アーティストがそれを兼ねているので、現代美術家は都市デザインの課題を抱える自治体と協働できると語っていた★3

 しかし、残念ながらペルミがアートの町であったのはわずか数年にすぎなかった。当時のペルミ知事が2012年4月に任期を待たずに辞任すると、少しずつ文化政策の風向きが変わっていく。社会風刺的な作品を多く扱っていたゲリマンが批判の対象となるのに時間はかからなかった。2013年には館長職を解かれ、もともとモスクワを拠点としていたゲリマンはペルミを後にした。ゲンロンのインタビューはその翌年のことなのだが、さらにその数ヶ月後に彼は家族とともにロシアを離れ、モンテネグロに移住した。
 ゲリマンの解任は、いちど大統領職を離れていたプーチンが政権トップに返り咲いた一年後のことだ。この時期は影響力のある反権力の知識人が、愛国メディアや愛国団体をつうじてバッシングにあっていた。ゲリマンも作家のウラジーミル・ソローキンらとともに、「第五列」(裏切り者の意味)と呼ばれ、激しく叩かれた。前回紹介したフェミニストのアート・アクティヴィストグループであるプッシー・ライオットの逮捕が2012年春のこと。社会を議論に巻き込んだ彼らのアクションは、こうしたバッシングのひとつの引き金になったと言える。また、『ゲンロン7』の共同討議でも触れられているが、2012年は反体制派のデモが頻繁に行われた時期なので、それに対する保守派の反動でもあるだろう★4。バッシングの結果、自国を悪く言う文化人は国内での活動が制限され、国外に出るなどして影響力を弱めた。

 ペルミ現代美術館には、当初、市の中央部を流れるカマ川の埠頭の歴史的建造物が当てられていた。「ロシアの貧しいもの」展の会場となった建物だが、のちに美術館にふさわしく改装されるはずで、コンペでは今号の「宗教建築と観光」で本田晃子さんが紹介しているモスクワの建築事務所メガノームが一位となった★5。しかし、その案はいつのまにか立ち消えになったようで、2014年に埠頭の改修工事のため美術館が工場地帯のそっけない建物に移って、それっきりになっている。わたしが訪れたとき、町外れの美術館は閑散としていて、展示にも覇気があるとは感じられなかった。他方、市内に多くあるパブリックアートはそれなりに市民に愛されているように見えた。

 クルレンツィスの招致

 ペルミ文化都市プロジェクトで、現代美術に続いて中心に据えられたのはクラシック音楽だ。2011年、クラシック界の異端として将来を嘱望される若手指揮者・テオドール・クルレンツィス(1972年生まれ)が、ペルミオペラ・バレエ劇場の芸術監督に任命された。クルレンツィスはそれまでシベリアの首都ノボシビルスクのオペラ・バレエ劇場で首席指揮者と音楽監督を勤めていたが、当時先駆的な文化都市構想を掲げていたペルミの呼びかけに応え、彼が創設したオーケストラ・ムジカエテルナとともに拠点を移した。

 こうして、現代美術と先端的なクラシック音楽を両輪とする、芸術好きにはたまらなく魅力的な町づくりが推進されるかに見えた。しかし、先に触れたように、まもなく知事が辞任、ゲリマンが去り、現代美術は下火になる。残った音楽は、同じく予算の削減を受けながらも、「文化都市」ペルミの顔になった★6

 ペルミの文化都市構想の中心にクラシック音楽が据えられるのには歴史的な意味がある。この町は「バレエ・リュス」の仕掛け人セルゲイ・ディアギレフの出身地なのだ。
 バレエ・リュスは20世紀初頭、パリを皮切りに世界を席巻したバレエ団で、ニジンスキーの『牧神の午後』、ストラヴィンスキー作曲の『火の鳥』、そしてサティ、コクトー、ピカソ、レオニード・マシーン(ロシア語では「ミャーシン」)のコラボ『パラード』など数々の伝説を生み、バレエ芸術の現代化に決定的な役割を果たした。

 15世紀イタリアで始まったバレエは17世紀にフランスで発展したが、一九世紀前半には大衆化し、衰退した。その後バレエの中心はロシアに移り、チャイコフスキーの音楽、マリウス・プティパの振付とともにいわゆるクラシックバレエが発展する。20世紀のはじめ、象徴主義やアール・ヌーヴォーの退廃的な空気を纏ったロシア・バレエを、ヨーロッパの辺境の異国情緒とともにパリに持って行き、同時代の美術や音楽、芸術運動と結びつけたのが、ペルミ出身のディアギレフだった。

 ペルミではディアギレフの名を冠した芸術祭が2003年から開催されていた。クルレンツィスが芸術監督に就任して以来、この芸術祭の国際的な注目度は目に見えて高まった。

 ところがクルレンツィスは、2019年6月をもって、ペルミオペラ・バレエ劇場の芸術監督を退任してしまった。理由は複数あるようだが、大きく言えば、文化に対する市の無理解についに我慢ができなくなった、ということのようだ。詳細を書くと長くなるので省くが、退任直後のインタビューによると、約束されていた新しい劇場は建設されず、稽古場もなくて文化会館を間借りしている状態、他方でペルミ以外での公演を減らして市民に貢献するよう要請されるなど、芸術活動にとってかなり厳しい状況だったという。なにより芸術家・専門家としての自分たちへの敬意がなかったことに傷ついたとのことだった★7。なお、クルレンツィスはロシアに帰化したギリシア人で、ロシアの社会に順応し、ロシア文化への愛を公言している。

 芸術界の常識から考えると、いままだ40代と指揮者としては若く、これからさらに名声を高めるであろうクルレンツィスをこんなふうに手放すことは愚かな選択に見える。だが、はたしてほんとうにそうか。ソ連時代には劇場が社会全体が享受すべき文化として機能しており、どこの地方自治体にも存在した。ソ連崩壊後も劇場の数は増え続け、国や地方自治体が予算を負担する劇場は現在650以上にのぼる。ところが制度的な制約と資本主義における経験不足があいまって、黒字の劇場は極めて少ない★8。おそらく、ペルミ市でも世界規模のオーケストラや劇団の維持は難しいのだろう。クルレンツィスはディアギレフ芸術祭の芸術監督については留任を希望している。これが認められれば、フェスティバルとしてはそれなりの規模とクオリティのものが残っていくのかもしれない。

 さて、先述のとおり、ペルミ訪問は収容所博物館取材のためだった。ペルミ市内から車で一時間強の村に位置する「ペルミ36」は、90年代に地元の反権力知識人が手弁当でつくった収容所跡地の博物館だ。ペルミ36では展示やエクスカーションだけでなく、2000年代半ばから政治討論つきの音楽フェスや演劇公演を主催していた。これらのイベントは集客もかなりあって地方自治体も協力していたのだが、ゲリマンと同様、2012年以降の文化政策の変化のあおりで創設者たちがバッシングを受ける。そして運営主体も館長も方針も変更になった。この博物館についてはまた詳しく書くこともあるだろう。

 いずれにせよ、ペルミの文化都市構想は時期尚早で、外からもたらされる文化芸術と町が有機的に結び合うことができなかった。

2 工場と身体――製鉄所の街ヴィクサ


 マルタン受難曲

 クルレンツィスの退任とともにペルミの早過ぎた試みが終わりを告げたのと同じこの六月のこと、現代美術のロシア国家賞「イノヴァーツィヤ」(イノヴェーション)が発表され、ヴィクサという小さな地方都市の工場で上演された現代音楽とコンテンポラリーダンスのパフォーマンス『マルタン受難曲Страсть по Мартену』(2018年)が作品賞を受賞した[図1]。振付家・演出家アンナ・アバリーヒナ(Анна Абалихина、生年非公開)、作曲家アレクセイ・スィソーエフ(Алексей Сысоев、1972年生まれ)、美術家クセーニヤ・ペレトゥルーヒナ(Ксения Перетрухина、1972年生まれ)によるコラボ作品である。

図1 『マルタン受難曲』 図版提供=Арт-Овраг


 ヴィクサはモスクワから300㎞ほど東にある、ニジニ・ノヴゴロド州のちいさな町で、人口は約5万人ほど。この町には巨大な冶金工場がある。2018年3月、この工場でシーメンズ=マルタン法(平炉法)と呼ばれる方式を用いた製鋼炉が稼働を停止した。この炉は1930年製、つまり初期スターリン時代の第一次五カ年計画の最中に作られたものだ。シーメンズ=マルタン法の製鋼炉は1960年代までは世界的に主流だったが、次第に転炉方式へと取って代わられ、現在では東欧・ロシアの一部でしか用いられていない。ヴィクサの炉は残ったシーメンズ=マルタン法の製鋼炉のうち最大のものだった。

『マルタン受難曲』は2018年6月、役割を終えた製鋼炉で上演された。上演の様子はYouTubeでダイジェスト版の動画が公開されているので、ぜひ見てみてほしい★9。むき出しの工業デザインと錆びた鉄の表面が圧倒的な存在感を放つ、古い工場のだだっ広い空間。製鋼炉が稼働をやめて以来生命が途絶えていたその空間に、つかの間ひとが戻ってくる。そこでは古びてしまったテクノロジーの歴史が、あたかも聖人の生涯であるかのように歌われ、踊られる。そして人間の力で、そこに運動と熱気、音が回復されるのだ。

 産業の発展からアヴァンギャルドへ

 ところでヴィクサという名はロシア語にしては奇妙な響きである。これはヴィクスニ川という川の名前に由来するらしい。このあたりにはかつてフィン=ウゴル系の民族が住んでいた。ヴィクスニは彼らの言葉で「流れ」という意味を持つという。

 18世紀の半ば、ピョートル大帝の娘エリザヴェータが、モスクワから200露里(1露里は約1067m)圏への工場建設を禁止した。禁止区域に入っていた製鉄工場の持ち主が次なる土地を求めて移動した先がヴィクサ河畔だった。ここでは鉄鉱石が採れただけでなく、交通の要衝であるオカ川が近く、またニジニ・ノヴゴロドのいちからも遠くなかったからだ。現在ではヴィクサはヨーロッパ随一の鉄管の生産地で、石油パイプラインのパイプなどがここで作られている。また、ロシア鉄道のための車輪も生産しているという。
 ヴィクサ冶金工場には、製鋼炉以外にも記念碑的建築がある。そのひとつが建築技師ウラジーミル・シューホフ(1853-1939年)設計による双曲面構造の給水塔だ。双曲面構造とは、格子状の鉄骨が円錐台形に伸びている構造のこと。エッフェル塔よりもはるかに軽い重量でより高い塔を建てることができるそうだ。日本では神戸のポートタワーが同じ構造をとっている。シューホフ設計による給水塔はロシア全国に200あったが、そのうち20ほどが現在でも残っているという[図2]。ほかにもヴィクサ冶金工場には、シューホフが世界で初めて考案した二重曲面のシェル構造の建造物もある。工場のサイトを見ると、普段から見学を受け付けているらしい★10][図3]

図2 ニージニー・ノヴゴロドに建てられたシューホフによる世界初の双曲面構造の塔。1896年。A.O.カレリン撮影。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:First_Shukhov_Tower_Nizhny_Novgorod_1896.jpg Public domain


図3 シューホフによる建設中のヴィクサの二重曲面シェル構造。1897年。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Double_curvature_steel_lattice_Shell_by_Shukhov_in_Vyksa_1897_shell.jpg Public domain


「シューホフ塔」といえばモスクワのラジオ塔(1919-22年)が有名で、アレクサンドル・ロトチェンコが真下から撮影した写真がよく知られている。そんなこともあって、塔の軽やかなグリッドはロシア・アヴァンギャルド芸術、とくに構成主義を想起させる。しかし、実際にはこれを建てたときのシューホフはすでに60代後半の大御所である。活動期からしても、シューホフは、ソ連というより帝政末期の建築技師であり、彼のおもな仕事は革命前になされていると言ってよい。アヴァンギャルドなのは彼の建築それ自体ではなく、彼の建築からインスピレーションを受けて作られた新しい表象のモードである。モスクワのグム百貨店のアーケード(1889-94年)や、同じくモスクワのキエフ駅のアーケード(1914-18年)などのガラス建築もシューホフの設計によるものだ。そしてガラス建築といえば、ユートピア指向のアヴァンギャルド建築家たちが好んだものである。

 シューホフの功績は塔やアーケードだけではない。彼はロシア帝国初の石油パイプラインの技師でもあり、1878年、バクー近郊の油田から工場まで、約10㎞のパイプラインを敷いている。また、前述の双曲面構造のほか、鉄パイプを使ったボイラーや、石油の分離蒸留装置などで特許を取っている。余談だが、革命後のシューホフは1929年、それまで保持していた特許をソ連政府に譲渡した。彼の親族には、革命後の内戦で白軍側につき、のちに粛清された者もいる。

 機械のふたつの美

 1920年代前半、ロシア革命後、内戦が終わって少しだけ落ち着いた時期に、演出家フセヴォロド・メイエルホリド(1874-1940年)は「演劇のテイラー主義」を唱えた。新しい政治体制の新しい国で、人間の身体を機械のように効率的かつ正確に動かし、完成度の高い演劇作品をつくることを夢見たのだ★11。当時は機械礼賛の時代で、「機械のような」は褒め言葉だ。
 ヴィクサの工場で上演された『マルタン受難曲』では、有用性を失った機械や装置をダンサーのシャープな動きがリードする。アヴァンギャルドが美を見出した工場設備は、いまや時間に侵食され、すっかり古びてしまった。21世紀のわれわれは古びて使えなくなった機械や装置に美を見出す。東浩紀は「ソ連と崇高」(『テーマパーク化する地球』所収)で、ソ連における技術信仰が現代人に呼びおこすある種の崇高の感覚について論じていた。『マルタン受難曲』は、技術的な困難との格闘とその克服を体現するかのような、鈍重で巨大な機器たちへの郷愁のような感覚を呼びおこす。

 振付・演出を担当したアバリーヒナは、現代ロシアを代表するコンテンポラリーダンスの振付家である。舞台装置にプロジェクション・マッピングやビデオアートを用いて、人間の身体とコラボさせた知的で現代的な作品が知られているが、他方、初期のピナ・バウシュのような、感情や物語を描いた作品も作っている。

 彼女の初期のころの作品に、『短剣で刺す』という小品がある。メイエルホリドが演劇のテイラー主義の実現のために考案した俳優身体訓練「ビオメハニカ」に想を得たものだ。メイエルホリドの訓練では、体操着姿の男女二人組が向かい合い、見えない短剣を引き抜いて、至近距離で相手を刺す動作をする。刺されたほうは倒れ、硬直して、刺した者に担がれる。これを、連続写真の一コマ一コマのように、動きを止め、次の動きのためのエネルギーを溜めながら丁寧に見せていく。アバリーヒナはこの身体訓練のユーモラスな動きをアレンジして、空間を支配するダイナミックな身体を示してみせた。

 わたしはアバリーヒナの『短剣で刺す』を、モスクワの工場跡地の文化センター「プロエクト・ファブリカ」にあった「ツェフ」というコンテンポラリーダンスの協会が管轄するホールで見ている。「ファブリカ фабрика」は工場、「ツェフ ЦЕХ」は工場の「部門」を示す言葉だ。ツェフは2000年代はじめに作られた、ロシア初のコンテンポラリーダンスの互助組織で、ダンサーの支援や若手育成を行なっていた。ちょうど同じころ、工場跡地をアートスポットにするビジネスがロシアでも盛んになりはじめた。ロシアではとくに若いジャンルであるコンテンポラリーダンスの会場はしばしばそうしたスペースだった。考えてみれば、ソ連の工場はポスト・ソ連時代には文化センターとして生き残っている。

 雨裂の芸術

 ところで、『マルタン受難曲』が上演されたのは、2011年から開催されている「アート・オヴラグ Арт-Овраг」という、地域アートフェスティバルの枠内だった。オヴラグとは雨裂、つまり雨水や雪解け水の流れによって侵食され、沢状に発達した地形のことだ。会場となっているヴィクサの中央公園がこの地形だという。雨裂は一九世紀ロシア文学でしばしば描かれてきた風景で、たとえば『猟人日記』などのトゥルゲーネフの諸作品に登場するし、チェーホフには「雨裂にて」という短編すらある。しかし日本人には想像しにくい地形だろう。外来語の「ガリ」でウィキペディアに項目があり、ロシアのガリの写真も掲載されているので参照してほしい。
 第1回のアート・オヴラグはストリートアートのフェスティバルで、グラフィティのワークショップ、ブレイクダンスやヒップホップのダンスバトル、VJつきコンサートなど、若者文化をメインにした参加型のプログラムだった。第2回以降、パブリックアートを中心に、建築や現代美術を含めてフェスティバルが拡大していく。2017年にはモスクワのミーシャ・モスト(Миша Мост、1981年生まれ)が10800平米にも及ぶ巨大なグラフィティを工場の壁面に制作した。さらに2018年には文字を使ったユーモラスで風刺的な作品で有名なエカテリンブルクのチモフェイ・ラディヤ(Тимофей Радя、1988年生まれ)が森の中に《これは夢じゃない》というネオンサインを作り、民間の現代美術賞であるカンディンスキー賞の候補となった。現在はアーティスト・レジデンスも行なっており、2019年度はモスクワ在住の日本人写真家・桑島いくる(1984年生まれ)や、社会問題を扱うロシアの若手サーシャパーシャ(SASHAPASHA、2009年結成)ら、9組がヴィクサで制作を行うようだ★12

 そもそもヴィクサは「モノゴロド моногород」と呼ばれる、ソ連時代に工場などの事業体の建設とともに生まれた、ひとつの事業体に依存して経済や生活が成り立っているタイプの町である。ソ連崩壊後、モノゴロドの核にあった事業体の多くが機能不全に陥ると、各モノゴロドそれ自体も廃れていき、社会問題となった。ヴィクサ冶金工場は1992年以後、OMK(冶金連合会社)という、ヴィクサのほか、ウラル地方やタタールスタンなどの五つの工場を統合した会社の一員になっている。OMKの本社はモスクワにあり、この会社と、同じくモスクワにある「OMK・参加」という関連慈善団体、そしてヴィクサの町が共同でアート・オヴラグを主催している。つまりアート・オヴラグは、将来冶金工場で働くはずの若者たちが町を離れるのを防ぐための、企業グループによる社会貢献事業なのだ。

 だからこのフェスティバルでは、町の景観を良くしたり、若者が生きがいを見出したり、子どもが将来この町を離れがたくなるような、あるいは離れても戻ってきたくなるような、ポジティヴな作品や体験が提供される。また、市民に率先してまちづくりに関わってもらうための、その名も「町をつくろう」というワークショッププログラムもあって、専門家の指導のもと、市民が公園の遊具などをデザインしている。アート・オヴラグによって、じっさいに若年層の人口流出は抑止されているとのこと。ヴィクサはロシアにおけるアートによる町おこしのめずらしい成功例となった。2018年には過疎化や衰退になやむ無数の小さな町のためのモデルケースとして、「全ロシア小都市・歴史的居住区会議」という、地域振興をテーマとする会議を主催している★13

3 芸術の役割


 イノヴァーツィヤ賞の変化

 ところで、『マルタン受難曲』が受賞した現代美術賞・イノヴァーツィヤといえば、かつてはアート・アクティヴィストのグループ「ヴォイナ」(戦争)の、はね橋が上がるとそこにファロスが落書きされていて、正面にある政府の諜報機関の建物に対してファックユーを突きつける格好になる、といった作品が受賞するような、尖った賞だった。2015年にはおなじくアート・アクティヴィストのピョートル・パヴレンスキーによる、ロシア連邦保安庁のビルに放火をするパフォーマンスに授与されそうになったことすらあった。この《脅威》というパフォーマンスでは作家が逮捕され、器物損壊の有罪判決を受けている★14。結局、その年は該当作なしとなったが、《脅威》を超えるインパクトを持ち得た作品もなかったと言えよう。
 だが、その後は毒のある作品がイノヴァーツィヤを受賞することはほとんどなくなった。2018年からは審査員が総入れ替えとなり、以前はロシア人ばかりだったのが、国際的な顔ぶれとなった。もはやロシア美術の文脈、とくにソ連時代から続く抵抗芸術の文脈を踏まえていることは評価されず、アートという枠組みで大なり小なり社会的な機能を果たしている作品が選ばれているように思う。

 そもそも、国家に損害を与えた行為に国家賞が与えられるのでは、与える側も受け取る側もいささか道理が通らないだろう。だから、この改革によって、国家と芸術家の関係が正常化したと言ってもいい。ロシア現代美術のルーツはソ連時代の非公式文化にあり、どうしてもアイロニカルな作品が作られがちで、しかも非公式芸術の歴史を知る鑑賞者の評価軸は過去の文脈にとらわれがちだ。だから、それがリセットされるのは悪いことではない。

 ペルミの例で見たように、いまのロシアにおいて、体制を風刺し抵抗を叫ぶことでは社会を変えられなくなっている。『マルタン受難曲』、そしてアート・オヴラグのようないわゆるソーシャリー・エンゲージド・アートは、ポスト・抵抗の時代の新しい闘い方なのかもしれない。少なくともヴィクサでは、それらは寂れて殺伐としかけた地域社会を救うことになった。もちろん、OMKは大企業であり、アートが社会や経済に取り込まれているのは否めない。アート・オヴラグはOMKが手を引いたら続かないであろうことも容易に想像できる。とはいえ、抵抗芸術が力を失った時代に、注目すべき動きであることは確かだ。

 


 この春のウラジオストク旅行では、「ザリャー Заря」という、やはり工場跡地の文化センターを訪れた。ちょうど、ここのアーティスト・イン・レジデンスでこれまでに制作された作品からなる展示が行われていた。2014年から行われているザリャーのレジデンスでは「この土地の環境調査とその発展」が目標として掲げられており、展示作品は、いずれもウラジオストクをテーマにしていた。観光客のわたしには、この町をより深く知るための道しるべとなる良い展示だった。
 敷地内にはストリートアートが多数あり、ここでもチモフェイ・ラディヤの《ねえ、きみ、愛してよ》という作品が目立っていた[図4]。近年、ロシアでもウクライナでも注文制作のストリートアートが増えた。ラディヤはときに風刺的なメッセージを込めたゲリラ的な作品でニュースになったりもしているが、注文制作とそうしたゲリラ的な作品とのあいだでバランスを取っているようだ。

図4 ウラジオストクのザリャー文化センターの壁に書かれたチモフェイ・ラディヤによる作品 撮影=上田洋子


 心地よいアートは愉しい。しかし、社会の異端的な立場から、ひとになにかを突きつけてくるような暴力的な作品がなくなると、芸術の機能のうちの大事な部分が欠けてしまうように思う。社会は変化し、芸術に求められるものも変化している。とはいえ社会の要求に応じる作品だけが生き残るようでは芸術は衰退してしまう。かつての戦略が有効でなくなったいま、それぞれの芸術家が自立や自由、自分自身の社会に対する役割について立ち止まって考える時期であるのかもしれない。

★1 Владимир Путин поручил ввести электронные визы. Коммерсантъ. 17. 06. 2019.
★2 「サンクトペテルブルクで外国人観光客のためのEビザ導入」、『ロシア・ビヨンド』、2019年7月22日。
★3 マラート・ゲリマン「『ユートピアの埋葬』を文化プロジェクトに」『ゲンロン通信#14』、2014年。ペルミ現代美術館の公式サイトは以下。URL=https://permm.ru/
★4 『ゲンロン7』(2017年)の共同討議「歴史をつくりなおす」において八木君人は、メディア操作とデモによる国民の分断について「反体制・不正選挙デモがあったときに、それに対抗するプーチン支持デモもあった。[……]国民はそのときに、メディアを通して意識的な選択を迫られたのではないか」(80頁)と、指摘している。
★5 メガノームの公式サイトには、ペルミ現代美術館の計画が2009-11年のプロジェクトとして掲載されている。
★6 ペルミの文化都市構想は、ロシア国内にとどまらず、2016年欧州文化首都への認定を目指していた。ベルリンとブリュッセルに認定を呼びかけるための事務所を構えていたので、かなり本気だったようだ。もっとも、欧州文化首都はEU加盟国間で決定されており、現実的なプランだったとは言えない。たとえば以下のニュースを参照 Пермь – культурная столица Европы? DW. 09.05.2012.
★7 2019年7月3日にジャーナリストのクセニヤ・サプチャクのYouTube番組「サプチャクに注意! ОСТОРОЖНО, СОБЧАК!」で公開されたインタビューにおいて、クルレンツィスはペルミを去ることにした複数の原因をあげつつ、彼がペルミを気に入っていて、本当は残りたかったことを強調している。Первое интервью ТЕОДОРА КУРЕНТЗИСА после ухода из Перми.
★8 劇場の総数については、ロシア演劇アカデミーにおいて批評家のグリゴリー・ザスラフスキーが主宰する「未来の演劇研究所 Лаборатория будущего театра」による演劇の供給状況についてのリサーチが詳しい。Лаборатория будущего театра. Театры России. Оценка театрального предложения. 2018. 劇場数の増加については、上田洋子「実験演劇の伝統と更新」、『ロシア文化の方舟』(東洋書店、2011年)213頁を、経済状況と非効率的なシステムについては «Мизерные зарплаты и лабуда на сцене». Lenta.ru. 26.08.2017 におけるプロデューサーたちのインタビューなどを参照。
★9 ダイジェスト映像はアート・オヴラグの公式YouTubeチャンネルから視聴できる。
★10 工場見学には三つのコースがあり、毎週土曜に開催されている。以下のサイトから予約をすれば、鉄のシート、鉄パイプ、車輪などを作る工程を見ることができる。URL=http://visitvmz.batashevhotel.ru/
★11 上田洋子「ロシア語で旅する世界#7 メイエルホリドの革命」、『ゲンロン5』、2017年、293頁。
★12 レジデンス情報やこれまでの作品はアート・オヴラグの公式サイトを参照。
★13 第1回全ロシア小都市・歴史的居住区会議 1-я Всероссийская конференция по малым городам и историческим поселениямは、2018年10月5-7日にヴィクサで開催された。「町をつくろう」のパンフレットは以下からダウンロードができる。URL=https://drive.google.com/file/d/1d2AW6E-YOADyPiG3UsTzjrjKbHfnkaZ_/view
★14 ヴォイナ、パヴレンスキーについてはともに、上田洋子「ロシア語で旅する世界#5 メディアとしてのアクションとパフォーマンス」(『ゲンロン2』、2016年)で写真つきで論じているので参照されたい。
 

上田洋子

1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。早稲田大学非常勤講師。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。著書に『ロシア宇宙主義』(共訳、河出書房新社、2024)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS、2018)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著、森話社、2017)、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(調査・監修、ゲンロン、2013)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社、2012)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010)など。
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