情念の白い墓標(2) 日本のバルザック(1)|入江哲朗

初出:2012年4月20日刊行『ゲンロンエトセトラ #2』
第1回はこちら
3.
国立浪速大学附属病院第一外科の東教授が、自らの「女房役」である助教授の財前五郎に対して抱く印象とは、たとえば次のようなものであった。
それにしても、財前のあの頭の回転の早さと用心深さは何だろうか──。教授の機嫌を損わず、しかも言葉尻を捉えられないように一つ一つの意見に、何々だと聞いていますがという慇懃な間接的表現を取りながら、自分の云うべき論点は強引にちゃんと云ってのけている。その要領のよさとそつのなさは、東のように医学者の名門に、苦労らしい苦労もせずに育って来た者には到底、真似の出来ないもので、苦労して下積みからのし上り、土足で権威の世界へ踏み込んで来る者のふてぶてしい逞しさであった。
(①238頁。なお本稿では2002年の新潮文庫版『白い巨塔』の巻数を便宜上①~⑤の記号で示した。また注記のないかぎり引用文中の強調はすべて原文に基づく)
財前五郎は岡山県の片田舎の生まれであり、旧姓は黒川といった。小学校の卒業を前に父を事故で亡くし、以後は父の弔慰金と母の内職と奨学資金によって浪速大学の医学部まで進学した。学生時代の五郎をなにかと支援してくれていた村の開業医が、財前又一と大阪医専で同窓だった縁により、医学部を卒業して5年目の助手時代に五郎は又一の娘・杏子と結婚する。養子縁組を結んだその日から、黒川五郎は財前五郎となった。
財前又一は堂島で財前産婦人科医院を開業する産科医である。自分の娘婿を「わしの買うた投資株」と呼んで憚らない又一の扶助によって、五郎は金銭面での心配に煩わされることなく巧みにキャリアを積み上げ、杏子とのあいだに2人の子供を儲けるかたわらでバーのホステスの花森ケイ子とも情事を重ね、43歳となった現在では週刊誌に「食道外科の若き権威者」と持てはやされるほど脂が乗りきっていた。じじつ、彼が癌の専門医として自家薬籠中のものとしていた胸壁前食道胃吻合術の手技は、世界的にも一頭地を抜く㆑ベルに達していた。いまや周囲の誰もが財前を第一外科の中心と見なしており、そんな彼の功名は、停年退官間際の東の胸中に警戒とも嫉妬ともつかぬ「黯い影」を少しずつ広げていくこととなった。
『白い巨塔』の物語は、第一外科の財前五郎と第一内科の里見脩二という対蹠的な性格を持つ2人の主人公によって糾われているが、あくまでも主軸を成すのは立身栄達の野心に燃える財前の一代記である。その行く手に最初に立ちはだかることになるのは、彼の師であった。東は自分の後任教授として、財前ではなく金沢大学の菊川教授を推すことを決めた。菊川を紹介したのは東の出身校でもある東都大学の船尾教授であり、そこには、浪速大学に対する「リモート・コントロール」をそれぞれに目論む東と船尾の思惑が複雑に絡みあっていた。
「このパリじゃ、どうやって道を切りひらいてゆくか、知ってるかね? 天才の輝きによるか、買収の巧みさによるか、どっちかなのさ」と、バルザックは悪漢のヴォートランに言わせている(『ゴリオ爺さん』)。ところが「化けもののような医学界の封建性と、矛盾だらけの人間関係」でがんじがらめとなった大学医学部という舞台は、「天才の輝き」さえもがたちまちのうちに塗りつぶされる世界であった。だからこそ又一は「金はなんぼでも出す」と息巻くが、しかし単に金があればいいというのでもない。「ごもっとも、選挙と名のつくものは皆、金か物に結びついている、日本医師会の選挙も立候補者の人物、見識より、金をばらまいた方が勝ってる、しかし、大学の教授選での金の出し方は、ちょっと演技がいるのや、金が金と見えんような品位のある演技がな」(②50頁)。浪速大学医学部の教授会で演じられる教授選挙という茶番はいよいよ「馬鹿げた白熱ぶり」を帯びはじめ、手に汗握る山場の数々を経て、勝利は最後まで演技に真剣でありつづけた財前にもたらされた。財前五郎はとうとう第一外科の教授になったのだ。
財前の出世街道における第二の艱難は、さほど時を置かずして訪れる。
教授就任直後に国際外科学会からの招聘状が届いたことで慢心の極みにあった財前は、佐々木庸平という胃噴門癌の患者について、胸部エックス線写真に認められる左肺の陰影を肺結核の古い病巣と断定し、癌の転移を疑って断層撮影を提案する受持医の柳原や里見の言葉を無視して手術をおこなった。結果、佐々木庸平は手術後7日目から呼吸困難を起こし、それを術後肺炎と診断した財前の指示どおり柳原が抗生物質を与えつづけたにもかかわらず、手術後22日目に死亡してしまう。そのとき財前はドイツにいた。学会の特別講演とミュンヘン大学での供覧手術が完璧に成功したことの余韻に浸りながら、ダッハウ強制収容所を観光していたのであった。
佐々木庸平の病理解剖を担当した大河内教授は、次のとおり所見を述べた。「胃噴門後壁に原発した癌が、左肺下葉部に転移し、何らかの契機によって急激に癌細胞が増殖し、肺肋膜に及んだため、癌性肋膜炎を引き起したものと考えられる、そのため肋膜腔内に癌細胞を含んだ胸水が瀦溜され、肺はその圧迫によって機能を低下し、それが循環不全となり、ひいては心臓が衰弱し、心不全によって死亡したものと推定される」(③93頁)。医学用語がごろりと投げ出され、まるで本物の医者がしゃべっているような不安を与えるこの文体は、『白い巨塔』においてはじめて獲得したものだったと作者はのちに語っており、その由来に実は(次節で確かめるように)いくつかの穏やかならぬ問題が伏在している。しかしいずれにせよ、大河内の言葉は、手術後の財前が自ら診察に訪れることなく下した術後肺炎という診断が誤っていたことを明らかにした。財前に医者としての注意義務怠慢を見る佐々木庸平の遺族は、財前の提訴を決意する。帰国後の財前がいきなり目にしたのは、「浪速大財前教授訴えらる 誤診による死を追及」という新聞の見出しであった。
財前の出世街道における第二の艱難は、さほど時を置かずして訪れる。
教授就任直後に国際外科学会からの招聘状が届いたことで慢心の極みにあった財前は、佐々木庸平という胃噴門癌の患者について、胸部エックス線写真に認められる左肺の陰影を肺結核の古い病巣と断定し、癌の転移を疑って断層撮影を提案する受持医の柳原や里見の言葉を無視して手術をおこなった。結果、佐々木庸平は手術後7日目から呼吸困難を起こし、それを術後肺炎と診断した財前の指示どおり柳原が抗生物質を与えつづけたにもかかわらず、手術後22日目に死亡してしまう。そのとき財前はドイツにいた。学会の特別講演とミュンヘン大学での供覧手術が完璧に成功したことの余韻に浸りながら、ダッハウ強制収容所を観光していたのであった。
佐々木庸平の病理解剖を担当した大河内教授は、次のとおり所見を述べた。「胃噴門後壁に原発した癌が、左肺下葉部に転移し、何らかの契機によって急激に癌細胞が増殖し、肺肋膜に及んだため、癌性肋膜炎を引き起したものと考えられる、そのため肋膜腔内に癌細胞を含んだ胸水が瀦溜され、肺はその圧迫によって機能を低下し、それが循環不全となり、ひいては心臓が衰弱し、心不全によって死亡したものと推定される」(③93頁)。医学用語がごろりと投げ出され、まるで本物の医者がしゃべっているような不安を与えるこの文体は、『白い巨塔』においてはじめて獲得したものだったと作者はのちに語っており、その由来に実は(次節で確かめるように)いくつかの穏やかならぬ問題が伏在している。しかしいずれにせよ、大河内の言葉は、手術後の財前が自ら診察に訪れることなく下した術後肺炎という診断が誤っていたことを明らかにした。財前に医者としての注意義務怠慢を見る佐々木庸平の遺族は、財前の提訴を決意する。帰国後の財前がいきなり目にしたのは、「浪速大財前教授訴えらる 誤診による死を追及」という新聞の見出しであった。
打ちのめされるような思いの中で、財前は、貧しかった頃の自分の姿を、思い出した。北向きの三畳の下宿で芋虫のように煎餅布団にくるまり、飢えに苦しみながら、駅前食堂で空腹を充たしていた学生時代、卒業して無給助手から有給助手まで三年、講師、助教授を経て十六年目に教授になる機会を迎え、最後まで予断を許さなかった凄じい教授選を闘い取って、やっと辿り着いたこの地位を失うことは、財前五郎の破滅を意味していた。財前は襲って来る後悔と不安を払い退けるように激しく頭を振った。こうなれば事件が不在中に起ったことを幸いに、自分の持っている学識と政治力のすべてを駆使し、どんな詭弁を弄そうと、どんな手段に訴えようと、絶対、誤診を認めてはならない──、そう心に決めると、財前はじっとりと汗を滲ませた体を、寝苦しげに反転させた。(③144頁)
財前はまず後悔し、そのあと情念のおののきを意志の力で封じ込めている。「どんな詭弁を弄そうと、どんな手段に訴えようと、絶対、誤診を認めてはならない」。彼が自分に言い聞かせたのは、何があっても演技を貫きとおすという覚悟であった。この地点を境に、物語の舞台は病院から法廷へと移動する。それは、白(白衣)から黒(法服とスーツ)へと基調を変化させるとともに、戦線が〈白い巨塔の内部〉から〈白い巨塔と外部〉に拡大されたことを意味した。そしてその戦いは、作者の想定をはるかに超えて、長く厳しいものとなった。
4.
山崎豊子が文壇にデビューしたのは、1957年の『暖簾』によってであった。毎日新聞大阪本社学芸部に勤務していた彼女が作家を志したきっかけには、かつて学芸部の副部長として山崎の面倒を見、1949年の『闘牛』で芥川賞作家となった井上靖の影響があったという。デビュー翌年の1958年に、山崎は『花のれん』で直木賞を受賞した。「私は盆栽作りのような枝ぶりのよい小説は書けそうもないし、また書きたいとも思わないのです。禿山に木を一本、一本、植林して行くような、いわば "植林小説" を書いて行きたい。素材としては、大阪の空と川と人間を書き續けたいのです」。それが受賞時の彼女のコメントであった。
たしかにその後の彼女は、『白い巨塔』をはじめ『華麗なる一族』や『不毛地帯』、『二つの祖国』、『大地の子』、『沈まぬ太陽』から『運命の人』に至るまで、「盆栽」からはほど遠い長大な人間ドラマを書きつづけている。いずれもベストセラーとなり、社会派小説の金字塔としていまなお広く読まれているだけでなく、ほとんどの作品が映画やテ㆑ビで映像化されてきた。医学界や銀行、商社、
航空会社など、社会の一角で生々しく脈動する情念の渦を綿密な取材に基づいて活写する山崎豊子のことを、浩瀚な『人間喜劇』の作家に仮託して「日本のバルザック」と呼ぶファンも多い。実際、バルザックは山崎が女学生時代から愛読している文学者でもあった。
しかし、彼女が社会と向き合うことを己れの使命と課したことには、ある明確な契機が存在した。それは、1965年6月に『サンデー毎日』で『白い巨塔』の連載を終えた直後の出来事だった。
もし、財前に教授としての奢りがなければ、誤診によって患者は死なず、医師たちの偽証がなければ患者の遺族は勝訴したはずである。その財前が敗けず、患者の遺族と、正しい証言をした里見助教授が敗れ去る悲惨な結末の方が、医事裁判のみならず、 "白い巨塔" の中の非情な人間関係を描き出すことが出来ると考えたのである。
だが、小説の完結と同時に、多くの読者から私自身が、たじたじとする程の憤りの声が寄せられた。「あくまで小説とはいえ、この小説の社会的影響の重大さを考え、作者は患者側が控訴して勝つまで書く責任がある。現在の権力万能の世相の中で、小説の世界だけでも善良な国民の味方になってほしかった、このままでは、医学も、裁判も信じられない」というのが、共通した意見であった。
[中略]
私は今さらのように、社会的な素材を扱う場合の作家の責任と、小説の在り方の難しさを考えさせられた。小説的生命を全うしようとすれば、既に完結してしまっている小説の続編は書くべきではなく、作家としての社会的責任を考えれば、小説の成果の危険をおかしてでも書くべきであると考えた。この選択の難しさは、作家になってはじめて経験した苦悩であったが、最後は小説的生命より、社会的責任を先行させ、続編に取り組んだのだった。(「少年の遺言」、『山崎豊子全作品』第6巻月報)
ここでいう「続編」とは、『サンデー毎日』で1967年7月からふたたび連載された『続白い巨塔』のことを指している。その物語は連載開始の約1年後に、財前が控訴審に敗れ、気づかぬうちに自らを冒していた癌によって非業の死を遂げる最終回とともにひとまず幕を下ろすが、単行本はそれからなかなか出版されなかった。なぜなら山崎はそのころ、作家生命の危機に瀕しており、とても新作を刊行できる状況にはなかったのである。
発火点となったのは、朝日新聞に寄せられた読者からの投書であった。「作家山崎豊子氏が婦人公論に連載中の小説「花宴」の内容に、㆑マルクの「凱旋門」(山西英一氏訳)の訳文と酷似している部分があることを「花宴」の愛読者、大阪府高槻市昭和台二丁目教員天野元さんが見つけた」。そう書かれた記事が掲載されたのは、朝日新聞の1968年2月19日の夕刊である。『花宴』は1967年5月から連載開始し、山崎が『続白い巨塔』と並行しながら書き進めていた作品で、「第6回婦人公論読者賞」も受賞していた。同記事内で引かれている山崎自身の弁明の言葉は、「私の愛読書だった凱旋門から『ユキ』の出会いについての資料を整えるように秘書に命じた。秘書が書出してきた資料の中で、原文のままのところはアンダーラインをひいておくよういっておいたのに、秘書がそれを忘れ、原文をそのまま使うことになってしまった」というものだった。
しかし事態はそれでは収まらなかった。翌月2日の朝日新聞の夕刊には引きつづいて、奥野健男による「盗用と代作」と題した文章が掲載され、『花宴』には芹沢光治良の『巴里夫人』とほとんど同一の部分も複数箇所あることが検証された。一連の報道は波紋を呼び、のちには中河与一の『天の夕顔』と酷似した部分を指摘する声も上がった。事を重く見た日本文芸家協会は、3月11日夜に東京のホテルニューオータニにて山崎本人に経緯を尋ねた。当事者である芹沢のほかに同席していたのは、日本文芸家協会会長の丹羽文雄、同理事の井上靖、円地文子の3名であった。
そこでは『日本文芸家協会ニュース』と『婦人公論』に山崎が「おわびの言葉」を書くということで話はまとまったと言われるが(朝日新聞1968年3月14日)、結局山崎は3月25日に日本文芸家協会へ自主的に退会届を提出した。山崎の「おわびの言葉」は、約束どおり『婦人公論』5月号に次のとおり掲載された。
お詫び山崎豊子
作家というものは、たとえ如何なる事情、経緯があろうとも、何百枚、何千枚書こうとも、一行でも他人の文章が入れば許されないものです。
それにもかかわらず私は、『花宴』において、その大きな誤りをおかしてしまいましたことについて、一言の弁明の余地もありません。
私は作家として一番許されない誤りをおかした自分の不明と不心得を恥じ、全面的に深くお詫びいたします。同時に、『花宴』は、自ら絶版とし、読者の皆様方からお受けした読者賞も返上し、今回の件に対する作家としての責任を取らせて頂きます。
だが山崎が日本文芸家協会を退会したあとも、社会からの追い討ちは続いた。
今度は『白い巨塔』について、『女性自身』1968年4月15日号に「小説 "白い巨塔" を担当したO記者が語る真相 私は作家・山崎豊子さんの影武者だった」と題する記事が載ったのである。そこでの告発は、「医学小説を書きたい、という気持ちだけはあるのだろうが、かんじんの腹案はぜんぜんもってない」という山崎を、医学博士の肩書きを持ちながらもジャーナリストへ転身した経歴を持つ「O記者」がいかに手取り足取り支えたか、すなわち『白い巨塔』という作品がいかに山崎のオリジナルでないかをめぐっていた。
Oさんは[…]山崎さんをささえるため、ふつうの小説つくりでは考えられない協力体制をとることにしたのである。
O記者をチーフとして、おなじS誌のベテランI氏、「大阪M新聞」の科学記者F氏、Oさんと親しい弁護士M氏、某出版社の顧問弁護士F氏。
この五人のスタッフが、医学界の内幕から裁判シーンまで、あらゆる材料や参考データをあつめることにした。
それをO記者が整理してくわしく書き、山崎さんにわたすことをきめた。
さらに連絡係、執筆中の山崎さんの身のまわり世話係として、「大阪M新聞」のKさんが参加。
こうして、Oさんとしてはいい作品を書いてもらいたい一心で、一方、山崎さんは非常にめぐまれた状態で、小説『白い巨塔』は集団的なスタートを切ったのだった。
しかも連載が進むにつれて「山崎さんのやり方はますますメチャクチャにな」り、「医者が手術をしているとき目はどっちをむき、汗はどう流れるか」とか「登場人物AとBの会話をつぎの回に入れたい。どんな会話がいいか考えてくれ」などと言ってくるばかりか、「それに答える私のデータを、 "ぜんぶ小説の形式で書いて送れ" とまで彼女は要求してきた」。そのように「O記者」は訴える。植林小説には、必ずしも山崎が育てたわけではない苗木が無数に植えられていた。そしてそのことへの非難が、1968年に入ってから堰を切ったように彼女のもとへ押し寄せてきたのであった。
この記事に対する山崎からの直接の反論はない。それどころか彼女は、『サンデー毎日』6月9日号で最終回を迎える『続白い巨塔』を除いて、もはやいかなる場所にも文章を発表していなかった。山崎が日本文芸家協会を退会したとき丹羽会長は「協会としては、山崎氏が今後筆を断つことが望ましいが、それは本人次第だ。これで文壇的生命は一応終ったと考えられる」との談話を寄せ(朝日新聞1968年3月28日夕刊)、『女性自身』の記事もこのことに触れて「小説家としての生命が、この日かぎりで終わったといってもいい」と書いている。すなわちこのときの山崎は、一方では社会的責任として『続白い巨塔』を世に届けることが求められ、他方ではペンを折ることこそが責任の取り方だと社会から判断されている、そのような状況に置かれていた。そしてこのときの山崎が取った選択は、ただひたすら沈黙を守ることだった。
その後、1969 年9月29日夜に開かれた日本文芸家協会の定例理事会において、山崎豊子の再入会が議論され、認められた。この決定を承けて福田恆存は、「つめ腹をきらせた形で退会させ、反省の色がみえるからと再入会を認めるやり方は、協会が作家の良心にまでふみいるものだ」とのコメントを残し日本文芸家協会を退会している(朝日新聞1969年10月11日)。『続白い巨塔』が連載版に200枚近い加筆訂正を施して新潮社から出版されたのは、同年11月のことであった。
「所与の事態がこうして入り込むことで、意図をもたない純粋な劇の性質は乱される。そのかぎりでこれは、劇の側から見るならば欠点である。だがその結果として、ハム㆑ットという舞台の人物は真の神話となることができた。そのかぎりでこれは利点である。なぜならそれによって悲哀劇は悲劇へと高められたのだから」(カール・シュミット)。1968年に多くの者が責め立てていた山崎豊子の、あるいは『白い巨塔』の欠点は、結局その後の歴史において白い巨塔という神話が悲劇へ高まることの妨げとはならなかった。しかし、1968年から1969年までのあいだで、映画界を追放された田宮二郎がテ㆑ビ俳優としての再起を果たしたのと同じように、山崎豊子もまた重要な転換点を迎えていた。「小説的生命より、社会的責任を先行させ」る決意を固めたあとの彼女が書く作品は、ある意味でますますバルザックに近づくことになった。それらについても何度となく盗用疑惑が浮上し、1973年と1997年には裁判沙汰にまで発展したが、そこで山崎が一貫して取りつづけた態度は、『花宴』のときとは似ても似つかないものであった。
この記事に対する山崎からの直接の反論はない。それどころか彼女は、『サンデー毎日』6月9日号で最終回を迎える『続白い巨塔』を除いて、もはやいかなる場所にも文章を発表していなかった。山崎が日本文芸家協会を退会したとき丹羽会長は「協会としては、山崎氏が今後筆を断つことが望ましいが、それは本人次第だ。これで文壇的生命は一応終ったと考えられる」との談話を寄せ(朝日新聞1968年3月28日夕刊)、『女性自身』の記事もこのことに触れて「小説家としての生命が、この日かぎりで終わったといってもいい」と書いている。すなわちこのときの山崎は、一方では社会的責任として『続白い巨塔』を世に届けることが求められ、他方ではペンを折ることこそが責任の取り方だと社会から判断されている、そのような状況に置かれていた。そしてこのときの山崎が取った選択は、ただひたすら沈黙を守ることだった。
その後、1969 年9月29日夜に開かれた日本文芸家協会の定例理事会において、山崎豊子の再入会が議論され、認められた。この決定を承けて福田恆存は、「つめ腹をきらせた形で退会させ、反省の色がみえるからと再入会を認めるやり方は、協会が作家の良心にまでふみいるものだ」とのコメントを残し日本文芸家協会を退会している(朝日新聞1969年10月11日)。『続白い巨塔』が連載版に200枚近い加筆訂正を施して新潮社から出版されたのは、同年11月のことであった。
「所与の事態がこうして入り込むことで、意図をもたない純粋な劇の性質は乱される。そのかぎりでこれは、劇の側から見るならば欠点である。だがその結果として、ハム㆑ットという舞台の人物は真の神話となることができた。そのかぎりでこれは利点である。なぜならそれによって悲哀劇は悲劇へと高められたのだから」(カール・シュミット)。1968年に多くの者が責め立てていた山崎豊子の、あるいは『白い巨塔』の欠点は、結局その後の歴史において白い巨塔という神話が悲劇へ高まることの妨げとはならなかった。しかし、1968年から1969年までのあいだで、映画界を追放された田宮二郎がテ㆑ビ俳優としての再起を果たしたのと同じように、山崎豊子もまた重要な転換点を迎えていた。「小説的生命より、社会的責任を先行させ」る決意を固めたあとの彼女が書く作品は、ある意味でますますバルザックに近づくことになった。それらについても何度となく盗用疑惑が浮上し、1973年と1997年には裁判沙汰にまで発展したが、そこで山崎が一貫して取りつづけた態度は、『花宴』のときとは似ても似つかないものであった。
(つづく)
参考文献
いまい・げんじ『山崎豊子の『盗用』事件』、三一書房、1979年。
鵜飼清『山崎豊子 問題小説の研究―社会派「国民作家」の作られ方』、社会評論社、2002年。
カール・シュミット『ハム㆑ットもしくはヘカベ』初見基訳、みすずライブラリー、1998年。
バルザック『ゴリオ爺さん』平岡篤頼訳、新潮文庫、1972年(2005年改版)。
山崎豊子『白い巨塔』全5巻、新潮文庫、2002年。
──『山崎豊子 自作を語る 作品論 作家の使命 私の戦後』、新潮文庫、2012年。
──『山崎豊子 自作を語る 人生編 大阪づくし 私の産声』、新潮文庫、2012年。
いまい・げんじ『山崎豊子の『盗用』事件』、三一書房、1979年。
鵜飼清『山崎豊子 問題小説の研究―社会派「国民作家」の作られ方』、社会評論社、2002年。
カール・シュミット『ハム㆑ットもしくはヘカベ』初見基訳、みすずライブラリー、1998年。
バルザック『ゴリオ爺さん』平岡篤頼訳、新潮文庫、1972年(2005年改版)。
山崎豊子『白い巨塔』全5巻、新潮文庫、2002年。
──『山崎豊子 自作を語る 作品論 作家の使命 私の戦後』、新潮文庫、2012年。
──『山崎豊子 自作を語る 人生編 大阪づくし 私の産声』、新潮文庫、2012年。
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入江哲朗
1988年生まれ。東京外国語大学世界言語社会教育センター講師。専門はアメリカ思想史および表象文化論。映画批評もしばしば執筆。著書に『火星の旅人──パーシヴァル・ローエルと世紀転換期アメリカ思想史』(青土社、2020年、表象文化論学会賞奨励賞受賞)、『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(共著、石岡良治+三浦哲哉編、フィルムアート社、2018年)など、訳書にジェニファー・ラトナー゠ローゼンハーゲン『アメリカを作った思想──五〇〇年の歴史』(ちくま学芸文庫、2021年)など。