つながりロシア(15) グルジアでゴッドファーザーになった話|外薗祐介

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初出:2020年12月25日刊行『ゲンロンβ56』
 好評連載「つながりロシア」、12月25日配信予定の『ゲンロンβ56』より第15回を先行公開します。
 今回はグルジア(ジョージア)のトビリシ在住の外薗祐介さんにご寄稿いただきました。地元の男たちの「兄弟」となっていった、トビリシでの6年間。新型コロナウイルスの感染拡大下で、仲間たちの子の「ゴッドファーザー」となるべく、洗礼式に臨みます。温かなひとのつながりをたどるエッセイを、どうぞお楽しみください。(編集部)
 
 グルジアはトビリシに住み始めて丸6年★1。その前に住んだ台北での生活も6年だったのだが、トビリシでの6年は随分早く過ぎたように感じる。歳をとるにつれ、体感する時間の経過速度が増してきたように感じられることも1つあるけれど、ここでの6年間は未知の体験が多かった。この国を知った気になるにはまだまだ早いというのが率直なところだ。

 異邦人がその土地を発見、理解する手がかりは十人十色。ひたすら歩いて見て回る人もいれば、歴史や政治経済の本を読んで知ろうとすることもあるだろう。さらに、小説や映画でイメージをかたどっていくこともできる。

 僕が以前住んでいた台湾、台北を知る手がかりとなったのは「食」だった。たとえば日本でもよく知られた滷肉(魯肉)飯。豚の挽肉のような脂身のようなとろとろしたものが白ごはんにのっていて、かたわらにはまっ黄色のたくあんが一切れ。思い浮かべるだけで唾がたまる。あれがかつて台湾が貧しかった時代に生まれた食べ物だということを知ったのは、台北に住みついて数年経ってからだった。とはいえ、僕が食いしん坊なだけで、食をベースに台湾をはかろうと意図したわけではない。けれども台湾で食べるいろいろな料理から、自分なりの台湾像ができ上っていったのだ。

 ほかにも台湾料理の代表とも思われているものに小籠包や牛肉麺があるが、これらも実は台湾発祥ではない。戦後、中国国民党が台北に遷都し、外省人と呼ばれる中国大陸出身の人々が台湾に移り住んでくるとともに持ち込まれたもので、そのような料理はほかにもまだある。豚足や山羊鍋など、沖縄と済州島の離島同士で共通する食文化もあったりと、食を糸口に僕が見た台湾には、テレビや雑誌のグルメ特集には出てこない面白さがあった。

 そのようなわけで今回、グルジア料理からグルジアを語ろうと書き始めてみたのだけれど、どうもうまくいかない……ヒンカリの起源、シュクメルリの定義、ハチャプリの種類などグルジアの特徴的な料理について僕なりの解釈を加えながらグルジアを説明しようとしても、どうも冗長で、料理の話に終始してしまう。

 グルジアの食は興味の尽きない対象なのだけれども、振り返ってみると僕は「食」より「人」を手がかりにグルジアへ踏み入っていったのかもしれない。この際グルジア料理の話は放棄して、僕が深く付き合ってきたグルジア男たちの話をシェアしてみたいと思う。

 なお、グルジア社会の在り方は今も保守的なところが根強く、このエッセイで取り上げた僕の体験や見聞もマッチョなものにだいぶ偏ったと思う。その点は批判的な材料として、グルジア理解の一助としてもらえたらうれしい。

旅人は神からの授かりもの


 グルジアにはこういうことわざがある。"სტუმარი ღვთის საჩუქარია ストゥマーリ グヴティス サチュカリア"★2。英訳すると “Guest is a gift from God” となる。客人を神様からの授かりものとして情熱的に遇するのが古来グルジアの倣いであり、今もそれが実践されている。ここでいうGuestとは招待客という意味より広く、外地から来た見知らぬ旅人、Strangerをも含む。

 実際、旅先で思わぬ親切や歓待を受けた旅行者の話はよく聞くし、グルジア人自らがそれを国の美徳として自慢する。が、ここで注意したいのは日本の「おもてなし」と違って、グルジアのホスピタリティがもっぱら無償の厚意として市井の人々から発せられるものだという点である。したがって、店での接客や公共のサービスにそれを期待するのはお門違いということになる★3

 

 僕が旅行者としてグルジアに来たばかりのころの話を挙げてみよう。

 トビリシの食堂で1人メニューを開いていると、隣のテーブルで祝宴の席を張っているグルジア人家族の老人がこっちに来なさいと手招きをする。行ってみると、唯一英語が話せるという中学生の少女を介してこう言うのだ。

「あなたが我々の国に来て1人寂しく食事をしているのは見るに堪えない。私たちのお祝いにどうか参加してくれないか」。

 また、アチャラ地方、山間の村を旅行した際は、道を尋ねた男にお茶を飲んでいきなさいと家に招かれたこともある。お茶からパン、チーズ、マツォーニ(いわゆるヨーグルトのこと)、ワインとすべて自家製のもてなしを受けて、言葉も通じないのに話ははずみ、最後には泊っていきなさいと言うのをなんとか固辞して立ち去った。

 このようなグルジア人の唐突なオファーを用心深い旅行者はいぶかしみ、警戒するかもしれない。ところが僕の経験では、後で金銭をもとめられることはおろか、連絡先を聞かれることすらなかった。ゆきずりの、他意のない親切に対しては、素直に受けて感謝の気持ちを伝えることだけが旅行者にできることではないか。

プレハノーヴの顔役と流れ者


 僕がトビリシに来てからこのかた、ずっと仲良くしているグルジアの男たちもそうだった。彼らはトビリシのプレハノーヴ地区で生まれ育った幼なじみたちだ★4。ちょうど同じころにトビリシに来たオーストラリアの旅行者(以下、彼のことは豪友と略す)と僕は、彼らと知り合ってから数ヶ月にわたって、僕らがこのトビリシに住む決心を固めるまで、彼らと一緒にどこに食べに行っても、なにを飲みに行っても、一切お金を受けとってもらえなかった。豪友と僕はあてのないバックパッカーではあったが、グルジアまで無一文で来たわけではない。何度もいくらかの支払いを申し出たのだが、いつもこう押し切られた。

「おまえたちは俺たちのゲストなんだから、グルジアのうまいものをたらふく食べて飲んでればそれでいいんだ」。

 



 豪友と僕は2014年の夏の終わりに彼らと知り合った。西ヨーロッパから旅行してきた豪友と、東アジアから旅行してきた僕は、欧亜の狭間の国グルジア、その首都であるトビリシの旧市街、プレハノーヴ地区のホステルで出会った★5。どこかウマが合ったぼくらはその晩、ホステルのオーナーに誘われるまま酒を飲みだした。トトという、グルジアでは珍しい通り名で呼ばれるオーナーはそのころ30歳前後で、あたり一帯の若者たちの顔役のようだった★6。ギャングスタじみた強面ながら、旅行者に酒を飲ますのが大好きで、しかもエンターテイナー。ちょうど夏の休暇時期だったこともあって★7、連日地元の仲間たちがホステルに集まっては酒宴を開いていた。ホステルにグルジア人が集まるというよりは、グルジア人の宴会の隣で旅行者たちが寝泊まりしているというようなあんばいだった。

 宿泊している旅行者は誰であれこの酒宴のゲストとなり、毎晩ワインやチャチャ★8、ウオトカを振舞われた(反面、飲まない旅行者、翌日が早い旅行者は騒音に苦しめられる宿とも言えたが……)。ホステルの中で飲むこともあればレストランでグルジア料理をご馳走になることもあったし、彼らいきつけのバーを連れまわされることもあった。彼らは豪友や僕をほかのグルジア人に紹介する際にいつも、

「こいつらは俺たちのゲストだ」

と身元を保証する。グルジアの人間関係においては、誰が誰のゲストであるか、または誰の仲間であるか縁故を確認することが肝なのかもしれない。
 

顔役トト。仲間のワイナリーにて

兄弟と呼び合う男社会


「兄弟」という意味で使われるグルジア語が "ძმა ヅマ"。これとは別に "მეგობარი メゴバリ" という「友達」を意味する言葉もあるのだけれど、グルジアではとくに男たちが仲間内でヅマという呼び方を多用する。英語でいうところの "Bro" が文字通り一番近いだろう。ヅマと呼び合う男同士の友情関係が中心人物の周りに放射状に広がって、彼らの住む地区ごとにゆるやかなチームのようなものを形成しているように思える★9。一度、ほかで知り合ったグルジア人の名前を挙げたら「あの男はいい奴だがヅマじゃねぇ」と突き放されたこともあった。

 グルジア独立後の90年代は混沌と荒廃の時代だったという。この頃を回想するグルジア人たちの話を聞いたままにまとめると、ソ連崩壊と内戦のせいで、電気、ガス、水道などインフラの停止が首都トビリシだけでなく、国全体で常態化していたそうだ。街のセントラルヒーティングも稼働を停めていたため、冬は家具を燃やして暖をとり、食事の煮炊きは近所で寄り集まって食料や燃料を出し合った。また現在の治安のよさと比べると考えられないことだが、当時は警察の腐敗、北コーカサスからヘロインの流入、それにギャングスタが銃を撃ち合う抗争が日常の時代だったとか★10

 グルジアの男たちの地区ごとの結束には、そんな時代背景も関係していそうな気がする。

 



 トトはチームの親分だったが仕事は持っておらず、ホステルのオーナーも名ばかりで、マネージャーとトトの彼女のアンカが一切の仕事を引き受けていた。毎日遊んでいるように見えたトトの務めは、訪ねてくる仲間たちを迎えて酒を飲むこと。彼らが酒を抱えてやってくると、景気よく気勢を上げて飲みだすだけでなく、悩みごとを聞いてやったり、もめごとの仲裁もした。10代から30代まで、男も女も、数人で訪ねてくることもあれば1人で来ることもあった。もう何日もろくに食べてないという仲間がいると、トトは自身も金がないので金回りのいい仲間を呼び出してはみんなにおごらせる。ガールフレンドやボーイフレンドができた仲間は、トトに報告と恋人を紹介しにやってくる。一見傍若無人に悪ぶっているがみんなから愛されているのがトトだった。

 トトのホステルはいつ行っても誰かがいた。彼にとっては毎日が休みのようで、そのじつ休みはなく、誰かが来れば帰ると言うまで相手をする。こんなことは親分肌でないとできないし、普通の勤めを持っていてもできない。それもそばで忙しく世話するアンカがいてこそ成り立つのだけれど。

 ホステルを出て貧乏長屋に移り住んでからも、豪友と僕はトトを訪ね続けている。仲間たちの結婚や子供の誕生に立ち会ったり、葬式に参列したりするようになり、時には金の無心に応えたりしながら、僕らは徐々に旅行者やゲストであることを終え、彼らのヅマになっていった。
 

 


グルジアではホームパーティが多い

非常事態宣言とロックダウン


 2020年はグルジアももれなく新型コロナウイルスの災禍に見舞われた。3月には非常事態宣言が発令。室内公共施設でのマスク義務、外国人の入国禁止、10人以上の集会の禁止、銀行や食料品店・薬局など生活インフラに必要な店以外の営業停止、バス・地下鉄などの運行停止など、矢継ぎ早に制限が加えられていった。

 春の "აღდგომა アグドゴマ" つまりキリスト教(グルジア正教)の復活大祭にあたって、政府は大規模なクラスター感染の発生を警戒していた。3月21日から当初1ヶ月の予定で始まったロックダウンに、夜間外出禁止、トビリシなど主要都市の出入りの禁止、自家用車の使用禁止なども加わった。この制限は4月18日から夜通し行われる復活大祭祭礼への参列、その翌日以降に行われる実家への墓参りを「間接的に」禁じるためといわれた。政府は10月の議会選挙を控え、敬虔な正教徒である大多数の国民や信徒に絶大な影響力を持つ正教会の機嫌を損ねることを恐れるあまり、復活大祭を名指しで禁止することはできなかったと外部国際メディアは報じていた。この政府の措置に対して、多くの教会は夜間外出禁止令を破ってでも教会に来ることを、また教会でともに夜を明かすことを奨励し、グルジア総主教イリヤ2世は例年通りサメバ大聖堂で復活大祭を執り行った。(春の実情を踏まえてか、政府はこの冬のロックダウンでは大晦日とクリスマスイヴの二晩、夜間外出禁止令を解除すると発表している)。

 当時は、未曽有の事態に誰もが不安になっていたし、小さな子供や年配者のいる家へ訪ねることははばかられた。公園など外で会う時も、以前は必ずしていた握手、ハグ、頬へのキスを互いに自粛している仲間たちには、思わず感心してしまった。

 グルジア政府の迅速、厳格な初期対応が功を奏したのか、復活大祭後も日ごとの新規感染者数は50人以下に抑えられ、6月には多くの制限が解除された。そのおかげでグルジアは例年に近いかたちで夏を過ごせることになった。

コロナ禍での洗礼式


 トトとアンカの息子アキムは今年3歳。この夏、以前から決められていたアキムの洗礼に、仲間たちも集まることができた。アキムが生まれた時から、豪友と僕はアキムのゴッドファーザーになるようトトに頼まれていた。

 グルジア語で "ნათლის მამა" と書いてナトリス・ママと読む。これが、ゴッドファーザー、つまり洗礼の立会人だ。ゴッドファーザーの話があった当初は、耳馴染みのない、コッポラの映画でしか聞いたことのないような言葉に面食らってしまったのだが、これがグルジアの人間関係においては非常に重要、かつ名誉な役割なのだ。豪友はともかく、僕は正教どころかキリスト教徒ですらない。けれどもトトは頓着しなかった。

 ゴッドファーザーになるとは、すなわち子供のもう1人の父親(後見人)になることで、それは同時にその親子と義親族の絆を結ぶことを意味する。トトとその仲間たちは、子供が生まれると相互にゴッドファーザー、ゴッドマザーとなって、彼らチーム・プレハノーヴの結束をより深く固いものにしてきた。子供たちはチーム全体から愛情をそそがれて育ち、長ずるとチームのメンバーとなっていく。そうすることで各世代に満遍なく繋がりができる。そういうものらしい。

 今年の洗礼にあたって、僕らはほかの仲間たちとともにゴッドペアレントになることをトトからあらためて要請され、豪友と僕もこれを謹んで拝命したのだった。
 

左からアンカ、アキム、トト。二年前のツァグウェリにて
 
 7月16日、トトのダーチャがあるツァグウェリという村に、20人ほどの仲間が集まった。ツァグウェリは人口3000人に満たない山間の小さな村で、僕もこれまでに何度か遊びに訪ねている。一度はグルジア旅行に来た両親を連れて行った。帝政ロシアの昔よりミネラル炭酸泉で有名な保養地であるボルジョミと、スキーリゾートのバクリアニを結ぶ登山鉄道の途中駅にあって、トトの家族は毎年夏の間をこの村で過ごしている★11
 

ジョージア(グルジア)広域地図
 

ツァグウェリ周辺地図
 

 仲間の幾人かもこの村にダーチャを持っているので、ほかの者たちはそうした誰かの寝室を借りたり、村にあるサナトリウムに宿をとる。早くから現地入りしていた仲間たちがロケハンして、洗礼の場として森の中の滝のある小川をみつけていた。

 ちなみに、伝統的なグルジア人家庭における正式な洗礼では、信仰を同じくする正教信者がゴッドペアレントになり洗礼に立ち会う。そして司祭によって洗礼が施されることで、はじめて儀式が担保される。

 世俗的な外国人としてグルジアに来た僕は、古い教会を訪ねるとその寂として厳かな空気、人々の真剣な礼拝に胸を打たれた。ところが暮らしだしてみると、正教会のまた違った面も見えてくる。正教会はカトリック教会よりもさらに保守的で教条的だ。復活大祭の話でも触れたように、正教会の教えはグルジア国民に大きな影響力を持っており、今なお同性愛や中絶を断罪し、自殺者の葬礼を拒絶している。トトの仲間たちにはLGBTもいるし、自殺した仲間の葬式が満足に行えなかったこともあった。そのような正教会の原理主義を嫌っているトトは息子の洗礼を教会でなく、自然の中で挙げることを選んだのだろう。それほど教会的なものを厭いながらも、洗礼という儀式自体は日本の固めの杯のように重んじるトトの流儀に豪友と僕は感嘆し、親族として受け入れられることに感激した。

 



 村から滝のある小川まで、山道を歩いて小一時間。晴れているが木々が日差しをさえぎって暑くも寒くもない、絶好のピクニック日和、洗礼日和だった。子供のころからツァグウェリに遊んでいたトトたちもその存在を知らなかったという小川は、小さな滝の下に流れていた。道中誰にも会わなかったが、洗礼でなくとも村の誰かが時折利用するのだろう。すぐそばには丸太を切っただけの台と切り株が並んでいる。

 さっそく村から持ってきたワインとパン、チーズを囲み乾杯を繰り返す。

 グルジアの乾杯は1回で終わらずに、宴会中、10回も20回も繰り返される。伝統的な宴会には必ず "თამადა タマダ" と呼ばれる乾杯の音頭とりがいる★12。タマダは宴会中、適当なタイミングを見計らっては乾杯をもうけて参加者をまとめ上げ、一同の酔いをうまく調整しながら宴をリードする(乾杯の時には手に持った杯を干すのが礼儀)。タマダは乾杯の名手でなければならない。グルジアでは乾杯を捧げる対象を明確にすることがもとめられ、乾杯の前にはその対象にちなんだ語りを挟む。タマダやタマダに指名された者は即興で、時に詩を取り入れたりしながら雄弁に語り、乾杯を共有することで宴のグルーヴを上げていく。

 トトたちの乾杯は伝統作法を堅苦しく守りはしなかったが、洗礼の日にふさわしいものだった。老いて過ぎ去った命と新しく生まれて育つ命に、この日集まった者たちと集まることの叶わなかった仲間たちに、多様な自然と芸術の1つ1つに……文字にすると重々しく響く乾杯が、トトたちのいつも通りの語り口で重ねられると自然と入ってくる。そこにはグルジアのタマダ文化が時代にアップデートされながら確実に継承されている。

 そのうちに子供を肩車したカップルや、犬に引っ張られた二日酔いたちも三々五々集まってきた。一時、座が乱れ、久しぶりに顔を合わせる者同士がそれぞれ話し込む。そうこうしているうちに、アンカに呼ばれた。

 いつのまにか洗礼が始まろうとしていた。正式ではないのだからフリースタイルだ。小川を跨いでトトが抱っこするアキムの頭に僕らゴッドペアレントたちが代わるがわるに小川の水を手ですくってたらす。アキムは冷たい水にキャッキャと笑っている。アンカは昨日摘んできた八重桜のような薔薇の花びらを吹雪かせる。そして、豪友と僕で買ってきた木製の小さな十字架をアキムの首にかけて、無事終了。時間にして20分ほど、意外とあっけなく終わったなと豪友と顔を見合わせていると、感慨にふける間もなくみんなさっさと帰路についている。

 

 トトのダーチャに帰ってからが本格的な祝いの宴だった。仲間がトビリシから持ち込んだサウンドシステムでトトとアキムの歌謡ショウ。大音量のカラオケで隣近所に文句を言われるかも、なんてことは誰も気にしない。騒がしさに誘われて、洗礼そのものには来れなかったダーチャの爺様婆様や村の男たちが訪ねてきては、アキムにキスをして祝福の言葉をかけている。

 豪友がグルジアのどこかの村で覚えてきた方法で40尾もの虹鱒を焼く。男たちは料理をしないし、すでに酩酊しているので、仲間の従妹が1人、手伝いを買って出てくれた。タラゴンとレモンの輪切りを虹鱒の腹に詰め★13、イチジクの葉で包んで蒸し焼きに。薪は間引いて乾かした葡萄の枝木を使うのがグルジア流だ。あっという間に燃え上がり、すぐに熾火になるのでグルジアのBBQには欠かせない。

 トトは上機嫌で、アキムに「おまえのゴッドファーザーは誰だ?」と聞いては、アキムから僕らの名前が返ってくるという遊びを繰り返していた。

 ハーブを混ぜた巻煙草が回され、虹鱒をむさぼる間に40リットルのワインが空き、その後は村の魔女とあだ名される婆様のつくるマジックチャチャで乾杯が繰り返される。暗くなってからはDJがTrapなどベースミュージックを回してみんなが踊る。マジックチャチャのキックの強さに、現場は際限なく狂騒の度合いを上げて夜が更けていった。

 



 朝方近く、静まり返った庭で、ひどく酔っぱらった僕は豪友と昔話をしていた。どのような経緯でグルジアに居着いてしまったのか。グルジア人の人生観や友人関係は僕らのそれとどう異なって、どう同じなのか。独身の僕らにゴッドチャイルドができた喜び。この6年間で僕らはどのようにグルジアを発見してきたのか……

 会話に確たる結論が出たのかどうか覚えてない。いずれにせよ、僕らのグルジア体験が、すでに後戻りのきかない、自身と不可分なものになっていること、この日の洗礼はそれをあらためて確認するものでもあった。
 

洗礼の様子。夏は誰もがマスクを外していた
 
 夏が終わると新型コロナウイルス感染者は激増した。8月に欧州5ヶ国からの旅行者の入国を認めたせいだと噂されているが、本当のところはわからない。

 11月に入って夜間外出禁止令が再開、28日には再びロックダウンが始まった。新規感染者数は日々4000人を越えるようになってしまった。現在のグルジアは入国制限があるため★14、非EU国籍の豪友や僕はこのままグルジアに居続けることが少々難しい。ワーキングビザと呼べる制度がないこの国では、これまでは滞在期限が切れる前に出国して再入国すればまた1年滞在することができた。だが、今は再入国がままならない。コロナ禍に起因する在留外国人の問題はグルジアでも起きている。

 豪友は10月、ギリシャに出国した。来年春の再入国を目指している。僕もこの年末に出国する必要がありそうだ。

 アキムのゴッドファーザーである僕らには、アキムの成長を見守る義務がある。兄弟となったトトやチームの仲間たちと酒を酌み交わし続けるためにもグルジアに戻ってこねばならない。
 

 


豪友と僕のゴッドチャイルド、アキム
 



写真提供=外薗祐介
地図作成=編集部

★1 「グルジア」は、ご存じジョージアのことなのだが、個人的に日本語では今もグルジアと呼んでしまうのでこの稿でもグルジアで通させていただく。グルジア語ではサカルトヴェロ、英語ではジョージア、ロシア語ではグルズィヤ、トルコやイランではグルジスタンと呼ばれていてややこしい。  トビリシはグルジアの首都で百万都市。現在の民族構成はグルジア人が90%近くを占めるが、ティフリスと呼ばれていた19世紀は、南北コーカサスの中心地としてより多様な民族が共生する国際都市だったといわれる。
★2 参照先として一番わかりやすくコンパクトな記事だとこちら(私サイト、英文)。 URL= http://culturaltravel.ge/georgia/guests___a_gift_from_god.html
★3 レストランやチケット売り場での無愛想な対応に鼻白む旅行者は多い。
★2
のホスピタリティはあくまで余暇の時間に発露するものであって、就業中はソ連時代を引きずったような接客ポリシーで仏頂面でいるのが常だ。
★4 プレハノーヴ地区は、トビリシ旧市街のうち、19世紀にドイツからの入植者が建てた街並みが残るアグマシェネベリ大通り界隈の旧称。ロシアのマルクス主義者ゲオルギー・プレハーノフにちなむ。  トビリシっ子は地図に表記がないのに旧称を使いたがる傾向が強く、旅行者泣かせである。
★5 どんちゃん騒ぎが好きか嫌いかで評価が両極端に振れるこのホステル。残念ながらその後閉めてしまった。
★6 一番しっくりくる形容はガキ大将と言ってもいいかもしれない。この国では子供のころのガキ大将が終身任期制で機能している。ガキ大将はその勢力の大小はあれ、どんな小さな町にもいる。町角の陽だまりにたむろしている男たちの注目を感じた時、旅行者は無視するよりもその中の大将を見定めて仁義を切るのが最適解。どこから来た、どこに泊っている、歳は、所帯はと、いろいろ聞かれた後で酒に誘われたりする。よしと認められたらしめたもので、後日食堂やバザールで仲間の誰かに会ってもなにかと世話を焼いてくれたりする。
★7 グルジア人の夏の休暇はヨーロッパと同じように1ヶ月前後と長い。3ヶ月近い夏休みがある子供たちは、リタイアしている祖父母らと先にトビリシを離れて、夏の多くの時間を田舎やダーチャ
★11
で過ごす。そのため夏はトビリシの人口が減り、交通渋滞も解消される。
★8 チャチャとは元来ワイン造りの途中で取り除かれる種皮などの酒粕のことだが、その酒粕を蒸留してつくった酒もまたチャチャと呼ぶ。イタリアでいうグラッパ、粕取り焼酎ともいえる。グルジア人と飲む時に高確率で勧められるが、40~80%と強いので注意が必要。
★9 便宜上チームのようなものと書いただけで誰もチームと名乗ったりしているわけではない。以降のチーム表記もすべて筆者の思い込みによるものである。
★10 グルジアでは、アメリカのラッパー2Pacに今なおカリスマ的人気がある。2Pacが名を上げ、またドラマチックな死を遂げたのはちょうどこのころ。死後発表された曲のリリックには悪徳警察、銃、麻薬、貧困などのキーワードが並び、当時のグルジアが直面していた状況にオーバーラップする。
★11 ダーチャとはロシア式の別荘のこと。別荘といっても家族で代々受け継がれるもので、主に夏場に利用される。つくりは簡易的なものや冬は越せないようなオンボロであることも。涼しい山間のいい水が湧く土地が好まれる傾向にある。  なお、ツァグウェリはწაღვერი Tsaghveriと表記されるがグルジア人はこの単語中のveの音節を”ヴェ”とせず、”ウェ”と発音する(ように僕には聞こえる)。といってVがいつも濁らないわけではなく、単語によってはヴと発音することもあってなかなか悩ましい。その使い分けの法則を僕はまだ発見していないが、本邦におけるグルジアの知名度の高まりとともに、正しい日本語表記が定められるのを待ちたい。 また「登山鉄道」とは、ククシュカ鉄道と呼ばれる、麓のボルジョミと山のバクリアニを結ぶ狭軌登山鉄道のこと。帝政ロシア時代の1902年に開通。全長37.2㎞を2時間かけて運行する。トトのダーチャがあるツァグウェリ駅の近くには、エッフェル塔の設計で有名なギュスターヴ・エッフェル設計のエッフェル橋が架かっている。自動車移動の数倍の時間がかかるが車窓から望む景色は四季を通じて美しい。
★12 タマダや乾杯の腕は伝統的には男の器量の1つだったが、最近は女も乾杯の音頭をとる。一同全員が杯を手に耳を傾ける中、堂々と乾杯の音頭をとることに慣れているせいか、グルジア人は全般に人前でスピーチすることに臆することがないように感じられる。
★13 タラゴンはエストラゴンとも呼ばれる。グルジア語では "ტარხუნა タルフナ"。グルジアではもっとも好まれるハーブの一つで、フレッシュな葉を噛むと甘味の中にアニスのような芳香とわずかなピリピリ感がある。復活大祭のご馳走、チャカプリにはこのハーブが欠かせない。レモナティと呼ばれる炭酸飲料にも用いられる。
★14 グルジアが現在入国を許可しているのはEU十数ヶ国で、その他の外国人は今年になって新設された特別入国申請を出し認可を受けなければならない。詳細は大使館ウェブサイトから。 URL= https://letsgogeorgia.com/%E6%9F%BB%E8%A8%BC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/

外薗祐介

1978年神奈川県生まれ。現在グルジア(ジョージア)はトビリシ在住。ツアー手配・ガイド、メディアコーディネート、現地調査など自由業。趣味は旅行、漫画、料理、ダンスミュージック。
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