『テーマパーク化する地球』より 「ニセコの複数の風景」|東浩紀

初出:2019年05月30日刊行『ゲンロンβ37』
2019年6月11日より、ゲンロン叢書003東浩紀『テーマパーク化する地球』が全国書店にて発売となります。本書は著者が震災以降に執筆したテクストから47編を選び出し、再構成した評論集です。『ゲンロンβ』掲載の論考も、大幅な加筆のうえ多数収録。それらがどのように生まれ変わったのかも見どころのひとつです。
今号『ゲンロンβ37』ではその発売を記念し、表題となったエッセイ「テーマパーク化する地球」の一部、および「ニセコの複数の風景 」を一足先にお届けします。これらはそれぞれ、2012年の『genron etc. #2』、2015年の『ゲンロン観光地化メルマガ #28』を初出としています。『弱いつながり』や『観光客の哲学』の背後に、どのような思索があったのか。2010年代を貫くその軌跡をお楽しみください。(編集部)
※「テーマパーク化する地球(2) 2012年3月 カリブ海」はこちら。
今号『ゲンロンβ37』ではその発売を記念し、表題となったエッセイ「テーマパーク化する地球」の一部、および「ニセコの複数の
※「テーマパーク化する地球(2) 2012年3月 カリブ海」はこちら。
ニセコの複数の風景
先日、休暇でニセコに行った。北海道の
ニセコリゾートは、ニセコアンヌプリの麓に広がる四つのスキー場からなっている。リゾートの歴史は古く、中心となる
けれども、現実はその予想をはるかに超えていて驚いた。ニセコリゾートは広いので地域により濃淡はあるが、とにかく予想以上に外国人スキーヤーが多い。ひらふ地区ではゲレンデのすぐ近くに街が開けているが、道を歩くのは欧米系の顔立ちをしたひとばかりだ。ときおり東洋人を見かけても、日本語ではなく中国語を話している。看板は英語ばかり。喫茶店のメニューもスーパーマーケットの価格表示もリゾート案内のパンフレットも、なにもかも英語ばかりだ。日本の観光地で英語表記というと、たいていどこか変なジャパニーズイングリッシュだったりするものだが、ここでは事態は逆で、英語は完璧でむしろ日本語のほうがぎこちない。レストランの名前も、「魂」とか「侘寂」とか「阿武茶」とか(アブチャと読むのか?)、日本人ならとうてい名づけそうにない東洋趣味を押し出したものが目立つ。うちの家族はスキー場に面したあるグローバルチェーンのホテルに宿泊したのだが、そこで日本料理店の板前さんに尋ねたところ、日本人客はシーズンを通して全体の三割ぐらいだろうといっていた。外国人が三割なのではない。日本人が三割なのだ。
いくらグローバル化が進んだといっても、ここまで外国人に占拠された日本国内の観光地はほかにないだろう。なんの気なしに休暇で訪れただけなのだが、日本の未来を考えるうえで、多くのひとが見るべき風景だと思われた。
ところで、外国人観光客と滞在客によるこの「ニセコ占拠」は、現実の風景を変えるだけでなく、ネットでも風景の変化を引き起こしている。
ぼくの『弱いつながり』の読者であれば、チェルノブイリをローマ文字で綴るかキリル文字で綴るかによって、検索結果が大きく異なるというエピソードを覚えているかもしれない。似たことがニセコでも起きている。
ニセコの町を歩くと、外国人向けの高級別荘やデザイナーズマンションがたくさん目に入る。新築予定の看板もあちこちに立っている。それらは日本の土地に建っている。だから日本の風景である。けれども、想定される顧客は外国人だから、日本語の情報は最初から提供されていない。それら高額のマンションや広大な分譲地の情報は、日本語のネットにはまるで存在しないのだ。
疑う読者は、ためしに日本語と英語で「ニセコ」「不動産」を検索してみるといい。日本語では、日本人のリタイア組やリゾート従業員を対象とした、ひなびた中古物件や安価なアパートばかりがひっかかる。ところが英語では、一〇〇平方メートルで一億円近いような、都心のマンションもかくやといった超高級物件がずらずらと現れる(二〇一五年現在)。そのふたつの検索結果は、とても同じ町の不動産を表示しているとは思えない。つまり、いまニセコでは、現実の風景(ランドスケープ)と情報の風景(インフォスケープ)のあいだに大きな落差が生まれ、そしてインフォスケープもまた複数に分裂し始めているのだ。
そしてここで厄介なのは、その複数の風景 のいずれが「本物」なのか、もはやそう簡単には決められないということである。ニセコの急速な変化に対しては、いうまでもなく批判も多い。海外からいくら投資が集まっても、住民の生活にはなにも関係ない、むしろ迷惑なだけだという報道がなされている。たしかに農業や牧畜業を営む古くからの住民にとっては、冬のあいだだけ、それもスキー場の周辺にのみ現れる大量の外国人たちは、まるで夜にだけ現れて墓場をさまよう幽霊のようなもので、まったくリアルな存在ではないにちがいない。
けれども、そこで住民がほんとうに「ニセコのリアル」を独占できるのかといえば、いまはそれもまたむずかしい。なるほど、外国人富裕層は年に数週間しかニセコには滞在しないかもしれない。けれども、そんな彼らも、ニセコに住んでいる住民たちの何倍も金を落とすのであれば、そのかぎりで「リアル」な存在というほかない。それが資本主義の現実であり、だからこそいまのニセコの風景は生まれている。外国人はただの観光客だ、住民にとってリアルな存在ではないのだといくら主張したところで、別荘もカフェもマンションも現実に存在している。そして、そんな「リアル」な外国人富裕層からすれば、繁華街にもスキー場にも現れず、謎めいた文字と言葉でのみ連絡を取りあっている地元住民のほうこそが、映画のエキストラのようなあいまいな存在に映るのかもしれないのだ。「本物のニセコ」は、もはや住民のものでも外国人のものでもなく、そのあいだに存在している。日本語で検索して現れるニセコと英語で検索して現れるニセコの、その隙間にこそ現実のニセコは存在するのである。
ニセコの町を歩くと、外国人向けの高級別荘やデザイナーズマンションがたくさん目に入る。新築予定の看板もあちこちに立っている。それらは日本の土地に建っている。だから日本の風景である。けれども、想定される顧客は外国人だから、日本語の情報は最初から提供されていない。それら高額のマンションや広大な分譲地の情報は、日本語のネットにはまるで存在しないのだ。
疑う読者は、ためしに日本語と英語で「ニセコ」「不動産」を検索してみるといい。日本語では、日本人のリタイア組やリゾート従業員を対象とした、ひなびた中古物件や安価なアパートばかりがひっかかる。ところが英語では、一〇〇平方メートルで一億円近いような、都心のマンションもかくやといった超高級物件がずらずらと現れる(二〇一五年現在)。そのふたつの検索結果は、とても同じ町の不動産を表示しているとは思えない。つまり、いまニセコでは、現実の風景(ランドスケープ)と情報の風景(インフォスケープ)のあいだに大きな落差が生まれ、そしてインフォスケープもまた複数に分裂し始めているのだ。
そしてここで厄介なのは、その複数の
けれども、そこで住民がほんとうに「ニセコのリアル」を独占できるのかといえば、いまはそれもまたむずかしい。なるほど、外国人富裕層は年に数週間しかニセコには滞在しないかもしれない。けれども、そんな彼らも、ニセコに住んでいる住民たちの何倍も金を落とすのであれば、そのかぎりで「リアル」な存在というほかない。それが資本主義の現実であり、だからこそいまのニセコの風景は生まれている。外国人はただの観光客だ、住民にとってリアルな存在ではないのだといくら主張したところで、別荘もカフェもマンションも現実に存在している。そして、そんな「リアル」な外国人富裕層からすれば、繁華街にもスキー場にも現れず、謎めいた文字と言葉でのみ連絡を取りあっている地元住民のほうこそが、映画のエキストラのようなあいまいな存在に映るのかもしれないのだ。「本物のニセコ」は、もはや住民のものでも外国人のものでもなく、そのあいだに存在している。日本語で検索して現れるニセコと英語で検索して現れるニセコの、その隙間にこそ現実のニセコは存在するのである。
ひとつの町が、言語により、また検索者の関心や欲望により、異なった複数の顔を見せる。それは、グローバル化と情報化が進む二一世紀においては多くの土地で起きていることである。ニセコはその先進的な例のひとつにすぎない。
それゆえ、ぼくたちは、この時代に「本物の風景」を発見するためには、つねに複数の検索ワードを使って、できれば複数の言語を使って、複数のインフォスケープを手に入れてそのあいだを往復しなければならない。『弱いつながり』でも記したその教訓を、ぼくはあらためて休暇先で確認することになった。
ぼくはちょうど、同じ休暇中にスラヴォイ・ジジェクの新刊を読んでいた。彼が好む言葉を使えば、それは、重要なのは、単一の本物の視点ではなく、複数の本物たちを移動する「視差(パララックス・ビュー)」だということを意味している。
余談だが、富裕層が多いからなのか、あるいは客は外国人だから金銭感覚が麻痺していると踏んでいるのか、ニセコの物価は異様に高く、ラーメンが一杯二〇〇〇円、カツカレーがひと皿二五〇〇円といった値づけがあたりまえだった。ニセコを出て、ちょっとした有名店のラーメンが七〇〇円で食べられるのを見たとき、あまりの安さに呆然としたことを覚えている。
ラーメン一杯二〇〇〇円と七〇〇円、どちらの値づけが正しいのか。それを問うても意味がないというのが、資本主義の原理である。それらはともに正しい価格で、そしてラーメンそのものは、そのあいだにこそ存在しているのだ。
それゆえ、ぼくたちは、この時代に「本物の風景」を発見するためには、つねに複数の検索ワードを使って、できれば複数の言語を使って、複数のインフォスケープを手に入れてそのあいだを往復しなければならない。『弱いつながり』でも記したその教訓を、ぼくはあらためて休暇先で確認することになった。
ぼくはちょうど、同じ休暇中にスラヴォイ・ジジェクの新刊を読んでいた。彼が好む言葉を使えば、それは、重要なのは、単一の本物の視点ではなく、複数の本物たちを移動する「視差(パララックス・ビュー)」だということを意味している。
余談だが、富裕層が多いからなのか、あるいは客は外国人だから金銭感覚が麻痺していると踏んでいるのか、ニセコの物価は異様に高く、ラーメンが一杯二〇〇〇円、カツカレーがひと皿二五〇〇円といった値づけがあたりまえだった。ニセコを出て、ちょっとした有名店のラーメンが七〇〇円で食べられるのを見たとき、あまりの安さに呆然としたことを覚えている。
ラーメン一杯二〇〇〇円と七〇〇円、どちらの値づけが正しいのか。それを問うても意味がないというのが、資本主義の原理である。それらはともに正しい価格で、そしてラーメンそのものは、そのあいだにこそ存在しているのだ。
世界がテーマパーク化する〈しかない〉時代に、人間が人間であることはいかにして可能か。



東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。