『テーマパーク化する地球』より 「テーマパーク化する地球(2) 2012年3月 カリブ海」|東浩紀
初出:2019年05月30日刊行『ゲンロンβ37』
2019年6月11日より、ゲンロン叢書003東浩紀『テーマパーク化する地球』が全国書店にて発売となります。本書は著者が震災以降に執筆したテクストから47編を選び出し、再構成した評論集です。『ゲンロンβ』掲載の論考も、大幅な加筆のうえ多数収録。それらがどのように生まれ変わったのかも見どころのひとつです。
今号『ゲンロンβ37』ではその発売を記念し、表題となったエッセイ「テーマパーク化する地球」の一部、および「ニセコの複数の風景 」を一足先にお届けします。これらはそれぞれ、2012年の『genron etc. #2』、2015年の『ゲンロン観光地化メルマガ #28』を初出としています。『弱いつながり』や『観光客の哲学』の背後に、どのような思索があったのか。2010年代を貫くその軌跡をお楽しみください。(編集部)
※「ニセコの複数の風景 」はこちら。
2 2012年3月 カリブ海
二月末から三月のあたまにかけて、七泊八日のクルーズに参加した。舞台はカリブ海である。 ぼくが乗船したのは、ロイヤル・カリビアン・インターナショナル社のアリュール・オブ・ザ・シーズという船である。世界最大の大型客船で、総トン数二二万五〇〇〇トン、乗船可能な旅客は六〇〇〇人以上、全長は四〇〇メートル近い。数字を並べてもいまひとつピンと来ないかもしれないが、大型ホテルが海上を移動していると想像すればだいたいまちがいない。ぼくが参加したのは、アメリカ・フロリダ州のフォートローダーデールを出航し、ハイチ(イスパニョーラ島)のラバディ、ジャマイカのファルマス、メキシコ(ユカタン半島)のコスメルに寄港して、ふたたびフロリダに戻るクルーズだ。 なぜクルーズに参加したかといえば、単純に豪華客船の画像や動画を見て行きたくなったからである。加えて、娘もこの春から小学校にあがり、好き勝手に休むわけにいかなくなるので、いまのうちに派手な旅行をしておこうという考えもあった。というわけで、これは取材でもなんでもない、私的な休暇でしかなかった。けれどもそれが意外にも、この連載の主題と深く関係する経験だったのである。
ぼくがこの旅で興味を覚えたのは、現代のクルーズが提供しているのが、たんなる船旅ではない、まさに「動くテーマパークとしての船」であり、「世界をテーマパーク化する視線」だということに対してである。 どういうことだろうか。日本ではクルーズというと、引退した金持ちの老人向けの娯楽という印象が強い。じっさい、郵船クルーズが運航する豪華客船「飛鳥II」のパンフレットを覗くと、目の玉の飛び出るような料金と高齢者に照準をあてた船内プログラムが記載されている。テーマパークの印象からはほど遠い。 けれども、ぼくが乗ったロイヤル・カリビアン社のビジネスモデルは、そのようないわゆる「豪華客船」と異なっていた。それはまず、料金面ではるかに庶民的であり(詳しくは後述する)、そしてまた、内装やプログラムにおいてもはるかにポップカルチャー寄りだったのである。
写真を二枚見てもらおう。写真1は、船の中心に設置された、ショッピング・アーケード「ロイヤル・プロムナード」の光景である。 ロイヤル・プロムナードはかなり大きい。歩いた感覚では、東京近郊の有名なショッピングモール、ラゾーナ川崎プラザの半分ぐらいの長さがある。見てのとおり、入居する店舗のファサードやサインのデザインはじつにポップで、ディズニーランドかユニバーサル・スタジオかといった印象だ。じっさい、ロイヤル・カリビアン社はエンターテインメント企業のドリームワークスと業務提携をしているようで、プロムナードや食堂には毎晩のように『シュレック』や『マダガスカル』の着ぐるみが現れ、パレードも催される。このアーケードのほか、船内には劇場や映画館、メリーゴーラウンドやスケートリンクも用意されており、家族客向けの娯楽施設がたいへん充実している。つまり、船内は文字どおりテーマパークに似せて設計されているのだ。カリブ海航路では、このほか本家のディズニーが運航するクルーズも開設されている。 そしてそのようなテーマパーク化への情熱は、船内だけではなく船外にも向けられている。写真2は、クルーズの最初の寄港地、ハイチのラバディの光景である。建物といい標識といい、これまたディズニーランドと見まごうばかりだ。 このラバディはきわめて印象的な寄港地だった。この土地はどうやら、ロイヤル・カリビアン社が半島ごと借り受け、人工的に整備したプライベートビーチのようで、現地の生活とはなんの関係もない。もともと港や村があったわけでもなく、地名の綴りはアメリカ人が発音しやすいように変えられている。クルーズ客は、一〇時間弱の滞在のあいだ、近隣の島へのツアーに参加するひとを除いては、けっしてその囲われた土地から出ることがない。そして、海水浴やジップラインなどを楽しむことになっているのだ。
ハイチは西半球でもっとも貧しい国のひとつである。二年前にはマグニチュード七の巨大地震が襲った。けれども、クルーズ客のほとんどはそんな現実にまったく気づくことがないだろう。それどころか、そもそもそこがハイチであることにすら気づかないかもしれない。ラバディへの上陸はハイチへの入国のはずだが、船を下りるには船室のカードキーさえあればよく、パスポートの提示は求められない(驚くべきことにこの上陸方法はジャマイカでもメキシコでも同じだった――なぜそんな特例が可能なのか、いつか調べてみたいと思う)。ビーチにいるスタッフはみな英語を話し、店ではドルをあたりまえのように受け取る。いや、それどころか、ハイチの現行通貨は、ここでは土産物としてドルで売られているのである。 そのようなラバディの真っ青な海に身を浸し、椰子の林のうえに聳(そび)える巨大な船影を眺めるのは、なんというか、じつにくらくらとする体験だった。ラバディの豊かな自然はたしかに本物なのだが、その光景はディズニーランドよりもはるかに虚構的だったからである。リアルの素材で作られたヴァーチャル・リアリティといえば、その倒錯が伝わるだろうか。 大型客船によるクルーズは、じつにテーマパークに近い娯楽になっていた。ものの本によると、ロイヤル・カリビアン社がカリブ海に進出し、カジュアル路線のクルーズをつくりだしたのは一九七〇年代のことらしい。その成功を受けて、アメリカのクルーズ人口は八〇年代に急増した。それはまさに、建築界でラスベガスやディズニーランドが注目され、ハイパーリアリティやポストモダニティが議論されていた時期にあたるが、両者の関係についてはまだ調べきれていない。いずれにせよ、ヨーロッパで生まれ、しばしば特権階級の象徴のように語られる豪華客船の旅は、すでに今世紀に入るまえに、アメリカによってすっかり脱構築されポストモダン化されていたのである。
ところで、読者によっては、ここまでの文章を読み、そのような嘘に満ちた旅には興味をもてないと感じたかたもいるかもしれない。たしかにこのクルーズでは、寄港地の現実に出会うことはない。そこにあるのは「嘘」だけだ。 けれども、それを認めたうえで、ぼくは、現実とはなにか、嘘とはなにかを考えてみたいと思う。 テーマパークはたしかに嘘に満ちている。しかし、そこにも、人々がテーマパークという嘘を欲しているという現実はある。
これはけっして言葉遊びではない。なるほどたしかに、このクルーズでぼくがハイチやジャマイカのポストコロニアルな現実に触れたかといえば、あきらかに否だ。そこには嘘しかなかった。しかしかわりに、「動くテーマパーク」というこの奇妙な娯楽を生み出したアメリカ社会の現実には、ぼくはたしかに触れたように思う。そしてその現実はけっして、クルーズなんて幼稚な娯楽だ、しょせんは子どもだましだといったクリシェで批判できるものではなかった。アメリカのいいところと悪いところ、自由や民主主義の理念と快楽や経済合理性の追求は複雑に絡みあっている。ぼくはクルーズで、その絡みあいこそを目のあたりにした。 たとえば、クルーズのテーマパーク化はある意味で「公共化」でもある。クルーズが公共的であるとはどういう意味だと思われるかもしれないが、さきほども記したように、じつはこのクルーズの乗船料金はかなり安い。季節や予約状況によって異なるだろうが、最安値の船室に滞在する場合、七泊八日三食つきでひとり一〇万円を切る。むろん高額の船室も用意されているし、寄港地での有料ツアーやルームサービス、予約制の高級レストラン、カジノなど、使おうと思えばかなりの金額が使えるが、それにしてもたいした金額ではない。 したがって、クルーズの利用者は金持ちばかりではない。だからこそうちの家族も乗船できた。年齢も国籍もばらけている。二〇代のカップルもいれば、幼児を抱えた親子連れもいて、むろん年金生活者らしき高齢者もいる。英語を話すひともいれば話さないひともいる。船内にはちょっとした保育園並みの(むしろ日本の標準からすればその何倍もの大きさの)託児施設が用意され、エクスカーションやディナーに夫婦だけで参加することを可能にしている。子育てでストレスが溜まった夫婦にとっては、絶好の気晴らしになるだろう。さらに印象に残ったのが、船旅ということで身体への負担が小さいのだろう、障害者の乗客がじつに多く、またサポートもかなりしっかりしていたことである。知能に障害を抱えた子どもも目立った。 テーマパーク化は、このような開放性と表裏の関係にある。幼児や高齢者や障害者といった社会的弱者が安心して船旅を楽しめるのは、このクルーズが徹底して「嘘」で守られているからである。かりにハイチやジャマイカに下り立ち、貧困や自然破壊を見学するような特殊なクルーズがあったとしても、彼らはそもそもその「現実」にはけっして触れることができないだろう。彼らにとっては、そのような不可能性こそが現実なのであり、だから嘘が必要なのである。
ぼくとしては、今回のクルーズでもっとも興味を惹かれたのは、この後者のほうの現実だった。なるほど、ラバディはたしかに不気味なほどに嘘くさい場所で、そこにはいっさいハイチの現実はなかった。けれども、そこで笑顔で休暇を楽しんでいる幼児や高齢者や障害者は、それはそれでたしかに現実だった。そして、日本であれば、彼らのような社会的弱者を抱えた家族は旅行に出ることすらむずかしいことを思えば(日本の少子化の最大の原因は結局のところそれではなかろうか――子どもができたら、少なくとも一〇年は夫婦で外食も行けないし酒も飲めないしコンサートにも行けない、そんな国でだれが子どもをつくろうと思うだろう)、このようなサービスが安価で提供されていることの「公共的機能」はけっして否定できない。アメリカに批判的な論者は、社会の一方の極と他方の極の格差を、すなわち富裕層の豪奢と貧困層の悲惨の対比ばかりを強調する。けれどもあの国の最大の魅力は、そのあいだの中間的な存在=大衆に与えられる「快楽」の、その物量の圧倒的な豊かさにあるのであり、そしてそれはそれでひとつの「理念」なのではないだろうか? カリブ海を行く洋上テーマパークに公共性を見る。このような発想が学問的に批判されるものであることは十分承知している。けれど、ぼくはそこにこそ、二一世紀の社会思想の可能性を感じている。
世界がテーマパーク化する〈しかない〉時代に、人間が人間であることはいかにして可能か。
ゲンロン叢書003 東浩紀『テーマパーク化する地球』 2019年6月5日刊行 四六判並製 本体408頁 ISBN:978-4-907188-31-3 ゲンロンショップ:物理書籍版 / 電子書籍(ePub)版 Amazon:物理書籍版 / 電子書籍(Kindle)版東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。