変容の困難――〝それなり〟の外へ出るために|坂上秋成

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初出:2019年03月22日刊行『ゲンロンβ35』

 三四歳になった。辞書的な定義はともかく、まごうことなき中年である。

 とりあえず、分かりやすい青春からずいぶん遠くに来てしまったという気がする。

 赤ワインを飲めば翌日は丸一日動けないほどの二日酔いになるし、長い時間パソコンの前で作業して立ち上がると腰にピキッと鋭い痛みが走ったりするし、いきり立ったペニスの角度はどんどん小さいものになっていくし、健康のためと思って長距離の散歩をすると異様に疲れて余計体調を崩したりする。


 こないだ、唐突にサッカーボールを買ってみた。無邪気にボールを追いかけていた頃の気持ちをよみがえらせたいと思ったのかもしれない。アマゾンから送られてきてすぐに、俺は喜び勇んで近所の公園へと向かった。入念にストレッチを行った後、軽くボールを前に蹴り出した。だが、ボールの速度に追いつけない。嘘だろとつぶやきたくなるくらいに、足の出が鈍いのだ。何回かそれを繰り返しただけで内ももの筋肉が痛んだ。タバコの吸い過ぎも相まってか、呼吸が苦しい。

 あきらめて俺は、ゆったりとリフティングを楽しむことにした。右足の甲で足元のボールを上げ、そのままリフティングに移ろうとする。しかし、ボールが上がらない。真上ではなく、斜め前方に頼りなく転がっていく。仕方ないので、俺はボールを手に持って太ももでリフティングを始めた。小学校の頃からこれだけはそこそこ得意だった。だが今度は、太ももが重い。太ももの上下運動がボールの動きに追いついてくれない。

 ほんの一〇年ばかりまともに運動をしていないというだけで、身体はここまでさびつくものなのか?

 信じたくない現実を目の当たりにした俺は、最後に一度だけ、フェンスに向かいシュートを打って帰宅することにした。公園の外にボールが飛び出ないようにという配慮からか、フェンスの高さは五m近くあった。これならば、思いっきり蹴ってもだいじょうぶだろう。そう思って俺は右足を振りぬいた。信じられないことが起きた。グラウンダーで地を駆けていったサッカーボールは、フェンスを垂直に駆け上がり、隣にある家の塀とフェンスの狭い隙間におさまった。

 何かの呪いのように想えた。一度だけ蹴ったボールがフェンスを縦に転がって飛び越えるなんて光景が信じられず、俺はしばしその場に立ち尽くした。その後、さまざまな工夫によってボールを回収することはできたが、どうしようもない切なさが胸の裡に残った。


 とはいえ、こうした肉体面での変化は二〇代のうちからとうに予想できていたものだ。血液検査を受けてγ-GTPの数値におびえるというような細かい部分までは考えていなかったにせよ、肉体がだんだんと不自由なものに変わっていくというのは想定の範囲内だ。とりあえず今のところ、病院に行く回数が増えていることは不満だが、日常生活に支障が出るような致命的な問題は抱えていない、おそらく。

 むしろ自分にとって問題なのは、精神面での衰えの方だ。これに関しては、「まあ六〇歳くらいになったらいろいろやる気も減っていくんだろう」くらいの考えで、まさか三〇代半ばで実感することになるとは予想だにしていなかった。活字の詰まった本を読むのが億劫になり、油断しているとSNSと5ちゃんねるとサッカーナビとYouTubeを移動しているだけで一日が終わってしまう。この種の怠惰は、身体よりも精神を直接痛めつけてくる。

 不意に、二〇歳の頃の自分を思い出す。当時も今も、いささかオツムと思慮が足りないことに変わりはないにせよ、二〇歳の俺にとって世界は今よりもはるかに多くの驚きに満ちていた。

 一〇代の後半から読み始めた海外のポストモダン文学は、それまで自分が考えていた小説の定義をきれいにぶち壊し、まったく新しい文学への視座を与えてくれた。どうせオタクがやるものだと馬鹿にしていた一八禁のノベルゲームは、デジタルメディアだからこそ可能になる演出やキャラクターの見せ方で、俺をどこまでも深い沼に引きこんでくれた。大学の時に入っていた「現代文学会」なるサークルでは常に先輩たちが活発な議論を交わしていて、始めは圧倒されるだけだったが、乏しい知識とボキャブラリーでそこへ介入していこうという気概がすぐに湧いた。テレビドラマの題材にできそうな恋も友情も決裂も体験し、日々の経験のすべてが自分の糧になっていくような感覚があった。


 今はどうか。

 どうにも俺は、自分がすでに青春の残滓に過ぎないのではないかという思いを毎日抱いてしまっている。

 奇妙に聞こえるかもしれないが、人生がいつの間にか「二周目」に突入しているような感覚が肌にへばりついてしまっているのだ。あるいはRPG的な表現を借りるなら、「つよくてニューゲーム」状態と言ってもいいかもしれない。

 三四年も生きていれば、誰でもそれなりに多くの経験を積んでいる。そして経験を重ねるということは、同時にさまざまなパターンを蓄積するということでもある。

 それ自体は別に悪いことではない。場面を類型化することでコミュニケーションがスムーズにとれるようになったり、仕事でトラブルが生じた際に最も効率よく解決する引き出しを持てるようになったりと、プラスの要素も大きい。これを成熟のひとつの形として、ポジティヴに受け入れることも可能だろう。


 しかし、そうした効率のよさとは別に、文化や現象に対する驚きの有無を基準とすれば話は変わってくる。過剰なパターンの蓄積は、人間の生を既視感で満たしてしまうのだ。
 既視感は唐突に訪れる。それはたとえばベッドへ横になって漫画を読みふけっているような時間に。

 俺はもともと少女漫画が好きだ。大抵のものは二回、三回と読み返すし、気に入った作品だと二〇回、三〇回と通読することもある。このあいだは久しぶりに、昨年完結した椎名軽穂の『君に届け』を最初から読み直していた。爽やかな少年と地味な少女が惹かれあっていく過程を描いた、ベッタベタに甘酸っぱい超人気ラブコメである。リアルタイムで追ってきたが一気に読み返すのは久々だったので、俺はわくわくしながら一巻を手にとった。二巻、三巻、四巻、次々と手が伸びていく。

 強烈な既視感に襲われたのは最終巻を読んだ直後のことだ。唐突に、「似たような作品を繰り返し読んでいる」という気味の悪い感覚が全身を覆った。

『君に届け』は北海道を舞台にしている。同じ学校に通う男女の恋を、卒業式の日まで描く。三年生になって、東京の大学に通うかどうかで悩む。離れ離れになることで険悪な空気になるが最後はハッピーエンド……。俺はその場でパッと『高校デビュー』と『僕等がいた』という二つのヒット作を思い出した。どちらも『君に届け』以前に完結した、北海道を舞台とする男女の恋愛ものだ。もちろん、細かい点では『君に届け』と異なっている。しかし問題は、その時俺が、『君に届け』を蓄積されたパターンへあてはめるようにして読んでいたということだ。驚きや新鮮さを求めるのではなく、確立された様式の中で安全にコンテンツを消費していたのだ。新しい知見を得ようとか、未知の展開やキャラクターに感動しようといった欲望とは無縁の、通いなれた道をひたすら反復するだけの行為。

 その時に分かってしまった。一定の年齢に達し、人生が「二周目」に入ってるような感覚を持った後でさえ、俺たちはこれまで触れてきたコンテンツを繰り返し消費し続けるだけで、残りの人生をそれなりに楽しく送れてしまうのだと。

 この状態には、停滞という名がふさわしい。驚きも新鮮さも、他者性も偶然性もなく、既知のものに触れ続けるだけの安全な世界……。まさしく「ループ系」作品で展開される、楽園のフリをしたディストピアそのものだ。


 結局、この種の絶望から抜け出したいと願うなら、俺たちは自己を変容させなければならない。実際のところ、俺たちは置かれている環境を強引に変えて、自身を新たに作り直すことができる。触れたことのないジャンルの小説に手を出したり、新しいバーに通って新しい客と交流してみたり、あるいは海外に旅行をしてみたり。環境そのものを変えて動き続けていれば、たとえ「二周目」の人生に入っていたところで、いくらでも驚きに出会うことは可能だ。

 けれど同時に、動き続ける中で俺たちは気付いてしまう。物の見方や立ち居振る舞いが変わっていったとしても、容易には消せないよどみが自分の裡に溜まってしまっているということに。


 昨年、文芸評論家の渡部直己が大学の学生からセクハラで訴えられるという事件が報道された。その数日後、俺は自分より二回り上になる文筆家の大先輩とたまたま飲む機会に恵まれた。雑談の合間に、大先輩がこの事件についてぽつりとこう漏らした。

「今回のセクハラ事件は渡部さんが悪い、それは明らかだよ。だけどこうも思っちゃうんだ。結局のところ、僕やあの人はどこまでいっても『昭和のオヤジ』なんだって。僕は絶対に学生へセクハラをしたりはしないけど、こうやってバーに来れば店員のおねえちゃんにちょっと下ネタを話すくらいのことはしちゃう。それを全部否定されちゃうと、どうすればいいか分かんなくなっちゃうんだよね」

 この台詞を聞いて、俺はどうしようもなく悲しい気持ちになった。当然セクハラは許されるものではないし、大先輩も決してセクハラに寛容になれなどと説いたつもりではないはずだ。彼はただ、今の世界が要求してくる性規範と、これまで「昭和のオヤジ」として生きてきた自身との差異を埋められず、戸惑っているように映った。

 生物としての人間が背負ってしまった業のようなものが、そこに見て取れた。俺たちは生きていく中で、正しい振る舞い、自身に適した振る舞いをパターンとして身に着けていく。それは世界と調和するために必須のものだが、同時に自身を縛り付ける鎖にもなる。パターンが増えれば増えるほど、どこかでがんじがらめになっている自分に気付く。そして、特定のパターンを何十年も使用してきた人間にとって、社会の情勢が変わったからおまえも変われと言われても、それは決して容易なことではないのだ。

 自身を縛り付ける鎖。溜まってしまったよどみ。それらが自己の変革を阻害する。変わりたい、変わらなければならないという思いとは裏腹に、どうしても変えられない自己の一部が前景化する。


 俺にとって、それは決して他人事ではなかった。いや、おそらくは、変容の困難という問題を前にすればあらゆる人が当事者なのだ。怠惰な反復を繰り返すだけの「二周目」の人生から抜け出そうともがいても、俺たちはみな、どこかで完成されてしまったパターンに囚われてしまう。だからこそ、唐突に社会が、世界が、それまでとは大きく異なる規範を要求してきた時には、柔軟になれない自身の思考と感性に絶望したりもする。

 結局のところ、俺たちは葛藤し続けることしかできないのだろう。自身の積み上げてきた「正しさ」と、新しく外部が突き付けてくる「正しさ」のズレに戸惑いながら、それでも生に驚きを取り戻そうともがくのだ。

 その作業は大きなストレスを伴うし、何より、どうしようもなく孤独なものだ。このことを踏まえてなお、それなりではない生を楽しみたいと願うなら、孤独を遠ざけるのではなく、それを飼い慣らさなければならない。誰にも分かってもらえないかもしれないというおびえを抱えながら、世界と調和する自己を見つけようと動き続けるのだ。

 中年になった俺は、日に日にだらしなくなっていく自分の下っ腹を嘆きながら、生の喜びにしがみつこうとする意志は美しいのだと信じ、あがいていく。

 祈りのようなものかもしれない。

坂上秋成

1984年生、作家。主な著作に『ファルセットの時間』(筑摩書房)、『惜日のアリス』、『夜を聴く者』(いずれも河出書房新社)、『モノクロの君に恋をする』、『紫ノ宮沙霧のビブリオセラピー』(いずれも新潮文庫nex)、『ONE PIECE novel LAW』(集英社) など。小説以外の仕事として『TYPE-MOONの軌跡』、『Keyの軌跡』(いずれも星海社新書)。 ゲームシナリオの執筆も行い、主な作品に『ヘブンバーンズレッド』でのシナリオ協力、2024年発売予定の『オールインアビス イカサマサバキ』のシナリオライターなど。
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