スマホの写真論(1)記憶は場所にある|大山顕

初出:2017年4月14日刊行『ゲンロンβ13』
学生のころは建築家になりたかった。あきらめたのは、自分が3Dを把握する能力に乏しいことが分かったからだ。努力しだいだったとも思うが、空間把握能力と同じぐらい努力する能力にも欠けていた。いまだに図面から空間を想像することと、その逆がひどく苦手だ。写真を撮るようになったのは、それが平面だったからかもしれない。ついでに言うと「努力」もいまもって苦手なままである。
自分がなれなかったことも手伝って、ぼくは建築家をとても尊敬している。思うに、彼らの職能とはパラレルワールドを想像することだ。現在このようである世界とは別の世界を提案すること。これは実に難しいことで、3Dの把握などよりもよっぽど訓練が必要だ。
先日、香港へ行った。団地を撮影する合間に(ぼくは団地マニアなのだ)訪れたのは金鐘(Admiralty)という街。金融街で特に見所があるわけでもない。なぜ寄ったのかというと、ここは二〇一四年の雨傘革命の舞台のひとつだったから。当時、デモ参加者によって道路が占拠されている光景に興奮したものだが、いまはどうなっているだろうか、と。

当然ながら、そこはもうただのハイウェイだった。分かっていたことだったが拍子抜けした。そしてなんだかすごく寂しく感じた。まるでデモなどなかったかのような光景は、彼らが求めていた真の普通選挙は結局実現せず、予定通り親中派が行政長官におさまった先日の結果(二〇一七年三月二六日に選挙が行われ、林鄭月娥(キャリー・ラム)氏が当選した)を思わせた。そして雨傘革命の元リーダーたちのうち少なくとも九人が起訴されるというニュースを聞いた。結局デモは失敗したのだ。おおざっぱに言えばそういうことになるだろう。でもぼくはわざわざこの場所を再訪し、あの不思議な光景と雰囲気を思い出している。それにはどんな意味があるのだろうか。
あんなに静かなデモは見たことがなかった。学生たちはテントの中で淡々と本を読んだりレポートを書いたりしていた。どこもかしこも二四時間騒がしい香港という都市で、デモの場所が一番静かだなんて。きっとぼくは死ぬまで "Admiralty" という名前を聞けばこの光景とともに彼らが求めていたことを思い出すだろう。あのデモの効用はそういうことだったのではないか。

ぼくは「忘れない」というスローガンが苦手だ。日本中でここ数年、耳にたこができるぐらい聞いている言葉だ。なんかやだなあ、と思ってしまうのはこの標語がすごく重いからだ。忘れないでいるのはしんどい。それにぼくはものすごく忘れっぽい人間なのだ。しかも四〇歳を超えてますます磨きがかかってきている。そこでぼくは「忘れない」の代わりに「思い出せる」を実践しようと心がけている。ふだんは忘れていていい。しかし必要なときに思い出す。そしてまた「忘れて」しまう。ふたたび思い出すべきときが来るまで。
思い出すという行為は身体的なものだ。音楽や匂いによって強烈に思い出が蘇ることがあるだろう。つまり自発的な行為ではなく襲われるものなのだ。そのトリガーとして「場所」はとても優れている。記憶は自分の中に記録されているのではなくて、いろいろな場所に保管されているのではないか。ぼくらの身体はその再生装置なのではないか。
雨傘革命とは「場所にべつの可能性を記録する」ことだったように思う。かなりナイーブな言い方だが。彼らはハイウェイをハイウェイではなくしてなんとも不思議な光景をつくりあげることで、今ここの現実とは異なるパラレルワールドを想像したのだ。それまでぼくはデモという手法に懐疑的だったが、あのとき分かった。風景を変えること。別の未来があり得ることをそれによって示し、場所にそれを記録する。で、後にそこを訪れた人が思い出しちゃう。それがデモの機能なのだな、と。

これから、今日、写真を撮ることにどんな意味があるのかを考えていこう。ぼくはスマホによって、ようやくカメラは完成形に近づいたと思っている。写真教室などではいまだに露出がどうの被写界深度がどうのという指南をしているが、ぼくはそんなことを教えなければならないのはカメラが道具として未完成だからだと思う。なにも考えずに撮りたいものに向けシャッターを押せば、望み通りの写真が撮れる。そうなるべきだ。
そうなったらいったい写真家がやるべきこととは何なのか。それは「その時間、その場所にいる」ということ。最後に残るのはそれだけで、しかしそれはすごく貴重で誰も代わりができないことだ。同じ時刻同じ場所に立てるのはたったひとりなのだから。
とりあえず、怠惰で忘れっぽいぼくが写真家になったのは正解だった。写真はわざわざその場所に行かないと撮れないから。そうすることでいろいろなことを思い出せる。雨傘革命を見に行って写真を撮ったこと、そしてその後再び訪れてシャッターを切ったことには、そういう意味があったのだ、とここに記しておこう。

もしかしたら写真は人間を必要としなくなるのではないか



大山顕