【書評】メディア・コンディションの問いを問う──渡邉大輔『新映画論』評|石田英敬
この本を読んでいる最中に、今話題の濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』を見た。大変な傑作だと思う。見終えた直後の感想は、「これはポストシネマではない、シネマそのものだ」である。だが、この感覚こそ、ポストシネマ状況を地として成立しているものだ。
渡邉氏に新映画論を書かせているのは、21世紀のポスト・メディウム的なメディア・コンディションである。映画を論じるためには、いまは映画の外に出て、メディア論の方へと一歩踏み出さなければならない。だが、そのメディアの方もポスト・メディウム状況にある。だから、メディアをめぐる新しい存在論の問いを立てなければいけない。
各章ごとに幾つもの映画作品がカラフルなビリヤードボールのように考察の俎上に載せられ、批評と理論の玉突きゲームを繰り広げる。衝突し弾けるボールが次々に繰り広げる問題連鎖の布置を追う──なにしろこの本では数々の認識の「転回」が繰り広げられる──スリルを味わうことで、あなたはきっと『新映画論』の面白味を堪能できるはずだ。
私はとくにシネフィルではない。ハリウッド大作やアニメはほとんど見ない。ゲームはまったく知らない。この本を書評するに私がふさわしいかは疑問である。しかし、とくに興味を惹かれた箇所を幾つか抜き書きしてみよう。
渡邉氏の考察はメディア・テクノロジー論から始まる。
デジタル革命は、20世紀に映画を成り立たせていたアナログ環境を全面的に書き換えてしまった。コンピュータと融合したポストカメラは超小型化し遍在化して撮影の条件を変えた。人間が操らなくてもカメラが撮る。バーチャルカメラを仮想空間に任意に設定することもできる。映画の無意識はあり方を変え、人間の表象の限界を超えて知覚と意識は総合される。それが「ポストヒューマン」の条件ということになる。
ポストカメラ時代のドキュメンタリーは、魚の視点からも、カニや貝の視点からも、鳥の視点からもドキュメントを撮り、世界のなかにうごめくあらゆる生物の固有の知覚を通して環世界を構成する。ドキュメンタリー『リヴァイアサン』を引きながらそう著者は言う。だから、そこは人類学の「存在論的転回」と軌を一にしているのだ、と。まことに正当な指摘で、当該作品を未見の私は、おっ、それはぜひ見たい!とワクワクしてしまう。
至るところにカメラが遍在し多種多様なスクリーンに囲まれた生活を人びとが送るようになると、「リアリティが変容」する。カメラで写しているという事実を写さないとリアリティーが成立しないからだ。著者が分析しているこの傾向はじつは「ネオテレビ期」(ウンベルト・エーコ)に始まるものだ。ネオテレビとは、テレビが外部世界を映す透明な窓であった「パレオテレビ期」が終わり、メディア化した現実を生み出してしまう鏡にテレビがなった時代のことだ。日本でいうテレビバラエティーの時代のことだが、万人がテレビピープル化し、リアリティーとテレビが地続きになる。テレビがスマホになれば、それはもっと加速する。
現実と演出、事実と映像の区別がつかなくなる。ポストトゥルースの時代とはまさにそれだ。著者は、そんな時代にドキュメンタリーを作る困難を、いくつかの類型に分けて考察している。私にはあまり興味が沸かない「フェイクドキュメンタリー」の諸作品の系譜から入って、想田和弘やワイズマンといった私も好きな作家の作品にも忍び込む日常のカメラ的自意識を指摘し、濱口竜介『ハッピーアワー』などドキュメンタリーではない作品にも、メイキングのプロセスを写すところにドキュメンタリー的なリアリティー構成の原理を見る。興味深い考察だと思った。
スマホのような遍在するモバイルカメラ・スクリーンでコンテンツが送受信され、それに応じたカメラ的・スクリーン的自意識が醸成されるようになれば、映画の受容に大きな変化が生まれるのは当然である。発生するのは「貧しさ」と「既視感」の全面化だと著者はいう。20世紀の映画の歴史を反復するかのように、初期映画についていわれる「アトラクションの映画」や「驚きの美学」的な受容が回帰し、「情動論的転回」が語られるようになるのだ、と。なるほど、まさに、デジタルな映像文化のボトムアップ形成がいまふたたび起こっているということなのだろうか。「美とは何か」の判断力批判ではなく、「楽しさ」の判断力批判が求められるという著者の提言には私も深く共感をおぼえるのだ。
さて、メディア・コンディションの全般的な地殻変動が引き起こした「ポストヒューマン的転回」が露呈させる存在論とはどのようなものなのか。カメラアイが変容し、現実が変質し、感情が変化したとなると、ポストシネマはどのようなポスト人間とポスト世界、あるいは準-客体や動物的エージェントを映し出しているのか。人新世や、自然と文化の差異の消去、聖性の変容へと、ポストヒューマンをめぐる作品批評は展開していく。
さきほども述べたように、アニメとかハリウッド大作は見ない私には、そのあたりの議論は正直なところ理解を超える。これ以降はむしろ読者の皆さんが当該作品を見て、この『新映画論』の批評言説を追っていただくしかない。
最後の第三部はインターフェイス論としてまとめられている。そこは今後いろいろな議論が重ねられていくのではないかと思われる。
直接のコメントを超えて、私が何かをここに記すとすれば次のようなことだ。
インターフェイスとは「心の装置」(フロイト)の問題なのだ。その心の装置は、現在ではいろいろな技術的対象としてのあり方をするようになった。ポストシネマもまたそのようなさまざまな形をした心の装置との関係において成立しているわけだ。
人類にとってインターフェイスは直立二足歩行によって成立した。インターフェイスとは、顔と手の間にうまれた、身振りと言葉のための、つまり、記号操作のための拡がり──ルロワ=グーランの人類学が言う「前方野 (仏 le champ antérieur 英 the anterior field)」── の問題だからだ。
冒頭、『ドライブ・マイ・カー』に言及した。この映画は、いったい幾つのインターフェイスを内包しているだろうか?
死んだ妻、音が残した録音カセットテープもひとつのインターフェイスだ。『ワーニャ伯父さん』の稽古を重ねる芝居の舞台もインターフェイス。その稽古風景を映し出すPC画面も、上演中の舞台を映し出す液晶モニターもインターフェイス。妻が語っていたシナリオの最後で、ヤマガの家の監視カメラに向かって女子高生が、音がなくてもはっきりと口の動きで分かるように「私ガ殺シタ、私ガ殺シタ」と繰り返す顔を映し出す想像上のサイレントムービーもインターフェイス。『ワーニャ伯父さん』の最終場で「ゆっくりやすみましょうね」というソーニャの手話と字幕も、すぐれて身振りと言葉の沈黙のインターフェイスだ(つまり、ハスミがいうように「スベテの映画はサイレントムービーの一形式」なのだよ、渡邉クン、笑)。
リアルなものも、イマジナリーなものも、それらスベテがインターフェイスなのだとしたら、この『ドライブ・マイ・カー』という映画はそれらを内部に取り込んで、自身の物語の閾としている。そして、それらのナラティブを結びつけ連結していくのが、あの疾駆する赤のサーブ900ターボというメタなマシンなのだとしたら……。
運転席に座っているのは、家福ではなく渡利みさきだ。彼女がハンドリングするマイ・カーの前方野に展開していくのが、ポスト・カタストロフィーのドラマ、語り得なかった外傷的記憶の「想起・反復・徹底操作」の物語だ。
フロイトは、僕たちに「無意識はシネマのように構造化されている」と教えてくれた。この映画でもその教訓はまだ生きていると思われる。
たしかに『新映画論』に書かれるポストシネマの時代において、私たちの無意識は、いまでは多種多様な形をとりうるインターフェイスを通じて構造化されている、といえるようだ。だが、そのポストメディアコンディションを引き受けながら、濱口のシネマは快走中だ。
石田英敬