水面から飛び出した魚(3)ヒュポムネーシスの現象学 飛び魚と毒薬(15)|石田英敬

webゲンロン 2026年5月13日配信
しばらく連載の掲載が途切れてしまったが、直近2回では、ベルナールの哲学が監獄の中でどのようにつくりだされていったのか、その過程を哲学の内側から復元する試みを開始していた。
前々回、第13回では、1979年から大学の通信教育コースで哲学の講義を受け始めたこと、朝にはマラルメの詩を必ず読むことから日課を始めたこと、詩の読解を通じて、言語学から哲学へと進んでいったことなどを語った。
前回、第14回では、アリストテレスの『魂について』を手がかりに、「思惟の生」へと目ざめていった様子を、アリストテレスの質料-形相・可能態-現実態の概念を押さえつつ、独房の中の思考実験を復元して描いてみた。それは哲学の基礎トレーニングの段階だったといえる。
ベルナールは、監獄は自分にとって「現象学の実験室」だったと語っている。それがどのような現象学だったのか? その具体的な姿を描き出すことが今回の目的となる。
「現象学の実験室」
現象学が、20世紀以後の現代哲学の大きな潮流のひとつだということは、極東の国日本で哲学を志す日本人にとってもいわば常識だろう。日本人たちと現象学の付き合いは古い。『論理学研究』が刊行された1900年代にはほぼリアルタイムで紹介が行われているし、1920年代になれば紹介の段階を脱して、西田幾多郎や田辺元の京都学派との哲学的対決の時代に突入、田辺や九鬼周造ら多くの留学生(当時の文化エリートだが)が直接フッサールやハイデガーの講義を受講し指導を受けていた。三木清(1897-1945)のように二十代半ばでフッサールの授業に出ていた人もいる。日本近代における「哲学」の誕生と現象学の導入はほぼ重なっているのだ。
ところで、(若い読者の)みなさんは、現象学についてどんな前提知識を持っているのだろうか?
例えばぼくの場合、以前書いたように、哲学に興味をもったのは16歳ぐらいで、哲学を読むのは当時はお決まりのサルトルとかからだったけれど[★1]、1970年(高校二年生の頃)に木田元の岩波新書『現象学』が出た。これは画期的な本ですぐに話題になり、クラスの何人かは出版されるやいなや、授業中に机の下で読んでいた(つまらない授業の時間には別の本を読むという実践(プラクシス)は、いまでもきっと続いているのだろうね)。いま読んでも全然古びていない、すごくよく出来た入門書だ。この稿を書くために久しぶりに書庫から取り出したんだが、思わず最後まで再読してしまった。これを読めば現象学についてひととおり分かるし、じつにしっかり書かれている。木田さん、40歳超えたぐらいでこれを書いたのだが、優れた先生だったんだな、と当時の彼の年齢をはるかに超えて生きてしまったぼくは思う(ただ、まだほとんど何も読んでいない16、7歳の高校生が読んですべてすぐに分かると言うことはもちろんないとは思うけれど)。
冒頭は、ボーヴォワールの自伝『女ざかり』[★2]が語る、ドイツから帰国したレイモン・アロンから、サルトルがフッサールの現象学を教わる有名な逸話から始まる──
「アロンは自分のコップを指して、《ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!》」[★3]
Aron désigna son verre : « Tu vois, mon petit camarade, si tu es phénoménologue, tu peux parler de ce cocktail, et c’est de la philosophie ! »"
そして、ここからが今回の本論なのだけれど、ボーヴォワールの仏語原文を併記したのは、c’est de la philosophieの部分冠詞 de la の意味〔部分冠詞は具体的な量を表す)が邦訳で表すのがむずかしいからだ(「C’est la philosophie. それは哲学だ」と区別がつかなくなる)。アロンが言った(とボーヴォワールが書いている)のは、カクテルでも何でも語れるのが現象学という哲学なんだぜ!ってわけでは決してなくて(それなら普通に凡庸なポストモダニスト言説ということになるし、ボーヴォワールの演出にはそういう側面がないとは言えない。「実存主義」って、良くも悪しくも、第二次大戦後初の哲学のモード現象化でもあったのだから)、きみが現象学者なら、ほら、このグラスのアプリコットカクテルを[ごく具体的に]語ることができて、カクテルが哲学的なものになるんだよ、というぐらいの意味で、現象学が可能にする具体の哲学の斬新さを説明した箇所だからだ。
これは、「事物そのものへ Zu den Sachen selbst」という『論理学研究』以来のフッサール現象学の標語をアロンが口にした瞬間だったのだ[★4]。その頃、偶然性のリアルや経験のボトムの具体性・即物性の問題にこだわっていたサルトルにとって、それは心にグサッと刺さる言葉で、かれは興奮しながら聴いていた。そこですぐにサンミシェル通りの書店に駆けて行くと、その頃出ていた数少ないフッサール研究書、レヴィナス『フッサールの現象学における直観の理論』[★5]を買い求め、フランス装本のページを切る前から歩きながらむさぼるように目を通していた、とボーヴォワールは書いている。1932年10月半ばのことだ。
ベルナールの現象学を位置づけようとする今回の考察の冒頭にこの有名なエピソードを掲げたのには理由がある。
われわれはすでに第12回でベルナールの現象学的還元の話を始めていた。そこで、まず考えてみたいのは、(1)1932年秋にモンパルナス通りのバーBec de Gaz で名物のアプリコットカクテルをすすりながら、グラス一杯のカクテルを題材に現象学的還元の手続きに(だいぶ遅ればせながら)入門しようとして意気込んでいるサルトルにとっての「現象学的還元」と、(2)1979年、トゥルーズのサンミッシェル監獄の何もない沈黙房で、「思惟の魂」(アリストテレス)の生活を始め、マラルメの「不在の花」の一節を唱えて「一輪の花 Une fleur」をめぐり省察しているベルナールにとっての「現象学的還元」とを比較してみると一体何が言えるのか、という問いである。
サルトルの「現象学的還元」
サルトルが1932年の秋に初めてフッサールの現象学を知ったという証言は、その遅さに驚いてしまうものだ。
フッサールの現象学は1910年代からベルギーやフランスで議論されていた。第一次世界大戦の空白期をはさんで、フランスにおける現象学の再導入の中心になったのはじつはパリではなくストラスブールだ。フッサールの弟子でもあったジャン・エリング(Jean Hering. 1890-1966)がストラスブール大学の教授となり、フランス語による現象学に関する最初の単著とされる『現象学と宗教哲学(Phénoménologie et philosophie religieuse)』を1926年に出版したあたりから受容は本格化した。さらに、レヴィナスらの新しい世代が、現象学受容を「論理学への関心」から「具体的経験への適用」へと展開させる役割を果たした。1920年代後半に入ると、現象学は一部の専門家の関心を越え、パリでもソルボンヌ大学を中心としたアカデミズムの主流に組み込まれ始める。ギュルヴィッチ(Georges Gurvitch 1894-1965)やグロチュイゼン(Bernard Groethuysen 1880-1946)といったソルボンヌの教授たちがドイツ現代思想の紹介や講義のなかでフッサールを扱うようになったのだ。
ギュルヴィッチは社会学者であったが、1928年から1930年にかけて、ソルボンヌで「ドイツ現代哲学の諸潮流」と題した一連の講義を行った。この講義は、フッサール、マックス・シェーラー、マルティン・ハイデッガーらを体系的に紹介するものであり、1930年に『ドイツ哲学の現代的傾向』[★6]として出版された。若き日のモーリス・メルロ=ポンティやシモーヌ・ド・ボーヴォワールはこのギュルヴィッチの講義を通じて、初めて組織的な形で現象学の洗礼を受けた。
この時期のフランス思想界には、抽象的な論理構成から離れ、生の具体性や直接的な経験へ向かおうとする「具体的実在への回帰」という広範な動機が存在していた。ジャン・ヴァール(Jean Wahl 1888-1974)が1932年に出版した著作『具体的実在へ』[★7]というタイトルは、この時代の精神を象徴している。フッサールの現象学は、まさにこの「具体性への渇望」を満たすメソッドとして、若手哲学者たちの期待を集めていたのだ。そして、フッサール自身が、1929年2月にドイツ学院とフランス哲学会の招きでパリにやってきて、2月23日および25日の二度にわたり二時間の講演を行った。その会場となったデカルト講堂は、ソルボンヌの図書室から正面階段を降りてすぐ右手の260人〜300人規模の階段教室式の歴史的講堂[★8]だ。フッサールの講演には、ブランシュヴィックやレヴィ・ブリュールらの学界の重鎮、レヴィナス、コイレ、エリングといったフッサール門下の媒介者たち、さらに当時はまだ無名だったメルロ=ポンティやカヴァイエスといった若手たちが詰めかけていた。講演は大成功でたくさんの聴衆が押し寄せたらしい。正確な人数は分からないが、同時期にベルリンで行った記念講演では1600名の聴衆が集まったという記録があるから[★9]、厳めしい哲学者という印象のあるフッサールもこの時期には大変なスターであったことがわかる。
じっさい、フッサール自身にとっても、このパリ講演は70歳の誕生日を控えた時期の「最高の栄誉」の一つだった。彼はデカルトゆかりの講堂で自説を「新デカルト主義」として提示することに強い自負を持っており、その熱量は「生きた、発展途上の学に触れている」ような感覚を聴衆に与えたとされている。ドイツ語で行われたこの講演が改訂拡張されて1931年に刊行されたフランス語訳が、『デカルト的省察(Méditations cartésiennes)』[★10]だ。
このように歴史を少し掘り起こしてみると、サルトルの“遅れ”は際立って見えるのだが、彼がその場にいなかったのは、ちょうどこの年兵役についていたという偶然からだった。
そこで、アロンとのエピソードの翌年1933年に自身の遅れを取り戻すべく、アロンの後任としてベルリンのフランス学院(Institut Français)の給費研究員として一年間フッサール現象学の研究に打ち込むことになる。そして、このベルリン滞在中にフッサールの著作を精読し、後に『想像力』(1936年)や『自我の超越』(1937年)、そして『想像力の問題」(1940年)『存在と無』(1943年)へと繋がる独自の現象学研究に没頭するようになる。
そのサルトル固有の現象学の展開について詳細に論じるのは、この稿の範囲をはるかに超えるのだが、少しだけ触れておこう。モンパルナスのバーでの、グラス一杯のアプリコットカクテルをめぐる「事物そのものへ」の回帰から始まったサルトルの現象学は、とくに「想像力」をめぐって大きく転回していった。ベルリン滞在中のサルトルの現象学はおそらく、意識の非人称性と否定性の理論の開発(「自我の超越」)、そして、知覚(perception)ではなく想像力(imagination)を意識のノエシス・ノエマ構造で捉える独自の「現象学的心理学」の構想といったものだっただろう。
一見かなり異端に見えるサルトル流現象学がもつ射程は大きくて、この連載(第5回・第6回)を通じても論じたように、「想像力が権力をとる」68年の5月革命にまで、その影響力は及んでいく。時代は「イメージ」の時代へと進んでいたのであり、「像意識」とは何かを問う現象学へとサルトルは分け入っていったのだった[★11]。
代補の現象学
他方、ベルナールの「現象学的還元」はどのように進んだのだろうか。
連載前回では、独房への隔離を哲学的に「内面化」──この「内面化」という表現はここではあくまで括弧付きの暫定的なものでその内実についてはこれから議論する──することで、アリストテレス的な「思惟の生」へと読み替えていった経緯を、まず「現象学的還元」の準備プロセスとして見た。
「思惟の魂(âme noétique/noetic soul)」や「思惟の生(vie noétique/ noetic life)」、「思惟環境(milieu noétique / noetic milieu)」という言い方がされていたが、それを成り立たせている思惟の作用が、現象学の基礎概念であるノエシス-ノエマ構造 [★12]──フッサールが『イデーンI』(1913年)において定式化した志向性の概念的枠組み──で、志向性こそがその普遍的な媒質(メディウム)をなすと考えるのが現象学だ──
われわれがすでに、(体験の流れを意識の統一と言い表したときに)示しておいたように、志向性とは、その謎めいた諸形式と諸段階を措くとすれば、結局のところ、志向的とは性格づけられないような体験を含めて、およそすべての体験をおのれのうちに含み込んでしまうような一つの普遍的なメディウムに等しいものなのである。(傍点引用者)[★13]
この『イデーンⅠ』第85節冒頭の「志向性とは普遍的なメディウムに等しい」という定式化、これはフッサール自身が現象学の核心を「メディウム」という言葉で捉えた稀有な瞬間だ。
志向性がメディウムであるとはどういうことか。意識は常に「何かについての意識」として働く──これが志向性の基本規定だが、そこで「メディウム」という言葉が使われるとき、意識は単なる「志向する主体」ではなく、あらゆる体験を通過させる媒質としての場と捉えられている。光が媒質を通して屈折するように、あらゆる体験は志向性という普遍的なメディウムを通してはじめて意味を帯びた体験として現れる。
そしてここに、ベルナールが獄中で辿り着いた問いが接続してくる。
「独房」という、「思惟のメディウム」が根底からラディカルに変質した空間で──つまり社会的・技術的な生の媒介環境が変調した空間で──志向性という普遍的メディウムはいかに働くのか。あるいは働けるのか。フッサールが「メディウム」と呼んだものの条件を、ベルナールは独房という「現象学の実験室」で「自然的態度」を括弧に入れる──入れざるを得ない──ことで、身をもって問い直すことから始めたと言える。
アリストテレスが強調するように、何かに触覚の場合に媒質となるのは身体だが視覚の場合には、透明体が媒質となる。そのとき、媒質は、最も近いものであるがゆえに、構造的に忘れられてしまうものです。ちょうど魚にとっての水のように、媒質は起こる出来事の背後に隠れてしまうのです。(Passer à l’acte p. 32 邦訳『現勢化』 pp. 48-49に対応)
このアリストテレスの透明体(diaphanes)の議論が、フッサールの第85節の「普遍的なメディウム」としての志向性と響き合う。志向性もまた、それを通してあらゆる体験が意味として現れるがゆえに、それ自体としては見えない。自然的態度とはまさにこの没入状態のことだ。意識はメディウムとしての志向性の中に浸りきっていて、そのメディウム自体を主題化できない。
そしてフッサールのいうエポケー──自然的態度の括弧入れ──とは、この没入状態からの脱出として理解できる。魚が水面から飛び出すように、志向性のメディウムから一時的に抜け出すことで、はじめてそのメディウム自体が見えるようになる。ベルナールの独房はまさにそれを強制的にせまる脱出装置として機能したのだろう。社会的・技術的な「生の媒介環境」がラディカルに欠如したことで──魚が水面から飛び出して水というエレメントを俯瞰するように──ベルナールは、はじめてそのメディウムの構造を見ることができた。
独房の中にいた自分は水の中の魚のようだったとは言えない。むしろ、独房の中は、思惟の魂の生命的ミリュー[★14]である〈世界〉──つまり、人と人とのつながりを下から支えている人工物の織物としての〈世界〉──が根底から欠如していた(radicalement défaut)のです。私はおそらく、自らのエレメント[★15]の上空を飛ぶ飛び魚のようにその〈世界〉を俯瞰する機会を得たのだと思います。そのエレメントとは、すみずみまで代補(suppléments)[★16]によって構成されたエレメント的ミリュー──言い換えれば、エレメントそれ自体が**つねに欠如している(fait toujours défaut)**ようなミリューです。
そして私は発見したのです──これはプラトンの用語で、しかし、プラトンとは反対の観点から言うのですが──そのエレメントとは補助記憶(ヒュポムネーシス hypomnèse)[★17]にほかならず、それは想起(アナムネーシス anamnèse)に場所を与える(donne lieu)ものなのだということを。 (ibid. 34邦訳52-53頁に対応)
うーむ、だいぶむずかしい言い方をしていますね。詳しい註を打ったので、哲学の基本語彙はそちらを確認してください。
ここに述べられたことは大変に重要で、元は2003年に行われたインタビュー(『現勢化 Passer à l’acte』で書籍化)からの引用なのだが、ベルナールにおける「現象学的還元」のエッセンスをまるごと圧縮した箇所なのだ。
自分は、結局、トゥールーズ刑務所における4年半に独房での「思惟の生」を通じて、〈世界〉をまるごと独自のやり方で〈現象学的に還元〉したのだ、とここで彼は言っている。そして得られたのは、〈世界〉とは要するに〈ヒュポムネーシス〉なのだ、という発見だった。
ここで繰り返し登場する「欠如(défaut)」という語に注目してほしい。フランス語の défaut は「欠如・欠陥・欠点・不在」を意味するが、同時に「il faut(〜が必要だ・〜しなければならない)」という表現の動詞(falloir)と語根を共有している。ベルナールはこの二重性を意図的に活用して、欠如しているからこそ必要なもの(un défaut qu'il faut)、あるいは欠如することで場所を開くものという逆説的な含意をこの語に込めている。
「つねにあらかじめ欠如している」エレメント、「根底から欠如していた」世界──これらはたんなる「不足・欠乏」ではなく、その欠如が逆に何かを可能にする不可欠な欠如として語られている。この 欠如défaut をめぐる問いはベルナールの核心的な主題の一つで、われわれはこの後も詳しく論じていくことになるだろう。
〈ヒュポムネーシス〉としての〈世界〉
では、〈世界〉が〈ヒュポムネーシス〉であるとは、どういうことだろうか。「現象学的還元」を通してそれが明かされるのはなぜなのだろうか。
ソクラテスが『パイドロス』[★18]の中で語る有名な逸話を思い出そう。エジプトの神テウトは、文字を発明したとき、それを王タモスのもとに持参してこう言った──「これは記憶と知恵の秘訣(φάρμακον/pharmakon)です」と。しかしタモスは取り合わなかった。文字をもつと、人は「自分で自分の力によって内から思い出す」ことをせず、「自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出す」ようになるからだ。
つまり文字は記憶(アナムネーシス)の秘訣ではなく、たかだか記憶の補助(ヒュポムネーシス)にすぎない、むしろ魂の内なる記憶を弱らせる「毒薬pharmakon」だというのだ。プラトンはこの逸話を通じて、ヒュポムネーシス──外部の技術的装置による記憶の補助──を、真の知恵から魂を遠ざける危険なファルマコン(pharmakon、毒薬であると同時に薬でもある両義的なもの)として位置づけた[★19]。この評価をベルナールは正面から引き受けながら、しかしプラトンとはまったく逆の結論へと反転させる(その意味でベルナールにおいては、「飛び魚」と「毒薬」はセットなんだ。だから、この連載を通じてφάρμακον/pharmakonには毒薬(どくくすり)とルビを振っている)。
独房という空間で社会的・技術的なミリューが根底から欠如したとき、そこに残ったのは「純粋な内的意識」では決してなかった。残ったのは、差し入れられた書物──マラルメ、アリストテレス、ソシュール──それに、わずかに受信できたラジオの大学通信講座という外部的な技術的記憶の残滓だった。そしてその残滓を通じてのみ、ベルナールは世界を再構成し、想起し、哲学することができた。ヒュポムネーシスなしには、アナムネーシスは起動しなかった。
そこから彼が引き出した考えはラディカルなものだ。
〈世界〉は、そもそも最初から、ヒュポムネーシス的な構造を持っている。世界とは「そこにある実在」ではなく、人工物の織物──書物、道具、記号、制度──が織りなす技術的な支持体の網の目として成り立っている。そしてその網の目こそが、私たちの思惟と想起に「場所」を与えているのだ(ここから、ハイデガーの「現-存在」や、ヴァレラらの「拡張された心」と哲学的に響き合うテーマが導き出されるようになる)。
これはプラトンの言葉を使いながら、プラトンを逆転させる身振りだ。プラトンは文字を「父親なき言葉」──死んだ言葉といってもよい──と呼び、文字は相手の問いに答えて魂の生きた対話を担うことができないとした。しかしベルナールにとって、その父親なき言葉の集積こそが、水面上を飛ぶ瞬間の飛び魚を支える──もう一つの水のエレメントだった。
『イデーンⅠ』第85節に戻るなら、こう言えるだろう。「志向性という普遍的メディウム」が意識のすべての体験を包摂するとフッサールは言った。しかしベルナールが発見したのは、その志向性のメディウム自体が──ヒュポムネーシスという技術的な支持体なしには──成り立たないということだ。メディウムのメディウムが、外部にある。意識の「普遍的な媒質」は、内部で完結していない。
これがベルナールの「現象学的還元」が教えていることであり、フッサールのそれと根本的に異なる点だ。これはフッサール現象学の反メディア論的な身振り──あらゆる体験を非媒介的な〈意識の現在〉に還元しようとする身振り──を、内側から揺るがす問いでもある。
世界の不在
ベルナールの「現象学的還元」が独自のエレメントを持つのは、それがフッサールの現象学からだいぶ遠ざかって成立しているからだろう。
20世紀も経って1970年代になれば、現象学も多様な展開をとげるようになっていた。サルトルの場合について語ったように、現象学から出発してオリジナルな思想を切り拓いていった哲学者たちは、決してオーソドックスとはいえない偏差から独自の境地を生み出していった。ベルナールの場合、グラネルやデリダの世代から現象学をならったのだから、フッサールが生きていた時代から数えれば現象学第4世代とでも呼ぶべき位置だろう[★20]。
すでにこの連載第13回を通じて見たように、彼の獄中における読書はソシュールから始まり、バルト、クリステヴァ、テル・ケル、ヤコブソンといった構造主義・ポスト構造主義の言語論を経由し、デリダの『グラマトロジーについて』へと向かい、そこからルロワ=グーランの技術人類学を経てハイデガーへ、そしてようやくフッサールに至った。
ベルナールがフッサールのエイドス的還元(réduction eidétique)を理解したとき、それはすでに差延(différance)と痕跡(trace)というデリダの問題系を通過した後の理解だった。マラルメの「私は言う、一輪の花」──声が花の個別の輪郭を忘却の中へと退けることで、「すべての花束からの不在」として理念が立ち上がるあの瞬間──を、ベルナールはフッサールのエイドス的還元の詩的遂行として読んだ。しかし、そのとき、その「花」の理念が、言語というかれがのちに概念化する用語を使えば「第三次把持 retention tertiaire」のエレメントの中にしか現れないことをすでに知っていた。書かれた言葉すなわちヒュポムネーシスを経由しない「純粋な本質直観」などというものは、彼にとって最初から存在しなかった。
言語論的転回が彼の読書体験に刻み込んでいたのは、次の一点だ──言語は思惟を表現する道具ではなく、思惟の条件そのものだ。そしてデリダが示したように、その条件は差異の痕跡として機能する──現前するものは常にすでに差延différanceの構造の中で成立していて、起源としての純粋な現前などは存在しない。「世界の不在」の中で世界が不可欠な欠如défaut qu'il fautのエレメントとして現れるとき、それは差延の論理に裏打ちされた生きられた体験にほかならなかった。欠如するものこそが場所を与える──これがデリダのエクリチュール論をベルナールが技術論へと接ぎ木する蝶番となる。
イディオテクスト(L‘idiotexte)
しかしベルナールはデリダを単に繰り返したわけではない。差延を──括弧付き言えば──「“超越論的”な痕跡構造」として提示したデリダに対し、ベルナールは獄中という具体的な物質的条件の中で、その痕跡が技術的・物質的な支持体(supports)──書物、記号、制度──なしには存在しないことを発見した。そのときヒュポムネーシスはエクリチュールの問題であるだけでなく、技術-論理の問題として現れてくるだろう。
そしてそこから、「イディオテクストidiotexte(固有テクスト)」と名付けられるようになる構想の最初の萌芽が現れる。それは1980年のことだ。
ベルナールはその時点でまだフッサールを十分に読んでいなかった。しかし獄中で紙の上に痕跡を残し続ける実践──壁の上のカタツムリが粘液を残すように──の中で、自分の思惟がある固有の組織として生成していることに気づいていた。書かれながら読まれ、読まれながら書かれる記憶。特異な(idios)なものでありながら、つねにすでに潜在的には公刊されうるもの(déjà publiable)。そのような記憶は第三次把持──書物・ノート・書き物──によって支持されながら、世界の不在の中で世界を日々再構成しつづけている。
これはフッサールのエポケーとは根本的に異なる地点での「メディウム的還元」だ。フッサールのエポケーが世界を括弧に入れて純粋意識に到達しようとするのに対し、ベルナールの「還元」が辿り着いたのは**世界との縁(へり)**だった。水面から飛び出した飛び魚が、しかし空中に留まることができずに水面へと戻るその刹那──世界の不在と世界との境界面。その閾においてのみ、世界は欠落défautとして、しかし不可欠な──il faut──エレメントとして、すなわち「不可欠な欠如 défaut qu’il faut」として、その構造を露わにする。そしてその閾を支えていたのが、マラルメの詩集であり、差し入れられた哲学書であり、毎日紙の上に残されていく思惟の痕跡──ヒュポムネーシスとしての技術的メディウムだった。
独房のなかの数少ない人工物である小卓のうえにベルナールはマラルメの言葉を記刻した。
「外的環境(milieu extérieur)」を奪われて、私の「内的環境(milieu intérieur)」は、神秘家たちや修行者たちが求めてやまない、あの比類なき浮き彫りと重みとを帯びはじめる。だがそれは同時に、外的環境の不在においてこそ、そして「内的環境」の最も深く秘められた窪みにおいてこそ、外的環境は還元不可能(irréductible)なものとして立ち現れてくるのである。私はそのようにしてフッサール的な教訓を逆説的に(a contrario)体験することとなったのだった。不在であるがゆえに、世界は私の修道房(クロワトル)のなかで、「花束から不在の観念(l’absente de tout bouquet)」として在り続けていた。拘禁されてから数ヶ月が経ったころ、私は、仕事や食事をする際に向かう小さな卓の上に、マラルメの以下の詩句を書き記したのだった:
Ma faim qui d’aucuns fruits ici ne se régale
わが飢えは この地では 何の果実も楽しまず
Trouve en leur docte manque une saveur égale:
その博学なる不在にこそ 等しき味わいを見出すのだ[★21]日が過ぎるにつれて、私は理解した──内的環境のようなものは存在しない。この独房の中に留まりながら、記憶の形をとって凹みのような形で残っているのは、断片であり、欠如であり、人工物であり、しかし世界とはそもそもそのようなものであり、それらによってこそ世界はまとまりをもっているのだ。もはや私は世界の中に生きているのではなく、世界の不在の中に生きていた。その世界の不在はたんに欠如として(par défaut)というわけではなくて、常に欠けているもの(toujours défaut)として、そして不可欠の欠如(défaut qu’il faut)として立ち現れてきたのだった……[★22]
修行僧のような、「世界の不在」の生活の中で紡がれていくことになった固有のテクスト、その行方をわれわれはさらに追うことになる。
★1 本連載の第9回参照。
★2 シモーヌ・ド・ボーヴォワール『女ざかり: ある女の回想 (上)』、 朝吹登水子・二宮フサ訳、紀伊國屋書店、第3章。
★3 木田元『現象学』、岩波新書、1970年。
★4 フッサールは『論理学研究』第二版(1920年)の序文で「Wir wollen auf die Sachen selbst zurückgehen(われわれは事物そのものへと立ち返りたい)」と述べ、思弁的思考や言葉の操作から離れて、意識に直観的に与えられる事物そのものへと遡行することを目ざした。アロンがモンパルナスのバーでアプリコットカクテルのグラスを指しながらサルトルに示したのはまさにこの身振りだった。
★5 La théorie de l'intuition dans la phénoménologie de Husser Emmanuel Levinas Félix Alcan 1930. (邦訳はエマニュエル・レヴィナス『フッサール現象学の直観理論』佐藤真理人・桑野耕三訳、法政大学出版局、1991年)
★6 Georges Gurvitch,Les tendances actuelles de la philosophie allemande E. Husserl1, M. Scheler, E. Lask, M. Heidegger, Vrin, 1930.
★7 Jean André Wahl,Vers le concret : études d'histoire de la philosophie contemporaine, Vrin, 1932.
★8 現在もほぼ当時のままの状態で使われている。フランスの新しい大学の建物は安普請風であまり立派とはいえないのだけれど、ソルボンヌのような歴史のある建物は別格で、19世紀以来の美しい構造の内装を維持している。
1931年6月10日フッサール、カント協会ベルリン支部にて「現象学と人間学」と題する講演を、約1600名の聴衆を前に行う。夜には懇親会が催され、136名が招待された。「H. シュピーゲルベルク、スクラップブック(W. ケーラー):ヴォルフガング・ケーラー、ベルリン講演を聴講。」出典: F II 2/Ia; M II 1f/a; X III 6; R I Cairns, 2 May 1931 ; R I Ingarden, 15 May 1931 ; R I Koyre, 22 June 1931.
★9 1931年6月10日フッサール、カント協会ベルリン支部にて「現象学と人間学」と題する講演を、約1600名の聴衆を前に行う。夜には懇親会が催され、136名が招待された。「H. シュピーゲルベルク、スクラップブック(W. ケーラー):ヴォルフガング・ケーラー、ベルリン講演を聴講。」出典: F II 2/Ia; M II 1f/a; X III 6; R I Cairns, 2 May 1931 ; R I Ingarden, 15 May 1931 ; R I Koyre, 22 June 1931.
★10 Edmund Husserl,Méditations cartésiennes trad. par Emmanuel Levinas et Gabrielle Peiffer Arman Colin 1931.さらに遂行改訂されたドイツ語訳が出るのはフッサールの死後の1950年(邦訳は『デカルト的省察』浜渦 辰二訳、岩波文庫、 2001年)。
★11 フッサールは『ファンタジー・像意識・想起(Phantasie, Bildbewusstsein, Erinnerung)』(フッサリアーナ第XXIII巻、1980年刊)において、物理的な像担体(Bildträger)・像客体(Bildobjekt)・像主題(Bildsujet)という三層構造を区別し、想像的意識が「今ここにないもの」を準現前化(Vergegenwärtigung)する独自の志向的構造を持つことを示した。サルトルはこの草稿を知らなかったが、フッサールの像意識論を論じながら「おそらくフッサールは未刊行の講義でこの問題をはるかに深く展開しているはずだ」と予感していた。
まさにその草稿がようやく刊行された1980年(サルトルの没年)に、この問題系を写真論として展開したのがロラン・バルト『明るい部屋(La chambre claire)』(1980)で、バルトはサルトルの『想像力の問題(L'Imaginaire)』へのオマージュとしてこの書を捧げながら、写真固有の時間様態——「かつてそこにあった(ça-a-été)」という過去の実在の取り消しがたい痕跡として定式化した。
この「ça-a-été」の問題は、ベルナール・スティグレール『技術と時間』第II巻『方向喪失(La Désorientation)』(1996年)において、写真・映画・録音といった技術的外部記憶装置が構成する**三次的把持(rétention tertiaire)**が、一次的把持(知覚の保持)・二次的把持(想起)という意識の時間構造そのものに介入し条件づけるという問題として理論化される。
★12 ノエシス/ノエマ(noesis / noema):フッサールが『イデーン I』で導入した、志向的意識の構造を記述する一対の概念。ノエシス(希:νόησις)は志向する意識の働き・行為の側面(「知覚する」「想起する」「判断する」等の作用)を、ノエマ(希:νόημα)はその働きによって志向された意味内容の側面(「知覚されたものとしての対象」「想起されたものとしての対象」等)を指す。ノエシス/ノエマの語根 νοεῖν(思考する)は、古代ギリシア哲学の中心概念 νοῦς(nus/nous) と直接つながっている。アリストテレス『デ・アニマ(魂について)』になると νοῦς の分析が精緻化される:
能動知性(νοῦς ποιητικός):形相を抽象し、可能態を現実態にする働き
受動知性(νοῦς παθητικός):可能態として形相を受け取る
この能動/受動の区別は、フッサールのノエシス(能動的に志向する働き)とノエマ(受け取られた意味内容)の構造と構造的な類比関係にある。
★13 エトムント・フッサール『イデーン Ⅰ -II』渡辺二郎訳、みすず書房、1984年、 第85節、91頁(訳文を一部修正)。 原文を示すと以下の通り:
Wir deuteten oben schon an (als wir den Erlebnisstrom als eine Einheit des Bewußtseins bezeichneten), daß die Intentionalität, abgesehen von ihren rätselvollen Formen und Stufen, auch einem universellen Medium gleiche, das schließlich alle Erlebnisse, auch die selbst nicht als intentionale charakterisierten, in sich trägt. (Husserliana III/1, S. 191)
★14 ミリュー(milieu)。フランス語で「中間・媒介・環境」を意味する語。生物学ではクロード・ベルナールの「内的ミリュー(milieu intérieur)」として知られ、生命が存続するための内部環境を指す。哲学的には、個体が生きる媒介的環境一般を指し、その中に「溶け込んで」存在するがゆえに、通常は意識されない。ここではとくに、人間の知性的生(vie noétique)が成り立つための社会的・技術的な媒介環境を意味する。日本語の「環境」が外部的・客観的なニュアンスを持つのに対し、ミリューは個体がその内部に生きている「生の場」というニュアンスが強い。
★15 エレメント(élément)。ラテン語 elementum(根本要素・素材)に由来し、古代自然哲学の四元素(水・火・土・空気)を指す語でもある。ここではミリューをさらに根本化した概念として使われており、魚にとっての水のように、ある生命形態がその中に「浸って」生きる根源的な媒介素材を意味する。重要なのは、スティグレールがこのエレメントを「つねにあらかじめ欠如している(fait toujours défaut)」ものとして捉える点であり、エレメントは自明な基盤ではなく、代補(suppléments)によって構成された──したがってつねに不完全な──根拠である。
★16 代補(suppléments)。デリダから引き継いだ概念。「補足するもの」でありながら同時に「代理するもの」であるという二重性を持つ。ある欠如を補うために付け加えられるが、その付加物はもともとあるべき「本来のもの」を置き換えてしまう。スティグレールはここでエレメント的ミリューが「代補によって全体として構成されている」と言うことで、人間の生の根拠には「本来のエレメント」などなく、はじめから代補的・人工物的な構造しかないことを示している。これはエピメテウスの神話──人間だけが性質を与えられなかったという「起源の欠如(défaut d'origine)」──と接続する。
★17 ヒュポムネーシス(hypomnèse)とアナムネーシス(anamnèse)。プラトン哲学における対概念。アナムネーシス(想起)は、魂が身体に宿る以前に持っていた真の知識を「思い出す」ことであり、プラトンにとっては本来的・内的な知の回復を意味する。ヒュポムネーシス(補助記憶)は、文字・書物・記号といった外部の技術的装置による記憶の補助であり、プラトン(とくに『パイドロス』)においては、真の記憶(アナムネーシス)を弱体化させる人工的・外在的なものとして否定的に評価された。スティグレールはこの評価を根底から逆転させ、ヒュポムネーシスこそがアナムネーシスの条件──「場所を与えるもの」──だと主張する。書物という外部的な技術的記憶なしには、想起そのものが成立しないという洞察は、スティグレールが獄中で身をもって体験したことでもある。
★18 プラトン「パイドロス」274E-275B、藤澤令夫訳『プラトン全集5 饗宴 パイドロス』岩波書店 255-256頁。
★19 この箇所をめぐるファルマコン(pharmakon)の両義性──毒薬であると同時に薬でもある──については、ジャック・デリダ「プラトンのファルマシー」(”La pharmacie de Platon », 1968年、のちにLa Dissémination, Seuil, 1972年 所収、邦訳は『散種』)が先駆的な分析を行っており、ヒュポムネーシスを「死んだ言葉」として貶めるプラトンの身振りをエクリチュール論の観点から根底的に問い直した。スティグレールのヒュポムネーシス論はデリダのこの分析を引き継ぎながら、さらにそれを技術と時間の問題へと展開したものである。
★20 これよりあと、出獄後に、デリダから論文指導を受けることになるが、修士論文の時期にはデリダにまだ論文指導資格がなく、修論指導は数学の哲学と現象学の権威ジャン=トゥーサンデザンティ(Jean-Toussaint Desanti 1914-2002)に引き受けてもらっている。
★21 Mallarmé “Mes bouquins referméss sur le nom de Paphos ” マラルメの無題のソネット「M_e_s_ _b_o_u_q_u_i_n_s_ _r_e_f_e_r_m_és_ _s_u_r_ _l_e_ _n_o_m_ _d_e_ _P_a_p_h_o_s_,_ _わが書は閉じられし、パフォスの名を綴じ込めて、 _」(初出1887年、後に『詩集』の掉尾を飾る作品として所収)。パフォスはキプロス島の地名で、アフロディーテ生誕の地とされる神話的な愛と美の象徴。詩人は書物を閉じたまま、失われた官能の世界を想起しつつ、その不在の中にこそ等しい味わいを見出すという逆説を展開する。スティグレールはこの詩の後半の二行を小卓の上に書き記し、欠如が充足に転じる獄中体験の先取りとして繰り返し引用している。
★22 ibid. pp.38-39 邦訳62-64頁。


石田英敬



