日本的「スピっぽさ」の影と裏技 ──なぜひとは「こんまりメソッド」にときめくのか?|小山政幸

テレビ番組「国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉」が始まったのは、2005年4月5日のことだった。当時、この番組の「スピリチュアルカウンセラー」を務めた作家・オペラ歌手の江原啓之を中⼼として、スピリチュアルブームが日本社会に生じていた。
その最盛期から、はや20年の⽉⽇が経とうとしている。「守護霊」や「前世」、「癒し」や「パワースポット」といった様々な専⾨⽤語が⾶び交うようになり、スピリチュアルは商業としても⼤衆⽂化としても隆盛を極めている。たしかに平成が令和に代わり、スピリチュアルブームはその最盛期に⽐べれば下⽕になった。だがしかし、流⾏の中⼼としての「スピリチュアル」は後退したにもかかわらず、その残骸のようなものが亡霊のように今もSNSを中⼼としたインターネット空間や学術研究の中に息づいている。時に礼賛の、時に嘲笑の対象として……。
かつて一世を風靡したスピリチュアルブームの後にも、「スピリチュアル」は社会の中に残骸のように散らばり、あちこちに顔を覗かせてくるのだ。
バラバラな「スピリチュアル」
2025年の出来事として最もスピリチュアル的なものが注⽬されたのは、参議院選挙における参政党の躍進であろう。参政党はしばしば、反ワクチンやオーガニックをめぐるスピリチュアル的な主張で注目を集めている[★1]。支持者の中に「コロナ禍でのワクチン開発が製薬会社と政府の利益のための⼈体実験である」といった荒唐無稽な独⾃理論が広がっているのを見ることもある。その現象が陰謀論として分析・調査されることもある[★2]。
また、開運のためのセミナーやパワーストーン販売などといった、商業としてのスピリチュアルも社会の中で一定の支持を集めている。こちらは、旧統一教会の霊感商法が話題になったことで、世間からの厳しい目に晒されるようにもなった。「スピリチュアル」という言葉に拝金主義的なネガティブなイメージも付きまとうようになった。
アカデミアに目を向けても、例えばここ5年ほど⼈⽂界隈で流⾏している「ケア」の⽂脈などに、「スピリチュアル」という⾔葉が散⾒される[★3]。これは、かつてスピリチュアルブームでキーワードとなっていた「癒し」という要素を引き継ぐものであり、緩和ケア、グリーフケア、ひいては社会的マイノリティに対するエンパワーメントといった、リベラル⾊が強い議論の中で使われがちだ[★4]。こちらは参政党や商業化したスピリチュアルに⽐べれば、かなり前向きで穏健な印象のある「スピリチュアル」の使われ⽅だろう。
ほかにも、ビジネスシーンや⼼理臨床で、アメリカにおける東洋礼賛的なオリエンタリズムの後押しを受けて、「マインドフルネス」などのスピリチュアルな概念が実践的な⽅法論として逆輸⼊されている事例もある。
このように、現代社会においてスピリチュアルは多様な文脈の中に姿をあらわしている。そして「スピリチュアル」に対する世間のイメージも、それを「陰謀論」「拝金主義」と冷笑的に批判する層と、かつてのブームを彷彿とさせるような熱心な支持層とに乖離しているのである。
いま「スピリチュアル」という言葉は各領域で独⾃解釈をされているように⾒える。⼀貫した定義が曖昧なままに、バラバラな使われ⽅をされている。
その曖昧さとバラバラな用法が、人々の「スピリチュアル」に対する理解を阻むものになっているとぼくは考えている。曖昧さのせいで、「スピリチュアル」を頭ごなしに批判し冷笑したり、あるいはそのネガティブな側面を無視して手放しで称揚したりする両極端の態度が生じているのではないか。バラバラな「スピリチュアル」のありようを整理し直し、過去から現代に至る⼀貫したパースペクティブで分析・定義することが必要なのである。
「スピリチュアル」という言葉はジャングルのようだ。鬱蒼として、込み入っており、さまざまなものが潜んでいる。その中に隠された⼤いなる鉱脈を探り出してみたいというのが、本稿の目標だ。
スピリチュアル研究では捉えきれないもの
最初に自己紹介をしておこう。ぼくは動画配信プラットフォーム「シラス」でスピリチュアル研究チャンネルを運営し、配信を続ける傍ら、スピリチュアルカウンセリングなる、お客さんのお悩み解決のサポートをする仕事をしている[★5]。だがここ2年間ほど、ぼくはつねに「そもそもスピリチュアルとは何なのか」という疑問を抱えてきた。
⾔葉に馴染みがない読者も多いと思うので、⼿短に概観を説明しよう。
スピリチュアルと同様、「スピリチュアルカウンセリング」が指すものもまた多様で雑多にならざるを得ない。霊視、ヒーリング、降霊⼝述、オーラ(チャクラ)リーディング、波動調整、過去世退⾏など、その意味するものを挙げるときりがなく、厳密な定義を細かく行うなら本が数冊は書けてしまう。なのでここでは、心理臨床における一対一の面談という意味での「カウンセリング」との対比を通して、「スピリチュアルカウンセリング」の特徴を述べる。
その特徴は大雑把に言えばふたつある。まず、⼼理臨床が、個⼈と社会との関係性を「⼼」に注⽬して調整し、最適化し、修復していく試みであるならば、それに対してスピリチュアルカウンセリングでは、⼼理学における「⼼」に代わるものとして「魂(もしくは霊)」を重視する。
また、「心」や「魂」に対置される外部環境の設定も、両者では大きく異なる。⼼理臨床では「⼼」の外部に「社会」を想定し、社会との関係性のなかに目標を設定する。対してスピリチュアルは、「宇宙」や「あの世(隠り世)」としての超越的な世界を想定する。そして、その超越的な世界との関係性、そこから⽣まれるドラマや因果関係をベースに、クライエントが傷ついた経験から回復し、生きがいを見つけていくことを指向するのだ。
だが、ぼくはこのような説明に満足できなくなってきている。
当初ぼくは、スピリチュアルカウンセリングで得た経験や知⾒を学術的な議論と重ね合わせて配信できたらという軽い気持ちで、シラスのチャンネル開設を申し込んだ。くわえて、ぼくはゲンロン創業者で思想家の東浩紀のファンで、東の活動に近いところで⾃分の研究活動(のようなもの)を⾏うことに憧れと希望を抱いてもいた。だから、東の『存在論的、郵便的』(1998年)から『訂正可能性の哲学』(2023年)に⾄る思想や活動を、⾃分の研究やコンテンツとうまく絡めて考えていけたらと、淡い期待を持っていたのである。
しかし実際配信を始めてみると、期待はあっという間に崩れていった。いちばんの課題が、先に述べた「そもそもスピリチュアルとは何なのか」という問いだった。まさか、いざ研究を始めてみたら研究対象が不確かになるだなんて想像もしていなかった。現場での経験を学術的な知見を用いて検証・考察しようという当初の計画も、なかなかうまくいかない。端的に⾔えば、経験と理論がそうすんなりとはつながらなかったのだ。
占い、スピリチュアルケア、スピリチュアルな事象も考察対象に含まれる臨床⼼理学や臨床⼈類学、宗教学、陰謀論、理論物理学における宇宙論、脳神経科学における意識研究……。この2年間、さまざまな分野の専門文献を読んだり、専⾨家をゲストにお呼びしたりして、知⾒を深めることができた。ゲストの⽅々にはどんなに感謝の念を抱いても⾜りない[★6]。
にもかかわらず、である。何かが違う。本を読んだり話を聞いたりして得られる知見が、ぼくが普段のカウンセリングで培ってきた現場感覚と繋がらなかったのである。
なぜ繋がらないのか。その理由は、研究の対象となる「スピリチュアル」と、ぼくが日々の生活で実際に接しているものに「ズレ」があるからだと、いまのぼくは考えている。ぼくが肌感覚で知っているものは、「スピっぽい」としか形容できないような雑多さを持っている。
「スピリチュアル」には収まりのつかない、「スピっぽさ」。それこそ、ぼくが直面しているものであり、ぼくが研究したいものなのではないか。チャンネル開設から2年が経ち、ようやくそのことに気がついたのである。
そこで以下、本論考では次のように言葉を使い分けることにする。
まず「スピリチュアル」は、近代に勃興した「スピリチュアリズム」(19世紀半ばにアメリカにはじまり、人は肉体と霊魂からなり、肉体が消滅しても霊魂は存在し、現世の人間が死者の霊(霊魂)と交信できるとする思想運動)や「神智学」(19世紀にH・P・ブラヴァツキーが提唱した、あらゆる宗教に通底する「叡智」を探求する思想運動)の流れを汲む、日本国内で2000年代に江原啓之を中心として一大ブームを築いた社会運動のことを指す。それに対して、2000年代以降に大衆文化の中に浸透し、アカデミアの中で注目されている「スピリチュアル的なもの」のほう──こちらにはスピリチュアリズムや神智学からの歴史的系譜を見出すことが難しい──は、「スピっぽさ」と呼ぶことにしたい。
⾟酸なめ⼦が捉える「スピっぽさ」
スピっぽさをさらに定義するために、思いつく限りの具体例を書き出してみよう。
「守護霊」、「オーラ」、「セルフワーク」、「ヒーリング」、「本当の⾃分の探求」、(科学的ではない)「量子力学」、(意味するところがよくわからない)「霊的向上」などのキーワードがすぐさま思いつく。特徴に目を向ければ、⼥性の⽀持が多い、難しい話はウケが悪い、すぐ⽣活に役⽴つことが重要、幸運を引き寄せたい人が多い、「ワクワク」という言葉をよく使う、肯定してくれる学者には全幅の信頼を寄せる、スクールビジネス化しがち、定期的に予⾔がなされる、⼈付き合いが苦⼿な⼈が集まる、美容効果に関心がある、宗教は嫌だけどスピならOK……。
もちろん、上記に当てはまるからといってただちに「スピっぽさ」と決めつけるのは単純化が過ぎるだろう。だが、この例示を通して「スピっぽさ」のイメージは共有できたのではないか。
このような「スピっぽさ」を考察・分析の対象として正面から扱っている先駆者が一人いる。漫画家、コラムニストの⾟酸なめ⼦である[★7]。
彼⼥の著作は多数あるが、その集⼤成とも⾔えるのが『スピリチュアル系のトリセツ』(2020年)である。この著作の冒頭部分、「スピリチュアル系とは何か?」という章に、現代の「スピリチュアル系」の多様化を15種類ほどのジャンルとして提示し、自身の実体験を踏まえながら考察するくだりがある。
時代によって次々と新しい流派が出てくるので、他にも枚挙に暇がありませんがこの辺で.....。人類が二極化するように、スピリチュアルもPOPとディープ(ソフトとハード?)に二極化していっているように感じます。[★8]
ぼくが感じていた「スピっぽさ」の複雑さを、辛酸も「スピリチュアル系」をめぐる実体験の中から感じ取っていたようである。
また、その表紙に描かれている女性のイラストにも注目していただきたい。それを⼀瞥するだけでも、そこにぼくが⾔わんとしている「スピっぽさ」があふれんばかりに染み出しているのがわかるだろう[図1]。
ヨガマットとアロマを両⼿に抱えている⼥性。⾸元には天然⽯(クリスタルだろうか)が掛けられていて、おそらくオーガニックコットン素材だろう衣服を身にまとっている。

女性がささやいている「苦⼿な⼈が気付いたらいなくなってるの」という言葉にも注目してほしい。先のリストにも挙げたように、「⼈付き合いが苦⼿」ということは「スピっぽさ」に関わる多くの⼈たちに共通してみられる特徴のように思われる。
そのような人たちの気持ちを言い表しているのが、帯に書かれた「もう国や政府に頼れないので、目に見えない存在に救いを求めることにしました!」という文章だ。これに対応する、より詳しい分析を第1章に読むことができる。
今、スピリチュアルに興味を持つ人が増えているのだとしたら、その理由は、年金や地球環境など未来が不透明だったり、日本の国力が縮小していて不安感が漂っている、というのもありそうです。国や政府に頼れないから、神様や仏様、天使やアセンテッドマスターなど目に見えない存在に救いを求めたいのかもしれません。[★9]
最後の一文に特に指摘されている、「セカイ系」的とも「リバタリアン」的とも取れるようなこのありかたに、ぼく的な「スピっぽさ」のエッセンスも集約されていると言える。
つまり、①政治や国家という⼤きな枠組みには興味を向けず、⾃分の⽣活の苦しみや悩みを重視する「個人的な感受性」、②⾃分の願望を神様や不思議な存在が叶えてくれたり、癒してくれたりするはずという、愚直なまでに即物的で実利主義な期待。ぼくが想定する「スピっぽい」⼈たちは、対⼈関係の中でどうしても避けがたく出会ってしまう苦⼿な⼈との関係のこじれを、あるいは「年金」や「地球環境」、「国力」という一般的には政治的なイシューとして扱われるような内容さえも、現実そのものに向き合うのではなく、超越的な⼒に期待することで乗り越えようとしがちなのだ。
ぼくの経験則から考えるに、その乗り越えは、「アファメーション」(前向きな⾔葉を繰り返して⾃⼰暗⽰をかけること)や「⼿放し」(⾃らの魂に刻まれたネガティブなエネルギーから⾃由になること)などのイメージワークを通じた、苦⼿な⼈や政治的な問題が存在しない世界線(パラレルワールド)への移⾏によって試みるだろう。
この表紙の女性が体現する即物性や現世利益的な傾向こそ、「スピリチュアル」から区別される、「スピっぽさ」の特徴である。「スピっぽさ」を追い求める人たちは、「霊的成長」や「魂の向上」や「世界平和」といった精神的なゴールよりも、現実生活に根ざしたわかりやすい効果を目指すのだ。
しかし、このことは読者の目には奇妙に映るかもしれない。なぜ超越的な精神性と即物的な現世利益が直結してしまうのだろうか? その理由は本論考の後半で考察することとする。
こんまりの求心力と「スピっぽさ」
ここで少し視点を変えてみよう。スピリチュアルでは捉えきれない「スピっぽさ」が社会の中にあるとしたら、それは何だろうか。
そのように考えたとき、意外な対象が脳裏に浮かぶ。「こんまり」である。そう、あの「ときめく」⽚づけ術で有名な近藤⿇理恵のことだ。
いろいろな受け⽌め⽅があるとは思うものの、ぼくには「こんまり」は、かなり「スピっぽい」⼈に見える。ともすれば、占いや宗教よりも「スピっぽい」と言えるくらいに。
辛酸なめ子『スピリチュアル系のトリセツ』の表紙を飾る「スピっぽい」女性を思い出してほしい。彼⼥はおそらく、苦⼿な対⼈関係をイメージワークを通じて克服しようとしている最中だろう。そこで彼女が行なっていることを図式化すれば、次のようなステップに分解できる。
【ステップ1】⾃分にとって望ましくない現状がある(たとえば苦手な人がいる)
↓
【ステップ2】現実世界で他人と関わり適切な処置を取るのではなく、⼀⼈でできる精神的なワーク(=「アファメーション」、「⼿放し」など)を⾏う
↓
【ステップ3】⾼次元的な精神世界を経由することにより、現実世界で願望が成就する(つまり⾃分が苦⼿な⼈と関わらなくていい世界線に移⾏する)
この図式が、まさしく「こんまり」にあてはまるのだ。
こんまりが画期的であったのは「ときめくかどうか」という直感的かつ徹底した基準を打ち出したことにある。
その⽚づけ術──「こんまりメソッド」と呼ばれている──の最終⽬標は、「ときめくものたちに囲まれた空間を作ること」。そのために、ときめかないものはどんどん捨てていくことが推奨される。⽚づけが得意でも不得意でもないぼくも、そのメソッドには共感する部分が多く、有効だと感じた。
こんまりメソッドは一般的には「断捨離」や「ミニマリズム」として受け止められているが、どちらかといえば「マインドフルネス」に見出される「今ここ」重視の性質が強い。それは、ものを捨てることで⾝軽さや柔軟さを獲得したり、リソースストックを向上させたりすることだけを⽬的とするものではない。ときめくものだけを残し、ときめくものに囲まれた⽣活空間を体現することで、「今ここ」を充実させていくことを目指している。
近藤は次のように言う。
モノ(の⽚づけ)を通して「過去に対する執着」と「未来に対する不安」に向き合うと、今⾃分にとって本当に⼤切なモノが⾒えるようになります。
すると、⾃分の価値観がクリアになり、その後の⼈⽣の選択に迷いが少なくなるのです。 迷いなく⾃分が選択したことに情熱を注ぐことができれば、より早く、⾃分の理想に近づくことが可能です。[★10]
この⽂章からも読み取れるように、ものを捨てるという儀式的な所作によって、マインドフルネス的に意識を「今ここ」へと集中させ、片付けにおける選択の効率化を図るものが「こんまりメソッド」なのである。
それだけではない。ストイックな「ときめき」の現実化を通じてこんまりメソッドがもたらすのは、部屋が⽚づくこと以上の理想状態の実現なのだ。そのことを端的に物語る彼⼥の⾔葉を、4つ引⽤しよう。
①「⾃分が本当に好きなモノの根っこは、時がたっても変わらないと私は思います。そして、その根っこを⾒つけるのに⽚づけは⼤いに役⽴つのです。」
②「「⼀気に短期に完璧に⽚づけをやり終えた⼈」の⼈⽣は、間違いなくドラマチックに変化していくのです。」
③「少なくとも私にとっては、⼀つ残らず、本当に⼤好きで愛おしくて⼤切で、素晴らしいものに囲まれて⽣きているという⾃信と感謝の思いがあります。」
④「「⽚づけすると、やせます」「モノを捨てると、お肌がきれいになります」。⼀⾒すると、うさん臭い広告のようですが、これはあながちウソではありません。」[★11]
ほかにも、さまざまな効果(瞑想効果など)が謳われているが、上記の4つだけでも、こんまりの「スピっぽさ」が明確に浮かび上がる。
まず①で想定されているのは、スピリチュアル界隈で言われるところの「本当の私」、つまり「ハイアーセルフ」ではないかと思われる。⽂字通り「⾼次の⾃分」という意味の言葉であるが、その歴史的経緯は意外と古く、スピリチュアリティ研究においても⼤事な概念だ。最近では「本当の私」を指す⾔葉としてカジュアルに使われている。
②で⽬指されているのは、「開運」である。ただし、語り⼝こそ実証的っぽく説明されてはいるものの、そのメカニズムを詳しく検討すると、あくまで「実証的に⾒える」程度にとどまっているといえる。例えば、膨⼤な数のセミナー教材を捨てたら、⼼の重荷が取れどんどん新しい情報が⼊ってくるようになるといった説明がある。情報の取捨選択が大事だというところには説得⼒があるが、そのすぐ後に、「⼤量の名刺を捨てたら、会いたいと思っていた⼈から連絡がきて⾃然と会えるようになった」という超⾃然的な効果が、その因果関係は明示されないまま、唐突に紹介される。その語り⼝や喧伝される効果は、スピリチュアルの文脈で「引き寄せの法則」と呼ばれるものに近い。
③では、「ときめく」空間に囲まれていると、⾃信がつき、(ものに対する)感謝の気持ちが湧いてくるということが語られている。ここで謳われているのは、⽚づけという⾏為の⾝体性や儀式性から得られる「今ここ」の感覚の強化と⼼の落ち着き、そしてそれがもたらす自己肯定感の向上や余裕の獲得だが、これらはまさに瞑想やマインドフルネスについて喧伝される効果でもある。
最後に④だが、美容と健康はスピリチュアル界隈では重要な要素である。③で挙げた⾃信や⾃⼰肯定感の向上が、さらに外⾒の美しさも向上させるというロジックで、⼤変⼈気を集めている。つまり、美容効果と「スピっぽさ」は、かなり密接な関係を持ち合わせているのである。
こんまりメソッドが謳うこれらの効果、特に部屋が⽚づくという物理的な効果を超えた精神的な効果は、かなりの部分が──あるいは、全部と⾔っても過⾔ではないくらいに──スピリチュアルに求められているものと重なっている。
「ときめくもので囲まれた空間」をつくるための片付けが、「本当の⾃分がわかる」、「開運する」、「⾃信と感謝の気持ちが湧いてくる」、「美しくなる」といった効果に結びつく、こんまりメソッド。その流れを、前節で図式化した「スピっぽさ」に共通する思考・⾏動の3ステップと重ねてみると次のようになる。
【ステップ1】⾃分にとって望ましくない現状がある(たとえば自信がない、人生に不満がある)
↓
【ステップ2】こんまりメソッドで片付けをする。それ以外の問題については直接は対処せず、⽚づけを通してそれが改善することを期待する
↓
【ステップ3】⽚づけを通して、空間が整う以上の効果(本当の⾃分への気付き、開運、⾃信、美容など)を得る
こんまりメソッドの信奉者は、「スピっぽさ」の場合とは異なり、精神的な儀式ではなく片づけを行なっている。しかし重要なのは、その目的が「ただの⽚づけ」にあるのではないという点である。こんまりメソッドの売り⽂句は、「ときめく」空間を作ることで〇〇が⼿に⼊る、という触れ込みだった。つまり信奉者たちは、片づけの先にあるスペシャルな効果を期待しているのである。そこで片づけは、瞑想的な儀式と⾔えるだろう。
さて、ここまでの考察で、こんまりメソッドの「スピっぽさ」の部分をかなり描き出せたのではないかと思う。
実は、こんまりメソッドの信奉者に「スピっぽさ」に関心を持つ⼈々が⼀定数いるということは、近藤自身の著作でも触れられている。あるクライアント(ここでは「彼女」と呼ばれている)について、近藤が次のように語る記述がある。
彼⼥はスピリチュアルなことも⼤好きらしいのですが、「⾵⽔とか、パワーグッズとか、そういうことよりも、じつは⽚づけのほうが断然、効果がある」とうれしそうに語ってくれました。今では勤めていた会社を辞め、本の出版も決まるなど、新しい⼈⽣にまっしぐらといった感じです。[★12]
ここでこんまりメソッドが既存の「スピっぽさ」を超える、究極の開運法のように語られていることは興味深い。こんまりメソッドは、たんに「スピっぽい」というより、「超スピっぽい」と呼べるものなのかもしれない。いずれにせよ、その「スピっぽさ」の効果は、近藤本人も明示的に認めるところである。
また、こんまりメソッドは、近藤⾃⾝の「⼈となり」とも結びついている。近藤は、小学校の頃から自立心が強く、人に頼るよりは自分一人で取り組むことを好んでいたという。そうした傾向を受け止めたのが、片づけだった。
⼩学校⼀年のときから⽬覚まし時計を使って、誰よりも早く⾃分で起きているような⼦どもでした。⼈に頼ったり、信頼したりするのが苦⼿で、⾃分の気持ちを⼈に伝えることも⼤の苦⼿。休み時間はずっと⼀⼈で⽚づけをしていたわけですから、今の基準でいえば、どう考えても明るい⼦どもとはいえないでしょう。⼀⼈で校内をうろうろするのが好きで、それは⼤⼈になった今でも同じです。[★13]
ではなぜ、一人で行動するのが好きだった彼女は、片づけに魅了されたのか。近藤は次のように分析する。
⼈前で弱みを⾒せたり、⾃分の本⼼を⾒せたりすることが苦⼿だったので、ありのままでいさせてくれる⾃分の部屋やモノがこんなに愛おしいのだと思います。[★14]
だからこそ彼⼥は、愛おしいもので囲まれた空間を作るための「こんまりメソッド」を開発した。そしてその「ときめく」空間づくりこそが、グローバルに活動し、⼈前で堂々とプレゼンできるほどの⾃信や気概を彼女にもたらしたのである。
近藤はなによりもまず「片づけの人」だ。だがしかし、その著作や発言に表れる、モノや自己、他者や世界との向き合い方には、ぼくが「スピっぽさ」と考える特徴がたびたび見える。だが、それだけだろうか。
幼い頃を振り返る近藤自身の発言から、ひとつ重要な示唆を得ることができる。それは、こんまりメソッドのような「スピっぽい」ものたちが、即物的な現世利益を追求するだけではなく、自分自身がどうしようもなく抱えてしまってきた、コンプレックスにも似た「影」との折り合いをつけることを目標としているということだ。
こんまりメソッドの「ときめき」という輝きの背景には、一人でいるのが好きだったという「薄暗さ」があった。そのことは、「スピっぽさ」の分析において、重要な手掛かりとなるだろう。
現代日本と「スピっぽさ」の影
ここまで、⾟酸なめ⼦と近藤麻理恵に注目しながら、現代⽇本で隆盛している「スピっぽさ」の特徴を検討してきた。その作業を通じて、学術的な研究が捉えそこねてしまう、ぼくがスピリチュアルの現場でつかんできた肌感覚をあるていど言葉にできるようになったと思う。それをさらに追いかけてみよう。
たとえば現代日本の「スピっぽさ」の即物性、つまり具体的な現世利益を求める傾向に、1970年代のアメリカ西海岸を中心に隆盛した「ニューエイジ」や、1998年に創始された、⾃⼰啓発、啓蒙主義的な色合いが強い「ポジティブ心理学」に通じるものを⾒てとることができる。
宗教学者、社会学者の伊藤雅之は、現代のスピリチュアリティ文化に見られる現世利益の追求が、ニューエイジの時期に由来すると指摘している[★15]。70年代のスピリチュアリティ文化には「自分探し」があった。それゆえ「意識が変われば世界は変わる」が当時のキーワードだった。それが90年代になると、次第にカウンターカルチャーからメインカルチャーへとスピリチュアリティの位置が移っていく。その過程で、自己啓発本の主張とも重なるような、ポジティブ思考を謳うスピリチュアリティ文化が広く受け入れられていった。
伊藤が次のように指摘している点が重要である。
宇宙の高次の意識との交流をするチャネリング、守護霊や天使からのメッセージ、占星術、パワー・スポット(スピリチュアル・スポット)などは、心理的な安心感を含む現世利益を疑似科学的な手法により獲得しようとする内容となっており、その人気は現在まで続いている。[★16]
ニューエイジから現在まで続くスピリチュアリティ文化には、現世利益を追求するという特徴が一貫して見出されている。
しかし、アメリカの現代スピリチュアリティ文化における現世利益の追求と、日本の「スピっぽさ」における現世利益の追求は、はたして同じものだろうか。ぼくには、その背景にあるモチベーションからして大きな違いがあるように思われる。
手がかりを、神学者で牧師の森本あんりによる、ドナルド・トランプ大統領が象徴する「アメリカンドリーム」の分析に求めてみよう。森本は次のように言う。
自分は成功した。大金持ちになった。それは人びとが自分を認めてくれただけではなく、神もまた自分を認めてくれたからだ。たしかに自分も努力した。だが、それだけでここまで来られたわけではない。神の祝福が伴わなければ、こんな幸運を得ることはできなかったはずだ。神が祝福してくれているのだから、自分は正しいのだ。[★17]
ここで分析されている「アメリカンドリーム」の価値観には、アメリカという国家を支える宗教観、そしてアメリカの自己啓発の背景にある楽観性が反映されている。自分のコンプレックスや、どうしようもなさとしか言いようのない「影」を当初抱えていたとしても、成功さえすれば完全に帳消しになる。なぜなら成功とは、すなわち神に認められているということ、つまり自分が正しいということを意味するからだ。
乱暴に言えば、要はアメリカでは成功してしまえばなんでもいいのである。このような価値観は、そもそも神に対してそれほど強い信仰を持たない日本人にはあまり見られないものだろう。
一方、⾟酸なめ⼦や近藤麻理恵の分析から見えてきたように、日本の「スピっぽさ」の背景には、即物的な現世利益の追求だけでなく、コンプレックスにも似たある種の「影」がある。⾟酸が描く「スピっぽい」⼈や近藤麻理恵⾃⾝の過去には、⾃信のなさや内向性が影を落としており、それを無理に消してしまうことなく何とか折り合いをつけていこうとする態度として「スピっぽさ」があらわれる。この点に注⽬していくと、ニューエイジや⾃⼰啓発やポジティブ心理学が身にまとっている「成功」や「成り上がり」のアメリカ的なキラキラ感とは対照的な性質が浮かび上がる。
つまり、アメリカの現代スピリチュアリティ文化が、まっすぐで明るく、努力や理性の効能をかなり楽観的に信じているのに対して、日本の「スピっぽさ」には影があり、それゆえに、かならずしも努力や理性の効能を信じきれない傾向があるのではないか?両者を安易に繋げてしまうことには問題がある。
本稿でぼくが追い求めてみたいのは、その「影」なのである。
影を追いかける方法のひとつは、「癒し」や「セルフケア」との結びつきを探ることだ。宗教学者の⽥邉信太郎と島薗進、弓山達也は、⽇本の明治・⼤正期に端を発する「霊術・⺠間精神療法」が⽇本のスピリチュアル文化を生み出したと論じている。ここに「スピっぽさ」を考えるための手がかりがある。
3人は、霊術家や民間精神療法家が果たしてきた役割を次のように分析する。
彼らの思想と実践には合理と非合理、近代と伝統、科学と宗教といった二分法的な枠組みでは捉えきれないものがある。彼らは合理・近代・科学を見据えながら、非合理・伝統・宗教への安直な回帰を拒み、もう一つの道(オルタナティブ)を目指したといえよう。同時にそれは西洋近代医学の治療とも、もちろん伝統的な養生や病気治しの救済とも異なる、第三の項(癒し)を志向するものであったと我々はとらえている。[★18]
本稿の最初のほうで、ぼくは「スピっぽさ」を学術的な研究が捉えきれていないと書いた。その理由は、「スピっぽさ」に、前近代的な呪術とも、近代の科学とも異なる曖昧さがあるからだ。上に引用した分析は、この曖昧さを、伝統的な呪術と科学の二項対立を脱構築するオルタナティブな思想と実践として捉えているといえよう。そこで「癒し」と呼ばれるものは、ぼくの考えでは、現代社会の「スピっぽい」ものたちを支える存在だ。
癒やしをめぐるその分析は説得的に思える。しかし「癒し」というポジティブな⾔葉によって、「スピっぽさ」が有する「影」の部分が見過ごしてしまっているようにも思われる。「スピっぽさ」のまさしく核心が失われてしまうのだ。
「スピっぽさ」の影と裏技的な跳躍
いよいよ日本的な「スピっぽさ」の核心に迫ってみよう。
まず、あらためて定義すれば、「スピっぽさ」とは、「影」を抱えつつもそれに折り合いをつけていくための実存的営みである。近藤麻理恵が⾃⾝の不安を⽚づけメソッドとして昇華したように、⾃⾝の弱さを跳躍させ、「本当の自分への気づき」や「開運」といった⾶躍的効果を獲得しようとするものである。
これまでの研究が取りこぼしてきたのは、それが「影」から跳躍する運動だということなのだ。そこにはまだ掘り起こされていない大いなる鉱脈があると言って良いのではないか。その鉱脈を掘りおこしていきたい。
「影」からの跳躍という運動に注目すると、「スピっぽさ」が日本人の心を惹きつける理由を、よりクリアに整理することができる。
先に、⼼理臨床とスピリチュアルカウンセリングの違いは、前者が「⼼」の外部に「社会」を想定しているのに対して、後者が「魂(または霊)」の外部に「宇宙」や「あの世(隠り世)」を想定している点にあると記した。言い換えれば、スピリチュアルカウンセラーは、クライエントの⾊々な悩み事を、「魂」と「宇宙」や「あの世(隠り世)」との関係をめぐる様々な問題と捉え直し、その問題のこじれを調整することで、解決の⽷⼝を指南する。
例えば対⼈関係のもつれは過去世から連綿と続く因縁の問題に置き換わる。恋⼈との不和は究極の「魂」の伴侶としての「ツインレイ(魂の片割れ)」との再統合に必要な試練へと置き換わる。そして仕事がうまくいかないという悩みは、「ワクワク」「ときめき」を突き詰めることで⾒えてくる「ハイアーセルフ」や「オーバーソウル」としての「本当の私」を見出すプロセスに置き換えられることで解決へ導かれる。
そこには「社会」はない。現実の問題を、「私」と超越的「セカイ」との物語の中で捉え、具体的な、しかし超越的な因果律に根差した儀式や所作で⼀気に解決しようとする試みがスピリチュアルカウンセリングなのである。常識的な観点からすれば、かなり滑稽に見えるかもしれないが、スピリチュアルカウンセリングはこのような対処を⼤真⾯⽬に実⾏し、それがクライエントに対して一定の効果をもってしまう。
繰り返すが、これはあまりにも⾮常識な対処である。そして、詐欺まがいのスピリチュアルコンテンツが⾼額でやり取りされているという現実もある。過大に宣伝され、高額で販売されるスピリチュアルコンテンツの中には、クライエントの状況や足元を見て価格を吊り上げているとしか思えないケースもある。だから⼿放しに賛同することはできない。
この点についてぼく自身の考えを述べておけば、ぼくは自分なりの商業倫理として、スピリチュアルコンテンツに開運効果を謳ったとしても、それは科学的な根拠や効果を持つものではなく、あくまでおまじないやお守りのようなものにすぎないと説明するようにしている。スピリチュアルカウンセリングという分野自体も「心理臨床のカウンセリング」の民間・民俗的なバリエーションとして位置づけ、その価格帯についても心理臨床を基準とするのが、いったんの落としどころとして妥当ではないかと考えている。そこでは、医療人類学者アーサー・クラインマンの「ヘルスケアシステム」の考え方を参考にしながら、双方の棲み分けと協力関係を築いていくことが必要になるだろう[★19]。
ぼくは「スピっぽさ」には否定できない可能性があると考えている。だが、それをより公共性の高いものとして展開していくためには、こうした商業倫理に関する議論を今後も丁寧に積み重ねていく必要があるはずだ。
しかし、そのような倫理的立場からは回収しきれない疑問が残っている。なぜ⾼額かつ科学的合理性もない商材に、借⾦をしてまで、藁にもすがる思いで飛びつく⼈たちがいるのか? 国や⾏政が提供する公的サービスを、あるいはもっと実証的かつ常識的に肯定できるメソッドを頼ったほうがよいはずなのに……。その答えはじつはすでに出ている。そう、あの「影」のせいなのである。
確かに日本人の中にも、アメリカ発の⾃⼰啓発やポジティブ⼼理学のキラキラした楽観性に力づけられる人たちは⼀定数存在する。しかし、ぼくがスピリチュアルカウンセリングの現場で⽇々出会う⼈達のほとんどは、ポジティブ思考で合理的な努力を続けていけば自分を変えていけるということ、それそのものを上手く信じられていないのではないか、と感じるのだ。こちらの人たちのほうが日本人には多いのではないかと、ぼくは考えている。
クライエントを⾒ていると、彼らは皆、⾃らが抱えるコンプレックス、その弱点やどうしようもなさを、⾃分事としてしっかりと理解している。そして、⾃⼰啓発本やセミナー、著名⼈や成功者の体験談やメソッドを参考にしたりして、なんとかそれを乗り越えようと努⼒している。しかしそれでも、自分の中の「影」を乗り越えることが難しい。自己啓発やポジティブ心理学の明るさや前向きさに憧れを抱いても、「影」の強度に負けてしまいがちなのだ。
本稿で考察した近藤麻理恵も、「ときめく」のようなキラキラとした⾔葉で彩られてはいるものの、著作のなかでは──⼤々的に⾔及しているわけではないが──⾃⾝の持つコンプレックスを明⽰している。このことこそ、彼⼥が読者の共感を獲得している要因ではないだろうか。つまり、近藤が見せる「影」の部分こそが、彼女の⽇本⼈らしいリアリティをつくりだしており、片付け術を究極のメソッドのように感じさせている。日本人は、コンプレックスに由来する「影」のリアリティに⼀旦共感してしまえば、社会や国家、政治のようなリアリティをスキップしていても、何らかの効果を期待することができてしまうのかもしれない。それこそが⽇本独⾃の「スピっぽさ」の特徴ではないだろうか。
常識的な世界観や⾃⼰啓発ではどうしても乗り越えられない「影」。それを覆い隠してくれるのは、⼼と社会の関係性に回収できない、限りなく卑⼩で、限りなく壮⼤な、魂と宇宙の物語なのである。
ただし、ここで留意してほしい点がある。それは本論考が、「魂と宇宙」という個⼈的でイマジナリーな領域に閉じこもることを賞賛し推奨するものではないということだ。実際、近藤麻理恵も、⾃らのコンプレックスから出発したとはいえ、その中に閉じこもるのではなく、「ときめく」もの達に囲まれて⽣気を養い、こんまりメソッドを日本、そしてグローバル社会に伝道すべく、その歩みをアグレッシブに進めている。「スピっぽさ」がもたらす物語は、内向きではなく、外向きだ。
だから次のように言うことができるだろう。よくある世界観では、「私→社会→宇宙」という順番で物事のスケールが広がっていく。それに対して、「スピっぽさ」の世界観では、「私→宇宙→社会」という順番でスケールが広がるのだ。
⾃らの「影」を現実の方法で解決していくことが困難な場合に、人は「スピっぽさ」の力を借りてひとまずそれをスキップし、かりそめの⾃信を体得する。そして、その⾃信を元に、社会と対峙する。──これは決して、理性的で真っ直ぐな「正攻法」ではない。あたかもゲーム攻略における「裏技」のようなメソッドなのだ。
ところで、この「裏技」的な跳躍効果は、どこまで実証的で再現可能なものだろうか。そんな疑問もあらわれるだろう。ぼくの現場感覚からすれば、「スピっぽい」ものがもたらす解決は、最初こそある程度の効果が期待できても、反復するにつれて薄れてしまう。プラシーボ効果に似ていると言えるかもしれない。しかし、だからこそ「裏技」的なのだ。
それまで抱いていた自信が、現実を前に脆くも崩れ去ってしまったときに、何らかのきっかけで自信の持ち方や社会との対峙の仕⽅を再発⾒できるのであれば、それだけで⼗分な価値があるといえる。ぼくはそこに「スピっぽさ」の可能性を見出したいと思っている。
影、裏技、そして日本的なスピリチュアルへ
最後にもうひとつ論点を付け加えておこう。なぜぼくは、「スピっぽい」ものに見られる「裏技」性に注目するのか。それは、影や裏技性こそが日本的感性の核心にあるものかもしれないと考えているからである。
哲学者、評論家の梅原猛が、その主著『美と宗教の発見——創造的日本文化論』(1967)の中で、人間の感情とそこから生じる美学や精神性を三つに類型化している。そのとき梅原が日本人のものとして見出すのが、悲哀にも似た「悲しみ−喜び」の形式である。梅原の見立てでは、欲望が満たされない原因を自己の中ではなく「運命的なもの、自然必然的なものに求めるとき」に人は悲しみを感じ、逆に自然的な運命が欲望を満たしてくれるならば喜びを感じる[★20]。
このような日本人が陥りがちな精神性に、梅原は批判的である。
悲しみ−喜びの愛情をもつ人間像は、まことに消極的であるかに見える。それは、科学文明を創造することが出来なかったばかりか、それに伴う人生にたいする諦観は、内に多くの圧制を許してきたのである。われわれは、われわれの感情の構造に根本的反省を加える必要があろう。[★21]
言い換えればこういうことだ。日本人は精神性として、現実にうまくいかないことの原因を運命(あるいは宇宙)に見出しがちである。しかしその世界観からは、能動的かつ現実的な解決策が導かれにくい。これは、ぼくが現代日本の「スピっぽさ」に見出してきた「魂」と「宇宙」の直結に通じる感性であるともいえる。そのような「われわれの感情の構造」に対して、梅原は「根本的反省」を要求する。
梅原が半世紀以上前に提言した「根本的反省」は達成されているだろうか。答えは、残念ながら否である。日本人の精神性には、まだまだ「人生にたいする諦観」が流れている。
そしてそれは、⼀⼈⼀⼈が自分の悩みやコンプレックスを社会運動や闘争の形に組み換え乗り越えていくことが、⽇本ではなかなか難しいということを意味している。個々⼈のコンプレックスはあくまで個々⼈の問題であり、社会や他者のせいにすることをはばかるような「奥ゆかしさ」が日本社会には漂っているのである。しかしその「奥ゆかしさ」は、梅原が指摘したように、⽣き⽣きと私らしく⽣きること、⼈⽣を肯定的に捉えることを不可能にする。
⾃らの中に沈滞し解き放つことのできない「影」が、他者や社会との前向きな接続を阻んでいる。そのような日本人の「感情の構造」は、アメリカ式の楽観的で啓蒙主義的な乗り越え方では解消できないのではないだろうか。だからこそ、繰り返しになるが、ぼくはたとえ一時的で、いびつなものであっても、「スピっぽさ」が求められるのだと考えている。
そうした裏技的な回避に違和感を覚える向きもあるだろう。問題を先送りしても次の段階で再度直面するだけではないか、という懸念もあるだろう。とはいえ、人間の生は正攻法のみで整理できるほど単純なものではない。自分の意図とは無関係に推移し、ときにはどんなに頑張っても乗り越えられないように見える過酷な現実が目の前に立ちはだかる。そうだとすれば、「正解」から外れていたとしても、代替の攻略方法もありうるはずだ。日本的な陰りの感性の中から、「裏技」や「迂回」を許容する論理も導き出せるだろう。
とはいえ、⽇本的「スピっぽさ」の本質が、裏技的な問題のスキップだけかと問われれば、そうではない。近藤麻理恵のように、魂を通して宇宙と向き合っていたはずなのに、実は現実の社会とも向き合っていた、という道筋が⽣まれることがあるのだ。すっかり飲み込まれてしまうわけでも、完全に払拭してしまうわけでもなく、自己の「影」とうまく付き合いながらも他者に開かれていくこと。これこそが、コンプレックスを抱えたままグローバルに開かれていった「こんまり」が体現している、日本的「スピっぽさ」の新しい可能性ではないだろうか。
それを「ネオ・スピリチュアル」と呼んでみてもいい。これまで本稿が探ってきた「スピっぽさ」の可能性とは、まさしくこの日本的なスピリチュアルのありかたの中から導き出される世界との関わりのことなのである。
★1 ただしぼくの考えでは、参政党を単純にスピリチュアル的な政党とみなすのは妥当ではない。石戸諭が分析するように、党の躍進を支えたのは、反ワクや陰謀論的な主張ではなく、右派ポピュリズムの「柔軟さ=節操のなさ」である。たしかに、「日本人ファースト」というスローガンには自己と世界をつなぐ物語としての魅力があり、参政党の人気は、人々がスピリチュアル的な物語に惹かれる構造と部分的に響き合っていると言うこともできる。しかし、このような壮大な物語に支えられたスピリチュアル的な支持層は、参政党の主張が具体的な政策へと落とし込まれる過程で独自色を失い既存政党のものに近づいていくことで、離れていく可能性が高いと考えられる。石戸の分析は以下。石戸諭「参政党と日本人ファーストのカラクリ」、「文藝春秋+」、2025年08月07日。URL=https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h10453
★2 参政党ウォッチャーとして知られる黒猫ドラネコは、インタビューの中で次のように述べている。「反ワクチン思想は筋金入りで、国政政党となったのちの22年秋には当時代表だった松田氏が街頭演説で『ワクチンは殺人兵器』と声高に主張し、喝采を浴びている。現代表の神谷氏も22年に発売した党の『Q&Aブック』で、ワクチンを『人体実験』だと書いた。」(川口穣「日本で最も詳しい『参政党』ウォッチャーが語る“トンデモ理論”の源流と“神谷代表”の素顔」、『AERA DIGITAL』、2025年7月11日。URL=https://dot.asahi.com/articles/-/260629?page=2)
★3 看護学者の榎本愛子は「1998年、WHOの執行理事会において「スピリチュアルな健康−Spiritual well-being」を加える憲章改定案が用意されて以来,わが国でもこのテーマへの関心が一挙に高まってきました。」とした上で、「キリスト教系や仏教系などの聖職者、学者、実践家の間でスピリチュアルケアに関する学会、研修会、講演会などが行われ多面的に議論が深められてきました。」と述べている。エリザベス・ジョンストン・テイラー『スピリチュアルケア−看護のための理論・研究・実践』、江本愛子、江本新監訳、医学書院、2008年、vii頁。
★4 英米文学者の小川公代は、「自立した個」としての近代的自我が社会的マイノリティを抑圧的に排除してきたことに対して批判的に言及し、そのオルタナティブとして「他者に開かれたスピリチュアルな自己」、すなわち「多孔質な自己」を提示する。そして、そのようなスピリチュアルなあり方が、社会的マイノリティに対するエンパワメントとして機能すると論じている。以下を参照のこと。小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』、講談社、2021年、21–22頁。
★5 「小山政幸の徹底実践、スピリチュアル再生シラス」。URL=https://shirasu.io/c/srs
★6 実際、運営者の知名度が限りなく低いにもかかわらず、ぼくのチャンネルには豪華すぎる⾯々にご登壇いただいている。この場を借りて改めて感謝の意を述べておきたい。
★7 いちど弊チャンネルの番組に出演していただいた。辛酸なめ子×小山政幸「スピリチュアルは人を幸せにするか? 〜スピとの上手な付き合い方を考える」、小山政幸の徹底実践、スピリチュアル再生シラス、2024年6月23日放送。URL=https://shirasu.io/t/srs/c/srs/p/20240604171416
★8 辛酸なめ子『スピリチュアル系のトリセツ』、平凡社、2020年、16頁。なお「人類が二極化する」という表現は、なじみのない読者の方にはどういうことか分かりづらいだろう。2012年から、スピリチュアル界隈ではマヤ暦の予言をベースとした「人類規模の魂の次元上昇(アセンション)」というテーマが盛んに言及されるようになった。「次元上昇」とは、ざっくりいえば「霊的成長」とも言い換えられる言葉だ。さらに2020年前後からは、その次元上昇は誰でも成し得るものではなく、アセンションできる人とできない人に二分されると言われるようになっている。辛酸の言う「二極化」は、このことを念頭に置いている。ともすれば優生思想にも感じられるこの表現だが、スピリチュアル界隈ではごく普通ものとして共有されている。
★9 辛酸なめ子『スピリチュアル系のトリセツ』平凡社、2020年、18頁。
★10 近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法 改訂版』、河出書房新社、2019年、247頁。
★11 同書、①236頁、②239頁、①242頁、①260頁。①〜④のナンバリングは引用者による。
★12 同書、238–239頁。
★13 同書、241頁。
★14 同書、242頁。
★15 伊藤雅之『現代スピリチュアリティ文化論——ヨーガ、マインドフルネスからポジティブ心理学まで』、明石書店、2023年、36頁。
★16 同書、41頁。
★17 森本あんり『シリーズ・企業トップが学ぶリベラルアーツ──宗教国家アメリカのふしぎな論理』、NHK出版新書、2017年、36頁。
★18 田邉信太郎、島薗進、弓山達也『癒しを生きた人々──近代知のオルタナティブ』、専修大学出版、1999年、269頁。
★19 クラインマンは「ヘルスケアシステム(health care system)」を、医療行為を超えた文化的・社会的実践体系として捉える。このシステムは、①民間セクター(家族・日常的ケア等)、②民俗セクター(伝統療法・宗教療法等)、③専門セクター(医療・臨床等)の三層構造から成り立っており、それらが交錯しつつ、人々の病・治療の実践を支えているとされる。以下を参照。アーサー・クラインマン『臨床人類学──文化のなかの病者と治療者』、大橋英寿ほか訳、弘文堂、1992年。
★20 梅原猛『梅原猛著作集〈3〉美と宗教の発見』、集英社、1982年、160頁。
★21 同書、162頁。太字強調は引用者による。


小山政幸



