東浩紀の分裂──テクストとパフォーマンス、あるいはやさしさとマッチョ|山崎孝明
2024年11月23日、ゲンロンカフェにて東畑開人さんの新刊『雨の日の心理学』と、東浩紀の論考「平和について」を収録した『ゲンロン17』の刊行を記念し、東畑開人さん・山崎孝明さんと東による鼎談が行われました。その数日後、なんと登壇者の山崎さんから、シラスに制限字数の4000字を大幅に超える(!)レビューを投稿したいとのお申し出をいただいたのです。
そこでまずはシラスの番組ページでレビューを公開し、残りをふくめた完全版をwebゲンロンに掲載することになりました。イベントの熱気そのままに、山崎さんのアツい東浩紀論が展開されています。ぜひご一読ください。(編集部)
去る2024年11月23日、私は東浩紀・東畑開人とともに、ゲンロンカフェで鼎談を行った。今回のイベントは知的興奮に溢れた、とても楽しいものだった。イベント内で視聴者からいただいた「深夜のゼミ感」というコメントの通り、激論が交わされ、刺激的な時間となった。
だが私にはひとつ心残りがある。東思想の重要な概念のひとつである「親になること」について十分に論じられなかったことだ。
その概念は、たとえば『観光客の哲学』において重点的に語られているし、私が今回のイベントで多く引用した『ゲンロン15』の「哲学とはなにか、あるいは客的―裏方的二重体について」でも類似のことが述べられている。ほかにも『テーマパーク化する地球』に収載されている「払う立場」「運営と制作の一致、あるいは等価交換の外部について」を挙げてもよいだろう。こうして並べてみれば、東が親になるという「責任」の問題系について考えているのは、私の目には明らかに見える。
だが東はそう単純な思想家ではない。「新世紀エヴァンゲリオン」のゲンドウよろしく「シンジ、大人になれ」と言うことはない。そんなことを言っても、人が大人に、親になどならないことを知悉しているからだ。だから東は、「責任の生成」のオルタナティブルートを探る(これがイベントで飛ばしたスライドの要点である)。誤配、ふまじめ、ゆるく考える、観光客……私から見れば、東の仕事は一貫して「いかにしてマッチョにではなく責任を生成するか」をめぐってのものである。
ただ、東の自認はそうではないらしい。実際、イベントでも「僕の思想は「責任を取る」とかじゃなくて、いつの間にかなってしまっちゃっているというものだからなぁ」という趣旨のことを言われた。たしかにそうだ。『ゲンロン17』「平和について、あるいは「考えないこと」の問題」でも、仮に平和が達成された場合にそこで個々人がどうふるまうべきかについては書かれていなかった。
当然である。東はリベラリストだからだ。自由を重んじる人間は、他人に「こうあるべき」などと言えない。ただ、リベラリストではあっても、「リベラル・アイロニスト」であることを忘れてはならない。彼はそれを公的に訴えることはしないだろうが、私的には信念を持っている。少なくとも私はそう感じる。そして、その信念の内容は、控えめに言えば「世の中がまともに回るためには、「親」になる人もいなければならない」というものだと思う。
このねじれは、イベントでは東が「考えることと幸福は関係ないだろうけれど、考えることと人間であることとは深くつながっている」と述べていたことに現れている。東は、動物的な=考えない幸福を否定しない。それは建前ではないだろう。だが彼自身は、そこに安住していいと思っているわけではないことは明白だろう。そうでなければゲンロンのような会社を創業し、維持するはずがない。
私はここに東の分裂を見る。それは、東の中に存在する、動物的な=考えない東と人間的な=考える東との間にあるものだ。
東は、「動物的」と「人間的」のどちらをも肯定している。どちらが真であるとは言っていないし、どちらかが偽であるとも言っていない。『ゲンロン15』および『17』のテクストから、動物的であることを肯定しているのは明らかだが、彼は実は人間的であること、つまり考えること「も」肯定している。そう明言はされていないが、彼が近年平和について語っているのは、それが人が考えることを可能にする条件だからだろう。内心で「平和の中で考える人が増えてほしい」と何割かは思っているに違いない。
だが、東の公式見解は(そしてそれはまったくもって嘘ではないのだが)、あくまで「平和の中で個人は何をしてもいい」である。今回重点的に取り上げた『ゲンロン15』や『17』のテクスト(つまり頭)に現れる哲学では、動物性が擁護される。「考えないこと」を保障することで「考える」ことが可能になる、という逆説が描かれる。イベント内で東自身が述べていたように、これはたしかにひとつの東の思考のパタンである。
だがどうだろう。東のパフォーマンス(心)に現れる哲学は、人間性を、いや人間を求めてしまっていないだろうか。もちろん共生してはいないが、東は、自分だけでなく他者にも「考える」ことを願ってしまっているし、読者/観客を求めてしまっている。この、人を求める「心」が、東思想の基底にあるように私には思える。
だからこそ彼は、「知る、わかる、動かす」ために必要な知識ではなく、「TEDでは3分で終わるものを、ゲンロンカフェでは3時間かけて」、人という複雑な存在そのままを誤配しようとしている。この実践こそが、本イベントで東の述べていた、「時間をかけて溶け合う」ことで、異文化共生を、「本当の平和」を可能にするための仕掛けである[★1]。それはきわめて人間的な──「動かす」ことではなく、「考える」ことによってのみ出来する──事態であると言わざるを得ない[★2]。
東の心は交流を求めてしまう。それが出発点だ。だから、五反田に引きこもっているだけではなく、地方をまわり、現実の会員という「他者」と交流をすることを志向してしまう。私からすれば、その決断は、東のパフォーマンスを見ていれば当然のことに思えた。
だから私はイベント内で何度もゲンロンの新企画「ゲンロンぶらり友の会」を取り上げたわけだが、東はそれに戸惑っているようで、「そんなに大したことじゃないよ」と言っていた。東は「後づけで理屈はいくらでも作れる」「一貫性は遡行的に捏造される」と述べていたし、彼の体験としては実際にそうなのだろう。だが私は、それでもこの東の決定は、東思想の実践という観点から、非常に重要なものだと信じて疑わない。一貫性は捏造されたのではなく、伏在していただけのように見える。つまり、もともと心のほうで醸成されていた思いが発露し、それに頭が追いついてきた、という話に思えるのだ。東が自身の「心」について向き合い、「頭」での理解を追いつかせたがゆえのこと、と言ってもよい。でも、東の「心」は「頭」より前に「他者」との交流の必要性を知っていたように、私には見えている。だから当然、そこには一貫性がある。
こうして見てくると、東の動物性擁護は、単なる動物性擁護にはとどまらないことがわかる。つまり、擁護の「先」には、「考える」ことが期待されていることが透けて見える。
東は、動物性=心を擁護する。ただ、その擁護のためには頭が用いられている。そうしたねじれを、東浩紀という存在は孕んでいるのである。
終盤の「ゼミ」内では、東におけるルソーの影響も話題に上った。
東浩紀は分裂している。ねじれを内包している。それ自体はたしかにルソーを引き継いでいる。ただし、分裂やねじれのあり方はルソーとはだいぶ異なっている。ルソーは『エミール』で理想の教育を説いたにもかかわらず私生児を大量に作り出した、いわば言行不一致の男だ。しかし東は、思想とゲンロンの実践が一致している、言行一致の男だ。私の関心に引きつけて言えば、ルソーは「無責任」な男で、一方、東は「責任」の男だ。
もちろん東は、「後づけでそれっぽくしていくのが『訂正する力』だよ」などと嘯くだろう。東がそう思っていることを否定するつもりはない。しかし、私は東について、別の理解を持っている。それだけの話だ。では、どう違うのか。
東は「じつは」ではなく「元から」やさしかったし、他者への配慮を行う人物であったのだろう、と私は思うのである(ただし、やさしさが相手にやさしさとして受け取られるかはまた別の話で、この点については東は齢を重ねることにより、明らかに感度を上げているように見える)。だが、世間的に東がそのような受容のされ方をしていないのは私も理解している。それがゆえに、東浩紀という思想家を「全体対象」として理解することを促すために、私は東の思想を「やさしい思想」だとしつこく強調するのだろう。
東には、動物的な、のんべんだらりとした部分がある。東はそうした自分を、というよりも、人はみなそういった部分を抱えているということを肯定するための哲学を打ち立てようとしている。それは実際に成功している。だが同時に、もう一方には東は「まじめ」な部分、マッチョな部分を持ってもいる。とくに彼のテクストではなく、パフォーマンスのほうはそちらの側面が目立つかもしれない。ゆえに動画だけを見ていると、「マッチョな思想家だ」と誤解する可能性が高い[★3]。そうなると「東がやさしい? 何をバカな」ということになるのだろう。
「だから、みんな知らないけど、東さんは本当やさしいんだよ」──もちろん私はそんな単純なことを言う気はない。私は決して「書かれたものが東の本体である」と言ってはいない。そうではなく、テクストもパフォーマンスも共に東の本体であるから、両者を統合してはじめて「東浩紀」は立体的に立ち現れる(全体対象、ということだ)、それこそが私が言いたいことだ。
テクストとパフォーマンス、やさしさとマッチョ、双方が東浩紀の本体である。これを確認したそのうえで、私が今回のイベントで論じたかったのは、東の思想に内在する「まじめ」で「マッチョ」な側面について、であったのだ。
東は一方で、「子どもであること」「動物であること」を擁護する。しかし彼は同時に(時期によってどちらが表に来てどちらが裏にいくかは異なっているが[★4])、「親になること」について説いていることも多々ある。私の見る限り、今回のイベントでだけでなく、これまでに著してきたテクストの中でも十分に語られていないのは、「親」「裏方」に「どのようになるのか」についてである(パフォーマティブにはそれにトライしつづけているのは先ほどから言及している通りである)。
東は、テクストで、「親」や「裏方」の重要性に読者の目を向けさせることには成功している。だが、ではどのように「親」になるのかについては明言していない。もちろんそこには、多様性に配慮せよという時代の要請があるだろう。だがそれはおそらくそう重要なことではない。そうではなく、「子ども」であることを肯定していることこそが、彼の口から親に「なれ」と発言することを阻んでいるに違いない。これは現在の東思想からの論理的帰結だ。
だが、「親」「裏方」がいなければ、(次なる「親」を生むために必要な)平和は、「考える」ために必要なリゾートは、成り立たない。「子ども」が考えられるようになるためには、「親」がその場を作り出さねばならない。そうであれば、「どのように「親」を作れるのか」、つまりいかにして「責任の生成」ができるのか、を考えねばならない──それが私の問題意識だった。
この話題になった時、東は「裏方」が労働であるという側面を強調していたように記憶している。そして、21世紀の今、人類のほとんどは時に裏方であり、時に客であり、それは固定化された階級ではない、と続いたと思う。たしかにそれはそうだ。一定の説得力がある。しかし、ふたつの理由で私はこれを十分な説明だと捉えることができない。
ひとつは、年来、東が「等価交換の外部」の価値を主張していることである。「裏方」について論じた『ゲンロン15』で、東は、これからの哲学者に期待されるのは、クレームに対応する中で客の期待=幻想に耳を傾けたうえで、その幻想のほうを「訂正」しようと試みることだ、と述べている。これは「裏方」に求められるのが決して等価交換ではないことを示している[★5]。
もうひとつは、「親」に対応する「子育て」は労働ではないということである。その是非を措いておけば、労働は、生きていくうえでしなければならないものである。しかし子育てはそうではない。だから実際、具体的にも抽象的にも「子育て」に関わらない人は増えている。だが「子育て」は、対価のために行うのではない。歓びがあるからこそ行われるものだ。この意味でも、労働という側面に焦点を当てるだけでは零れ落ちるものがあると感じる。
もちろん私が指摘するような論理の穴は、東は自覚しているだろう。ではなぜ、そのような一見「冷笑」と言われかねないようなことを述べたのか。私の理解では、ここにも東の分裂が関わっている。
東には、「親」としての、(社会に対する「親」であるところの)「批評家」としての、矜持がある。それは彼の書いたテクストを読めば明らかだ。そして「親」を実践しようともしている。それは彼が思うほどにはうまくいかなかったのかもしれない。だから、彼が自身の「親」性を強調することはしないかもしれない。でも、ゲンロンカフェを運営維持している以上、彼はどう足掻いても「親」をしているのである。これは仮に本人が否定しようとも、「そんなに大したことじゃないよ」と言おうと、そうなのだ。
だが同時に、ここまで記してきたように、東は(自身が/他者が)「子」であることを肯定する思想も持っている。こちらも本心であるはずだ。
おそらく彼の能力をもってすれば、この分裂やねじれを止揚するロジックは生み出せるようにも思う。だが、「子ども」の東はそんなものは嘘だ、と言うだろう。いや、そんなものは嫌だ、かもしれない。それが真実であったとしても、嫌なものは嫌なのだ、と言うかもしれない。「親」は、その「嫌だ」を重視しない。なぜなら、それが「現実」だからだ。イベント内で繰り返し取り上げたように、嫌だろうとなんだろうと、トランプが勝ったという選挙結果は選挙結果である。現実は現実として受け止めないといけない。それがきわめて難しい人もいるが、東はそれができる。
だが、東は、自身の中の「嫌だ」は無視することができない。その声を欺くことができない。だからこそ読者に、単純に、ストレートに、マッチョに、「親(大人)になれ」と言うことは決してできないのだ。
にもかかわらず、東は「親」の価値は十分すぎるほどにわかっている。ではどうするか。この難解な方程式のひとつの解が、「いつの間にか親になってしまった」という、逆説的な、ふまじめな、観光客的なロジックの導入であった、というのが、私の東思想の解釈である。
私は、この方向性は、それはそれで「親」になるひとつのルートであると思っている。しかし同時に、そのルートは入口に至るまでは十分に説明していても、「その後」についてはそうではないのではないか、とも思う[★6]。つまり、やはりいずれは「まじめ」に考える時期?フェイズ?も必要なのではないか、と思うのだ。
私のこうした疑問については、いずれテクストの中で答えられていくものだと予想している(『ゲンロン17』でそう予告されている)。今からそれを読めるのが楽しみで仕方がない。
私は、東の思考をさらに進める鍵は、東が自身の「親」性を受け入れることなのではないか、と思っている。おそらく、東は自身のそういった部分が好きではないのだろう(勝手な解釈である)。だが、私は十分に「子ども」であり、十分に「親」でもあるという分裂、逆説、両義性にこそ、東浩紀の生産性を見るのである。
人間は、自分事となると、他者に対してはできていたことが急にできなくなる(むろんそれは東に限らないことだ)。イベントで繰り返し述べたように、東は、「現実」を見据える能力がきわめて高い。しかし、東といえども、自身の中の分裂という「現実」をいかにして処理するのかには苦戦しているように見える。
自分についての「現実」ほど受け入れがたいものはない。そしてそれを可能にするために営まれるのが精神分析であると私は思っているが、ここで私は、私の思う「本当のこと」を述べてみた。それにより東に何かがもたらされること、そしてこれを見ている「観客」のみなさんにも何かがもたらされることを願って、この文章を終えたいと思う。
★1 それが現出したのが、先日の選挙特番である。政治信条を違えるもの同士が同席し、互いの主張に耳を傾ける場の創出は、東の理想としたものであったことだろう。
★2 ちなみに、こちらの東を表現するテクストが「困難と面倒」(『ゆるく考える』河出書房新社、2019年)である。だから私は執拗にそれを取り上げている。
★3 だから東は「本を読んでくれ」と言うのかもしれない。フロイトは「私のしたようにするな。私の書いたようにやれ」と言っていたらしいが、同じものを感じる。
★4 近刊の『東浩紀巻頭言集Ⅱ ゲンロン篇』は、「親であること」を強調する東を目にすることができる。時期としては、2015-18年に当たる。最後の巻頭言である『ゲンロン9』では、東は「この文章で『ゲンロン』の巻頭言は最後にしようと思っている」と述べ、その後実際にそうしている。つまり、2018年以降、彼は再び「子ども」であること、つまり解説ではなく自身の関心を追求することに重点を移したようである。その結晶が『訂正可能性の哲学』であり、来春に出版されると聞いている、愚かさや平和について扱った次著なのであろう。この、「子ども」と「親」の往復運動こそ、東の魅力である。ただ、東がゲンロンを維持している以上、創業の2010年以来「子ども」だけに集中していることはないことは付言しておく(もちろんそこには、上田洋子の多大なる貢献がある。これもイベントで私が述べたことだ)。そしてイベントでの私の質問への回答によれば、その条件──運営(親)と制作(子)を同時に行っていること──こそが、彼に自由をもたらしているらしい。これには私も深く同意するところであった。
★5 「運営と制作の一致、あるいは等価交換の外部について」でも、ゲンロン社内での等価交換思想の蔓延を嘆いていたことを思い出されたい。
★6 おそらく、元来「まじめ」な人はとりあえず入口にさえ立てばいいのだろうが、ここではそうでない場合を考えている。
山崎孝明