あたらしい永遠平和のために──「東浩紀がいま考えていること・7」イベントレポート

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webゲンロン 2024年6月10日配信

 ロシアによるウクライナ侵攻から2年、ハマスの侵攻を契機としたイスラエルとの戦闘から8ヶ月が経ったが、いまだに和平への出口は見えない。日本でも軍事にかんするニュースが毎日当たり前のように流れ、防衛費増額や近隣国との有事など戦争を意識させる話題が定期的に上がっている。この現状をどう考えればよいのか? 平和のために、いま哲学にはなにができるのだろうか?

 近年この問いと向き合っている東浩紀による講演が、5月19日にゲンロンカフェで開催された。有観客ではなんと4年8ヶ月ぶり、配信のみでは2年4ヶ月ぶりに行われたシリーズ第7弾。その模様をレポートする。

 

東浩紀「東浩紀がいま考えていること・7──喧騒としての哲学、そして政治の失敗としての博愛」
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20240519

【ダイジェスト】東浩紀がいま考えていること・7──喧騒としての哲学、そして政治の失敗としての博愛

 

 講演は東が用意したスライドをもとに進められた。イベント告知から若干変更された「喧騒としての哲学、そして政治の外部としての平和」というタイトル通り、前半では哲学と喧騒の関係について、後半では平和とはなにかについて語られた。

 戦争や大量虐殺という残酷な現実をどのように考えるべきか、そして平和へ向かうためにはどのような哲学的思考が必要か。東はこれらのアクチュアルな問題を考えるために、哲学という営みを反省することから思考を開始したように筆者には思われた。「哲学」とはそもそも、どのようなものなのだろうか。

哲学の起源と民主主義

 この問いは一見シンプルだが、答えることは意外とむずかしい。 philosophy が古代ギリシア語の「知を愛する」を語源としていることはよく知られているが、「知」はいまや細かい専門分野に分かれ、その全体像はとらえづらいものとなっている。また、「哲学とは問題を根本から考えることだ」というよくある答え方も曖昧だ。他のあらゆる学問や政治から日々の生活にいたるまで、私たちはつねにとはいわずとも、時折ふかく考えてはいるはずだからである。

 東の答えは、哲学とは創作の一種であるというものだった。東は納富信留の『ギリシア哲学史』を参照しながら、古代ギリシアに遡る。一般的にソクラテスが哲学の始祖とされるが、彼は本を記さなかった。ではなぜ彼の発言が残っているかといえば、「ソクラテス文学」というジャンルが隆盛したからである。これはソクラテスと当時の政治家や詩人による架空の対話を描いたもので、プラトンによる対話篇もここに含まれる。要するに、哲学はソクラテスによるモノローグではなく、多数の著者たちによる自由な「フィクション」から始まったのである。ここにポリフォニー小説の起源を見たのがバフチンだ。さらにこのような哲学の場は、東が『訂正可能性の哲学』で論じた民主主義に不可欠な「喧騒」の場でもある。哲学と小説と民主主義は、起源をひとつにしているのではないか。

 哲学をその思考形式から特徴づけるのではなく、哲学的議論を可能とする「場」からとらえ直すこと。ここに東の「哲学とはなにか」への答えのオリジナリティがある。それは学問が発展するあまりに細分化され、相互理解や対話がむずかしくなっている現状を変え、より自由な議論の空間を開くものであるだろう。

政治からの脱落可能性としての平和

 「政治の外部としての平和」と題された後半では、東が近年取り組んでいる平和論の構想が展開された。東によれば、いまは「正義が平和に優越する時代」だ。それが顕著に表れたのが現在のロシア・ウクライナ戦争である。「ロシアの侵攻は正義に反するものであるため、ウクライナは徹底抗戦すべきであり妥協してはならない」という専門家の論調や国際世論は、たしかにウクライナを大きく後押ししたが、いまだ戦禍はつづいている。

 正義を貫こうとするかぎり、戦争は終わらず平和は訪れない。では、平和をどこにもとめるべきか? 東はグレマスの「意味の四角形」を用いながら、「政治からの脱落可能性の保証」としての平和を提唱する[図1]。曰く、平和時には戦争と平和はただ対立するだけである。しかし戦時になると、平和をもとめること自体が「反戦」として戦争に取りこまれる。戦争は、すべてを友と敵を分ける政治の空間に塗り替えてしまうのだ。したがって平和は、政治の外部にこそある。東によればこの構図は、彼が近年執筆している「悪の愚かさ」シリーズの諸論考★1や、ガンディーの非暴力の思想とも関連する。

[図1] 当日使用されたスライドの一部

 この政治の外部=平和を守るために、東は政治の「訂正可能性」が必要だと述べたうえで、さらに二つ論点を追加する。ひとつは「忘却」、もうひとつは「国際法」の問題である。議論の詳細はアーカイブで確認していただくとして、ここではその概要だけを紹介しよう。

 「忘却」は「記憶の政治」との対比でとらえられる。現在は多くの国家や当事者が過去の被害を記憶し、それに基づき加害者/加害国に責任を問うことで、アイデンティティを強化している。過去を記憶することは重要である。しかし一方で、記憶に基づく苛烈な復讐は、あらたな災いを喚び起こしかねない。東はここでも古代ギリシアの、ペロポネソス戦争以降の政治状況を参照しながら、忘却の哲学的意義を論じた。

 もうひとつの「国際法」は、政治の訂正可能性にかかわる論点だ。最上敏樹は『国際法以後』において、自身の専門である国際法に正当性や執行力が乏しいことを吐露しているが、これを東は肯定的に評価する。法としての根拠が固められていないからこそ、過去に遡ってそれを適用することができるからだ。たとえば「ジェノサイド」という国際法上の基準が無かった時代の所業であっても、「現在から見るとあれはジェノサイドだった」と再解釈=訂正することができるのである。

 しかし「忘却」と「訂正」は矛盾しているように思われる。前者は過去の記憶の消去であり、後者はそれを掘り起こすことであるからだ。東もこの点を理解し、両者のどちらかに偏るべきではないと強調する。そして東は、両者のバランスについては、「ここからは皆さん自身でも考えてほしい」と念押しした。平和という最終目標のためには、正義と悪が妥協ができず対立を加速させる現状を変え、過去を柔軟に解釈する、政治の「訂正可能性」が必要だ。しかしその柔軟性自体を定義することはできない以上、場合によっては被害者をただ抑圧するだけに終わってしまう恐れもある。訂正可能性の是非は、私たち「観客」に委ねられているのだろう。

 

 くわえて「個人的なことは政治的なこと」というスローガンが広く浸透したいま、政治の外部を強調する東の議論に、疑問が浮かぶひともいるかもしれない。5時間のイベントの後半半分ほどは、そのような疑問への答えや喧騒を生むための具体的な助言を含めた、観客との質疑応答にあてられている。ぜひ最後まで視聴してほしい。

 この講演で語られた思考は近く論考としてより詳細に展開され、これまで東が発表してきた「悪の愚かさ」をめぐる諸論考とともに論集としてまとめられる予定であるという。しかし東に倣えば、哲学も平和も一握りの人びとが独占するものではなく、喧騒から生まれるものだ。その現場を味わっていただくべく、まずはぜひ本イベントのアーカイブを参照していただきたい。

 平和についての哲学的思考といえば、いまだカントの『永遠平和のために』が挙げられるなか、あらたな時代の平和論を告げるイベントとなった。(栁田詩織)

東浩紀「東浩紀がいま考えていること・7──喧騒としての哲学、そして政治の失敗としての博愛」
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20240519

★1 「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」(『ゲンロン10』)、「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」(『ゲンロン11』)、「顔と虐殺」(『ゲンロンβ56』)、「声と戦争」(『ゲンロン14』)、「ウクライナと新しい戦時下」(『ゲンロン16』)の一連の論考を指す。
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