あいまいなことばにカタチを与える──近内悠太×桂大介「ケアの訂正可能性、そして誤配と贈与」イベントレポート

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webゲンロン 2024年6月5日配信
 2024年5月23日、教育者・哲学研究者の近内悠太による新刊『利他・ケア・傷の倫理学──「私」を生き直すための哲学』(晶文社)の刊行記念イベントがゲンロンカフェで開催された。対談相手を務めたのは、実業家で「シラス」のCTO兼共同代表の桂大介である。本イベントでは、近内による明快な定義と桂のわかりやすい図解によって、ケアや利他や贈与の理論がひじょうにクリアに解説された。終盤には起業家の家入一真とゲンロン創業者の東浩紀が乱入し、それらの実践についての議論も大いに盛り上がった。本稿ではその一部をレポートする。
 
近内悠太×桂大介「ケアの訂正可能性、そして誤配と贈与」──『利他・ケア・傷の倫理学』刊行記念
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20240523

利他はケアの部分集合

 近内の新刊『利他・ケア・傷の倫理学』は、タイトル通り、利他やケア、傷といった現代的な主題を扱っている。とりわけケアということばは、最近さまざまな場面で目にすることが多くなった。それだけケアに対する社会的関心が高まっているということだろう。だが、この概念はひとによって定義やとらえ方がまちまちで、ともすればあいまいな議論を導きかねないものでもある。

 ケアを定義することなど不可能だ、と思うひともいるだろう。だが、近内はあえてはっきりした定義を与えることから始める。近内は、ケアを「他者に導かれて、その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体」であるとする。さらに、利他のほうにも定義を与え、「自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものを優先すること。ケアすることで自己変容が起こる事象。よって、愚行でもある」とする。後者の利他の定義はこれだけでは謎めいた部分もあるかもしれないが、その意味は徐々に明らかになっていく。

 近内はこの二つの定義を確認したうえで、ケアはより起こりやすく、利他は起こりにくいと語る。なぜなら、ケアのうち相手と自分の大切にするものが合致しない場合(かつ前者を優先する場合)を利他と定義しているからだ。つまり、近内の議論のポイントは、桂も指摘したように、「利他はケアの部分集合にあたる」という点にある。いくつかの鍵概念の端的な定義から議論を始めることは、ある意味で結論の一部を先取りするようにも見え、ふつうは躊躇するものかもしれない。しかし、あいまいな概念にいったん定義を与えることで、ことば同士の関係が明確になる。スライドで提示された「定義集」では、重要なことばの定義をひと目で把握できるようになっている。『利他・ケア・傷の倫理学』を手にとるひとは、本イベントのアーカイヴ動画と合わせて読めば、さらに理解が深まるだろう。

自己変容によるセルフケア

 さて、近内本のタイトルにはもうひとつ、「傷」ということばが残っている。近内はこれにも定義を与え、「大切にしているものを大切にされなかったときに起こる心の動きおよびその記憶。そして、大切にしているものを大切にできなかったときに起こる心の動きおよびその記憶」とする。すでにお気づきの読者もいるはずだが、ここに繰り返し出てくる「大切にしているもの」ということばは、近内の利他・ケア・傷の定義に一貫して含まれているものだ。つまり、これが近内にとっての鍵概念なのだ。

 では、この「大切にしているもの」自体は近内の倫理学においてどのように位置づけられているのだろうか。意外なことに、近内は自分が「大切にしているもの」が大切ではなくなったり、「大切にしているもの」の優先順位が変わったりすることこそが「大切」なのだと語る。近内によれば、利他の定義に含まれている「自己変容」とはこのことを指す。そしてさらに、この自己変容、あるいは「自分の大切にしているもの」の更新や訂正はセルフケアにつながるのだという。

 自己変容はなぜセルフケアになるのか。それは、自己変容が「自分の本当に大切にしていたもの」に気づかせてくれるからである。それに気づくと、自分がそれまで大切だと思い込んできたものの重荷、つまり自己欺瞞から少しずつ自由になることができる。だからこそ、他者の傷に導かれるままに、それまで自分が大切と考えていたものを思わずかなぐり捨ててまでそのひとのために動くこと(=利他)による自己変容は、自分自身のケアにもつながるのだ。このように、近内はことばの定義を確認することから議論をはじめ、そこからクリアな倫理を導き出す。

偽善でも自己犠牲でもなく

 後半の桂によるスライドでは、桂自身の経験も踏まえながら、近内の議論がわかりやすい図解とともに再整理された。桂は近内の議論に共感を示しつつ、利他を「偽善」と「自己犠牲」の二択で考えないことが大事だと語る。たしかに、利他的なおこないは「単なる偽善だ(=自分しかない)」とか、あるいは「それはただの自己犠牲だ(=自分がない)」と言われがちである。しかしそれでは議論はまったく進まない。

 そこで、近内の理論が活きてくる。桂に言わせれば、近内の議論は、利他をいっけん相反するセルフケアと結びつけることで、そこに偽善とも自己犠牲ともちがう回路を見出している。そして、そこには「時間」の要素がひじょうに重要なものとして関わってくるという。

 まず、利他行為はその場ですぐにセルフケアになるわけではない。その時点でセルフケアになるのであれば、それは利他と見せかけて自分を利する行為、すなわち偽善になるだろう。利他は、その時点では自分のためにならないという意味で、近内による定義にもあるとおり「愚行」なのだ。しかしその愚行は、時間を経て自己変容をとげたのちに振り返ったとき、自らのためにもなるものだったと理解される。つまり、利他によるセルフケアは遅れてやってくる。桂はこの点を強調し、近内もこれに同意する。そして、利他の議論をセルフケアで結ぶところに近内の「やさしさ」があると桂は語る。

 そのうえで桂は、近内の書き方について疑問もぶつけた。たしかにことばの定義があると話がわかりやすいが、ここまで多用されることはやはり珍しい。いったいなぜ近内はここまで定義にこだわるのか。近内による回答の詳細はアーカイヴ動画でたしかめていただきたいが、そこには彼がヴィトゲンシュタインから受けた影響があるとのこと。小学校教師の時期があったことでも知られるこの哲学者を、同じく教育者の視点から語る近内のヴィトゲンシュタイン論は必見である。

 

 これに引き続いてイベントは「第3部」に突入、議論の焦点はケアや利他から「贈与」に移った。さまざまな実践をとおして寄付文化に深くコミットしてきた桂は、近内の前著『世界は贈与でできている』を「衝撃的な本だった」と語る。また、近内にも影響を与えた東浩紀の誤配と贈与をめぐる議論についても、桂は渾身のスライド「誤配の贈与論」をもとに紹介しながら、東や近内に対する異論も交えつつプレゼンを展開した。これもここでは詳しい内容を紹介することはできないが、それに対する近内の応答もふくめてひじょうにスリリングな時間となったので、ぜひアーカイヴ動画でチェックしてほしい。

 さらに終盤には、起業家の家入一真、そしてスライドでとりあげられた東浩紀本人も乱入。豪華ゲストも交えた「第4部」では、起業家のメンタルヘルスや東の新著『訂正可能性の哲学』についてなど、幅広い話題が展開された。とりわけNPOと株式会社の違いやNPOのこれからなど、じっさいに現場を経験している登壇者たちによる利他や贈与の「実践編」が聞けるのも本イベントのおおきな魅力である。近内や桂によるクリアな理論編と、終盤で語られる経験者による実践編を、ぜひ楽しんでいただきたい。(田村海斗)

近内悠太×桂大介「ケアの訂正可能性、そして誤配と贈与」──『利他・ケア・傷の倫理学』刊行記念
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20240523
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