アフリカ哲学への招待──「他者の哲学」から「関係の思想」へ(前篇)|中村隆之
パリに「学校通り」という名の通りがあります。一般にこの通りは、ソルボンヌ大学(旧パリ第四大学)やコレージュ・ド・フランスが所在することで知られます。ですが、アフリカ系文化全般に関心を持ち続ける私にとって、学校通りとは、ここに来れば、フランス語で執筆されたアフリカ系文化の本の大半を見つけられる、二軒の書店兼出版社がある場所のことです。ひとつはラルマッタン書店。もうひとつはプレザンス・アフリケーヌ書店です。
ラルマッタン書店は、店内がとても広くて、アフリカのみならず、世界中の文化にかんする書籍を多数取り揃えています。それとはある意味で対照的なプレザンス・アフリケーヌ書店は、アフリカ系文化に特化していて、こぢんまりとした佇まいです。気軽に入れる雰囲気とはいいにくいこのプレザンス・アフリケーヌ書店に、研究のためにパリに滞在していることもあって、近ごろ通い出しました。その理由は、「アフリカ哲学」に関する書籍が、この書店を経営する出版社から、数多く出ているからです[★1]。
プレザンス・アフリケーヌとは、フランス語で「アフリカが存在する」を意味します。この書店と出版社の歴史は、1947年に創刊された同名の雑誌にさかのぼります。創刊者であるセネガル人アリウン・ジョップ(アリウヌ・ディオップ)[★2]が、1949年に出版社を設立し、1962年にいまの場所に書店を開業しました。
じつは、この出版社が最初に刊行したものこそ、いまでいうところ「アフリカ哲学」の本だったのです。
ところで、そもそも「アフリカ哲学」とはなんでしょうか。
これを定義するのは、じつは、とてもむずかしいことです。なにをもってアフリカの「哲学」とするのか、という問いと、この場合の「アフリカ」とはなにを指すのか、という問いが二重にからみ合っているためです。
たとえば、アフリカで営まれてきた思想的営為を「アフリカ哲学」とゆるやかに捉えて、アフリカ大陸すべてをふくめれば、アフリカ哲学は古代エジプト文明の頃から考えられます。当然ながら、イスラーム文明のもとで、『コーラン』を中心に展開する宗教思想もふくまれます。いわゆるブラック・アフリカ各地の在来文化のなかで営まれてきた、主に口承文化にもとづく知も、アフリカ哲学です。さらには大陸外で営まれてきた、ブラック・ディアスポラの知的営為も、当然ながら入ってくるでしょう[★3]。こうしたことをすべてひっくるめて、「アフリカで哲学する」という言い方を提唱したり、アフリカ哲学を複数形で捉えたりする人もいます[★4]。さらにこのことは、哲学にかぎらず、文学や芸術など、アフリカの文化全般に言えることです。
このような定義の困難な「アフリカ哲学」に、いま私は強い関心をもっています。なぜでしょうか。
もともと私は、フランス語で書くカリブ海の作家の研究者でした。一時期はマルティニック島に住んだこともあったほど、カリブ海文学にハマっていたのですが、知れば知るほど、カリブ海文学の世界は、奴隷貿易・奴隷制の歴史と切り離せないことがわかってきました。しかも、ブラック・ディアスポラと呼ばれる、アフリカ大陸外で奴隷とされた人々が形成した文化のことをもっとよく知るためには、結局のところ、カリブ海だけでなく、環大西洋全体(アフリカ、アメリカ、ヨーロッパ諸大陸の相互的関係)を視野に入れる観点を養わなければならないと思うようになり、西アフリカの国のなかで、奴隷貿易の記憶を強くもつセネガルやベナンにも出かけました。
そのような観点から、アフリカ大陸の歴史と文化にまで関心を広げていく過程で出会ったのが、「アフリカ哲学」です。最初は、アフリカに古くから伝わる人々の叡智のようなものに、とても興味を惹かれました。ですが、「アフリカ哲学」の歴史を自分なりにたどってみるにつれて、先に述べたような、簡単に定義できない複雑さをすぐに知るようになりました。さらには、アフリカ系のさまざまな本や人々と出会うなかで、「アフリカが存在する(プレザンス・アフリケーヌ)」ことを根幹から支えるのは「アフリカ哲学」の言葉ではないのだろうか、という印象を強く抱くようになっています。
いまからお話しするのは、私なりの整理による「アフリカ哲学」の歴史のおおまかな流れです[★5]。そこに見えてくるのは、アフリカ哲学が「他者の哲学」としての立場を乗り越えて、ヨーロッパの学問や思想を組み込みながら、「関係の思想」としてアフリカの哲学的言説をつくりだしてきた、知の系譜とネットワークの歴史なのです。
はじまりのバントゥー哲学(1940年代―1960年代)
アフリカ哲学のはじまりをどこに定めるのかは、そもそもその定義の困難さもあいまって、簡単でありません。ですが、いわゆるブラック・アフリカ、つまりサハラ砂漠以南(サブサハラ)の黒い肌をした人々が暮らしている地域についていえば、「哲学」の名を冠した、ほぼはじめての著作は、第二次世界大戦終結の年に出版されました。
それが、プラシッド・テンペルス(1906-1977)の『バントゥー哲学』(1945年)です。オランダ語で書かれて出版されたこの本は、1949年にフランス語に翻訳されて、先述のとおり、プレザンス・アフリケーヌ社の最初の本として刊行されました[★6]。
テンペルスはベルギー人の神父で、宣教を目的に1933年にベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)に赴任し、約30年間をアフリカで過ごしました。当初、布教の困難に突き当たったテンペルスが現地民の文化を理解しようと務めて書き上げたのが、『バントゥー哲学』でした。
当時のアフリカは、一部を除くほぼ全土が、ヨーロッパ諸国列強の植民地支配下にありました。ヨーロッパ諸国は「文明化の使命」を掲げており、アフリカは長らく「未開」で「野蛮」の土地だと表象されてきました。このように、アフリカをめぐる知の言説は、何よりもヨーロッパ人の視点から形成されていました。ヨーロッパの学者たちの著述においては、サブサハラのアフリカ人には歴史も文明もなく(ヘーゲル)、アフリカ人とは「原始心性」の段階にとどまる「未開人」(レヴィ゠ブリュル)にほかなりませんでした。
そうした「アフリカ=未開」の言説が支配的であったなかで、テンペルスは「未開人」もまた、ヨーロッパ人のキリスト教文化から築かれた哲学とは異なる哲学を有していることを、主に中央アフリカ以南に広がるバントゥー人の諸言語を学び[★7]、その宗教文化や存在論を深く知ることによって証明しようと試みたのでした。テンペルスの本は、いわばバントゥー哲学をヨーロッパ言語のなかに翻訳する営みであり、たとえば、著者はヨーロッパ人読者にその異質さをわかりやすく伝えるために「魔術的哲学」と呼んでみたりもしています[★8]。ここではその具体的内容に踏み込む余裕はありませんが、『バントゥー哲学』は、これまで西洋が「未開」とみなしてきた人々の文化のなかにも独自の思考システムと世界観があることを素描した点が、何よりも重要です。
この本は、当時のサブサハラ・アフリカ出身の知識人や、アフリカにたいして開明的なフランスの知識人から、おおいに歓迎されました。プレザンス・アフリケーヌの創始者アリウン・ジョップは、フランス語版『バントゥー哲学』の序文で「アフリカについて読んだもののなかで一番重要」だと述べています[★9]。雑誌『プレザンス・アフリケーヌ』には、ガストン・バシュラール(1884-1962)、ジャン・ヴァール(1888-1974)、ガブリエル・マルセル(1889-1973)といったフランスの哲学者たちがこの本への賛辞を寄せています[★10]。
このテンペルスのバントゥー哲学研究の流れを汲んだもので重要なのは、ルワンダ出身の哲学者でカトリック司祭のアレクシ・カガメ(1912-1981)の仕事です。
カガメはバントゥー哲学をめぐるフランス語の博士論文『バントゥー゠ルワンダの存在の哲学』を教皇庁立グレゴリアン大学(イタリア)に1955年に提出し、その翌年にこれを出版しています[★11]。そして、その20年後にプレザンス・アフリケーヌ社から刊行した『比較バントゥー哲学』(1976年)が、カガメの代表作です[★12]。
カガメは、テンペルスがいわば素描するだけに終わったバントゥー哲学を、明確な方法論をもって、よりいっそう網羅的に調査をおこないました。『比較バントゥー哲学』のなかで、著者はバントゥー系言語が行きわたる文化圏を対象とし、それらの言語をめぐって、フランス語・英語・ドイツ語・イタリア語などで書かれた400以上におよぶ学術文献を渉猟し、180もの言語を言語学的に研究したのでした[★13]。
テンペルスとカガメの流れを汲むバントゥー哲学研究は、アフリカの在来文化、伝統文化のなかに存在する各地の思想を体系的に研究するためのモデルとなり、「アフリカ哲学」の主流となりました。その意味で『バントゥー哲学』がいまだ日本語で読めないのは残念ですが、それでも私たちには、アフリカが一斉に独立を果たした1960年以降、わずかですが、日本語による著述と翻訳の遺産があります。
私が再評価したいのは、人類学者である山口昌男(1931-2013)のアフリカ時代の仕事です。山口は1960年代、つまり独立後のナイジェリアのイバダン大学で人類学を教えていたときに、ブラック・アフリカに住む人々に共通する想像力や存在の観念に関心を抱き、『アフリカの神話的世界』(1971年)、『人類学的思考』(1971年)、『アフリカ史』(1977年、2023年文庫化)といった著作のなかで「アフリカ哲学」にかかわる考察を残しています[★14]。なかでも重要なのは、『人類学的思考』所収の「アフリカの知的可能性」(初出1967年)です。
山口が「アフリカ哲学」をめぐる考察のさいに依拠していたのが、サブサハラ文学の研究者でもあったドイツの作家ヤンハインツ・ヤーン(1918-1973)の『アフリカの魂を求めて』(原著1958年、邦訳1976年)です[★15]。この本の原題は、バントゥー諸語において「人間」の単数系を表す、「ムントゥー Muntu」を掲げています。ムントゥーの複数形がバントゥーです。この本のなかでヤーンが示した、奴隷貿易によってバントゥー哲学がアメリカ諸地域にわたったアフリカ人の文化のなかにも存続しているという仮説は、アフリカ哲学の特徴を考えるうえでとくに注目する価値があるように感じます[★16]。
民族哲学批判と「知の脱植民地化」(1960年代―1970年代)
このように、「アフリカ哲学」という視点は、「哲学」の名を最初期に冠したテンペルスの著作からはじまったと考えられています。しかし、テンペルスやカガメらによるアフリカ哲学には、より若い世代から、強い批判も寄せられました。
批判の中心となったのは、ベナン出身の哲学者ポーラン・ウントゥンジ(1942-2024)です。ウントゥンジは、1960年代後半から『プレザンス・アフリケーヌ』誌をはじめとする雑誌に発表した論文や講演原稿をまとめて、『「アフリカ哲学」について』(1977年)という本をフランス語で出しました[★17]。
この本は、題名にあるアフリカ哲学にわざわざカッコがついているように、これまで「哲学」と呼ばれてきた営みを、徹底批判する目的で書かれたものです。最初の版の表紙には記載されていませんが、その副題は「民族哲学批判」です。「民族哲学(エスノフィロソフィー)」とは、ウントゥンジがテンペルス以降のアフリカ哲学につけた名称です。そこには、テンペルスらの哲学は「自称哲学」であって、ほんとうの哲学とは異なるものだという含意があります。
ウントゥンジにしてみれば、テンペルスにしろカガメにしろ、その仕事は実際には哲学のそれではなく、民族学や人類学のほうに属するものなのです。
なぜ民族哲学は批判されたのでしょうか。
テンペルスの仕事は、西洋がアフリカという他者を「発見」し、その他者をいつでもみずからとは異なるものとして捉えて語ってきた、という西洋人のアフリカ旅行記以降の知の系譜に、あきらかに属しています。たとえば、アフリカの諸文化を対象とする民族学や人類学は、いつでも他者であるアフリカ人を、自分たち西洋人の知の形式のなかに落とし込んで理解する言説として明白に機能してきました。そうした民族学的・人類学的な知は、しばしば植民地アフリカを統治する政策に活用されてきたのでした(さらにテンペルスの語りのうちには家父長的・植民地主義的なトーンもあります)。
そのような観点から批判的に見ると、テンペルスにはじまる民族哲学は、民族学・人類学の延長にすぎず、現在の用語で言えば「知の脱植民地化」を果たすどころか、むしろ西洋との鏡像関係のなかで、永遠の他者像に囚われた言説ということになります。別様にいえば、民族哲学は、西洋が他者としてつくりだした「アフリカ」のイメージをみずから引き受けて、西洋の言説とは異なるものとして、その差異を強調しながらアフリカ哲学を語ってみせる、という植民地主義的な構造から抜け出すことができないのです。つまり、民族哲学とは西洋がつくりだした「他者の哲学」なのです。
『バントゥー哲学』のフランス語版が刊行された時にも、批判の声がなかったわけではありません。フランスの脱植民地化運動の指導者であるエメ・セゼール(1913-2008)は、1950年の著作『植民地主義論』(邦訳1997年)のなかで、テンペルスのバントゥー哲学とベルギー領コンゴの植民地支配の共犯関係をむしろ痛烈に批判しています[★18]。
また、ウントゥンジと同年代では、カメルーン出身のキリスト教者の哲学者ファビアン・エブシ゠ブラガ(1934-2018)もまた、厳密に哲学的な手続でもって『バントゥー哲学』を全面的に批判する論文を書いています。エブシ゠ブラガは、「バントゥー哲学とは原始的人間たちの想像力の産物にすぎず、なんの目的ももっていない」と、テンペルスの仕事を明確に否定しています[★19]。
ウントゥンジはさらに、民族哲学がある民族や文化のもつ思考システムや世界観を永遠に変化しないものとして捉えてしまっている点を批判して、こうした固定的な捉え方はテンペルス、カガメ、さらには同種の試みをおこなうアフリカ知識人に共通して言いうることだと述べています[★20]。ここに、ヨーロッパから見た「他者としてのアフリカ」像から抜け出そうとする、新しいアフリカ哲学のかたちを見出せそうです。
ウントゥンジやエブシ゠ブラガが担ったのは、アフリカ哲学をめぐる言説を抜本的に変える、ある種の「認識論的断絶」とも呼ぶことのできる革命的な働きでした。民族哲学批判の論陣を張ったかれらは、当時20歳代から30歳代の若手であり、アフリカの独立や世界各地での学生運動を背景に、「知の脱植民地化」を推し進める立場でした。植民地期の民族学の延長にある、植民地権力を支えていたような知から脱することが、「アフリカ人がみずからアフリカのことを考える」という新しい言説を形成するにあたって、きわめて重要な課題だったのです。
こうした挑戦は、同時に反感も買い、論争を引き起こしました。それゆえ民族哲学批判は、今日のアフリカ哲学の、もうひとつの出発点であると言うことができます。現在、ウントゥンジの『「アフリカ哲学」について』、およびエブシ゠ブラガの主著『ムントゥーの危機』(1977年)は、再出発したアフリカ哲学の新しい古典だとみなされています[★21]。
『アフリカの発明』の衝撃(1980年代―1990年代)
「民族哲学」以降の現代アフリカ哲学の潮流のなかで、ウントゥンジ、エブシ゠ブラガと並ぶか、場合によってはそれ以上に重要だと目されるのは、テンペルス神父が滞在したベルギー領コンゴ出身の哲学者にして作家のV・Y・ムディンベ(1941年生まれ)です。
ウントゥンジとムディンベという新世代の哲学者に特徴的であるのは、その思想的参照項をフランスの同時代の哲学のうちに積極的に求めている点です[★22]。これは民族哲学がアフリカの在来文化や伝統文化に注目したことと対照的に思われるかもしれません。たとえばウントゥンジはフランスの文系エリート校である高等師範学校に進学し、ルイ・アルチュセール(1918-1990)とジャック・デリダ(1930-2004)を教師にもち、両者から影響を受けています[★23]。またムディンベは、あとで述べるように、ミシェル・フーコー(1926-1984)の議論から大きな影響を受けています。
ムディンベはベルギーのルーヴァン・カトリック大学で哲学の博士号を取得後、アフリカに戻り、1970年代をザイール国立大学(現コンゴ国立大学)の教員として過ごします。しかし、1979年に政治亡命を余儀なくされ[★24]、最終的にアメリカ合衆国にわたり、ハバフォード大学やスタンフォード大学、デューク大学で教えてきました。このような経歴から、最初はフランス語で小説や思想書を書いていましたが(その多くはプレザンス・アフリケーヌ社刊)、主著となる『アフリカの発明』(1988年)は英語で書かれました[★25]。
この本は、刊行後、アメリカの大学で広く読まれました。ご存じのとおり、アメリカにはアフリカから奴隷として連れてこられた人々の子孫が住んでおり、その子孫は、奴隷制廃止後、深刻な人種差別を受けながらも、公民権運動や黒人解放運動という明確な目的のために、自分たちの歴史、文化、社会を学んでいく知的領域を、どの場所よりも広く築いていきました。その知的領域は「ブラック・スタディーズ」や「アフリカーナ・スタディーズ」などと呼ばれ、アフリカとブラック・ディアスポラ(アフリカ大陸外のアフリカ人の子孫)の文化全般を対象とします。
この知的領域からあらわれた思想的潮流のひとつが、19世紀後半以降、アメリカ合衆国やカリブ海地域の出身者が生み出した、植民地支配下のアフリカ解放とブラック・ディアスポラのアフリカ帰還を賭けたパン・アフリカ主義です[★26]。そのような合衆国内に培われていたブラック・ディアスポラの知的土壌を受け皿にして、『アフリカの発明』は広く読まれたのです。
ムディンベの『アフリカの発明』は、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(原著1978年、邦訳1986年)によく比されます。
サイードが、西洋の他者として「東洋(オリエント)」が構築されていったプロセスを明らかにしたように、ムディンベもまたアフリカが西洋の他者として構築されていったプロセスをたどります。『オリエンタリズム』が19世紀のオリエント学者らの言説を分析したのと同じように、ムディンベは、否定的な他者像として「未開人」のイメージが発明され、それが植民地への探検家の旅行記を通じてアフリカのイメージとして形成されていった、15世紀から19世紀末にいたるヨーロッパ人の言説を分析しています。
そのときにムディンベがもっとも参考にしているのが、サイードにも影響を与えた、ミシェル・フーコーの仕事です。とくに『言葉と物』(原著1966年、邦訳1974年)に示される、「エピステーメー」という概念が重要です。エピステーメーとは、それぞれの時代において人々の認識を規定する知の枠組みのことを指しています。
ムディンベは、数々のテクストを検討しながら、アフリカをめぐって形成されてきた知があるエピステーメーによって規定されてきたことを明らかにします。そのエピステーメーを、ムディンベは「植民地図書館(コロニアル・ライブラリー)」と呼んでいます。植民地図書館とは、「アフリカ人」を調査・研究の対象として翻訳し解読することを目的として生み出された知の総体のことです[★27]。ムディンベは『アフリカの発明』のなかで、植民地図書館がいかにしてアフリカを「とりわけ差異と他性の場所」として「発明」していったかを論じています[★28]。
ムディンベが提唱したもうひとつの重要な概念に、西洋的な知の様式と認識とは異なる知の様式をあらわす、「グノーシス」があります。これはとても難しい概念なのですが、ここではごく簡単に、アフリカに存在し、また、現に作り出されている、さまざまな叡智のことだと解しておきます[★29]。アフリカの知識人に期待される役割は、このグノーシスの可能性を引き出し、植民地図書館とは異なる知を生み出していくことです。
しかし、『アフリカの発明』においては、むしろ、西洋的なアフリカ像から抜け出ることの困難さが論じられます。前節で見たように、民族哲学のプロジェクトもまた、西洋とアフリカの差異を強調する知の枠組みのなかで「他者の哲学」として構築されたものである以上、植民地図書館と切り離せません。
それだけではありません。ムディンベの同世代のウントゥンジの民族哲学批判は、新しいアフリカの言説を作りだすはずでした。しかしウントゥンジも、民族哲学とはまたちがうかたちで、西洋とアフリカの自他関係に囚われている、とムディンベは考察します。なぜなら、伝統的な知を汲み上げようとする民族哲学を批判するウントゥンジの思考は、西洋哲学の規範を内面化しているからです。つまり、ウントゥンジの民族哲学批判は、自分の世代以前のアフリカにはあたかも哲学的営為がなかったかのように論じるさいに、なにが哲学であるかを判断する根拠として、西洋の知的優位性を無批判に受け入れてしまっているのです[★30]。
この考察は当然ながらムディンベにも当てはまるものであり、本人もそのことを自覚しています[★31]。そのうえで、ムディンベは、アフリカの伝統的な知の研究と、新たなアフリカ哲学的言説の創出という、民族哲学批判以降の相反するふたつの動向を統合することを目指しているように思われます。ムディンベは、ウントゥンジとはちがって、民族哲学もまたアフリカのグノーシスにとって重要であると評価しています。
このような発展段階的なストーリーでお話しできるのは、ここまでです。続く後篇では、1990年以降にあらわれてきた、さらに多様化していくアフリカ哲学をご紹介します。(後篇に続く)
★1 プレザンス・アフリケーヌ社で刊行されている本の取り揃えは、当然ながら、この同名の書店が一番よい。インターネット上では在庫のない少し前の書籍でも、書店では入手できることがたびたびある。URL= https://www.presenceafricaine.com/info/10-librairie
★2 ここではセネガル系の名前は、現地語ウォロフ語の発音に近い表記とする。括弧内はフランス語の音に近い表記。
★3 現にアメリカ合衆国ではアフリカおよびブラック・ディアスポラの思想的営為を総称して「アフリカーナ哲学」と呼ぶ。
★4 フランスの雑誌『クリティック』でのアフリカ哲学特集(2011年)は、監修者のセネガル出身の哲学者スレイマン・バシル・ジャーニュ(ディアーニュ)によって「アフリカで哲学する」と題された。また、同じ哲学者が監修するプレザンス・アフリケーヌ社の哲学叢書のなかに収められている、セヴリーヌ・コジョ゠グランヴォーの概説書のタイトルは『複数のアフリカ哲学』(2013年)である。
★5 「アフリカ哲学」については、日本の哲学研究者が近年、積極的に紹介している。まずは、ちくま新書の「世界哲学史」シリーズの編者のひとりが書いた、納富信留『世界哲学のすすめ』ちくま新書、2024年がある。著者はこのなかでアフリカ哲学に一章を割いて紹介している。この章を手がかりに、河野哲也「現代アフリカの哲学」、伊藤邦武ほか編『世界哲学史8――現代グローバル時代の知』、ちくま新書、2020年、251-275頁を読むと、英語圏とフランス語圏を中心に、アフリカ哲学の大まかな流れを知ることができる。
さらに河野哲也「アフリカに哲学は存在するか」、『立教大学教育学科研究年報』(64)、 2020年、251-267頁(インターネット上で入手可)は、多くの外国語文献が紹介された本格的な概説論考である。URL=https://doi.org/10.14992/00020795 また、Wikipediaの英語版の記事の日本語訳である「アフリカ哲学」の項目も役に立つ。URL= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%93%B2%E5%AD%A6
★6 Placide Tempels, La Philosophie bantoue, traduit du néerlandais par A. Rubbens, 1949. この神父の名前は、日本語の文献では「タンペル」や「タンペルス」とも表記される。
★7 バントゥー人とは、ここではバントゥー系言語を話す人々のこと。テンペルスは言語能力に長け、バントゥー人の複数の言語、とくにキルバ語(Kiluba)、キベンバ語(Kibemba)、キスワヒリ語(Kiswahili)に通じ、その読み書きができたという。Félix Wiseman, « Le parcours de vie du révéland Père Placide Tempels », Charles Kantenga Kasongo et als, La philosophie bantoue du père Placide Tempels : relecture diversiforme présentée dans le cadre du centenaire du diocèse de Kamina, 1922-2022, L’Haramttan, 2022, p.51.
★8 Tempels, La Philosophie Bantoue, op.cit., p.29.
★9 Alioune Diop, « Niam M’paya ou de la fin que dévorent les moyens », Tempels, La Philosophie bantoue, op.cit., p.5.
★10 Gaston Bachelard et als., « Témoignages sur la Philosophie bantoue du Père Tempels », Présence Africaine, n゚7, 1949, pp. 252-278. 以下、ノートとして着目すべき点を記す。『バントゥー哲学』をめぐる数々の証言のなかでも興味深いのは、ジャン・ヴァールが「生命力」を重視するバントゥー存在論のなかにベルクソンの思想と類縁関係を指摘している点である。これはバントゥー存在論も参照するレオポル・セダール・サンゴールの思想のなかに「生命の跳躍」を見てとるスレイマン・バシル・ジャーニュの議論につながる指摘である。
★11 Alexis Kagamé, La philosophie bantu-rwandaise de l'Être, Bruxelles, Académie royale des sciences coloniales, 1956. 448頁におよぶこの本が出版される前に、その見本として博士論文の抜粋版が前年に刊行された。現在この版はインターネット上で公開されている。本稿執筆段階で参照したのは抜粋版である。
★12 Alexis Kagamé, La philosophie bantu comparée, Présence africaine, 1976.
★13 Ibid., pp.11-43.
★14 山口昌男『アフリカの神話的世界』、岩波新書、1971年。同『人類学的思考』、せりか書房、1971年。同『アフリカ史』、講談社学術文庫、2023年[初版は『世界の歴史 第6巻 黒い大陸の栄光と悲惨』、1977年]。
★15 ヤンハインツ・ヤーン『アフリカの魂を求めて』、黄寅秀訳、せりか書房、1976年。
★16 山口昌男とヤンハインツ・ヤーンについての記述は、拙著『第二世界のカルトグラフィ』(共和国、2022年)のなかでさらに展開している。
★17 Paulin Hountondji, Sur la « philosophie africaine » : critique de l’ethnophilosophie, François Maspero, 1977.
★18 エメ・セゼール『帰郷ノート/植民地主義論』、砂野幸稔訳、平凡社ライブラリー、2004年[初版1997年]、168-170頁。
★19 Fabien Eboussi-Boulaga, « Le Bantou problématique », Présence Africaine, n.66, 1968, pp. 4-40. p.29より引用。このテクストはのちに以下の書籍に収録された。Eboussi-Boulaga, L’Affaire de la philosophie africaine : au-delà des querelles, Karthala, 2011.
★20 Hountondji, Sur la « philosophie africaine », op.cit., p.46.
★21 Eboussi-Boulaga, La Crise du Muntu : authenticité africaine et philosophie, Présence Africaine, 1977.
★22 エブシ゠ブラガもそうである。代表作である『ムントゥーの危機』や『フェティッシュなきキリスト教』(1981年)には引用や参照はないが、マルクス、ウィトゲンシュタインから影響を受けていることをインタビューで語っている。Eboussi-Boulaga, « Poursuivre le dialogue des lieux », Seloua Luste Boulbina, Dix penseurs africains par eux-mêmes, Chihab Éditions, 2016, pp.69-87.
★23 ウントゥンジによるデリダの思い出にかんしては、次の文献に詳しい。Hountondji, « Jacques Derrida, l’Afrique, le colloque de Cotonou », Esprit, n゚771-772, 2011, pp.726-735.
★24 ザイールは、ベルギー領コンゴの独立後の国名。ベルギー領コンゴは独立直後に「コンゴ動乱」と呼ばれるクーデターによってモブツ・セセ・ココが政権を掌握し、国名をザイールにした。モブツ政権崩壊後の1997年から国名がコンゴ民主共和国に変更され、現在にいたる。したがってザイール国立大学も現在はコンゴ国立大学である。
★25 V.Y. Mudimbé, The Invention of Africa: Gnosis, Philosophy, and the Order of Knowledge, Indiana University Press, 1988. 『アフリカの発明』のフランス語訳は、2020年にプレザンス・アフリケーヌ社から刊行された。L’Invention de l’Afrique : gnose, philosophie, et ordre de connaissances, traduit par Mamadou Diouf, Présence Africaine, 2020.
★26 パン・アフリカ主義は日本でも比較的知られている。少し古い文献だが、小田英郎『現代アフリカの政治とイデオロギー』増補版、慶應通信、1975年[初版1971年]がいまでも基本書となるはずである。
★27 V.Y. Mudimbé, The Idea of Africa, Indiana University Press, 1994, p.xii.
★28 Mamadou Diouf, « Préface », Mudimbé, L’Invention de l’Afrique, op.cit., p.12.
★29 ムディンベのグノシース概念については、これをエピステーメーとの対比で論じた文献がある。Anthony Mangeon, « La “gnose africaine” de Valentin-Yves Mudimbe », Entre inscriptions et prescriptions, V.Y. Mudimbe et l’engendrement de la parole, Honoré Champion, 2013, pp.47-56. hal-03160083.
★30 Mudimbé, The Invention of Africa, op.cit., p.173.
★31 Séverine Kodjo-Grandvaux, Philosophies africaines, Présence Africaine, 2013, pp.110-111.
中村隆之