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    古代ギリシャ・ローマ哲学見聞録──國方栄二×山本貴光×吉川浩満「精神の自由を取り戻す」イベントレポート

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    ゲンロンα 2021年9月17日配信
     近年、ストア派の哲学者エピクテトスに関する本が数多く出版されている。エピクテトスは奴隷身分の出身ながらローマで哲学を学び、一度ローマを追放されるも、晩年は再評価されて時の皇帝ハドリアヌスとも親交をもったと伝えられる人物である。 
     なぜいま、エピクテトスなのか? 彼の哲学はどのようなものだったのか? この度ゲンロンカフェでは、エピクテトス『人生談義』(岩波文庫)の新訳を担当した哲学史研究者の國方栄二、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』の共著者である文筆家の山本貴光、吉川浩満とともに、西洋古代哲学史の世界に踏み入れエピクテトスの思想をひもとくイベントを開催した。本レポートでは、その一部をお伝えする。(ゲンロン編集部)

     

    西洋古代哲学史入門


     番組の前半では國方がスライドを用いて、古代ギリシャ哲学の興りから紀元後1-2世紀にいたる哲学史を概観していった。 

      

     
      

     紀元前6世紀ごろに活躍したタレスは、「万物の根源は水である」と説き、記録に残る最初の哲学者とみなされている。ただし國方は、いま哲学者と呼ばれている当時の人々は、現代のイメージに置き換えると自然科学者に近かったと注意を促す。じっさいタレスは、日食の予言、数学上の定理の発見などの業績を残している。 

     その後アテナイが力を持つようになると、都市国家(ポリス)が最盛期をむかえ、外界と隔てられた城壁の内側で、様々な学問が発展する。なかでも、壁の内側をいかに治めるかというポリスの学──英語の politics はここに由来する──は、この時代だからこそ生まれた学問といえる。ソクラテス、プラトン、アリストテレスが活躍したのもこの時期である。アリストテレスは次の有名な言葉を残している。「人間は生まれつき、ポリスをつくる動物である」。國方によれば「社会的動物」という訳は誤りであり、この言葉はむしろ、ポリスがなくては自足することができない人間の性質を示している。 

     しかし、やがて政治体としてのポリスは有名無実化することになる。紀元前338年、アテナイとテーバイの連合軍が敗れたことをきっかけに、ほぼ全てのポリスがマケドニアの傘下に収まったからだ。この時代には一大帝国下で東西交流が盛んになるとともに、政治参加がごく一部の階級の特権となったため、閉じた民主制国家のポリスにおけるものとは異なるタイプの哲学が発達することになる。政治学よりも個人の生き方に重点的が置かれるようになったのだ。エピクテトスの属するストア派もまた、このような背景のもとに生まれた。 

     この時代の文化を「ヘレニズム」と呼ぶ。「ギリシャ風の」を意味するこの言葉は、むしろ、古典的なギリシャの(ポリスの)哲学とは担い手が変わったことを意味するものだったわけだ。 

     山本は政治学から個人へと哲学の中心が移っていくヘレニズム期の過程を、現代社会と重ねる。いまの日本は民主主義国家だが、国民が主体的に政治を動かしていると意識することは難しい。その点でわたしたちが現在置かれている状況は、帝国が支配した時代に近いのではないか。ストア派の哲学が現代人に受け入れられる理由は、この類似性に隠れているのかもしれない。 

      
     
      

     

    エピクロス派、懐疑主義、ストア派


     ヘレニズム期に興った哲学はストア派だけではない。他の学派と比較して、ストア派の哲学にはどのような特徴があるのか。國方はストア派にエピクロス派、懐疑主義を加えた3学派を紹介する。 

     エピクロス派は、現在を楽しく生きることを目的とする。肉体的な快楽よりも精神的な快楽を追求し、過去や未来に縛られずに現在を良く生きることの大切さを説く。ただ國方によると、エピクロス派の研究は日本ではまだ発展途上だそうで、今後の研究の進展に期待がかかる。 

     懐疑主義は、スケプティコイ(探究派)と呼ばれた人々の立場で、絶対的な真理は発見できないとする。自分が見ている世界と他人の見ている世界は違うという相対主義の立場をとり、そのため哲学的に正しい態度とは、判断を留保(エポケー)することだと考えた。プラトンが創設したアカデメイア派も当時はこれに近い思想をもっていた。ただし、アカデメイア派は真理の探求をあきらめる立場だったが、スケプティコイ(探究派)のほうは分からなくとも探求を続けるべきとする考えをもっていた。 

     ストア派の思想の特徴として國方は、「ネガティブ・ビジュアリゼーション」という考え方を挙げる。前もって最悪のケースを予期しておけば、たとえそれが現実に起きたとしてもダメージが少なくて済む、という発想である。これはともすれば、最初からあきらめの境地にいたった悲観主義のように思われるかもしれない。だがその根底にあるのは、「誰かに起こることは、誰にでも起こりうる」という一種の平等観である。不測の事態に陥ったとき、それに耐え、打ち勝てるようにするにはどうすればいいのか。それを探求するのがストア派であると國方は言う。 

     

    エピクテトスの哲学


     ではストア派のなかで、エピクテトスの哲学の特徴とはなにか。國方によれば、それは物事を我々の力が及ぶものと及ばないものに区別する見方である。具体的には「判断、意欲、欲望、忌避」などが前者に、「肉体、財産、評判、官職」などが後者に分類される。力が及ぶものは「自分で選択できるもの」と言い換えてもいい。たとえば判断は本性上自由で、妨げられることはないとエピクテトスは考えた。それに対して、肉体は自分の選択とは無関係に、発達したり老化したりする(もちろん主体的に鍛えることはできるが、限界がある)。その意味で、人間は肉体に隷属している。 

     エピクテトスはこの考え方を、自由意志と運命の問題に関連付けている。ストア派は運命の存在を認めていた。しかし運命で全て決まっているとすると、人間に自由意志はないことになる。國方によると、この点は同時代の他の学派からも批判されていた。だからエピクテトスは、運命の存在は認めつつも、それは人間には把握できないものであるとした。運命のなかにあっても、人間は意志という精神の自由を持っているのだ。 

     エピクテトスは足が不自由だった。肉体は自分の力が及ばないものである。だからこそ逆に、哲学を探求する意志だけは誰にも妨げられるものではないと、彼は強く訴えたのではないだろうか。 

     

    勉強会のススメ


     國方の講義は多彩なエピソードを織り交ぜながら進んだ。山本はそれを受けて、奥深い西洋古代哲学史の体系に、どのようにアプローチをかけるべきかと尋ねた。古代哲学は知見が網の目のように広がっているので、どこから手を付けたらいいのか分からない読者も多いのではないか。難解な思想も多いため、せっかく本を手に取っても読み進められないことがあるかもしれない。 

     そこで國方が勧めたのが勉強会だ。國方は昨年まで、授業とは別に学生たちと西洋古典の勉強会を開いていたという。かつては、プラトンの『法律』12巻のギリシャ語原文を8年かけて読む会にも参加していたそうだ。専門家の國方でさえ、この本は自分ひとりでは絶対に読み切れなかっただろうと語る。 

      

     
      

     長年たくさんの勉強会や読書会に参加しているという吉川は、その経験から、勉強会の2つのメリットを挙げた。教員と学生が上下関係にとらわれずフラットに議論できる点と、継続的に会を開くこと自体がモチベーションになる点だ。勉強会形式の学習は、さぼりがちななってしまうひとにはもってこいの学習形態だ。西洋古代哲学史の世界に興味を持った方は、ひとりで古典と格闘するのではなく、まずは仲間を見つけてみてはいかがだろうか。 

     

    徳と死


     最後に、國方が提示したトピックをもうひとつ紹介しよう。古代ギリシャの哲学者たちの文章にしばしば登場する、「徳」に関する議論である。徳とは一体なにを意味しているのだろうか。 

     アキレウスのような英雄に象徴されるように、古代ギリシャでは男性的な肉体の強さこそ、人間の優れた点(ἀρετή=徳)とされていたと國方は語る。このことは徳を意味するラテン語の virtus、英語の virtue に、 男性を表す語幹 vir- が残っていることからもうかがえる。しかしポリスの時代になると、徳の捉え方が変化する。徳は肉体の強さではなく、知力や精神の強さへ置き換えられていったのだ。 

     人間は老いと死から逃れることはできない。徳が肉体の強さを意味するならば、老いるにつれ徳が失われていくのは自明であり、老いはとても苦しいものになってしまう。しかし知力や精神の現れとして徳を考えれば、老いも決して苦しいものではない。年を取ってからも学ぶことはできる。國方はアテナイの政治家ソロンのエピソードを紹介する。彼は死を目前にした最晩年、甥が女流詩人サッフォーの詩を朗読しているのを聴いて感動し、自分にもその詩を教えるよう頼んだ。周囲の人間は、今更どうしてそんなことをするのか不思議がったが、ソロンは「この詩を学んでから死にたい」と言ったという。ソロンは学びの意欲を最期まで持ち、老いと向き合った。この態度にこそ、徳があるといえる。 

     吉川はエピクロスの名をふたたび挙げ、死との向き合い方にエピクテトスとの考え方の違いが表れていると指摘した。エピクロスは死について考えても仕方ないと棚上げにした。一方、エピクテトスはいかに死に向き合うかということを考えた。ソロンの態度はエピクテトス的だといえるだろう。 

     もちろんどちらかが正しいとは言い切れない。老いと死に限らず、人間を悩ませるものはいくらでもある。情報が氾濫する現代ではなおさらだ。逃避する方が適切な場合もあれば、どうにかして向き合う方法を考えなければならない場合もあるだろう。エピクテトスは「力の及ばないもの」の存在を認めながら、それとどう向き合うかの意志の持ちようは「力の及ぶもの」だと考える。すべてが思い通りにはならない、悩み多き人生を生き抜く道標を示してくれる──いま、エピクテトスの哲学が求められる理由のわかるイベントだった。(杉林大毅) 

      

     
      

     シラスでは、2022年2月3日までアーカイブを公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。 

     


    國方栄二×山本貴光×吉川浩満「精神の自由を取り戻す──エピクテトスとストア派の哲学」(番組URL= https://genron-cafe.jp/event/20210806/
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