身体を語ることば、身体がつくる社会──為末大×茂木健一郎+東浩紀「からだと脳、動くことと考えること」イベントレポート
為末と東は初対面。二人の最初の接点は昨年10月、東が何気なく投稿した陸上に関するツイートに為末がコメントしたことだという。「文系、理系、体育会系」と異なるバックボーンを持つ三名が集うイベント。いざ言葉を交わしはじめると、オリンピックからコロナまで様々な話題について、言葉・科学・身体を横断する語りが引き出されていった。レポートで紹介できるのはほんの一部だが、異なる背景の人が集まることの豊かさそのものが具現化された5時間であった。(ゲンロン編集部)
言葉と身体性
番組は、茂木の質問に応えて為末が自分の経験を語る形ではじまった。競技歴、スポーツにおける努力と才能、練習の量と質、アスリートのセカンドキャリアについてなど様々な話題について、茂木の問いかけを受け、為末は体の動きを説明する身振り手振りを交えながら落ち着いたトーンで返答していく。
脳科学者である茂木が特に興味を示したのは、競技中のアスリートなどが稀に陥る深い集中状態「ゾーン」。為末は、自身の競技生活でゾーンに入ったことが三回あるとのことで(二度の世界陸上メダル獲得時と北京五輪をかけた日本選手権決勝)、茂木の質問に答える形でその全容が明らかにされていった。当日の状況や競技中の自分の映像をのちに見たときの感想などが語られたが、特に興味深かったのは意識の変化。一点に深く没入するというより「心にバブル(連想)が浮かばなくなる」感覚だという。為末が茂木に対して、「ゾーンという概念を知ったことにより、ゾーン体験のイメージに合わせてアスリートが記憶を再構成していることもありえるのでは」と質問する場面もあった。
途中から登壇した東は、為末の近刊『Winning Alone』について「言論人として、身体に関する正確な描写にシビレた!」と絶賛。東は以下の部分を読み上げた。
視座が高い集団は「当たり前」のレベルが高い。目標が勇ましかったり、ビジョンが美しかったりするとつい人は惹かれてしまうが、目標の高さよりも言葉にされていない「当たり前のレベル」の方がよほど競技力に影響していた。たとえば「足腰」ではなく「大腿四頭筋」「ハムストリングス」「中臀筋」などと分けて会話する集団では、これらの役割を分けて説明することが当たり前になっている。その結果、細かい筋の動きや役割を次第に正確に理解するようになる。
(為末大『Winning Alone』、プレジデント社、2020年、25-26頁。)
為末が指摘しているのは、日頃から正確に言葉を使うことによって、身体を認識する精度も高まっていくということ。引用した部分に限らず、為末の言葉は指示内容が明確だ。それは「言葉の身体性の高さ」とも言い換えることができ、人文系の人間にとっても大いに見習うべきところがあると東はいう。イベント中には、為末が立ち上がり、自分の言葉が意味する体の動き方を実演する場面も見られる。ぜひアーカイブ動画や為末の著書をチェックしてほしい。
理想の肉体とは?理想の社会とは?
話題はオリンピックにも及んだ。為末は3度のオリンピック出場経験があるが、オリンピックと他大会の違いの一つは多競技の選手が同じ選手村で生活することだという。ひとくちにオリンピック選手といっても、男子レスリングなどの身長2mを超す選手から、体操の身長1.5mほどの選手まで、体格の多様性にはすさまじいものがある。世界大会のレベルでは、選手がそれぞれの競技に身体を最適化させており、「万能な運動神経というものは存在しないことがわかる」のだという。
一方、古代ギリシャのオリンピックは「調和」や「美」を理想とし、「完璧な肉体を持つものがすべてのスポーツにおいて全能である」という発想をもとにしている。これは、自らが行う競技に最適化した身体を持たなければ勝つことができない現代のオリンピックとは大きく異なる。
この話を受け、東が問題を提起した。「総合的な成熟」と「多様性の肯定」は究極的には両立しない。であればどちらを目指すべきか。古代オリンピックの理想にのっとって考えると、パラリンピックの意義はなくなってしまう。他方で多様性の肯定を理想に掲げると、各競技の記録を伸ばすために身体を最適化させ、「それぞれの役割でのトップを目指す」ということになる。それが現代オリンピック・パラリンピックの方向だ。
だが、ある競技に極度に適応した身体は、ルールが変わると適応できなくなる脆弱な身体でもある。また、記録を伸ばすことそれ自体が目的となると、ドーピングなどの問題もおきやすくなる。身体を精神に置き換えると、これはスポーツ界だけでなく現代社会全体の問題として考えることもできる。
これに対し、為末は「長期にわたってスポーツのルールが固定化されていることがいきすぎた適応を招く場合がある」と指摘し、競技のルールを徐々に変えていくことが有効な対応策となる可能性があると答える。現代社会の問題でも手がかりになる考え方かもしれない。
オリンピアンからみたオリンピック
現在、日本では東京五輪開催の成否に注目が集まっている。出場選手からはオリンピックはどのように見えているのだろうか。為末は、オリンピックに憧れが強すぎたのでかえって結果を出せなかったと振り返りながら、「オリンピックがなんだったのかはよくわからないが、燃えていた感はある。出場することの意味も、勝つことの意味も、厳密にはよくわからないが、なにか人を燃やす装置だった」と自身の体験を語った。
為末は、競技生活の終盤には、自分が求めているのが勝つことなのか、競技を通じて得られる他のものなのか、だんだん分からなくなってきたという。若い頃は競技そのものに意味を求めていたが、次第に、特に意味のないゲームかもしれないが、どこまでいけるかやってみたい、という感覚に変わってきた。引退する時には「いずれにしても、このゲームはとっても面白かったな」という感触があったそうだ。
競技の身体について明確な言葉で語る為末が、自分にとってスポーツとは何だったのかをしみじみと話す様子は、スポーツやオリンピックに対して特別な思い入れのない者にとっても心を動かされるものがあった。オリンピックは社会的な話題として消費されがちだが、スポーツ選手の実感のこもった語りに耳を傾けることは、特にスポーツに思い入れのない視聴者にとってこそ財産となるものかもしれない。ニュースの見え方も変わるきっかけになるだろう。
イベントでは、他にも多くの話題が語られた。パラリンピックの可能性やドーピング、哲学・言論とスポーツの共通点、他では聞けない東の陸上部体験談、茂木の自由な言動(とりわけマラソン五輪銀メダリスト有森裕子への突然の通話)など、例によって見所は満載だ。ぜひアーカイブを確認し、すみずみまでイベントを楽しんでいただければと思う。(堀安祐子)
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