『心を病んだらいけないの?』・コロナ禍編──斎藤環×與那覇潤「コロナによる分断を越えて、「対話」と「同意なき共感」を取り戻す」イベントレポート
ゲンロンα 2020年9月23日配信
精神科医・斎藤環と歴史学者・與那覇潤の対話をまとめた共著『心を病んだらいけないの?──うつ病社会の処方箋』(新潮選書)が、第19回小林秀雄賞を受賞した。それを記念し、ゲンロンカフェであらたに行われた対談イベントの模様をレポートする。
『心を病んだらいけないの?』所収の最後の対談が行われたのは今年1月。コロナ禍については本のなかでほとんど触れられていない。今回の対談は、PR記事用の追加対談が行われた3月以来、はじめて顔をあわせたというふたりがコロナ禍で見られた問題を中心に自由に意見を交わしあう、ボーナストラックとも言える内容となった。印象的だった話題をいくつか紹介しよう。(ゲンロン編集部)
コロナ禍と「祭り」の時間意識
今回のコロナ禍について與那覇と斎藤はある共通した認識を持つ。それは、コロナ禍が人びとの時間意識を混乱させるものだったということだ。ふたりは、『心を病んだらいけないの?』で話題となっている「祭り」の時間意識の問題と絡めて、コロナ禍下の日本社会を論じた。
まず與那覇は、コロナ禍が引き起こした人びとの時間意識の二極化を指摘した。
一方には、コロナ禍をテレワーク推進など来るべきIT化を実現する絶好のチャンスとみなす「コロナ加速主義」の人びとがいる。與那覇は、このような人びとの時間意識を、いま目の前にある物事すべてを「未来の予兆」として捉える統合失調症(昭和期の呼称では分裂病)的な「アンテ・フェストゥム」(=祭りの前)のそれになぞらえた。
もう一方には、感染者が比較的すくない地方などで、コロナへの感染が判明した者が悪者とみなされて「村八分」ならぬ「コロナ八分」の扱いを受けてしまう問題がある。こちらは、かつて與那覇が出世作『中国化する日本』で日本型の社会システムを指して使った「江戸時代」の概念がそのまま当てはまってしまうような事例だ。歴史がある時点で停止し、そこから進歩していないようにすら見える事例だという点では、「人生における大事なことはすべて終わってしまった」と患者自身が信じ込んでしまう、うつ病的な「ポスト・フェストゥム」(=祭りの後)の構造をここに見ることができるかもしれない、と與那覇は言う。
後者の事例に対して、斎藤はむしろヤンキー的な「絆」の危うさを見出せるのではないかと応答した。ヤンキーは理屈で物事を考えるインテリとは異なり、「絆を感じればみんな仲間」的な、ある種の包摂的な仲間意識を持つ。しかしそこには、なにかをきっかけにその輪から外れてしまうとその後はまったく相手にされなくなり、排除されてしまうという問題もある。
「コロナ八分」とヤンキーの問題については、斎藤が指摘するヤンキー的な時間意識との関係も論じられた。斎藤によると、ヤンキーとは毎年行われる祭りを楽しみにして生きる存在だ。その循環的な時間意識は「インター・フェストゥム」(=祭りの間)と呼ぶことができる。しかし、今回のコロナ禍で人びとに要請された「自粛」は、定期的にめぐってくるハレの時間をヤンキーから奪ってしまった。さらに、震災復興などの際には大いに役に立ったヤンキー的な「気合い」も、コロナ禍においては発揮のしようがない。そのはけ口が「コロナ八分」の問題につながっているのかもしれない、と斎藤は分析する。
いずれにせよ、コロナ禍による「自粛」が人びとから日常的な時間感覚を奪ってしまったのは間違いないことだろう。
イベントではこの話題に続き、戦後日本を代表する知識人でもある精神科医・中井久夫の『分裂病と人類』が取り上げられた。「立て直し」志向の日本と「世直し」志向の中国を比較する中井の議論についてのやり取りも、前半の大きな見どころとなった。ぜひ動画で確認していただきたい(ダイジェスト動画前半も参照)。
コロナ禍における「告解室モデル」
イベント後半では、斎藤が近年推し進めている「オープンダイアローグ」というケア技法についても触れられた。「オープンダイアローグ」では、精神科医などの専門家が専門家としての特権を行使することなく、患者と共同して「対話」を重ねることで治癒を目指す(詳しくは『心を病んだらいけないの?』巻末の読書案内などを参照)。
オープンダイアローグは、従来の精神分析におけるカトリック的な「告解室モデル」を採用しない。従来の精神分析は、患者がカリスマ的な治療者に自らの経験を「告白」することから始まる。治療者がそこにある心の葛藤を見抜き、患者はその内容を告げられることで治癒に向かう。これが「告解室モデル」だ。
しかし、時代が下って精神分析の理論や概念が普及するにつれ、患者が「いかにも専門家が言いそうなこと」を先読みするようになった。そのことで治療効果が薄れたことが、オープンダイアローグという技法が生まれたきっかけのひとつだと斎藤は言う。そこでは「告解室モデル」の密室性やヒエラルキーからの解放も意図されていた。
與那覇は、コロナ禍における社会のあり方をこの「告解室モデル」になぞらえた。たとえば、「接触確認アプリ導入でコロナ禍を打破できる」という発想は、「キャバクラに行った」などの「罪」を神(この場合はビッグデータ)への告白を通して解消しようとする考え方のアップデート版に見える。また、「感染症の専門家が出す数値目標に従って行動すればコロナ禍は収束する」という発想も、特定のカリスマ的な治療者に従えばすべてが解決する、という安易な発想に近いと與那覇は述べた。
斎藤と與那覇は、ともに過度なエビデンス主義には懐疑的な立場だ。斎藤は、疫学を学んだ経験に鑑みても、統計の数字は容易に恣意的なものになり得ると指摘した。
では、コロナ禍で陥りがちなメンタル不調に対して、個々人はどのように対処すればいいのか? 番組終盤で視聴者から寄せられた質問に、ふたりは口をそろえて「孤立を避け、ひととのつながりを持つことが大事だ」と述べた。
與那覇は、双極性障害を患った自身の経験からも、似た経験を持つひと同士で集まることが重要だと指摘した。與那覇は心を病んだ当初、入院治療の効果に対して懐疑的だったという。入院しようとしまいと、投薬などの具体的な治療法は変わらないからだ。しかし、実際の入院を通して與那覇が実感したのは、周囲に似た経験を持つ人びとがいて「自分はひとりではない」と思えること自体が大きな治療効果を持つということだった。
そのうえでイベントのまとめとして與那覇が訴えたのは、世間の「空気」を大事にしないことの重要性だ。いくら自分が少数派だと感じることがあっても、自分と似た経験や感じ方を持つひとはどこかに必ずいる。そして、それはまったく同一の経験や感じ方である必要はない。
斎藤もこれに同意する。重要なのは、みなに同じ方向を向くことを強制する「空気=ハーモニー(調和)」ではなく、それぞれが別々の声を上げながら理解し合う「対話=ポリフォニー(多声)」なのだと斎藤は言い換え、イベントは閉じられた。
イベントではこの他にも、斎藤が前回登壇したイベントで語った「コロナ・ピューリタニズム」問題の再考、一部のインテリのコロナ禍における言動に対して與那覇が向けた毒舌批判、BLMと歴史の消去の問題から『鬼滅の刃』と『永遠の0』の意外な共通点に至るまで、さまざまな話題で盛り上がりを見せた。全容はぜひ動画でお楽しみいただきたい。(住本賢一)
こちらの番組はVimeoにて公開中。レンタル(7日間)600円、購入(無期限)1200円でご視聴いただけます。
URL=https://vimeo.com/ondemand/genron20200916
(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20200916/)