埼玉に見るオルタナティブな日本──原武史×藤村龍至×東浩紀「さいたまの過去と未来」イベントレポート
埼玉は二度「負けた」のか
なぜ埼玉なのか。東はイベント企画の趣旨を以下のように説明した。 原の著書に、神道思想史の研究から近代日本の裏側に迫った名著『〈出雲〉という思想』がある。その後半では、原自身の滝山団地(東京都東久留米市)での原体験を起点に、埼玉と神道、そして明治維新の知られざる関係が考察されている。一方、所沢出身の藤村は先日の隈研吾とのトークイベントでも熱い埼玉愛をのぞかせる一幕が印象的だった。そんなふたりから刺激的な埼玉トークを引き出したい――。 東による趣旨説明とそれぞれの自己紹介が終わると、おもむろに藤村がこう問いかけた。「80年代ごろまで等価だったはずの東京郊外全体のなかで、なぜ埼玉はこんなに格が下がったのか。逆に言えばなぜ東急田園都市線沿線の神奈川は格が上がったのか」と。 いきなり飛び出たイベントの核心を突く問いに、原はこう答えた。すなわち、その「格」の変動の原因は端的なイメージ戦略の違いにあると。たとえば東急田園都市線沿線は、1983年のトレンディドラマ『金曜日の妻たちへ』の舞台ともなって「お洒落」なイメージを世間に定着させた。原によると、そのイメージ戦略の違いはすこし前の時代の西武線と東急線の車両の対比にまで遡ることができる。西武線沿線の東京北西部という「広義の埼玉」在住だった少年時代の原は、まだ床が木製でドアの開閉が重々しかった西武線車両に乗り慣れていたため、あるとき乗った東急東横線で、ステンレスのドアが開くときのキーンという独特の金属音に衝撃を受けたという。原は1962年生まれ。東急はさらに前の1950年代後半からすでにステンレスの車両を導入し始めていた。 これを受けて、藤村は「埼玉は二度負けたのかもしれない」と感想をこぼした。そもそもこのイベント企画の発端ともなった原の『〈出雲〉という思想』は、近代日本の中心となった〈伊勢〉の神道思想に対してそこから排除された〈出雲〉の系譜を辿るもので、埼玉は後者の〈出雲〉系である氷川神社が広く分布する地域として注目されている。埼玉の最初の「敗北」は近代化における神道の覇権争いのなかで起こり、二度目の「敗北」は消費社会における企業のイメージ戦略のなかで起こったのではないか。 とはいえ藤村は他方で、そのストーリーの偶然性や虚構性を認識し、それを転覆する可能性に目を向けることの重要性も指摘した。その可能性については番組の第2部で大きく展開されることとなる。
松本清張のオルタナティブな天皇制
第1部では、原を中心に埼玉の地形的・地域的特徴や各鉄道沿線地域の性格の違いなどについてさまざまな話題が飛び交った。なかでもとりわけ印象的だったのが、原による松本清張読解だ。 『「松本清張」で読む昭和史』の著者でもある原は、晩年の長編『神々の乱心』を取り上げた。原によると、架空の新興宗教団体「月辰会」の本部が置かれた「梅広」のモデルは東武東上線沿線の東松山であり、月辰会の教祖である「平田有信」の名前は〈出雲〉の思想の中心人物である平田篤胤から来ている。 東上線沿線を舞台として〈出雲〉関連の話題が描かれることのおもしろさは、東上線のさきに秩父があることとも関係している。秩父は昭和天皇の弟である秩父宮ゆかりの地だが、月辰会は秩父宮を昭和天皇にかえて天皇に据えることを目指す団体として描かれている。つまりこの小説を深読みすれば、松本清張が日本近代史の裏側を踏まえたうえで「東京に対する埼玉の反逆」を描いたものとして解釈できるだろうと原は言う。 東はこの原の解釈を整理しつつ、それは「松本清張によるオルタナティブな天皇制の提案」とも言い換えられるのではないかと指摘した。ここで東が出した「オルタナティブ」という言葉は、松本清張読解を越えて、今回の埼玉イベント全体を貫くテーマでもあると筆者には感じられた。 残念ながら原は午後9時に離脱しなければならなかったため、第1部までの参加となった。しかしその2時間に凝縮された議論は、ここで紹介しきれなかった細部も含めて埼玉の過去にあらたな光を当てる刺激的なものだったように思う。
日本の未来の縮図としての埼玉
第2部では、藤村が自らの地域に密着した活動の数々を振り返りつつ、埼玉の未来を熱く語るプレゼンを展開した。 重要なのは、埼玉が日本の現状を示す縮図でもあるということだ。藤村は以下のように説明する。 埼玉は1980年代に急激な人口増を経験したため、これから急激な高齢化と人口減を迎える。高度成長期に設置されたインフラの耐用年数を考えあわせると、埼玉はこれからの日本の行政課題が集中する地域のひとつだといえる。埼玉は、今回延期になった東京五輪と2025年の大阪万博という「ドーピング」が切れたあとの、日本の姿を写す鏡であるのだ。
鳩山ニュータウンの活性化、そして埼玉の「超田園都市」化
藤村は2010年に東洋大学に着任して以来、地元埼玉の自治体と密接に結びついたプロジェクトを数多く手掛けてきたという。イベントで紹介された個々の事例はすべてが非常に具体的だったが、なかでも印象的だったのが県中部・鳩山町の鳩山ニュータウンの事例だ。 鳩山ニュータウンは、埼玉県のなかでも高齢化率や消滅可能性の高い「老いた」ニュータウンだ。鳩山町は自治体としてその現実に向き合い、公共施設に積極的に投資する道を選んだ。そのなかで藤村が携わった事業のうちのひとつが、地方創生・福祉拠点である「鳩山町コミュニティ・マルシェ」の管理運営である。 藤村はこの施設の働き手を探しているときに、当時東京藝大の大学院生だったアーティスト・菅沼朋香に出会う。「昭和」をテーマに制作を行いつつ移住先を探していた彼女は、結果的に、藤村が主宰する設計事務所RFAの社員として鳩山ニュータウンに移住することを決めた。すると、じつはこのニュータウンには、もともと移住で流入したアーティストが数多く住んでいたことが分かり始めたというのだ。一見偶然にも見えるその現象の要因を分析すると、①制作場所、②東京への近さ、③子育て環境、④住居コストなど、その必然性が見えてきたと藤村は言う。 藤村が、鳩山ニュータウンの事例研究で見えてきた条件を活かしつつ打ち出すのが、埼玉の「超田園都市」化である。医療福祉・教育・文化資源などをコミュニティ施策で補強しつつ、コストの安さを逆手にとったアトリエ付き住宅などをエリアを限定して戦略的に供給していけば、「文化の村」として埼玉を活性化することが可能だというのだ。 この構想は、藤村が地元・所沢に見出す「希望の軸」(COOL JAPAN FOREST・所沢駅・椿峰ニュータウン・狭山湖をつなぐ軸)とも共鳴するものだ。東所沢に新拠点を置くKADOKAWAのような企業の社員にとっても、「所沢送り」は新たなライフスタイルのきっかけになりうると藤村は言う。 東はこのプレゼンを受けて、藤村の姿勢に強い共感を示した。藤村の実践は細かい行政法との折衝や自治体・コミュニティとの協働にあふれており、その手つきが東がゲンロンで行なってきたこととも重なって見えるという。東は、先行世代からは「小さいこと」に見えるこのような「統治性」(フーコー)への介入的実践こそが、いまの時代の知識人に求められる真の役割であるはずだとして、イベントを締めくくった。 大文字の「社会」や「世界」にないリアリティは、ひとつひとつの細かな実践にこそ宿る。「敗北」の過去を背負ってきた埼玉の未来は、これからの日本が向かうべきオルタナティブな希望を指し示すものになるかもしれない。そんなことを感じるイベントだった。 ゲンロンカフェでのイベントの常ではあるが、このイベントでも記事で紹介しきれなかった論点はとても多い。第1部と第2部はそれぞれ独立した番組としても楽しめるので、関心を持たれた方はぜひ動画で議論の全容をお楽しみいただきたい。(住本賢一) こちらの番組はVimeoにて公開中。それぞれレンタル(7日間)500円、購入(無期限)1000円でご視聴いただけます。以下の視聴ページからご覧ください。 第1部=https://vimeo.com/ondemand/genron20200717no1 第2部=https://vimeo.com/ondemand/genron20200717no2