未完のフーコーに向かって──石田英敬×東浩紀「フーコーで読むコロナ危機」イベントレポート
ゲンロンα 2020年6月23日配信
タイトルは「フーコーで読むコロナ危機──生権力と統治性をめぐって」。コロナ禍で世界に起こる様々な反応は、現代思想の巨人・フーコーの著作を捉え直す可能性になる? これまでの講義同様、石田が先生、東が生徒として、6時間以上に及ぶ白熱した講義が繰り広げられました。
さあ、現在の世界と現代思想の最前線をめぐる、スリリングな講義の始まりです。(ゲンロン編集部)
※本イベントのアーカイブ動画は、Vimeoにて先行公開中(購入のみ)です。本記事の内容に関心を持たれた方は、こちらのリンクからトークの全容をぜひお楽しみください。
フーコー・モーメントとしてのコロナ禍
講義は、石田のスライドから始まります。なぜ、フーコーなのか。石田は、コロナ禍の世界を「フーコー・モーメント」と呼び、全世界的に起きている外出禁止の流れをフーコーが書く「大いなる閉じ込め」とパラレルに語ります。彼の著作である『狂気の歴史』では、狂人が病院の中へ閉じ込められることに近代社会の始まりを見出しますが、現在は、この「閉じ込め」が世界を覆っているのではないか。したがって現在、世界は期せずしてフーコーが語ろうとした問題の中心に来てしまったのではないか。そのような問題意識から石田はフーコーを語り始めます。
さらに、今回のコロナ禍において、各国が人々を「生かす」ために強い統治(=生権力)を発動することは、フーコーが語った生権力の作動がそのまま政治に現れているのであり、フーコーの問題意識は現代社会において強いアクチュアリティを持っているといえます。コロナ禍の現在こそ、フーコーを再読する機会だと石田は主張します。
ちなみに、今回の講義にあたって石田が指定した教科書は、フーコーの『生政治の誕生』(2008年)と『安全・領土・人口』(2007年)。生徒である東はこれらを綿密に読み込み、メモにはびっしりと質問が。石田の解説に適宜説明を加えたり、別角度からの鋭い疑問を投げつけ、『新記号論』の講義さながらの風景が浮かび上がりました。
中でも東が投げつけた質問は、フーコーのいう「生権力」という言葉の曖昧さについてです。
「未完のフーコー」
フーコーがいう生権力は広く使われる言葉にもかかわらず、非常に複雑で広い射程を持った言葉である。しかしフーコー自身はその言葉の定義付けを明確にできないまま亡くなってしまったのではないか。そう東は石田に問いかけます。
石田もこれに同意。加えて、フーコー自身が左翼的な思想家という立ち位置で活動していたため、その思想が教条主義的に左翼的な観点からのみ語られてしまったことを指摘します。また、「生権力」や「統治」について語られた翻訳書の出版が日本ではかなり遅れた経緯もあり、その時差によってフーコー読解に偏りが生じてしまった可能性も示唆します。
その一つが自由主義に関するフーコーの思索です。『生政治の誕生』においてフーコーは自由主義批判を行っています。しかしそこでは自由主義を考え抜いた結果、最終的に自由主義に対してポジティブにも捉えられうる論調が登場するのです。フーコーは人々の統治の歴史を考えたとき、強大な主権による統治(絶対王政)や信念による統治(マルクス主義)に比べれば、経済による統治は最も効率的だと論じます。彼がこの発言を行ったのは、サッチャー政権やレーガン政権などの新自由主義的な思想が誕生する前。つまり、ある意味でこの発言はネオリベラリズムの台頭を予言した言葉とも読めるのです。彼は鋭敏な知性で、その後の社会の展開を予測していたのかもしれません。
しかしフーコーは「生政治」や「統治」といった言葉に関してしっかりと定義づけないままこの世を去ってしまったため、その言葉をどのように解釈し捉え直すかは遺された私たちの課題だともいえるでしょう。いわば「未完のフーコー」が私たちの前に立ちはだかっています。そして、コロナ禍で発生した様々な出来事を通して、この「未完のフーコー」を読み解く作業を、石田と東は行おうとしているのです。
日本人とフーコー
興味深かったのは、日本社会とフーコーの関係について。石田は、フーコーがいう生権力社会の典型例こそ日本だと言うのです。例えば、政府からの通達が「外出自粛要請」だったにもかかわらず、多くの日本人が自主的に自粛に従ったことがその顕著な例です。また、自粛警察の暴走も社会問題化しました。そこでは政府からの権力ではなく、一般人同士の監視の目が人々を「生かす」ための強力な権力として働くのです。
これに関連して、東は日本において公共機関が行うべき事業を民間企業が担っていることを付け加えます。そこでは、政府が担うべき権力が民間に移譲されているのです。例えば、コロナ禍による休業要請でいわゆる「ネカフェ難民」の人びとの寝泊まる場所が問題になりましたが、彼らの住む場所を保証するのも本来は公共機関が担うべき役割です。
このように日本では公共と民間をめぐる権力形態が複雑で、フーコーのいう生権力社会が非常に見えにくい形で潜伏しているのです。逆にいえば、コロナ禍の日本で起こる様々な出来事を通してみれば、「未完のフーコー」に新しい光を照らすことができるのではないでしょうか。
『新記号論』とフーコー
こんなやりとりを続けていくうち、気づけば時計の針は深夜1時過ぎに。しかし石田が用意してきたスライドはまだまだ終わりません。そこで、残りのスライドは次の講義に持ち越されることが東から発表されました。今回限りを予定されていた講義は、『新記号論』のような連続講義となったのです。
残ったスライドには、2人の前著である『新記号論』とフーコーを接続する試みも。そもそも『新記号論』は、哲学や現代思想を最先端技術の問題と結びつける議論が一つの肝でしたが、フーコーの思想にも、そうしたテクノロジーの問題は多分に含まれています。
東はフーコーの思想の登場が早すぎたことを述べ、彼の議論にある情報社会論的な観点が当時の社会環境では十分に展開できなかったことを指摘します。そうした情報社会論的な議論はフーコーの数十年後にようやく本格化するのです。フーコーはあらゆる点において、早すぎたのではないでしょうか。
石田は「広報の父」バーネイズ・「世論」などの言葉を生み出したリップマンとフーコーの関係、そして「ジャーナリズムと権力」の話にも講義を進めることを予告します。これからの講義では一体、これらの題材がどのように石田によって調理され、「未完のフーコー」が語られていくのでしょうか? 次回の講義もご期待ください!
イベントでは他にも、フーコー裏話、フーコーが語る疫病の歴史とコロナウイルスの関係性、パノプティコンとコロナウイルスの気付かれざる類似性、ビートたけしのお笑いとバラエティの権力論!? などなど、フーコーを起点にあらゆる話題が展開されました。東が「フーコーは人文科学の正統性を必死に考えようとした」と語る通り、フーコーは人文科学の基盤について考え続けたために、その思考は多くの事柄に接続できるのです。したがって、フーコーを読み直すこの連続講義の試みは、人文科学の本質をラディカルに捉え直す試みともなるでしょう。
次回以降の予習も兼ねて、ぜひVimeoで全編を見てみてはいかがでしょうか。石田先生と一緒に、「未完のフーコー」の謎を解く旅に出発してみませんか?(谷頭和希)
(番組URL= https://genron-cafe.jp/event/20200619/)