【 #ゲンロン友の声|031】集団制作の「作者」はだれですか?

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webゲンロン 2023年11月9日配信

グループで何かを作る時、「作者」とはいったい誰なのでしょうか。

建設業に従事しているのですが、建築が作られたとき、作者が一人の建築家であるような語りをされるのに若干違和感と息苦しさを感じます。建築の場合、何よりもお施主さんの意向が建物の大枠を決めるのに決定的な役割を果たしますし、細部の作られ方も施工者ができることや、彼らからの提案の影響を大きく受けます。設計をした建築家がそれらすべてをコントロールすることはできませんし、それらを無視して建築の良し悪しを語るのは、何か大事なものを見落とす原因になるのではないか、と思えてしまうのです。

なんとなく、これは集団制作されるもの一般に付きまとう問題のように思えます(例えばゲームや映画など)。そこで、東さんが以前書かれていた「セカイからもっと近くに」の押井守の章に、「映画は集団制作です。…押井の映画を押井の思想の反映として読むのは無理があるのです」とあったのを思い出し、ゲンロン友の声に質問をさせていただきました。

集団制作されたものを批評するとき、それを監督や設計者など、一人の「作者」に帰さないような書き方はできるものなのでしょうか。また、それができているような批評や文章を何かご存じでしたら、教えていただけるとありがたいです。(東京都・30代・男性・非会員)

ご質問、ありがとうございます。難しく、かつ本質的な質問ですね。

ぼくの考えは下記のようなものです。結論からいうと、「作者」というのはある種のフィクションだと思います。ただし、それがないとコンテンツについて考えることができなくなるような、絶対になくすことができないフィクションです。

どういうことでしょうか。ほとんどの創作物は複数のひとの関与で成立しています。だれかひとりの意志ですべてがコントロールされている創作物というのはとても例外的です。これはいわゆる集団制作に限りません。文字だけでできている書物は、数あるコンテンツのなかでは「だれかひとりの意志ですべてがコントロールされている」状況にもっとも近いものです。それでも現実には編集者や校閲者の介在によって文章が変わっているはずですし、物理的な本が完成するためにはデザイナーや装丁者、印刷所など多数のひとの関与が必要です。ひとりの「作者」を想定し、そのひとにコンテンツの責任をすべて帰するというのは、現実的には無理な話です。

にもかかわらず、ぼくたちはつねに「作者」を想定します。なぜか。それは、そのようなフィクションをつくらないと、複数の作品を横断する評価ができなくなってしまうからです。

たとえば、ぼく、東浩紀がある本を書く。つぎに別の本を書く。さらに3冊目を書く。それらのあいだの変化について考える。それがふつうの読解ですが、もしここで「作者」の概念を放棄したとすると、そこにはただ別々の3つのコンテンツがあるだけで、変化について語ることができなくなってしまう。繰り返しますが、現実にはそこに作家の一貫性は存在しないのかもしれません。いまの例であれば、みな東浩紀が書いているのだからさすがに作者はいるだろうと思うかもしれませんが、『存在論的、郵便的』を書いた27歳のぼくと『訂正可能性の哲学』を書いた52歳のぼくがどこまで同じ人間で、どこまで思考や記憶が一貫しているかといえば、これは怪しいといえば怪しいわけです。四半世紀前に自分が何を考えていたのかなんて、正確に思い出せるわけがない。すべてが想像です。だから、『存在論的、郵便的』と『訂正可能性の哲学』が同じ「作者」だというのもまた、厳密には一種のフィクションではある。しかし、そのフィクションを手放してしまったら、ぼくたちは複数のコンテンツを比較できなくなってしまう。だから「作者」は必要なのです。

このように記すと、では「作者」の観念は、コンテンツを批評するための便宜的な概念なのかと思うかもしれません。そうではありません。別の説明も試みてみましょう。

押井守について東さんは書いている、と質問者の方は記しています。じつはぼくはその文章を思い出せないのですが(作者の一貫性なんてそんなものです)、いずれにせよ、たとえば押井であれば、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と『攻殻機動隊』を、あるいは『イノセンス』や『スカイ・クロラ』を、同じ「作者」の作品として比較し変化の意味について考えることは、本当は意味がないのかもしれません。それぞれ脚本家も違えば制作状況も違い、どの場面に押井の意志が現れ、どこが別のスタッフの意志によるものだったのか、現実には複雑な検証が必要なはずだからです。

しかし、そのような検証を突き詰めていくと、複数の押井作品を横断した語りは不可能になってしまう。それどころか、最終的には「作品」という単位すら崩壊してしまう。ひとつの映画自体が、無数のスタッフの関与の集合へと溶解し、ある特定の場面、ある特定の言葉、ある特定の図像についてしか語れなくなってしまう。それはいっけん学問的に厳密に見える。実際、ひとむかしまえの思想界では、作者性の解体がしきりと称揚されたりもした。けれども、それは本当に「厳密」なのか。ぼくたちは実際には、ある作品を見るとき、たとえそれが集団制作の結果だと知っていたとしても、つまりそこに単数の作者がいないことを知っていたとしても、それでも全体としてひとつの「作品」として、すなわち「だれかひとりの人間が統一的な意志をもってコントロールしているもの」として受け取ってしまっているのであり、だからこそ「作者からのメッセージ」を受け取ってしまったり、心を動かされたりしまっているのではないか。つまり、「作者」のフィクションを解体するとは、いっけん学問的に厳密に見えて、そのような原初的な作品受容の感覚から目を逸らすことでしかないのではないか。ぼくはそんなふうに考えています。したがって、ご質問にあるような、「監督や設計者など、一人の「作者」に帰さないような書き方」はできない、それは原理的に無理だというのが、ぼくの答えになります。ぼくたちは、「作者」のフィクションなしに作品について語ることができない。それは、作品が現実にどのように作られているかという問題とは、まったく別の次元で機能している幻想なのです。

長く書きすぎました。最後に触れておきますが、これはじつは哲学的にはとても大きな問題です。人間は、人格を想定することなしには世界を理解することができない。人間はあらゆるところに「その背後にある人格」を見出す動物で、だから作品にも作者を見出してしまう。その条件からは逃れられない。それがいまぼくが記していることですが、ぼくの考えでは、おそらくは人間が神や陰謀論を必要とするのもまさにこの理由によっています。ぼくたちはあらゆるところに作者を見出す。だから神も見出す。陰謀を見出す。そして神や陰謀の観念抜きでは、世界をどう理解していいのかわからなくなってしまうのです。(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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