愚かさの倫理学
来るべき日本論のために
まずはとても抽象的な話から始めることにする。興味のない方は次節から読み始めていただいてかまわない。
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人間は、人間性と動物性、賢さと愚かさの組み合わせでつくられている。少なくとも多くの人間はそう考えている。
その対立は、一般に、論理と感情、理性と本能、意識と無意識、前頭葉と大脳辺縁系などなどの対立と呼ばれる。専門分野によって命名は異なるし、それらが正確に重なりあうわけでもない。しかし、人間のなかに「社会性があり合理的だけれどどこか堅苦しく空々しい賢い心の動き」と「力強く活力に満ちているけれどあまりに生々しく一歩間違えれば危険もある愚かな心の動き」の二つがあり、両者がつねにぶつかりあっていることについては、学問の専門にかかわらず、また洋の東西を問わず、ほとんどの哲学者や思想家が同意すると思われる。
本稿では、この対立の前者を「人間性」「賢さ」、後者を「動物性」「愚かさ」と呼ぶことにする。
これは哲学の専門家には反発を買いそうな命名である。たとえばつぎのような反論が予想される。デカルトは動物は魂のない機械だと考えた。いわゆる動物機械論である。機械は論理的に動く。つまり、デカルトの哲学においては、動物性こそが論理的だということになっている。むしろ人間性(魂)は論理を超える。したがって、論理と感情の対立を人間と動物の対立に重ねることはできない。
しかしこの概念の配分には疑問がある。動物機械論は、形而上の魂と形而下の物質を切り離すことで生まれている。魂は論理と物理をともに超えるというわけだ。この切断は確かに発明で、のちの哲学に大きな影響を与えている。たとえば20世紀のハイデガーの哲学はその変奏だと言えるし、いまならば人工知能の意識獲得を否定する主張は多くがこのかたちをとる。しかし、すべての被造物のなかで人間だけに論理を超える能力があるというのはあからさまに宗教的な主張であり、政治的にも危険な発想のように思われる。ニーチェの超人思想がナチスに利用されたのはその一例である。それゆえぼくは、もっと素朴に、人間が人間たる所以は論理的な思考にあると定めたほうがよいと考える。
もうひとつ、そもそも人間は動物の一種なのだから、人間性と動物性は対立しないという反論も予想される。
あらかじめ認めておけば、こちらの反論はまったく正しい。生物学的に考えれば、論理的な判断も動物的な感情も、ともに進化の過程で獲得された脳の出力特性にすぎない。ニューラルネットワークは一種の計算機であり、感情はその出力なのだから、論理と感情が対立するかのように語ることそのものが無意味である。ぼくはその反論に完全に同意する。
にもかかわらず、ぼくが冒頭に記したような構図を立てたのは、人間がそれでもなお、その両者を対立していると感じているのは事実だと思うからである。人間の多くは人間と動物が異なると考えている。だから動物機械論が生まれたのだし、殺人は罪になるが動物を殺しても罪にならない。人間性と動物性が現実に、つまり自然科学的に対立するかどうかとは別に、人々がその両者を対立すると感じているという別の現実、つまり幻想が存在する。ぼくが関心があるのはその幻想の構造である。
いずれにせよ、ここで認めてもらいたいのは、人間の心や社会が、二つの力、合理的で言語的で「人間的」な賢い思考と非合理的で身体的で「動物的」な愚かな判断、魂の力と身体の欲望、精神の高貴さと物質の野蛮さ、なんと呼んでもよいが、そういった二つの異なった原理の衝突によってつくられている、少なくとも多くの人間はそう考えているということである。
それはこう言い換えてもいいかもしれない。人間はつねに道徳家と犯罪者に引き裂かれている。ひとにはだれにでも愚かな欲望がある。
というわけで、人間は人間性と動物性の組み合わせでつくられている。その前提から議論を始める。人間性は論理を使う。科学をつくり法をつくり道徳をつくる。動物性は感情を使う。芸術をつくり愛をつくり家族をつくる。けれど厄介なことに犯罪も生み出す。
ここで重要なのは、古来哲学者たちが、人間性によって動物性の暴走を抑えることばかり考えてきたことである。とくに西欧近代の哲学はそうだ。たとえば有名なカントが代表である。彼の『実践理性批判』を読めば、とにかくカントが、自分の行動をつねに普遍的な道徳原理に一致させること、裏返せば、自分固有の感情や欲望にけっして屈しないこと、それが正しいと強く信じていたことがわかる。
2026年10月24日刊行『ゲンロン19』

東浩紀





