記憶喪失にあらがって──『千年の愉楽』|松田樹


中上健次(1946-92)
撮影=編集部
家族から一族へ
1982年に刊行された中上健次『千年の愉楽』は、六作からなる連作短篇集である。いずれの収録作でも「路地」が舞台として設定され、産婆をつとめるオリュウノオバの視点から「中本の一統」と呼ばれる一族の短い生涯が描かれる。「路地」とは作家の故郷・和歌山県新宮市の被差別部落の別名であり、オリュウノオバやその夫の礼如さんもまた部落の古老をモデルにしていた。中上の作品世界は、ウィリアム・フォークナーが郷里を舞台に構築した「ヨクナパトーファ・サーガ」に準えて「紀州サーガ」と称される。紀伊半島の被差別地域を神話的な領域に高めた「紀州サーガ」の代名詞とされるのが、本作『千年の愉楽』である。
部落問題は、日本近代文学において「家」との関わりから捉えられてきた。例えば、島崎藤村『破戒』や住井すゑ『橋のない川』。そこでは被差別部落に生を受けたという逃れ難い宿命と個人の自我との葛藤が主題として展開され、主人公の成長や家族の盛衰が長篇小説の直線的な時間経過の下に描かれる。本作に先んじて展開されていた中上の「秋幸三部作」(『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』)は、そうした自然主義以来の家族小説の枠組みを継承している。実際、江藤淳は『破戒』を引き合いに出しながら、『枯木灘』によって「日本の自然主義文学は70年目に遂にその理想を実現した」と評していた。秋幸三部作では、主人公が抱える被差別部落の出自はあくまでも彼が属する家庭内の問題に留められていた。
対照的に、『千年の愉楽』では家族を超えた「一族」に焦点が当てられる。三部作の主人公として父母との間にオイディプス的な葛藤を背負わされていた秋幸も、本作では「路地」の青年の一人として相対化される(『枯木灘』の末尾でも「竹原でも、西村でもない、まして浜村秋幸ではない、路地の秋幸だった」とそれが予告されていた)。構成の面でも先行作との差異化は明らか。収録されているのは文庫版で50頁に満たない短篇ばかりであり、それぞれの篇の間にも時間的な連続性は存在しない。文字が読めず口承だけで構成されるオバの記憶は、巨大なデータベースとして「路地」に生きた人々を無時間的に浮かび上がらせる。さらに、従来の中上作品が短文で描写を重んじる自然主義リアリズムの範疇で展開されてきたのに対して、本作は複文を多用し話体に傾斜した文体で壮大なスケールの作品世界を形作る。『破戒』以来の地方の古風な被差別部落が題材として取り上げられているにもかかわらず、80年代という刊行当時の時代性を反映したポストモダンな「一族の想像力」を提示している点に、本作の特徴がある。
「路地」の世界とその文章
具体的に紹介しよう。各篇の主人公となる青年はみな「中本の高貴で穢れた血」を背負い、放蕩と夭折を宿命づけられている。巻頭作にて色事師の半蔵は城下町の女性に手を出したことが原因で命を落とし、次作の三好もヤクザや博奕打ちなどの職を転々としたあとヒロポン中毒で自殺する。南米に流れていった末に水銀を飲んだ若者もいれば、北海道の炭鉱で暴動を起こし行方をくらませた者もいる。彼らの言動の背景には、部落差別が横たわる。「まるでこの狭い城下町に出来たもう一つの国のように、他所との境界は仕切られて来た」。遊蕩に身を投じる者が多いのも、そこに生まれた者には職がなく、獣のなめし、木馬引き、博奕、盗人になるのが「男らの茶飯事」だからであった。
そうした状況下で中本の血を引く若衆は、性愛の繋がりや外地への移住など部落からの越境を強引に試みるも、差別の壁にぶつかり早逝してしまう。オバは彼らの惨めな人生を決してなかったことにはしない。文字に残らない一統の卑小な生は、あくまでも部落差別の歴史とともに伝承されねばならない。けれども、リアリズムの下に差別を克明に描き、その過酷さを言い募ることもしない。「ことごとくを肯う事なにもかもそれでよいと祝う事」。オバが試みるのは、「路地」に付与されてきた否定的な価値観を自身の記憶の内で肯定に転じてゆくことである。例えば、「六道の辻」という短篇で三好という青年は、城下町の人間から蔑まれ、何もかもが嫌になり、ヒロポン中毒で短い生涯を終える。その三好の悲惨な結末をオバは、こう美しく語り直す。
どいつもこいつも気が小さくしみったれて生きていると思い、体から炎を吹きあげ、燃え上るようにして生きていけないのなら、首をくくって死んだ方がましだとうそぶいた。
オリュウノオバはその三好の気持が分かりすぎるほど分かった。[……]
三好が死んだその日から雨が降りつづけた。
オリュウノオバはその雨が、中本の血に生れたこの世の者でない者が早死にして天にもどって一つこの世の罪を償い浄めてくれたしるしの甘露だと思い、有難い事だと何度も三好にむかって手をあわせた。
オバの記憶の内では、全てが対照的な性格で上書きされる。中本に伝わる穢れた血もそれゆえの差別も、高貴な罪を背負ったものに転じられる。右の箇所で三好がイメージする燃え上がる炎の比喩に「路地」に降る雨の下降運動が重ねられているように、その反転の力学は文章の水準にも徹底されている。「何をやってもよい、そこにおまえが在るだけでよいといつも思ったし、[……]注射針を体に射して、血管から逆流して注射器にまじる血を圧し返すように射つ三好を、親にもらった体に針など射してはいけないとも言わないし、血管は血の他に異物など入れるものではないとも言わない」。この入り組んだ奇妙な文章に注目しよう。オバは中本の若衆が向けられてきた規範(「いけない」)や賤視(「ではない」)を受け止めつつ、それを「とも言わない」と転倒させる。差別の実態をリアリズムによって写し取るのではなく、否定的な価値を引き受けてそれを反転させることで、「路地」の人々の生はあるがままに肯定されてゆくのである。
また、右に挙げた段落では「その三好の気持」「その日」「その雨」と指示語によって文が繋ぎ止められている。各篇の主人公の生涯は季節の循環とともにふとした形でオバの脳裏に喚起され、時間のまとまりを欠いた連想として提示される。それゆえ、「一族」に焦点が当てられているものの、登場人物をツリー状の系図にまとめ上げることは困難である。「路地」の範疇は時間的にも空間的にも留まるところを知らない。「オリュウノオバは時々、自分が万年も億年も生きてきたように思え、路地に息をし生きる者が生きつづけ増え続けてせきを切ったようにこの地上にこぼれ散らばって朝鮮にも中国にもアメリカにもブラジルにも増え続けるのを想い描いた」。ここでは『枯木灘』まで護持されてきた近代文学のリアリズムの規矩が、易々と乗り越えられているのだ。
記憶喪失にあらがって
このような中上作品の展開に、「歴史の終焉」というポストモダニズムへの接近を見るのが、柄谷行人である。柄谷によれば、70年代以降の日本の言説空間は何もかもが終わった、という虚脱感に囚われている(『終焉をめぐって』)。それを象徴するのが、1970年の三島由紀夫の作品と行動である。同年に完結した『豊饒の海』連作では明治・戦前・戦後と有徴の若者が転生を果たし、本多繁邦という認識者がその行末を眼差し続ける。連作の最終作『天人五衰』は「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」(傍点引用者、以下同様)と本多が抱く虚無の感覚によって結ばれ、物語は一夜の夢のように雲散霧消してしまう。さらに、そう記した当日、三島自身もまた自衛隊で割腹自殺を遂げ、現実と虚構の両面で、彼は大衆消費社会を迎えた日本がからっぽで時間性を欠いた空疎な世界であることを暴き立てる。
認識者と行為者の分裂、転生の主題とリアリズムの超克、時間の廃棄。『豊饒の海』に見られるこれらの要素が、大江健三郎(『万延元年のフットボール』)、村上春樹(『1973年のピンボール』)、中上健次(『千年の愉楽』)といった、70年代以降を代表する作家たちに分け持たれているのは、それぞれ三島が抱え込んだ何もかもが終わったという虚脱感に同じく取り憑かれているからである。こう述べる柄谷は、中上が『枯木灘』から『千年の愉楽』に方針転換していったことを、「歴史の終焉」という同時代日本のポストモダニズムへの迎合として批判的に捉えている。
しかし、中上自身の言によれば、『千年の愉楽』の世界は「三島由紀夫の美意識の世界と正反対の位置にある」(「毒虫ザムザ」)。三島が日本の近代史を忠実になぞりつつ、最終的にその物語を「記憶もなければ何もない」幻に帰すのに対して、中上は「おまえが在るだけでよい」と一統の生がありありと「在る」ことを肯定する。「オリュウノオバは[……]ありありと眼にみえ隈取り濃く立ち現われる現実が好きだった」。本作がリアリズムを超えた幻想譚として差し出されるのは、故郷が蒙ってきた差別の跡を雲散霧消させるためではない。むしろそれを通じて、「路地」に否定的な価値が与えられてきた事実を強く喚起させるためにある。三島との差異は、そこにある。
『豊饒の海』完結篇と同じ題名が付された「天人五衰」から、オバの語るところを引用しよう。
その政令が公布された時、口にしている当人らの誰も意味を分からずバンバイ、バンバイと両手を上げたと言った。明治初年、太政官の公布により穢多解放令が発せられたその時の事で、[……]男が庄屋の方から早足で駆けて来て、なにしろわれわれは今の業苦から解き放たれる、人の生命に生れて死ぬという宿命があり若さが一時の仮象のように老いがおとずれ体が衰え痛みつづけるように業苦としてあったものが公布を境に消えてなくなると早口でまくしたて、バンバイと声をあげる姿がみえた。それも新時代だった。
明治初年の穢多解放令は、「路地」を現世から抹消させるはずであった。だが、その後生じたのは解放令反対一揆であり、近代化の過程で賤視が止むことはなかった。「政令」が「人の生命に生れて死ぬという宿命」からの解脱として捉えられている通り、オバにとって一統を美しく追悼し語り直すことは、かつて果たされなかった「穢多解放」を実現することに他ならない。
翻って、「路地」では現在あいまいに解放が進みつつある。「いまは若衆らは何のとがめを受けず加わり、松明を持って神倉山の神体から競って駆け下りているし神社の神輿を肩にかつぎ御舟漕ぎに加わって裸を町衆の眼にさらしている。/それがよい徴候なのかどうか分からない」。そこに生まれたからといってもはや町の人々から排除されることはなく、排除されてきたという歴史さえ希薄化し始めている。三島のように現実を虚無に帰してしまう以前に、「記憶もなければ何もない」という記憶喪失がこの地を覆い尽くしているのだ。実際、作家の郷里でも69年に制定された同和対策事業特別措置法を受けて、舞台となった被差別部落はすでに解体されていた。本作の発表時期には、それは市の中心に聳え立つデパートと集合住宅に様変わりしつつあった。だからこそ、オバは時代錯誤であることを知りながら、部落差別もそれを反転させた「路地」も「在る」と言い張り続けることで、記憶喪失にあらがって現状とは別の仕方での「解放」を模索するのである。たとえそれが何度目かの、徒労のような反復に見えたとしても。
愉楽と重力
何もかもが終わった、記憶喪失の中から始めること。『岬』で芥川賞を受賞した直後の中上は、奇妙な形で作品世界の構築の意気込みを語っていた。『枯木灘』以降のサーガを予告する発言である。紀州の方言には「いる」という動詞がなく、「なんだ、そこに、いたのか」を「なんな、そこに、あったんか」と言う。だから、「紀州というその風土に生れた小説家としてのぼくは[……]人がいるのではなく、在る、在ってしまう世界を書こうとしている」(「紀州弁」)、と。
三島以後に登場した中上にとって、全てが虚無のように思われる「歴史の終焉」とは初めから自明であった。戦後日本では差別の歴史も土地の固有性も、何もかもが不可逆に払底してゆく。その記憶喪失の中で、あえて出自と風土に拘束された世界を構築すること。そこで歴史を再演させ、現状とは違う形であり得たかもしれない可能性を模索すること。『枯木灘』を自然主義リアリズムとする江藤にせよ、『千年の愉楽』を無時間的なファンタジーとする柄谷にせよ、「紀州サーガ」が存在しない過去を在らしめようとする時代錯誤で成立していることを見落としている。
なかったことにするのは簡単だ。現状のまま、記憶喪失に任せておけば良いのだから。被差別部落が平準化に向かうことは、戦後日本の既定路線であった。が、過ぎ去ったものを在らしめ、そこから現状とは別の可能性を取り出すことは難しい。過去に固執し続ける反動にも見紛う態度だから。
本作の続篇である『重力の都』の「あとがき」では、その困難が「物語という重力の愉楽」という矛盾した言葉で綴られている。焼け野原のような現状から逃れて、往時の豊かな生を追悼する物語の愉楽。過ぎ去ったものに拘束され、自由で軽やかな動きが封じられてしまう物語の重力。今を生きる私たちにとって、過去を語ることはいつも愉楽であり、重力である。中上健次を読むことは、そんな矛盾の中に身を浸すところから、始まる。
本文中の引用は河出文庫『千年の愉楽』(1992年)による。


松田樹



