インドへの愛の祈り──『真夜中の子供たち』|小沢自然


サルマン・ラシュディ Salman Rushdie(1947-)
引用元=https://en.wikipedia.org/wiki/File:MidnightsChildren.jpg
インドの独立と子供たち
長らくイギリスの植民地支配下にあったインドが、独立を達成するまでに歩まなければならなかった困難な道のりと、その後に経験した出来事の数々。作者サルマン・ラシュディの代表作である『真夜中の子供たち』は、20世紀インドの激動の歴史を、主人公サリーム・シナイの家族史と重ねあわせながら描き出していく。この作品の読みどころのひとつは、人々がときには命を賭けるまでに熱く夢見た国家の独立が、より良い社会をそれほど実現できなかったのはなぜなのかという、インドのみならず、20世紀後半の世界の多くの地域にも共通する問題を、豊かな想像力によって構築された、型破りでかつ魅力的な物語を通じて考察していることにある。
1947年8月15日の真夜中、インド独立のまさにその瞬間に生まれたサリームは、この歴史的な偶然ゆえに、「輝かしい時の幸せな子」として新聞に大きな顔写真が掲載され、「貴君は年老いた、しかし永遠に若くあり続けるインドという国を担ういちばん新しい顔なのです」と、時の首相ネルーにまでその誕生を祝福される。サリームはこうしたお祝いムードに影響されすぎたのか、自分の人生は祖国の歴史と表裏一体の関係にあり、インドの国家的な事件の多くに深く関わっているのだと、実に饒舌な語り口で主張し続ける。ときにはこじつけとしか聞こえないレトリックに訴えてまで、自分史と歴史のつじつまをどうにか合わせようとするサリームの努力は、どこか大げさで微笑を誘う。
しかし、サリームの誇大妄想と紙一重の信念にまったく根拠がないわけでもない。というのも物語のなかでは、インド独立の真夜中から1時間以内に生まれた子供たち1001人は、それぞれ独自の超能力を持っており、しかも出生の時間が独立の瞬間に近ければ近いほど、その能力も高まることになっているからだ。彼らの超能力は、「これまで見たこともなかったような未来の種」、つまり、独立を遂げた新生インドの希望と可能性を文字どおり体現している。他人の心を覗き見ることができるだけでなく、ほかの真夜中の子供たちとテレパシーで交信し、彼らを結びつけることもできるサリームは、「真夜中の子供たち会議」を頭のなかで主宰し、自分たちの能力の意味と目的を模索しはじめる。
一族とインドの多元性
サリームの自己探求に深く関わってくるのが、エスニシティ、宗教、カースト、どれをとっても実に多様な要素をあわせ持つインド独特の文化的状況だ。物語は、ドイツでの医者修業を終えて故郷カシミールに戻ってきた、サリームの「祖父」アーダム・アジズが、海外経験の衝撃もあってかイスラム教の信仰を突然喪失し、そのために生じた心の空白を埋めようとするかのように、盲目的に恋に落ちるところから始まる。しかし、実はサリームは、下層階級に属するインド人のしがない一歌手の妻と、インド在住イギリス人のあいだに生まれた不義の子であり、産院で看護婦に別の赤ん坊とこっそり取り換えられたこと、したがって、彼がそれまで長々と説明してきた「一族」とは血のつながりはまったくないことが、やがて明かされる。しかし、この事実が明るみに出たときでさえ、家族の絆はそれほど揺らがない。この小説のなかでは、サリームの出自、そして血縁という人間関係のもっとも基本的な単位さえもが、さまざまな要素を吸収しながらもその独自性を保ってきた、インド文化のありようを反映している。
サリームは「真夜中の子供たち会議」を通じて、こうした文化多元的なインドのさらなる発展にどうにか寄与しようとする。しかし、彼の理想は高邁であるとはいえ曖昧で、具体的な成果をまったく生み出さない。そもそも真夜中の子供たちは、その超能力にもかかわらず、大人たちの偏見を無批判に吸収したり、ごくありふれた些細な悩みに苛まれたりと、平々凡々とした存在でしかないのだ。おまけに、独立の高揚感に影響されすぎたためかあまりにも楽天的で、暴力や権力腐敗といった、新生インドが生み出した負の側面に無自覚なまま育ってしまう。主人公本人もそうした欠点から自由ではない。サリームは、会議における自らの中心的な地位とシナイ家における居場所を守ろうとするあまり、誕生時に自分と取り換えられたためにスラム街で育つことを余儀なくされた、真夜中の子供たちの一人で最大のライバルでもあるシヴァ──ヒンドゥー教の破壊神と同じ名前を持つ彼は、サリームと同じく独立の瞬間に生まれており、強力な腕力ならぬ「膝力」がその超能力だ──を会議から追放してしまう。こうしてサリームは、己の高い理想と比べるとあまりに卑小な欲望に負け、多元的・民主的なインドというヴィジョンを自ら裏切ってしまう。
とはいえ物語は、サリームをはじめとする真夜中の子供たちの欠点を声高に批判しているわけではなさそうだ。「私のなかでは何もかもごたまぜになっており、意識の白い斑点が元気のいい蚤よろしく、いろいろなものの上をぴょんぴょん飛び回っている」、サリームは自分をそのように形容し、同じように内面が混沌としている人のほうが好きだと断言する。ひとりの人間の内心さえ程度の差こそあれ雑然としているのだから、実に多種多様な価値観を持つ人間で溢れている社会にあっては、合意の形成は至難の業だ。特別な能力を持っているとはいえ、真夜中の子供たちが目ぼしい結果をひとつも出せないのは、むしろ当然のこととも言える。ここには、作者ラシュディ自身の大らかな人間観を垣間見ることができるだろう。
政治への批判
だとすれば、社会・人間の多様性を許容しない、広い意味での政治的な暴力に、この作家がとても敏感であることにも納得がいく。ラシュディが四作目にあたる『悪魔の詩』(1988年)において、コーランの正統派的な教義にあえて挑戦したのも、同じような信条に基づいてのことだろう。その結果、冒涜のかどで世界各地のムスリムの激しい怒りを買い、長年の潜伏生活を余儀なくされるのみならず、いくつかの国で死者を出すまでの大騒動となり、その余波は、2022年夏に起こった、彼を狙った衝撃的な殺人未遂事件にまで及ぶことになろうとは、まったく予期できなかったにせよ……。
『真夜中の子供たち』が文化的異種混淆性の擁護という観点から特に問題視するのは、インドが1975年から77年にかけて経験した国家非常事態だ。時の首相インディラ・ガンディーは、選挙での不正を告発されて裁判で有罪判決を受けたことで、失職の危機に直面する。しかしガンディーは、辞任を拒否するどころか国家非常事態を宣言し、超法規的な手段に訴えて対抗勢力と批判の声を徹底的に抑圧したのだった。ラシュディは、民主的なインドの実現という、独立以来どうにか命脈を保っていた建国の理想に対する決定的な背信として、この事件を描き出す。そのために彼は、ガンディーの真の目的は、新生インドの可能性を体現していた真夜中の子供たちを完全に粉砕し、「インディアはインディラ、インディラはインディア」というスローガンに凝縮されている、インドの唯一無二の象徴としての自らの地位を確保することだった、という設定を準備する。捕らえられた真夜中の子供たちは、ひとり残らずその睾丸や子宮を強制的に摘出され──これは、この時期に実際に行われた、人口増加を抑制するための断種キャンペーンを踏まえている──残酷にも生殖能力を奪われてしまう。しかし、非常事態下で本当に奪われたのは希望だったのだと、サリームは彼にしては静かな口調で言う。その哀感に満ちた述懐からは、政治の横暴に対するラシュディの深い怒りと嘆きがひしひしと伝わってくる。
だがこの物語の奥深さは、あるとんでもない政治家が、権力を濫用して国を大きな混乱に陥れただけの事件として、非常事態を片づけていないところにある。というのも、スラム街に身を潜めていたサリームを逮捕しに来るのは、その頃までに強い「膝力」に物を言わせて高位の軍人に成り上がっていた、彼の仇敵であるシヴァだからだ。さらに、シヴァが仲間の真夜中の子供たちを裏切って体制側についた遠因は、サリームが自分のささやかな権力欲ゆえに、かつて彼を会議から追放してしまったことにもある。少なくともこの点では、インドの主要な歴史的事件は自分が引き起こしたのだという、サリームの疑わしい主張は間違っていない。かくして奇想天外なこの物語は、社会のあり方や歴史に対する個人の責任という、倫理の根本に関わるきわめて重要な問題を、いつのまにか真摯に提起しているのだ。
非常事態のトラウマを越えて
このように個人が社会に及ぼす可能性を信じているからこそ、真夜中の子供たちを襲う運命がどれほど過酷なものであれ、物語はインドの将来を悲観視してはいない。サリームは、非常事態が敷かれた瞬間に誕生した自分の「息子」アーダム──実は彼は、真夜中の子供たちの一人である、サリームの「妻」パールヴァティと、シヴァのあいだにできた子供である──とシヴァのほかの私生児からなる、真夜中の子供たちの第二世代に希望を託す。政治の暗黒期に生を受けたために、親の世代の過度な楽観主義とは無縁のアーダムたちは、自己の信条を貫徹するだけの強靭な意志を持っており、非常事態後のインドを建て直すのにより適任だからだ。また、誕生の瞬間の偶然や息子ではない息子といった、くりかえし現われるいくつかのモチーフは、ダイナミックに反復する歴史の力を想起させもする。この物語の描くインドは、非常事態のトラウマに打ちひしがれることなく、新しい社会を築き続けるエネルギーに溢れているのだ。
作品の発表から40年以上が過ぎた今日、残念ながら、インドではヒンドゥー原理主義が幅を利かせ、世界全体も、他者の尊重という概念などまったく念頭にないのであろう、独善的・独裁的な政治家たちに翻弄され続けている。しかし、あまりに憂鬱でニュースに目を向けることさえ嫌になるときには、「自分の時代の主人でもあり同時に犠牲者でもあること」は「真夜中の子供たちの特権でもあり呪いでもある」のだという、物語を締めくくるサリームの言葉を、自戒のためにも思い出したい。真夜中の子供たちの特権=呪いとは、誕生したのがいつであろうが、持っている(超)能力がどのようなものであろうが、私たち一人ひとりのものでもあるのだから。そのことを再認識させてくれる点で、物語中でピクルスにたとえられている、サリームが語る歴史は、風味がいささか強烈すぎると感じられるところがあったとしても、まぎれもなく「本物の真理の味」がする。だからこそ、すでにイギリスの市民権を獲得していたラシュディの、故郷インドに対する想いの結晶として当初は世に出たこの物語は、いまやその文化的・歴史的な個別性を超えて、現代の世界全体に対する「愛の祈り」としても読める。『真夜中の子供たち』は、20世紀世界文学の傑作と呼ばれるのに十分ふさわしい。
本文中の引用は岩波文庫『真夜中の子供たち 上・下』(2020年)による


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