戦争の想起と灰色のリアリズム──『ブリキの太鼓』|依岡隆児


ギュンター・グラス Günter Grass(1927-2015)
引用元=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Die_Blechtrommel_earliest_edition_german.jpg
オスカルと戦争の叙述
ギュンター・グラスの小説『ブリキの太鼓』(1959年)は、おもちゃの太鼓を叩き、大人世界に反抗する子どもの物語、そんなイメージが映画のおかげか、日本でもすっかり定着している。数奇な運命をたどる子どものオスカルを経糸に、ドイツの近過去を、戦前、戦中、戦後と三部に分けて語る長編小説。ところが、語り手オスカルは子どもではない。30歳の精神病院患者オスカルだ。さらには、看護人との対話という枠まで設定して、語りの真実性に幾重も留保を付けている。戦争を叙事的に語るというありがちな物語の枠を越えて歴史を語る叙述スタイルこそ、斬新だったのである。ピカレスクロマンの継承者とされ、不条理文学の影響を受けカミュ信奉者だったグラスが、ここでは集合的記憶や通俗的な歴史観、道徳観に反抗する、想起という語りを太鼓のビートに乗せて繰り出してくる。現代の読者は、その饒舌な語りにさらされ、ときに猥雑で奇想天外なイメージに翻弄され、ときに想起の苦さを味わわされるに違いない。
第一次世界大戦後、国際連盟管轄下に置かれ、ドイツとポーランドに挟まれながらもいずれにも属していなかったダンツィヒ。その雑貨商の家に生まれたオスカルは、3歳になったらブリキの太鼓を贈るという母の言葉を頼りに生きることを決意するも、事故に見せかけて地下室の階段を転げ落ちることで成長を止める。普通の人より下からの視点で、小市民たちがいつしかナチスに取りこまれていくさまを見ながら生きていく。おもちゃの太鼓を叩きながら、外の世界からの干渉には、ガラスを割ることのできる声で抵抗する。母はいとこのヤンと不倫関係にあり、父は日曜日になるとナチスの示威集会に参加する。やがて、母は自らの関係を清算するかのように死を選ぶ。ダンツィヒの町でも「水晶の夜」が勃発し、ユダヤ人迫害が本格化、オスカルの友人でユダヤ人のおもちゃ屋マルクスも、服毒自殺を遂げる。
ナチスドイツによるダンツィヒのポーランド郵便局襲撃から、第二次世界大戦は始まった。この郵便局の局員だったヤンが戦闘で命を落としたのは、オスカルにここへ連れ戻されたためだった。その後も、オスカルは次々と罪に加担していく。父は再婚、オスカルはリリパット団に入って声でガラスを割る芸当を見せる太鼓叩きとしてヨーロッパ中を慰問に出かけていった。帰郷してみると、やがてダンツィヒにソ連軍が侵攻してきて、父はオスカルから手渡されたナチス党章を呑みこんだまま殺害される。戦後はダンツィヒがグダニスクと名前を変え、東側のポーランドに編入されたことで、義母と異母弟とともに東方難民として西側に移り、闇市の仕事や石工で生活するが、そのうちに太鼓叩きの興行で成功する。そんなある日、看護師殺人の容疑者として逮捕されてしまう。今は保護観察で精神病院に入れられていて、30歳になったオスカルが自らの半生を語っている。
大きな歴史と小さな物語
このような作品だが、むろんオスカルはグラスではない。自らの出自と育った環境を同じくするオスカルを、時代を透視する文学装置として作り出したが、グラス当人は1927年生まれだ。微妙な世代で、終戦時に17歳である。そこで『ブリキの太鼓』ではオスカルを自分より3歳年上にし、戦時中に大人(20歳)となるように設定したのだ。一方、グラス本人は軍国少年で少年兵として前線に送られ負傷するという、いわゆる懐疑世代の一人だった。
とはいえ、この作品にはやはり、作者自身の記憶がふんだんに盛り込まれている。グラスは故郷喪失者だった。多民族が共存するかつてのハンザ同盟都市、ダンツィヒに生まれた彼は、敗戦によって、この故郷を失い、一家は東方難民として西側に移住していったのだ。後年、「文学の前提としての喪失」として、この「喪失」を文学的創作活動の原動力にしていったと述べている。この小説でも、記憶の中にあるエピソードを細部にわたって語るなかで、当時の人々や町がたち現れてくる。ストーリーはヒストリーを語り直す。ドイツ語でGeschichteは「歴史」であるとともに「物語」という意味である。ここでも、大きな歴史に対して、失われた故郷が小さな物語として想起されているのだ。
さらに、グラスがダンツィヒでドイツ人の父とスラブ系少数民族(カシューブ人)出身の母のもとに生まれたことと関連して、『ブリキの太鼓』には多くのマイノリティが出てくる。ユダヤ人だけではない、少数民族の人、町の奇人、侏儒たち、戦争で家族を亡くし、故郷を失った人々、移民たち、ロマたち、そしてオスカルが登場する。なかでもカシューブ人のオスカルの祖母は、そのまなざしによって20世紀前半の激動の時代を映す定点となっていた。いつの時代も上から小突き回されながら生きてきた人の、歴史を透視する視点が、物語に大きなスケールを与えているのだ。グラスはここで、ナチ的民族主義の、ドイツかポーランドかといった二者択一的見方に対して、多民族的だった一族や町を想像しながら、歴史を語っているのである。
下からのまなざしと歴史の語り直し
その後、アンガージュマンの作家として、西ドイツの政権交代に寄与し、反核平和運動やドイツ再統一問題にも積極的に発言するようになった。そんな時代の中で生きていく作家グラスは、講演「文学と歴史」でこう述べている、「文学の時代証人性はより深い理由がある。文学は敗者たちに言葉をもたらします。歴史は作らないが、それでも歴史と分かちがたく直面してきた人々のためにあるのです」と。歴史の中で、たしかにそれに関わっているにもかかわらず、支配的立場から不当に無視されてきた人々を掬い上げ「時代証人」にして、歴史を見るのが文学だという。ナチスが自らの目標を達成するために、社会的マイノリティに攻撃の矛先を向けたように、異質なものへの感受性をなくし、一つの解釈に安住するとき、人々はたやすくマイノリティを差別し迫害し始める。それに対して、作家は同時代人として、歴史を上から俯瞰するのではなく、下からのまなざしで歴史を語り直すのである。
3歳で成長を止めたオスカルも、下からの視点を持つ。子どものテーブルの端から見上げる視点で大人の世界を見ている。この「機動性と距離」(グラス「『ブリキの太鼓』回顧 信用できない証人としての作者」)をもたらす設定のユニークさが、小説の成功の一因だ。日曜日のナチスの催しに出かける無数の名も知れぬ小市民たちの存在抜きに、ナチスの台頭は考えられない。にもかかわらず、敗戦後、人々はナチスに騙されたかのように振舞った。それに対し、オスカルはナチスの幹部が演説する演壇の下に潜り込み普通の大人より低い視点からこの時代を見る。これが作品に批判性をもたらす。下から見るまなざしが、制服を着て出かける日曜日の催しの退屈から、ユダヤ人商店を焼き打ちする「水晶の夜」の野蛮な破壊行為につながるさまを映しだしてみせたのである。
悪の単純化と灰色のリアリズム
しかし、先にピカレスクロマンを継承していると言ったが、一つの文体に安住しない『ブリキの太鼓』はその枠組みすら破っていく。ピカロ(悪漢)も語り直されていくのだ。戦後、オスカルが成長を再開するとともに物語は寸断され、後半になるに従って内向していく。単に当時の無垢を装う小市民を一方的に批判するというより、なによりオスカル自身が罪を自覚する存在だったのだ。特に第3部では、内省的になったオスカルが自らを疑い、犯した罪を告白しようとするうちに、物語世界は「灰色」のトーンに変じていく。物語が反復され、切れの悪い語りが読者をいらだたせるかもしれない。なるほど、作家で評論家のエンツェンスベルガーは戦後を描く第3部を余計だと述べていたし、シュレンドルフが監督した映画も第2部までしか扱わなかった。しかし、この第3部は切り落とすべきではない。
「玉ねぎの皮むき」は、日本風に言えば、ラッキョウの皮むき。むいてもむいても、皮が出てくる。『玉ねぎの皮をむきながら』(2006年)という自伝的小説を書いたギュンター・グラスは、すでに『ブリキの太鼓』第3部の「玉ねぎ地下酒場」という章で、玉ねぎを登場させていた。この酒場では、客たちに過去を思い出させるためにナイフで皮を刻ませ涙を流させる。むいてもむいてもその奥にまた新しい皮が現れる。記憶は客観的には取り出せず、想起という物語(皮むき)によって初めて表象される、という記憶と想起のメタファだ。だが、想起には罪をごまかす嘘も自己美化も混ざってしまう。その都度、語り直しが必要とされる。『ブリキの太鼓』の後半では、そんな語り手によって物語が語り直されているのだ。
この小説が執筆された1950年代では復古主義的な風潮の中、一般の市民がナチスを単純に悪として切り捨ててしまい、自分たちの加害者性を見なくなっていた。
きみは尖った鉛筆で
花嫁や雪に陰をつけよ、
きみは灰色を愛し、
曇空の下にいたまえ。
と、グラスは「アスケーゼ(禁欲)」という詩で歌った。『ブリキの太鼓』が出た頃、この若き詩人は戦争を過去のものにし、再出発を図ろうとする風潮になじめず、灰色を愛せよと、自らに言い聞かせるように歌っていた。そうした時代の風潮への違和感が、現実を決して二項対立で割り切って見ないという現実認識へとグラスを導いていった。自らもナチスの思想にかぶれ、少年だったとはいえ戦争に加担したことを反省し、戦後、人間存在自体の矛盾し、多義的であるありようを囚われなく表現しようとするようになったのである。したがって、この「灰色」への信奉は、作品を曖昧で晦渋なものにするというより、むしろグラスなりに現実をリアルに見ようとする態度から生じたと言うべきだろう。
同じダンツィヒを舞台にした小説、『犬の年』(1963年)にもこの「灰色」の表現は出てくる。「なにものも純粋ではない」という作中詩で、ダンツィヒ郊外に突如できた白い山のことが語られる。柵の向こうにどんどん大きくなるその山は、遠目には純白だ。しかし、それはここにあった強制収容所で殺害された無数のユダヤ人たちの骨だった。よく見れば灰色だ。町の人々は見ようと思えば見えたはずなのに、それを「純白」としか見ようとしなかったのだ。
二項対立から抜け出すために
このように、ユダヤ人大虐殺という史上類を見ない惨事を経た戦後のドイツで、アドルノの「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮だ」という命題に対して、グラスは「アウシュヴィッツ」をふまえて書き続け、「灰色」を愛する作家たろうとしたのである。政治においても、グラスはすぐ白黒をつけたがる革命主義ではなく、現実主義的な漸次的改革主義の立場をとる。イデオロギー的に見られがちなグラスだが、支持する社会民主党に対してすら批判的に向き合った。実際、党がドイツ再統一後の庇護権申請者の規制に舵を切ったときには、脱党している。
想起という語り直し、「灰色」のリアリズム、下から見る視点、故郷喪失の文学的想像力、歴史の影の直視という特質は、『ブリキの太鼓』に「歴史の忘れられた側面」(ノーベル賞授与理由)を描くことを可能にした。それとともに、そうした文学的特質が、先鋭化する核問題、ヨーロッパ中心主義とその帰結である第三世界問題、環境問題、さらには新憲法制定抜きのドイツ再統一とその後の外国人排斥に対して、グラスに声をあげさせたのだが、こうした作家の原点が他ならぬ『ブリキの太鼓』だったのだ。硬直した二項対立思考に陥ってしまい、互いに無謬性を主張し合ううちに現実を見失いつつある現代でこそ、読む価値がある作品ではないだろうか。


依岡隆児



