言語の歴史を継承した想像ファンタジーの世界文化遺産──『指輪物語』|伊藤尽


J・R・R・トールキン J. R. R. Tolkien(1892-1973)
引用元=https://en.wikipedia.org/wiki/File:First_Single_Volume_Edition_of_The_Lord_of_the_Rings.gif
文学的空想の潮流を眺めると、20世紀は科学が人間社会にもたらす恩恵や問題をテーマにした空想科学小説隆盛の時代であり、一方21世紀はファンタジーの世紀と呼べるのではないだろうか。そうだとすれば、その潮流をもたらした作品こそ『指輪物語』である。この作品は、作品の内的世界で語り手が提示する登場人物ひとりひとりの個を超えた「一族」の想像力を読者に示しつつ、外的世界では作者個人の想像力を超えた、言わばイングランドに住んだ民族の想像力の表象となっている。
作品背景
20世紀半ばに出版された『指輪物語』は、本来は、トールキンがその17年前に執筆した児童文学『ホビットの冒険』(1937年)の続編として依頼された。だが、不動の大作(邦訳最新版(2022─23年)では文庫サイズの全7巻)となったこの作品に、出版当初、多くの「文学的権威」から罵倒が寄せられた。その後、『指輪物語』は今で言うファンタジー・オタクを生み、別世界に生きることを夢見る若者を急増させ、社会現象となった。それに対して、ファンタジー文学というジャンル自体を危険視し、理解不能な一時的ブームと蔑視する向きもあった。
しかし、世間の読書愛好家は『指輪物語』を支持し、20世紀を代表する作品を選ぶ様々なアンケート結果で一位を獲得した。文学研究者たちはその結果に衝撃を受ける。「現実を直視しない」文学研究者たちの怨嗟は、『指輪物語』への非難の声となっていった。
ホビットの物語のプロット
『指輪物語』の冒頭は「ホビット族」に関する衒学的な論文で始まる。初読者はここを飛ばすか、前日譚の『ホビットの冒険』を読むことをお勧めする。早速、第一章「待ちに待った誕生祝い」に入ると、わたしたちは村の居酒屋で酒を飲みながら噂話に興じる男衆の会話を目にする。
この酒場、英語でいうパブリック・ハウスすなわちパブは、村社会の交流の場である。日本でも井戸端会議が女性達の間で見られたように、閉ざされた社会の小さなコミュニティにはこのような場が必要なのだ。イギリスの中産階級ならば、18世紀にはコーヒー・ハウス、19世紀にはティー・テーブルでの会話がそれにあたるだろう。『指輪物語』冒頭で交わされる村の男衆の遣り取りは、言うなれば、イングランド人ならば誰でも毎日交わすような会話だ。噂では、前日譚の主人公ビルボ・バギンズが、親戚でみなしごになったフロドを養子にしたという。ビルボは『ホビットの冒険』では巨万の富を得たという噂の的なのだ。
ホビット族はトールキンの想像力から生まれた生き物で、人間の半分の身長を持ち、足の裏が靴の革底のように厚く、足の甲に毛が生えているが、やはり人間のような存在だ。「ホビット」という種族名は、実際に現代英語に伝承される超自然の生き物の名前のひとつだが、そこにトールキンは新たな語源を仮定した。「穴に住む者」という意味を持つ古英語「ホル=ビュトラ(hol-bytla)」である。つまりトールキンは「ホビット」という英単語に文献学的仮説を提唱したのである。現代英語話者にとって語源が不明な語彙を巡る想像力。後述するように、『指輪物語』にはその想像力が満ちている。
『指輪物語』のプロットに話を戻そう。主人公フロドはホビット族で、111歳の誕生日祝いで姿を消したビルボの跡を継いで、ビルボが前日譚で描かれる冒険のなかで手に入れた指輪の所持者となる。ビルボを先の冒険に促した魔法使ガンダルフは、指輪を手にしたフロドに旅立つように勧める。出立後、故郷の外れの村で馳夫と呼ばれる人間が登場し、彼と行動を共にしてエルフの里である裂け谷へと向かう。そこでエルフ、ドワーフ、人間、ホビットの四種族の生き物の会議が行われ、指輪のいきさつが明らかになる。ビルボの指輪は、かつて世界を滅ぼしかけた冥王サウロンが作った力の指輪のひとつ、「一つの指輪」だったのだ。サウロンは力の指輪をエルフやドワーフ、人間の権力者に配った。一つの指輪は、これらすべての力の指輪を支配することができる。言わば、全世界を支配する力を持った指輪である。『指輪物語』は、この一つの指輪を廃棄し、世界を守るために火山の火口の中に捨てに行く、フロドと仲間たちの冒険の旅とその結末を描いている。
作品の内的世界の想像力──探求の旅
ヨーロッパ中世の「聖杯伝説」では、騎士が「探求の旅」に出て、神から賜った秘宝「聖杯」を得ることが、文字通りの探求の目的だ。しかし、リーズ大学やオクスフォード大学で中世英語文献学を研究し、教えたトールキンは、敢えてその伝統を現代的な視点から逆転させた。この物語の「探求の旅」に出るのは、英雄的な騎士ではなく、力の無い、身体の小さなホビット族の50歳を迎えたフロド・バギンズ──いわば壮年の徒である。フロドと旅を共にするのは、ふたりの人間、ドワーフ、エルフ、魔法使がそれぞれひとりずつに、道連れとなるホビットもフロドより14歳若いメリーと22歳若いピピンというふたりの従弟と、13歳若い庭師のサムである。人間ふたりも血気盛んな10代の若者ではない。おじさんたちの勢揃いだが、この物語の読者の(精神)年齢をあげる理由になろうはずもなく、この物語は文字通り世界中の老若男女のファンを持つ。
『指輪物語』の旅の最も注目すべき特徴は、中世の伝統的な「探求の旅」とは目的が正反対であることだ。大きな力を持つアイテムを得る探求ではなく、逆に大きな力を持つ指輪を、放棄し、捨て去り、無に帰すことが目的なのだ。
大きな力を揮えるならば、大望を達成できると考えるのが「普通の」人間だ。だとすれば、この物語は普通の人間の人生観を根本的に塗り替える。しかも、この探求をさらに困難なものとする要因も存在する。この大きな力を持つ指輪の製作者は、この指輪を我がものとして取り戻したいと望んでいるのである。ならば指輪を棄却しようとする試みは、大いなる力を持つ者に抗い、刃向かうものとなる。にも拘わらず、この指輪を無に帰すことができるのは、その敵の国のただ中にある火山──その名も意味深い「滅びの山」──の火口の底の灼熱の溶岩だけなのだ。敵のお膝元に向かわねばならないのに、その探求の荷を担うのは飽くまでも非力な主人公だ。そんな使命の達成は不可能だし、絶望的で愚かな試みではないか? そのような疑念に対し、賢者である魔法使ガンダルフは次のように答える。
絶望ではない。絶望とは、疑いようもない破局を見る者だけにある言葉じゃ。わしらはちがう。ほかのあらゆる方法を考慮に入れた後、それしか已むを得ぬとすることは、偽りの望みに固執する者にはたとえ愚挙と見えようとも、これは叡智のなすところじゃ。よいとも、愚挙という衣に身を包もうではないか。われらの敵[……]の知る唯一のものさしは欲望、権力への渇望であり、すべての心をそのように判断しておる。かれの心には、権力を拒む者があろうとは、また指輪を持ちながらこちらがそれを破壊しようとでるなどとは、思いもよらぬことであろう。
ここでわたしたちは二つの重要なメッセージを伝えられている。ひとつは「偽りの望み」について。この物語で語られる例で言えば、大いなる力を持つ「武器」を手に入れたのであるから、それを揮って敵を打ち倒せばよい、というものだ。しかし賢者たちは言う。それは問題の解決にはなり得ない、と。表面上、それが最善の策であるという短絡的な判断は、第二のメッセージと結びつくとき、その浅慮のほどが見えてくる。
第二のメッセージは、「われらの敵」とは、欲望と権力への渇望をものさしとするものだ、ということである。そのような「存在」は実のところ人の姿を持ってはいない。それは価値観であり、ものの見方、概念であり、人の心に棲む「魔王」「悪魔」としての誘惑そのものなのである。「力の指輪」とは、その意味で、重要な象徴なのだ。
したがって、もし第一のメッセージを無視するならば、何者であれ、「一つの指輪」を持つものは、始まりはどれほど善意を抱こうと、その力の前にやがて独善を振りまくようになり、権力欲に冒され、他を隷従させ、遂には破壊と破滅をもたらす、と。
破滅を避けるための手段であるはずの探求の旅の有効性を多くの者は疑う。成功させるための努力を嘲り、苦難に対して絶望を提示し、忍耐を無駄だとする。しかし、その嘲りや絶望、無駄だとする価値観こそが実のところ、探求の旅によって乗り越えるべき障碍なのである。私たちは、登場人物の冒険を読みながら、彼等が何を乗り越えようとしているのかを、その旅の一歩一歩とともに味わうことになる。これが『指輪物語』の示す内的想像力だ。
英語文献学的仮説──外的民族的想像力
オクスフォード大学は1930年代、英語に関する教授職を、ペンブルック学寮所属のローリンソン=ボズワース記念古英語文献学、マートン学寮所属の英語英文学、英文学の三つの席しか持っていなかった。しかるにトールキンはそのうちの古英語文献学教授職と、マートン英語英文学教授職の二つを歴任した唯一の人物である。英語という言語に関してオクスフォード大学史上希有な存在であり、同時に英国においても並ぶ者のない天才的な存在だと言える。しかし、トールキンの文学的想像力は発想の飛躍を可能にしただけでなく、学術的には証明不可能だと思われるような大胆な仮説を生み出す独特の視点をもたらした。余りにも飛び抜けた着想は、天才という存在の証明とも言えようが、トールキンは学術論文としては証明の困難な発想を『指輪物語』の中に刻み込んだのである。
先の「ホビット」という語彙に「穴に住む者たち」という語源的意味を考えついたのはその一例に過ぎない。14世紀の写本に唯一残された「森のウォーたち(wodwos)」という綴りの語彙は、古英語の「森のワサ(wuduwasa)」を言語学的に「誤分析(metanalysis)」した結果だと見破ったトールキンは、「ウォーゼ(Wose)」という種族の人間たちを想像した。つまり、11世紀初頭まではイングランド人が持っていたであろう、森に住むワサたちに関する想像力も知識も摩耗した14世紀には、語彙も殆ど忘れ去られてしまい、語尾の-sも複数形語尾と誤解され、「ウォー」という存在しか曖昧に記憶されなかったとトールキンは写本の綴りを基に考えた。そして、今や忘れ去られた存在「ワサ」を現代英語の「ウォーゼ」として、トールキンは『指輪物語』の中に復元させた。それは中世後期の「野人伝説」と結び付けられ、森に住む先住民族として描写された。
また、謎の巨人族「エント」がいる。彼等の名前は、古英語時代の口誦伝承にのみ残され、神懸かった名剣や甲冑、さらには石畳の街道を作った古の存在として信じられていたことが文献学的には分かっているが、それが果たしてどのような存在かはもはや学術的には明らかにできない。しかし、それもトールキンは、天才の想像力により、樹々の姿を持ち、場合によっては川の流れをも堰き止めることのできる大規模工事すら可能にする大きな力を持つ巨人として『指輪物語』に描いた。
極めつけはエルフとドワーフである。現在のゲームやライトノベル、ファンタジーのアニメや漫画作品には欠くことの出来ないこの生き物たちは、トールキンが現代に蘇らせたものだ。ドイツ語のツベルク(Zwerg)やアイスランド語のドヴェルグル(dvergr)と語源を同じくするドワーフ(dwarf)は、白雪姫のおとぎ話で有名だ。英語話者のみならず、ゲルマン語話者というさらに大きな文化圏で継承された想像力の産物と言えるそれを、トールキンは言語を超えて誰もが想像を共有できる形で『指輪物語』に復元した。
エルフに関してはさらに複雑である。中世ドイツ語のアルプ(alp)、アイスランド語のアールヴル(álfr)と語源が同じ英語語彙エルフ(elf)について、トールキンはドワーフよりも神々に近い信仰の対象だったことを看破した。キリスト教に改宗したイングランド人は古英語の写本に、エルフを人間に害を為す霊的存在として記録した。しかしトールキンはそのような写本の表面的な記述に騙されず、エルフの名前を冠する王族や貴族の名前の存在から、英語話者、ドイツ語話者、北欧語話者の祖先がエルフという存在を崇めていたことを仮定しただけでなく、その存在を『指輪物語』によって全世界に示したのだ。トールキンの没後、三男クリストファーによって遺稿がまとめられ、トールキンがエルフという存在をどのように捉えていたかが明らかにされた。彼の構想では、人間にとって崇敬すべきエルフという存在は、さらに高次の神々と呼ばれるような天使的な存在によって神々しい領域に導かれたという。その領域で、堕天使との争いが起こり、エルフは堕天使を追って、私たちの住むこの世界に再び海を越えて戻って来たという背景があったのだ。その遥かな時を超えるエルフと堕天使の戦いを描く神話は『シルマリルの物語』と呼ばれ、『指輪物語』をさらに超えるスケールで綴られていたことが、今では明らかになっている。
トールキンが英語の伝承を超えて復活させた生き物たちは、21世紀の日本人である私たちの周りにも、例えば電車の車内広告、駅の看板、映画、漫画、小説にまで、新たな姿や意義を持って描かれている。エルフやドワーフら、今や無意識的に誰もが思い描くファンタジーの生き物たちは、トールキンが現在の私たちに残してくれた想像の遺産でもある。英語という言語は長い歴史を辿って今に至る。その歴史の裂け目に埋没していた想像の遺産は、『指輪物語』という作品によって再び継承されることになった。それは英語という言語の垣根を越えて、今や世界中の人々にその影響は広がっている。未読の人は是非一度ページをめくり、『指輪物語』という想像力の結節点を確かめて戴きたい。
本文中の引用は評論社文庫『最新版 指輪物語2 旅の仲間 下』(2022年)による。


伊藤尽



